そこまで自分の仕事と生きる意味のつながりについて思いつめているならば、もうわかるはずだ。
逆説だが、人生でもっともむづかしく、だからこそもっとも尊いことは、その日を淡々と生きて
いくことだ。
http://anond.hatelabo.jp/20080504201241
ちょっと乱暴な言い方だが、題名が返事になるかと思う。
コーディングってのは、設計書とか作業環境(開発環境)が全てお膳立てされた上での作業になるんだよね。つまり、ハードウェアとかミドルウェアというものをブラックボックスだと思ったままでも作業はできてしまう。これを他の技術分野に当てはめると、どちらかというと技術職よりも技能職寄りの仕事になるんだよね。つまり、コーディングがうまいということが「技能」である以上、その進化した先は「技術」ではなく「職人芸」なんだ。つまり、質を問わなければ誰でも時間をかければできる仕事だから、勝負できるものは玄人にしかわからない「質」であるということになる。
それがいいとか悪いとかいいたいわけではない。ただ、目指す先が「技術」ではなく「職人芸」である以上は、自分の発想が直接的に人類に物質的な意味で貢献するという意味では必然的に遠回りになるよね。いわゆるギークってのはまさにそういう存在でしょ。逆に、「技術者」として有能な人(たとえば画像認識とか音声認識とかの仕組みを考えてる人)はどれほど有能であっても「ギーク」とは呼ばれないよね。
一文字あたりの情報量が増えても、膨大な漢字の体系からその一文字の意味を探し出して解析するのにつかう労力が多いから意味がないってことかな?
その通り。例えば、英語において各単語を「文字」と呼びかえることにすれば、「文字」数が数万個の新しい「文字体系」ができあがったことになるし、そのとき英語を表記するのに必要な「文字」の数は激減するが、実際は何も変わっていないのは明らかだろう。
ドイツ語に限らず印欧語ではまとまりの単位は「文字」じゃないんだよね。たとえば"Verkaufautomat"(自動販売機)という単語は14文字というよりもVer(販)-kauf(売)-auto(自動)-mat(機)という4つのまとまりになる。それに、ドイツ語で造語が容易というのは単なる表記上のお約束でしかなく、「社会民主党」を"Social Democratic Party"と書くことと"Sozialdemokratische Partei"と書くことが本質的に違わないのは明らかだろう。
だから「日本語の弱点」って何よ。
ハワイ語とか琉球語とかアラビア語とかなら3つしかないけどね。
全然特殊じゃないよ。何をもって特殊と言ってる?語順とか格構造だったらドイツ語とかラテン語だって似たようなもんだし、膠着語ということなら韓国語??トルコ語までシルクロード沿いの言語はだいたいそうだ。
一年くらい前からwebサイトの受託制作のバイトをするようになったんです。それまでは親からの仕送りで生活してたんですけど、そうもいかなくなり、web制作は自分の関心と金稼ぐにぴったりだったもんで。
一年やって思ったのは、自分はプログラミングみたいなことが相当好きだということ。正確に言うと僕はプログラマーじゃなくて、いわゆるコーダーで、htmlとcssを書いているわけだが、好きなだけあって上達も早い。デザインとコーディングの分業をしてる会社じゃないんだけど、最近はもっぱらコーディングを任される。社内で一番キレイでわかりやすいコーディングを書ける自信がある。うまくコーディングがいかなかったときは、疲れていても、帰りの電車の中でどうすればエレガントにできるかって考えてしまう。そのくらい好き。web制作だからhtmlとcssだけわかればいいということはもちろんなくて、javascriptやphpやperlなんかも関わるので、今後は覚えていきたい気持ちも満々。全然飽きる気も、手が止まる気もしない。
だから今後もこの道で飯を食ってくとは思うんだけど、コードを書く面白さにちょっとひっかかりがある。それは美しくわかりやすいコードを書く情熱が、自分が生きること、この世界で生きることと、どうつながっているかわからないということ。
具体的に言うと、文章やら絵やら演劇やらの表現活動って、その人の生と直結してる感じがするじゃん。政治活動とかデモとかも自分が生きることと世界とつながってる感じがするじゃん。でも、美しいコードを書くこととが、生とどうつながってるのかがよくわからない。
つなげる必要なんてないかもしんないけど、こんな愚問を増田にわざわざ書いているように、生きる意味とかどうしたらもっと生きやすくなるのかしょっちゅう考えてしまうわけ。それでいろいろジタバタしてきて、今も相変わらずしてるわけだけど、その中でコードを書くことが最もしっくりする。落ち着くというか。純粋に情熱を傾けられるとか。
別に24時間コードを書いてるわけじゃないし、コードを書く以外にもいろいろやってるわけだし、最終的にはwebという目に見える形になるわけだから、そういうことを通じて、自分の表現みたいなことをしてけばいいのかもしんないけど、コードそれ自体に情熱を傾けてるなら、そのコードに直接自分の葛藤とかを表現できないのかなって意味不明な欲がでてくるわけ。自己実現欲求みたいなものがコードで解消できないのかって思うわけ。
補足すると、これに似たようなことに数学が上げられる。僕は高校まで数学が好きで、数学科行くことも考えたんだけど、ばりばりの中二病で(今もそう変わらないけど)、環境問題に対してヒステリックな関心を持っていたから、数学は面白いけれど、環境問題だ!って、そういう学部を受けました(落ちましたけど)。数学は好きだけど生きることとどうつながってるのかよくわからないという疑問から、数学史とか科学哲学系の本とか読んで、何となくは、数学的な思索と社会背景とか思想の潮流とつながってるんだと知りました。けれど、いざ、コードを書く問題を前にすると、当時と同じような疑問は依然としてあります。
本当に愚問かもしんなけれど、プログラマーのみなさんはそこらへんをどう考えているか聞きたいです。数学でもいいです。
反応嬉しいです。ただ僕へのアドバイスより、みなさん自身が、プログラミングってすごく面白いけど、この世界とどうつながってるの?、自分が生きることとどう関係があるんだろって疑問を持ったことがあるなら、どういうふうに抱えているのか、その気持ちをどういうふうに解消しているのか、どういうふうに処理しているのか、聞きたいのです。プログラミングに生きる葛藤みたいなのを直接投影させるというのはそもそも間違ってるかもしれません。そういう気持ちは、全然別のことをやったり、友人と話したり、ブログに吐き出したりするのが関の山でしょう。でもプログラミングが好きで情熱を傾けてる人なら、プログラミングを通した自己表現、自己実現みたいなことを考えたことがあると思うで、聞いてみたかったのです。
http://anond.hatelabo.jp/20080505020148で、
誰もが「芸術家」として生きられると思うのがそもそもの間違いなんだよな。
という意見が書かれてましたが、「芸術家」かどうか関係なく、プログラマーはまずは人間ですから、質や程度の差こそあれ、自己表現欲求や生きる葛藤みたいなのを抱えると思います。繰り返しますが、そこらへんの思いと自分のプログラミングが結びつけている人がいるなら、どう結び付けてるのか、結びつけないのならどう結び付けていないのか聞きたいです。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080504230316で書きましたが、「プログラミングなんてしょせんコンピューターの中の世界にすぎないでしょ」(実際はこれだけ人の生活に影響与えているんだからそんなことないはずなんですけど、僕はそういう思いが拭い去れない)っていうプログラマー故の虚無感、ニヒリズムがあれば、どういうものか聞いてみたいです。もちろん、それをどう処理しているのかも聞きたいです。
※ここまで書いて、収集の付かない無理難題を言ってるなぁとつくづく思いますが、何か少しでも反応するものがあれば、反応していただくと嬉しいです
「世界とどうつながってんの?」っていうおっきな問いを掲げていたわけなんですが、どうしてそういう問いが出てくるかと考えてみますと、僕がコーディングしてるサイトって、コーディングが始まる段階まで僕がほとんど関わっていないし、クライアントがどういうつもりでサイトを作りたいのか、どうしてこういうふうにフィックスしたのか、その経過を知らない場合が多い。もちろんラフデザインや原稿見ればクライアントがどういうところかわかるわけだが、だいたいは制作するサイトの内容に意識を持ってくと、疑問が出てきたり、気に食わないって思ったり、場合によってはこんなこと言ってる奴は「死ね」とか思うわけ。でも「死ね」と思って、放り投げたり、その段階でクライアントやディレクターに文句なんて、言えない。軋轢怖いし、進行を止めちゃうし、生活がかかってるし。そもそも言う発想さえない。でも内容無視でも、コーディングそのものに十分な魅力があって、いかに良いコーディングするかというところで十分に面白い。逆に、内容に関わると、葛藤が増えてコーディングに集中できないという面もでてくる。コーディングって内容関係なしに自己完結できてしまう魅力がある。自己完結と言っても、正確に言うと、自分一人じゃなくてコーダーならコーダーの世界の中での完結だけど。クライアントの意思と切り離れたところという意味で完結できてしまうということか。でもそこの魅力だけで突き進むと、当然、自分のやってることが自分だけで閉じてる感覚になってくるわけ。面白いことは面白いけど、こんなんでいいの?って疑問がでてくるわけ。で、結果、自己実現したいとか虚無感とか抽象的なわりにおっきくて重い思いを抱えちゃうのかな。
だから結論を言えば、web制作に携わるなら、もっと制作全体に携わるようにしてけばいいんだよなって思います
ただ、まだグルグル考えちゃうことがあって、閉じた世界にとどまらないで全体性を獲得していこうって発想には、閉じた世界にとどまることへの嫌悪感から来ていると思う。甘美さもすごくわかるよ。ロマンチックだし。でも閉じてないで全体性を獲得していこうって言われたら言われたで、「人間こうあるべし」みたいな説教っぽいというか胡散臭さがつきまとう。いずれにせよおさまりが悪いです。
だからなのかか僕は「おたく」に対してずっと愛憎があります。
Aパート
こういうアニメの場合、夢落ちでも何でも面白い絵が見られればそれだけで結構楽しめると思った。
ああいうのもっとやってほしい。昨日のアクエリオン再放送とかドルアーガの5話もそういう感じか
Bパート
柱の傷を使って上手く話を構成しつつ、
間のサッカーシーンを作画でちゃんと魅せてくれたので飽きることなく観ることができた。
「飽きることなく」というのは、観ていて引きつけられる部分があったということ。
話としては背伸びの写真出すところが良かった。
ああいうの何て言うんだろ。エッセンス?
ケロロ毎回面白い。
友達の関係とはいえ、女の子と2人きりで買い物に行くことなんて滅多にないので、不甲斐ないことばかりで落ち込む。
その夜、中学の同級生と飲んだ。どうしようもない下ネタとか、過去の失敗話をして笑い飛ばして気分が晴れた。
恋愛は怖い、デートで上手くいかなくて相手にそっぽを向かれるかもしれない、告白しても振られたらその後口を聞いてもらえないかもしれない(実際経験した)。
失敗したときに友達がいる、傷ついたときに後ろ盾がいる、失敗なんか大いに笑い飛ばしてやればいい。
だから恋愛に対して恐れなくてもいいんじゃないかと、最近は思う。
失敗して傷ついたら、友達に頼っちゃえ。
ありのままを受け入れてくれて、笑い飛ばしあえる人がこんなにいいものとは!
おれ、26才になってようやく分かって、人よりかなり遅い気がするが、大事な大事なことだから遅いかどうかは気にしないようにしよう。
アラビア人もけっこうあちこちにいる人たちなので旅行会話ぐらいしたいなと入門書を手にとって読んでみたけど教えてくれるひとがいないと無理そうだ。
増田は誰かにおそわったのかい?
あと、教科書。
もう意味がわからない。
日本語が左から書いてあるのに途中から右から書いてある言葉がはいってくるんだぜ?
→つまり だとこういうこ←
読めないよ!
どこで区切れるんだかわからないし。草書しかない日本語みたいなもんだ。
中国語は音楽をやるつもりでなんとかやったがあれと同じことが大部分の日本人にはできないと思う。
比較的簡単な英語ですらこのザマなのに。。
英語みたいに文法が崩れていないし
母音が三つしかないし
発音は非常に楽
ただし、文を書くときに母音をかかないので
読めるようになるにはちょっと手間がかかる
中国語は発音さえ乗り切れればそれなりだけど
中国人の習性として非常に早口なのと
方言がきついので使うのがしんどい
すみません。ためしに。
個人的感想をいえばたぶん世界のひとが最もコミュニケーションをとるのに適した言語はスペイン語。
なによりこれが適切で非常によろしい。
日本語も話し言葉としては確かにかなり簡単につかえる言葉だけどいかんせん文法が特殊すぎる。
しかもアルファベット文化ではなく漢字文化なので学習コストがものすごくでかい。
文法的に違和感なくついてこれるのは韓国、モンゴルぐらいしかないし。
孤立しすぎだ日本語!
んなわけでみんなスペイン語しゃべろうぜ!
あと、ちょっとずれるけど中国語。
ありゃ無理だ。
発音ができん。ききとれん。
かなりごっつい言語だ。
だが、やつらは英語ができん。
しかたなしに北京語を勉強したことがあるがこりゃ日本人には発音できんわと思った。
声帯模写できる人じゃないとミリだ。
http://anond.hatelabo.jp/20080504175532
ときに、他の人と違った自分でありたいって気持ちはどういう意味で幼稚なんですか。
あなたにもそう言う時期があったという体験談?
夕方にアニメをみる習慣がないという理屈だと前期までのアニメより低い理由が説明つかないのでは?今のになってから夕方に見なくなったとすれば、今期のアニメがつまらないからという説明のほうが納得しやすいと思うんだけど。
今話題の格差問題なんかもただの贅沢病だよな。
今の中高年がwか会いころどういう生活水準労働条件だったかも知らずに知ろうともせずに老害だとか団塊が悪いとかいう餓鬼を見るとうんざりする。まあこういう甘えん坊を育ててしまったのも中高年の責任だから自業自得ではあるが。
田舎より都市のほうがいろいろ自由だから若者とかは都市に行くんじゃないかと。
個人主義的な都市のほうが自由で田舎は封建的道徳でがちがちっていうイメージがある。
自由を犠牲にしてまで少子化を解決する必要自体ないと思う。
人口を増やすこと自体を目的化しちゃってる人が多いのが困り物。
たくさん年金ほしいなら自分がたくさん生み育てて子供に養ってもらえばすむ話。
フリーライダーが気に入らないなら年金カットをもっとやればいい。
独身をわがままといいつつ、自分のわがままは平気で押し通そうとしたりするんだよな。
少子化を問題視する人々は。
一時的に普通のサラリーマン生活をしてその後別の進路に行こうと思っていた。就職は金銭的、心理的、学力的な準備のための期間を確保するためのつもりだった。
でもこうやって安定して働いて、それなりの給料が入ってくる生活を続けていると「これも悪くないかな」なんて初心を忘れそうで恐い。
このままこの会社で働き続けるほどに会社文化や雰囲気に染まって、調教されて、いずれは志もなにもない人間になっているのは避けたい。
1.
>一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。
なんで言えないの?
一文字あたりの情報量が増えても、膨大な漢字の体系からその一文字の意味を探し出して解析するのにつかう労力が多いから意味がないってことかな?
2.
ちなみに自分は、漢字の魅力は情報圧縮というより連続語(連結語)の作りやすさにあると思う。
二語や三語だけでなく、二語+二語+二語とかの連続語を使うと段々便利さがわかってくる。
たしかドイツ語とかでも連続語は作りやすいらしいけど、やっぱり連続させる語数が多くなるほど文字数の差が顕著になる。
その代わり「社会言語学」と「言語社会学」のように、語順を少し変えるだけで意味が変わってしまうから、
そのへん厳しくなってしまうのが難と言えば難。
3.
「日本語概説」(渡辺実著)という本に、構文についての一見解がある。
それによると、簡単に言って、日本語の英語化、英語の中国語化、中国語の日本語化がゆるやかに進行しているという。