老人の懐古主義など考慮に値しないことを幾つかの例をもって説明しよう。
- 仮に一人の若者が若気の至りで愚にもつかぬ悪事を働いたとしよう。彼はその故に「非道徳的だ」などと評され、非難されるだろう。だが少し考えてみるといい、彼らの若き時代にもそうした愚行は行われていたはずだ。そしてそれは、恐らくは活気があったなどと評され、肯定的に捉えられる。従って老人はいつの時代においても時代を非難しているであろう。あたかも社会というものが原始の時代から劣化し続けてでもいるかのように。しかし、全体としてみれば事実はその反対である。
- 仮に一人の若者が冷静沈着な行動を取ったとしよう。彼はその故に「覇気がない」などと評され、非難されるだろう。だが少し考えてみるといい、彼らの若き時代にもそうした行動は行われていたはずだ。そしてそれは、恐らくは「賢明であった」などと評され、肯定的に捉えられる。従って老人はいつの時代においても時代を非難しているであろう。あたかも社会というものが原始の時代から劣化し続けてでもいるかのように。しかし、全体としてみれば事実はその反対である。
- 仮に一人の若者が新しき文化を楽しんだとしよう。彼はその故に「変人」などと評され、非難されるだろう。だが少し考えてみるといい、彼らの若き時代にもそうした娯楽があったはずだ。そしてそれは、恐らくは「変化を感じていた」などと評され、肯定的に捉えられる。従って老人は云々……
故に老人を駁するには、その老人が青年であった頃老人であったものが居ればいい。最も、既にこの世にはいないだろうが。彼らの言説は、彼らに遙かな年長者がいないがために蔓延っているのである。
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