はてなキーワード: 青年とは
http://anond.hatelabo.jp/20070608002002
とても親近感が沸くので、つらつら書いてみる。
ぼくも20代のころあまり女性どころか友人がいなくて、ゲーセンで暇を潰す人間でした。典型的なオタクでしたよ。容姿もそのころは、酷かったです。実家住まいで男兄弟のみ。女の子を話しをするだけで赤面する。駄目だこりゃ、の典型って奴ですよ。
ちょっとした転機は25歳の頃、舞台系のオフ会に出てみたこと。それから小さな劇団の舞台を手伝ったり、サイトを構築したり、ちょっとしたレビューを書いたり、もともとそんなに詳しいわけじゃなかったけど、やっている人たちが物凄く楽しそうで、ちょっとでも手伝いたいって意識でした。で、手伝い始めると勉強しちゃうわけです。卵が先か鶏が先かじゃないですけど、もともとのオタク根性が威力を発揮してそこそこ詳しくなちゃった。あとは友人の友人はぼくの友人って感じで知人が増えていきましたよ。
いま40だけど、知人友人に女性がたくさん。中には20代のとき土方巽に習っていた20歳くらい年上の女性とお茶したりします。または一回り以上下の女の子と、年一度くらいのペースで会って美術や舞台の情報を交換したりしてね。とても楽しいですよ。こんなことを初めて15年経ちましたけど、当時を知っている人には別人になったと言われるくらいです。
容姿はねぇ、とりあえず美容室に月一で通いましょう。洋服は難しいんだけど、体型が標準的ならどうにでもなります。ぼくもブ男の類だけどね、妙な自信が付いちゃってあんまり気にしなくなりました。それより背筋を伸ばすとか、清潔にするとか、そんな些細なことが大事です。地道に努力?して、いつのまにか結婚しちゃったし、晩婚だけどね、ちょっとだけ視野を変えてみただけで何かが変わることもありますよ。
あとですね、増田氏の「ただの友達が作りたいだけなんだ」は、とても気持ちは分かるんだけど、同年代だけをターゲットに据えると絶対恋愛感情が交じってきます。女性側は当然としても、男だって友人になれるくらい気が合うのなら次の段階があるかもって思うんですよ。ぼくの知人だけどお華の教室に通っておば様方と仲良くなった青年もいますが、本が好きっていうなら、現実にリンクする何かを持っていると思うのでちょっぴり頑張ってみてください。それこそコミケでも良いんじゃないですか。
(覚えてるところだけ。)
兄にメールやら自分のサイトやら見られる。その後きれて部屋の掃除、物が散乱されているベッドの上の掃除だけやらせる。自分は泣いてる。その後メールやらなにやら消去。
よくわからない暗がりの道、土の道で道の側面には30センチ??60ほどの草が生えた道だったか。ほぼ長い一本道。自分は同じような位置でなにをするともなくほぼ立ち止まっていたのだが、ホモっぽい人に行きと帰りの二回ほど会う、帰りはこっちをかなり意識してた。
なんかよくわからない男の子が白いスポーティーな高級車に乗ってて、それに乗せてもらい、その男の子が金持ちだということを知った結構いけいけな女の子が待ってよと静止するにも関わらずとりあえず流した、女の子は白馬に乗って少しは追いかけていたような気がする。うどん屋にすべりこむ。うどん屋にはよく来るのか?とシャイそうだがまぁ多少は芯がありそうな男の子に聞くと、たまにねというようなことを言った。何が夢の中のその少年の背景にあったのかわからないが、(多分、金持ちだからと、上流階級だからだと思うが。)うどん屋にその少年が来ることは意外な出来事なのだという夢だった。うどん屋は柄の悪い白い柔道着のようなものを主に来た常連客で基本的には占められていて、偉い人(とは言っても、高校野球のようなそれを少しヤンキーチックにしたある意味さわやかな人選)から順に奥に座っていて、男の子は汚い粗野な自動扉入ってすぐの手前の席に私の手前恥ずかしそうに座った。そこで私が野球青年っぽい一番か二番目に下の奴と言葉でやりあい勝った。
Adelideというショップに行く、外装内装ともに何年か先のような高級なクラブ&バーの雰囲気。ネオンのような光を使いながらも非常に洗練されていた。客層は外人が主体らしく。カフェ仕様のガラスの一角に入ってしまい(そのカフェの内部は木のカフェテーブルと曲げ背の椅子というある意味安っぽいチープなテラスタイプだった。(カフェはいくつもあった))、奥まで行ってしまうと、そこは行き止まりで、H君らしき人(H君は私の小学校時代の離れたクラスメートであり、なかなかいい家庭の上に育ち、本人も性行が素直で良いと評判のような真面目な人物)がまぁ普通な女の子を連れてカフェしてた。H君が短髪を綺麗に毛束を立てている髪型にして変わった印象を受け、衝撃を覚えたのは覚えているが。H君と目が合うことはせず。隣の人(女)に誰あの人、知ってる?と問いかけられる。私は外に出ようとして、椅子につまずき小さくすみません、その後外に出る途中で何人かの顔が印象に残った。外人風の17・8才程度の女性の顔だけ覚えている。外に出ると、そこはホームセンターの駐車場っぽい場所になっていて、ほとんどそのカフェの中の人全員出てきたような感じで皆が出てきた、その中の大学にありがちな男3人ほどのグループのうちの一人(私は知らない人だ)が親しげに私に話しかけると、その人は親しげにありがちな大学のいい加減な雰囲気で私の顎辺りにキスして行った。
抜けきらない深層心理が出ているなという印象。
ドラえもんは、ダメな先祖であるのび太をなんとかしようと、未来の子孫が送ってくれた猫型ロボットだが、
今読むと、あまりにデフレ不況下の現代青年像を言い当てていて、空恐ろしい。
昼間っから角煮丼を食べる私。
フヒーwwwお腹いっぱいだブーwww
で、そこに青年現る。
『テレビ東京の者ですが、平日の8時から放送している朝はビタミン!という
番組のコーナー『イケメンショッパーズ』にこちらで働かれている店員さんを
紹介しようと思いまして、ご飯を食べるところの取材に協力いただけませんか?』
とのこと。一度は恥ずかしいYO!と断ったものの客が私たちくらいだったのでおkする。
TBSだったら断固拒否するけど。青年も丁寧で腰が低くていい感じだった。
というか店員よりおまいのほうがイケメンですよと。
で、1食目の角煮丼を食べ終わったそばから、焼そば食わされた。
苦しいwwwランチ2食。wwwwごちそうさまでした。
にしてもカウントダウンTVとかいろいろな街頭の撮影に声をかけられる。
そんなに油断しまくってる顔してるんかな。
ま、どうでもいいけど!!食べ過ぎて仕事にならん!!そんな一日。
テレビも見たくない。
昔は平気だったんだが、今はダメだ。
全く関係ない人間の事件だというのに、滅茶苦茶心が痛むしすっげー怖い。
多分昔より今の方が自分自身が幸せでなく余裕もないからなのだろう。
嫌なニュース、胸糞悪いニュースを受け止めきれる余裕がないのだ。
ちょっとでも他人が悲しんでたり怒ってたりそういう負のものを見るだけで気がめいって仕方が無い。
嫌であればあるほどひきずってしまうから、見ないようにバリアしているのだが、勿論完全にできるはずもなく…
漫画なんかも、高校生の時の方が暗いモノグロいものを読んでいたけど今は無理。
青年誌にありがちなリアルに暗いような作品が全然読めなくなった。そういうのはリアルで十分だと思うようになったから。
よつばととかARIAとかああいうのしか安心して読めない。
しかし嫌だと思えば思うほど逆に誰よりも目ざとくそういうニュースを見つけてしまったり
嫌だと思うのにそういう漫画を見たいと思う自分もいて
……よくわからない。
五年前に家にある5000冊ぐらいの漫画を500冊ぐらい残して片っ端から処分したけど、その後は限定したものだけ集めようとしてるのにもう1500冊ぐらいに戻ってしまったよ。どうする。
以下メモ。かなり抜けがあると思うがただのメモなので知らない。
多すぎて把握できない
驚くほど読まない。食わず嫌いに近いと思う。
今は無き『鎖縛』は毎号買ってたなあ。あと遊人が最近浦沢キャラの模倣をやってたので驚いた。
http://anond.hatelabo.jp/20070518190412
http://anond.hatelabo.jp/20070518202751
もちろんあとで見に行ったさ。俺が声かけないまでも店員に言おうと。
そしたらもういなかったので安心した次第
その場で注意するべきかは悩んだんだけども、おでバカだから「なぜ小学生の女子がエロいマンガを立ち読みしたらいけないのか?」に対する明確な答えを思いつかなかったんだ。
細々とした理由(青年マンガを指定年齢以下の云々とか)は思い浮かんだんだけど、なんとなく「小学生女子がエロいマンガ読んでてもいいんじゃないか」と思ってしまったんだ。これがさ、もっとロリペドエロ漫画雑誌だったり、劇画某のエロ描写だったりしたら迷わないんだけどふたりエッチだったしさ。
老人の懐古主義など考慮に値しないことを幾つかの例をもって説明しよう。
故に老人を駁するには、その老人が青年であった頃老人であったものが居ればいい。最も、既にこの世にはいないだろうが。彼らの言説は、彼らに遙かな年長者がいないがために蔓延っているのである。
そういう風潮に晒されてるんじゃない?
電車の中とかでたまに聞くよ、恐らくは大学生であろう私服の青年の何気ない会話の一言、「おまえ彼女いるん?」とか、もっと恐ろしいのは、女子高生らしき数人が、淫猥なことを下卑た笑い声と共に喋ってるのを、東京に近いとも遠いとも言い難い、けれどもそれなりにはそうした都会の風潮があるところあたりで。
私のように顔も身なりも金も親しい友人も持ち合わせない人間はそういうことを訊かれることも無いし、中々に平穏を甘受しているのだけれど、大衆に強く結ばれて生活していると、そうでもないのかなーとは思える。殊更に彼らの理性が薄弱でいやむしろ本性的欲求によって動いている場合だと、知性よりは俗物の話題を好むんじゃないかな?
http://anond.hatelabo.jp/20070415204033
私も昔は、喋ったことがあるだけで女の子を好きになってしまう童貞オタク青年でしたが、こんな妄想まみれの人生ではおかしくなってしまうと思い、一念発起してデリヘル通いを始めました。ほぼ、週に一回くらいのペースで、違う女の子と遊び続けた(いわゆる「フリー」というやつ)と記憶しております。結果、自分がかつて恋愛感情だと思っていたものは、変形された性欲の一種であり、運命の出会いとか一途な恋とかいうものではない――つまり、その子を好きになったのは「たまたま手近にいた女性だったから」であり、基本的には自分という男は「女なら誰でも構わない」生き物である――ということを自覚するに至りました。50万円ほど使いましたが、今となっては安い授業料だったと思います。
人生は石材なり。これに神の姿を彫刻するも悪魔の姿を彫刻するも、各人の自由なり。スペンサー
わかるだろうか……人生には解決なんてないのだ。ただ、進んでいくエネルギーがあるばかりだ。そういうエネルギーをつくりださねばならない。解決はそのあとでくる。サン・テグジュペリ
人生は欲望だ、意味などどうでもいい。すべての生き物の目的は欲望なのだ。それぞれ欲望があるから、バラはバラらしく花を咲かせたがるし、岩はいつまでも岩らしくありたいと思ってがんばっているんだ。そうだ、人生は素晴らしい。恐れの気持ちさえもたなければだ――なによりも大切なのは勇気だ。想像力だ。チャップリン
人生をしいて理解しようと欲してはならない。人生はそのままひとつの祭日である。ただ楽しくその日その日を生きることにしよう。無心に道を歩く子供が、吹く風ごとに春の花びらを肩一杯に浴びているように。リルケ
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、棄身になって何事も一心になすべし。福沢諭吉
あこがれ、愛、希望、欲望、これが真の人生なのだ。コッツェブー
かれの考えによると、人間はある目的をもって生まれたものではなかった。これと反対に、生まれた人間に、はじめてある目的ができてくるのであった。最初から客観的にある目的をこしらえて、それを人間に付着するのは、その人間の自由な活動を、すでに生まれたときに奪ったと同じことになる。だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身につくったものでなければならない。夏目漱石
人生にはめざすべきふたつの事がある。ひとつは諸君が欲するものを手に入れること。もうひとつは手に入れたのちこれを楽しむこと。ところで第二のほうに成功するのは、きわめて少数の賢い人間だけにすぎない。ローガン・ピアソール・スミス
自分のめざすところをはっきり自覚し、たゆまぬ前進をするもの。自分の目的に対する手段を知ってそれをとらえ利用することを知っている人間は尊敬に値する。その目的が大きいとか、小さいとか、賞賛に値するとか非難に値するとかいうようなことは後になって非難されることだ。元来不幸とか不遇とかいっているものの大部分は、その原因をただすと、人間がいかに怠けもので、自分の目的を的確に知ろうとせず、たとえそれを知っても、それに向かってまじめに突進しようという努力の足りないところにある。ゲーテ
目的をとげるのに、長い忍耐をするよりも、めざましい努力をすることのほうが、まだ容易だ。ラ・ブリュイエール
明日しなければならないことがあったなら、今日のうちになせ。フランクリン
時間の値を知らない者は、生まれながらに栄光には向いていない。ヴォルヴナルグ
現在は過去以外の何ものも含んでいない。そして、結果のなかに見出されるものは、既に原因の中にあったものである。ベルグソン
時は金である……そしてそれによって利益を計算する人たちにとっては多額の金である。ディッケンズ
普通人は時をつぶすことに心を用い、才能ある人間が心を用いるのは、時を利用することである。ショウペンハウエル
二十歳にして重きをなすのに意志、三十歳にして機知、四十歳にして判断。フランクリン
年をとることを恐れるな。心配しなければならないのは、年をとるまでのいろいろの障害を乗り越えることだ。ショウ
二十歳のときハンサムでなく、三十のとき強くなく、四十のとき財がなく、五十のとき賢くなけりゃ、けっきょく一生なんでもない。イギリスのことわざ
決断――なすべきことをなそうと決心せよ。いったん決心したことはかならず実行にうつせ。フランクリン
英雄に普通の人より勇気があるのではなく、ただ五分間ほど勇気が長続きするだけである。エマーソン
野心はひとつの悪徳なるも、そは美徳の父ともなりうる。クウィンティリアス
志の固き人は幸いなるかな。なんじは苦しむ。しかれども長く苦しむことなし。また誤って苦しむことなし。テニスン
充実した一日がしあわせな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。レオナルド・ダ・ヴィンチ
改革すべきはたんに世界だけでなく、人間である。その新しい人間は、どこから現れるのか?それは外部からではけっしてない。友よ。それを君自身のうちに見いだすことを知れ。しかも鉱石から純粋な金属をとるように、この待望の新しい人間に君みずからなろうとせよ。君からそれを得よ。各人は、驚くべき可能性を内蔵している。君の力と若さを信ぜよ。たえず言い続けることを忘れるな。「ぼくしだいでどうにもなるものだ」と。ジード
汝の道を歩め、人々をしてその言うにまかせよ。ダンテ
学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかしいやしくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統ぶる意志の大なる力がいる、これは勇である。大隈重信
大道行くべし、又何ぞ妨げん。木戸孝允
大切なことは、大志を抱き、それをなしとげる技能と忍耐をもつということである。その他はいずれも重要でない。ゲーテ
才能とは、自分自身を、自分の力を信ずることである。ゴーリキー
真の欲求なくして真の満足はない。ヴォルテール
求めよ、そうすれば、与えられるだろう。探せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。すべて求める者は得、探す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。新約聖書
今日なし得ることに全力をつくせ。しからば明日は一段の進歩あらん。ニュートン
なにもかも失われたときにも、未来だけはまだ残っている。ボビー
成功の秘訣を問うな。なすべきひとつひとつに全力をつくせ。ワナメーカー
運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構である。夏目漱石
理想は星のようなものである。諸君はそれに手を触れることはできないが、荒涼たる大洋を航海している人のように理想を水先案内人として選び、これに従うことによって諸君は自らの運命を決定するであろう。ヤール・シュルツ
運は吾人より富を奪い得ても勇気を奪い得ず。セネカ
わたしは運命ののどくびをしめあげてやるのだ。けっして運命に圧倒されないぞ。この人生を千倍も生きたなら、どんなにすてきだろう。ベートーヴェン
運命というものは、他のことにおいてもそうであるが、特に戦争においては最大の役割を演ずるものであり、それは小さな原因から決定的な変化を引き起こすのである。カエサル
花が花の本性をを現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するものである。西田幾多朗
人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。サルトル
人間とは、自分の運命を支配する自由な者のことである。マルクス
若いころ、私は人世の「幸福」として認められていることを個条書きにしてみたことがある。健康、愛、才能、権力、富および名声等の現世的な欲望を並べたて、それを賢明な先輩に得々として見せた。
その先輩は言った「なかなか結構だな、それに、順序もまずまず無難だ。しかし、それがないと君の表が耐えがたい重荷となる唯一のものが欠けているようだ」。
彼は私の表を消して次の文字を書いた――心の平和。ジョシュア・リーブマン
なぜ私は結局、好んで自然とまじわるのか。自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の側にあるからである。自然に順応することができれば、事は全ておのずからにして成るのである。ゲーテ
花、無心にして蝶を招き
蝶、無心にして花を尋ねる
花、開くとき蝶来り
蝶、くるとき花開く
知らずして帝則に従う 良寛
じぶんのためには何も望むな!求めるな、心を動かすな、うらやむな。人間の未来も、お前の運命も、おまえにとってはつねに未知のものでなければならない。だがあらゆる事態に対する覚悟だけはしっかりときめて、勇気をもって生きることだ。そしてあとは神のみこころにまかせるのだ。トルストイ
もっとも尊重せねばならぬのは生くることにあらず、よく生くることなり。ソクラテス
人生を真剣に生きようと欲する者は、あたかも末長く生きていかなければならぬものとして行動すべきであり、同時にまもなく死ぬべきものとして身を処さなければならない。リトレ
僕には死んでゆくことは少しもこわくない。いま自然に死んでゆけるのだったら、どんなにうれしいか、とまで思っている。だが、僕もこうして人間に生まれて来たんだから、やはり、何か生き甲斐が感じられるまで生きている義務はあると思う。リンカーン
朝に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。鴨長明
人生は、ほんの一瞬のことにすぎない。死もまた、ほんの一瞬である。シラー
正しく考えるとき我々は神の中にある。正しく生きるとき神は我々の中にある。アウグスチヌス
信仰とは我々の目に見えないものを信じることである。そしてこのような信仰のもたらす報酬は我々が信じるものを眼で見るということである。アウグスチヌス
いかにして人間は自分自身を知ることができるのか。観察によってではなく、行為によってである。なんじの義務をはたさんとつとめてみよ。そうすれば自分の性能がわかるであろう。ゲーテ
自分に対する尊敬、自分についての知識、自分に対する抑制、この三つのもののみが、生活に絶対的な力をもたらす。テニスン
己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじて恬然としていなくてはならない。森鴎外
自己におもねるまい。自己を軽蔑すまい。自己をそれがあるべき相当の位置におこう。もしその位置が与えられなかったとしたら、それを発見し、創立することに骨を折ろう。有島武郎
その年齢の知恵をもたない者は、その年齢のすべての困苦をもつ。ヴォルテール
自分がなんであるかを知りたいと思うならば、自分がなにを好むかをみればよい。ニーチェ
怠惰は弱い頭の逃避場、愚者の休日にすぎない。チェスターフィールド
この山を登らんとする者、麓にては大いなる苦しみにあわん。されど登るにつれそは減ずべし。そのゆえに、辛苦も愉しみになりつるとき、登ることいとやさしくみえて、速き流れを小舟にて下がるがごとし。ダンテ
魚は食いたい、足は濡らしたくないの猫そっくり、「やってのけるぞ」の口の下から「やっぱりだめだ」の腰くだけ、そうして一生をだらだらとお過ごしなさるおつもり?シェークスピア
だから、怠惰は母親なのだ。怠惰には、盗みという息子と、飢というむすめとがある。ユーゴー
君のもっとも手近な義務からおこなえ、いずれの義務でも、待たされればさらに七つの義務を引きつれて戻ってくる。キングスレー
人間にとって、苦悩に負けることは恥辱ではない。むしろ快楽に負けることこそ恥辱である。パスカル
労働は美徳の泉である。ヘルダー
疑う余地のない純粋の喜悦のひとつは、勤労のあとの休息である。カント
働くことは、私の感じでは、食べることや眠ることよりも、人間に必要である。フンボルト
人生は活動の中にあり、貧しき休息は死を意味する。ヴォルテール
労働は人生を甘美にさせる。労働を憎むものだけが悩みをもつ。ウイルヘルム・ブルマン
明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけがない。クリソストムス
労働のなかにだけ、平和がやどり、労苦のなかには、安息がやどる。フォトネル
天下に難きことなしただ心ある人を怕る。中国の故事
人必ず自ら侮りて然る後に人之を侮る。中国の故事
普通人は時をつぶすことに心を用い、才能ある人間が心を用いるのは、時を利用することである。ショウペンハウエル
時と潮汐は何人をも待たない。イギリスのことわざ
寸暇を利用する事がいかなる種類の戦いにも勝利を博す秘訣である。ガーフィールド
自ら正しいと信ずる者は王の万軍よりも強く、自ら正しきを疑う者は些かの力をも有せず。カーライル
希望は日光に似ている、つまり、どちらも明るさだ。一つは荒んだ心の聖い夢となり、一つは泥水に金の光を浮かべてくれる。ヴェルレーヌ
籠鳥雲を恋う。日本の故事
青年よ、青年よ、つねに正義とともにあれ。もし正義の観念が汝のうちで薄れるようなことがあれば、汝はあらゆる危険におちいるだろう。ゾラ
盛年重ねて来たらず、一日再び、晨になり難し、時に及んでまさに勉励すべし、歳月人を待たず。陶淵明
人生のいろいろな楽しみは、それを主要な目的とするのではなく、通りすがりにそれを味わうときにはじめて、人生を楽しいものにしてくれる。――いったんそれを人生の目的としてしまえば、とたんにそれだけでは物足らない気がしてくる。楽しみなどというものは、細かく吟味すれば必ずボロが出てくるものだ。幸福になる唯一の道は、幸福さでなく、なにかそれ以上のものを人生の目的にえらぶことである。J・S・ミル
生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一とする。阿部次郎
将来を思い煩うな。現在為すべきことを為せ。その他は神の考えることだ。アミエル
明日は、何を為すべきか。これは今日のうちに考えておかなければならぬ唯一のものである。石川啄木
忍耐をもつことのできる人は、ほしいものを手に入れることができる。フランクリン
人間は自己の運命を創造するのであって、これを迎えるものではない。ヴィルマン
信念は人を強くする。疑いは活力を麻痺させる。信念は力である。ロバートソン
明日は何とかなると思う馬鹿者。今日でさえ遅すぎるのだ。賢者はもう昨日済ましている。クーリー
生涯における予の一切の成功は、仕事を時機よりも常に十五分早くしたからである。ネルソン
多くの仕事をしようとする人は、今すぐに一つの仕事をしなければならない。ロスチャイルド
青年よ、意志を強くし、身体を強壮にするために、毎日一度は苦しいと思うことを遂行せよ。ジェームス
怠けていると退屈してくる。それは結局、他人が忙しく仕事をしているために、仲間がなくなるからである。B・ジョンソン
自分が立っている所を深く掘れ、そこからきっと泉が湧き出る。高山樗牛
苦中の苦を喫せざれば、上中の上人とならず。滝沢馬琴
人間にとって一番大切なことは、各自仕事に進歩を求めて励むことだ。ミレー
女性を敬え。彼女らは地上の生活のために、天国のバラを織りなす。シラー
働いて待つことを学べ。ロングフェロー
なにごとにも耐えることのできる人は、なにごとも決行することができる。ヴォルブナルグ
発憤しなければ、十分な努力はできない。それがなければまた、十分な成功も得られない。失敗し発憤し努力し、それが成功への第一歩となるのだ。一度の失敗で意気銷沈しては、一生何事も成さずに終わってしまうものなのだ。古河市兵衛
運命を外から受け入れるような人は、運命に殺される。野生のけだものが矢に殺されるように。ヘッセ
第一に必要なるものは大胆、第二に必要なるものも大胆、第三に必要なるものも大胆なり。キケロ
私が一つの欲望をもつかぎり、私は生きる一つの理性をもつ。満足は死である。バーナード・ショウ
問題になるのは量にあらずして質。セネカ
決意は、人間の力、勇気、知恵ではない。それは宗教的な出発である。キェルケゴール
自ら恃みて、人を恃むこと無かれ。韓非子
行いの美しい者は姿も麗わしい。イギリスのことわざ
当人では無いので、想像でしかありませんが。
人が真剣に抗議し大いに消耗した差別問題に対して「不毛な議論遊び」と気軽に記すのかと、不快に思いこそすれ少しも感動しなかった。
が全てなんだろうと思います。
このエントリ(「みんな幸せだったらいいのに。」)は大事なのは「そこにある人(主人公・綾、レンタルビデオ店員の青年、周囲の人々)の心」だよねという主旨ではないのか。読み間違いか。漫画にはたやすく感情移入するくせに、そこにある人(yukiさん)の心には鈍感なのだなと思った。
ただ、これ書くとyukiさんはまた怒るかも知れないな、とは思いますが、
一連のやりとりはやっぱり「不毛な議論遊び」だと思うんですよね。
それはyukiさんが悪いわけではなくて、というか yukiさんの発言はそれなりに議論しようとしてるんだけど、
相手側が議論する気も無ければ議論ってモノが何であるかも理解できてないとしか思えないものばかりで、
それじゃどうやったところで「不毛な議論遊び」にしかなりようが無い。
関連して。
客観的に物事を見るのと上から物を見下ろすのは明確に異なるんですが、
何かと混同されがちではあります。それは見る側も見られる側もそうなんですが。
そもそもの発端である「興味深い」発言にしても、yukiさんや他数名の方が「上から見下ろしてて失礼だ」
という趣旨の発言をしてるようで、まあ実際言われた方が不快に思うんだったらそれは事実失礼だったと言えますが、
自分なんかだと全く「客観的に見てるだけ」にしか思えないので言われても気にしません。
どちらの感覚の方が一般的なのかはさておき、おそらくyukiさんは今までにかなり差別・迫害されてきて、
言われたことの受けとめ方にかなり負のバイアスがかかってるんではないかな、と思います。
そういったことが過剰(と周囲から客観的に見た時に思える)な攻撃性などになって現れ、
となります。それに本人が気付ければいいんですが、、、
彼女が幸せになれるとよいなと思います。私が何か文章を修正したり追加で文章を書くことでできるならしたいのですが、どうすればよいでしょうか?
難しいですね。今のままではこの1行すら「上から見るな」って思われているかも知れません。
売春婦が差別がなんだのという不毛な議論遊びを見ていて、議論の核心とは全く関係ないひとつの話を思い出した。
主人公・綾はお店でトップの風俗嬢。でも、仕事を終えて店を出れば一人の人間だ。マニアックな映画ファンで、古いマイナー映画をレンタルビデオで借りては楽しむのが綾の日課。
ある日、綾は行きつけのレンタルビデオ店で店員の青年に話しかけられる。いつも借りている監督の別作品を薦められたのだ。マイナー俳優や監督の出ている映画についてたずねたりしているうち、綾は青年と少しずつ仲良くなっていく。レンタルビデオ店に通い詰めになる綾。毎日が輝いて見えて、仕事も絶好調だ。
ところが。
ビデオを借りて帰る際に、綾は青年に映画のリバイバル上映に誘われた。顔を真っ赤にしてたどたどしく、必死に綾を誘う青年。綾は言葉が出なかった。
「――…ゴメン その日……仕事…で…」
ディバッグの肩紐を握り締めながら、硬い表情で帰る、綾。
1週間以上後。風俗店の同僚がひどく延滞になっているビデオを見つける。綾が借りたものだ。同僚は訊ねる。
「通いはやめたの?」
飽きただけだ、と答え、代理での返却を頼む。綾は仕事に没頭する。従来よりも大幅に多い仕事量。逃げるためのハードワーク。
仕事の中で綾は、自分の仕事について考える。男と肌を合わせながら、青年の姿について考える。表情について考える。ただ話があって楽しかっただけ。それだけ。何も期待していなかった。映画の話で盛り上がれて、それだけで良かった。何も期待なんてしていなかった。何も。
この職業だって嫌いじゃない。むしろこの職業は好きだ。でも、青年の目が。その目が。純朴で穏やかな。
仕事を終えて休憩に入ると、同僚が話しかけてきた。ビデオを返してきてくれたのだ。そして、客を連れてきたので次もよろしく、と言う。
綾が出向くとそこには、いっぱいの花束を抱えた青年がいた。たどたどしく語る言葉は、恋焦がれる者の言葉。愛の言葉。
同僚は言う、何事もハッピーエンドが良いのだと。
私は思う。あの漫画のキャラクタ一人一人、客も店長も同僚も、青年も綾も、みんなみんなどこかにいて、みんなみんな幸せだったらいいのに。
どうしても実名で書けないことがあるので、書いてみます。
あれ?これは王様の耳はロバの耳!って叫ぶところですよね?
去年までは結婚していて、一部上場企業で管理職をしていました。
だけど配偶者の異常な嫉妬深さに嫌気が指して、家を飛び出して無理やり離婚してしまいました。
仕事や家を失って実家に逃走して現在に至ります。(現在もこのヒモ志望とは係争中。)
と、ここまでは前置きです。
実家へ逃走後、気分転換にと出かけた欧州のとある国で、Jという1歳年上の白人男性と知り合い意気投合しました。
帰国後もメールでやりとりするうちに盛り上がって、秋に再び渡欧してJと一緒に何カ国か旅行しました。
そしてその旅行後国際電話で求婚されて、私は舞い上がってつい「yes」と答えてしまいました。
この冬再び欧州に遊びにいったときには、Jの家族に紹介され、すっかりフィアンセ扱い。
この夏には私の家族に挨拶するためにJが日本に来ることになっています。
実は私には前の旦那さんとの別居時に知り合った年下の大学生の恋人がいます。
セフレのつもりでしたが、付き合いが長くなるうちに、お互い情が沸いてしまい、
ヒモ志望と別れて実家へ逃走した後、恋人同士のような感じになってしまいました。
彼は現在就職活動中なのですが、最近「卒業したら結婚しよう」と言われました。
これはさすがに「yes」とは答えられず、「お互いよく考えてみよう」とお茶を濁しましたが…。
Jは田舎の素朴な青年という感じの人で、多分彼と同国人の女性から見れば、
「Jってすごく良い人だよね??」といわれてスルーされているんじゃないかと思われるようないわゆる善い人です。
料理が好きで、子供が好きで、きっとこんな人と結婚したら幸せになれるだろうなって感じの人です。
だけど知り合ってまだ半年だから、まだどんな人かよくわかっていない気がします。
相手も私のことをわかってないだろうと思うのですが、それで求婚しちゃうあたり、
夢見がちというか、なんらか私に幻想を抱いているんだろうなあという気がしています。
風邪を引いてどんな高熱が出てもバイトをサボれない、みたいな真面目なところがあって、
本人は語らないけど、多分あまり女性経験が豊富じゃないんだと思います。
(きっかけも別居で荒れていた私を慰めてくれる彼を私が食っちゃったみたいな感じだったし)
一応1.5流くらいの大学に通っていて、育ちがよくて…いわゆるボンボンなんだと思います。
別居時から私のことを知っているので、私の最低さやどうしようもなさをよく知っていて、
それでも「放っておけない」「俺がいなきゃだめだ」と言ってくれるあたり、
共依存なのか、なんかの刷り込みなのかわかりませんが、稀有な人だなあと思います。
本音を言うと私はどっちも好きです。本当にどっちでもいいと思っています。
去年の秋からずっと考えているのですが、どうしても選べません。
夏までに結論を出したいと思うのですが…。
色々中途半端に自己分析などもしてみているのですが、まずは他の人がどう思うのか知りたくて書いてみました!
反応があれば続けます、なかったら2chでもいくか、と
結婚して一年半、妻が妊娠した。今までどうしても子供を作る気にはなれなかったけど、不思議な使命感のようなものに動かされて子供を作ってしまった。
おそらく順調に事が進めば今年の終わりには私は一児の父親になる。しかしその姿が全く想像できない。
自分は果たして子供を育てることができるのだろうか。仕事ではそれなりに成果をあげてきたし、これからも頑張れる自身はあるけど、子育ての自信は全くない。はっきり言って子供は全く好きじゃないけど、自分の子供は好きになれるのだろうか。
不安と心配ばかりが先行してしまって、どうしていいのか分からないのが正直なところだ。子供が出来たら喜ぶ人の気持ちは分からなくもないけれど、私はとても喜べない。
青年が不安を抱えて大人になるように、学生が心配しながら社会人になるように、これもまた通らなければならない道なのだろうか。あまりにも責任が重大すぎて、どう消化していいのか見当がつかず、仕事も手につかない。