2015-03-29

藤田直哉は如何にして伊藤計劃の「計劃」を妄想円城塔言葉ねじ曲げたのか?

伊藤計劃以後とは何か?

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751

藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています

伊藤計劃皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会のものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います

 そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。

 その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト

 所詮商業レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。


僕は、この考えというものはとてもグロテスク不快ものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります

伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから

しかしながら、藤田直哉はこの妄想正当化するために、円城塔自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。

藤田直哉がこのブログ掲載している、「週刊読書人寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります

 悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。


ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉自分妄想正当化するために、円城塔言葉ねじ曲げています

円城塔は「『屍者の帝国あとがきに代えて」で次のように述べています

http://www.kawade.co.jp/empire/

伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。


ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。

確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまますが、一応載せておきましょう。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/

http://ddnavi.com/news/87399/

「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。

追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」

「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」


確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べていますしかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想した、という考えを退けています

確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています

 しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会崩壊を、『ハーモニー』で人間意識自体喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。


しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。

円城塔は「『屍者の帝国文庫本あとがき」でもこのように述べています藤田直哉ブログを書いた後に発表された文章ですが)。

そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。

 ここでわたしは、伊藤計劃自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。


まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想正当化するために円城塔言葉ねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います

藤田直哉伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまますペンネームペンネームです。伊藤計劃プロジェクトという呪いSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想しか思えません。

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