はてなキーワード: 演繹とは
あなたへのアドバイスじゃなくて自分のことでいいのでしょうか?
テーマというのとは少し違いますが、何事も知る前からバカにしないでとりあえず興味を持つということを念頭に置いて生きてきました。
一見「なんだそれ」みたいな趣味を持っている人ももちろんたくさんいます。
そういう人の話を興味を持って聞いて、新しい知識を身につけたり、何なら教えてもらいながらやってみると、思いもかけず面白くて、人の縁の不思議さを知ることもあります。
ふつうなら一生関わりのなかった世界のことを深く知ることはとてもおもしろいことです。
ただ、凡庸な趣味でも、極めればそれなりに人に語ることのできる趣味になります。
人生のテーマが趣味だけということはありませんし、問題意識の方面からテーマを持つこともできると思いますが、まずは好きなことを見付けるのが早い道かも知れません。
一般的に趣味とされることをかじってみたり、他の人の変わった趣味の話を聞いたりして、自分の世界を広げながら自分の好きなものは何かを探ってみてはいかがですか?
大学三年生でそれをすることは決して遅くありません。
その理由を考えてみた。ちなみに、以下語られる匿名的なウザさとは、主に感情的な発言(コメント)と関係するものであることに注意。
人間の一般的なコミュニケーションにおいて、「その発言者がどういう人であるか」ということは、とても重要な要素だろう。なぜなら、そのような人間像は、その人の発言を、一種の文脈へと収め、安心することを可能にするからだ。特に、感情的な発言の場合そうである。例えば、「らきすたクソつまんねぇ」と言った人が、普段から萌え四コマを嫌っていれば、「この人がそう言うのも解るな」と納得できる。それどころか、「普段から萌え四コマを嫌っている」という情報のみで、らきすたを嫌っているという明白な発言がなくとも、その情報から「この人はらきすたを嫌っているかもしれないな」と演繹できるかもしれない。
このように、「発言者はどのような人間か」という「人間像」は、その人の発言を「納得可能領域」へと高めてくれるし、前もって予測することも可能になるため、自分が不快になるようなコメントが不意に飛び込んでくることも少なくなる(気の知れた友人の会話は、たとえそれが愚痴であっても納得できるものだ)。それに対して、匿名的な発言者は、そういった「人間像からの納得」という次元をもたらさない。それ故、「らきすたクソつまんねぇ」とか「かがみんウゼぇ」というコメントを目にすると、それを文脈へと収めることができず、我々は躊躇してしまう。その発言者は、まるで予測不可能で理解不能な「他者」であるからだ。
このような他者は、それだけで、「闖入的」であり「暴力的」である。そして、もし、こうした匿名的な他者に無理に人間像を塗りつけ、その発言を強引に文脈に収め安心しようとするなら、それはパラノイア的な妄想に過ぎなくなってしまうだろう(「お前ニートだろwww」とか「お前韓国人だろwww」などのコメント。ニコ動のあんな短文な書き込みだけでそれを判断してしまうのは横暴)。
もしこうした軽率な態度を取らないとすれば、我々は「理解不能な他者」の「きまぐれで偶発的な」コメントに、不安になり続けねばならない。
(追記:増田なんかも同じ理由でウザさや不安を惹起するかもしれない。また、ブコメもある程度上記のような性質を持つ。しかし、その人が普段どんなブコメを書いているか、あるいはどんな記事にブクマしているかを探すことで、その人間の人間像=文脈を形成し納得しようと試みることはできる)
統一された人間像が形成されない、というのは、発言者自信にも適用される。実は動画内の発言者にはそれぞれIDがあって、ツールを使えば表示できるのだが、盛大な批判コメのすぐあとに賞賛コメを書いている人も多い。同一人物としての一貫性の意識が自らのうちに形成されていないのだ。それ故、彼らは無責任である。
特に、真面目で長時間のコンテンツであるほど、コメントがウザく思える。それは、「その動画すべてを見た後でなくともコメントできる」というシステムの問題だ。熟慮が必要なコンテンツであるのに、サクッとコメントされてしまえば、それが軽率なものである確率は高いだろう、ということもある。しかしより重要なのは、そういったコンテンツは、最後まで視聴して初めて意味が解るものであるということだ。ある話が一種の伏線となっていて、のちの話に展開し、それがまた先ほどの話への補足になっていたりもする。こういう連関があるにもかかわらず、そのつながりの途中で「ツッコミ」が入ってしまったりするのだ。もっとよく視聴してからコメントして欲しいものだが、こういうサービスであるので仕方がない。
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文字情報で言えば、文脈は長文であればあるほど形成されやすい。しかし、一番人間像を作りやすいのが対面のコミュニケーションなど、ノンバーバルな情報(表情など)を含むもの。
大学を卒業して就職できたのはいいのだけど、思考力がなさすぎて困る。先輩を見ているとなんでそんなに考えられるんだろうと思う。
演繹法や帰納法が大事なのは理解しているんだけど、色んな本を読んでもそれができるようにはならないんだよね。
演繹法が一般原理を個別事象を推論するのに使って、帰納法は個別の事象から共通の原理を見つけ出す。
これができない。自分にその判断基準がないというのかな。だからグループ分けすると、他の人が見たときに違うじゃんと言われてしまう。
色んな本を読めば思考できるようになると言われて、少しは読んだよ。東浩紀や鈴木謙介、宮台真司は好きだし、半分以上わからなくても読んだよ。論理的に書かれている本を眺めているだけじゃ何も論理的になれるわけじゃないんだよね。乱雑なものから自分の手で整理していかなければ磨けないんだ。
じゃあ改善方法があるのかと思うと、なぜそうなったのかを考えることが必要なんだろう。何を読むのかではなくて、自分と本との接し方なんだろうね。
なぜ自分がその考えを導きだしたのか、自分の意見はなんでそう思ったのか、自分の意見は客観的な論拠で裏付けられているか、論理に飛躍はないかというのを考えていかなければならないだろうと思う。
諸君 私はサイエンスが 好きだ
諸君 私はサイエンスが 大好きだ
帰納法が好きだ 演繹法が好きだ 思考実験が好きだ 実証実験が好きだ
代数学が好きだ 関数解析学が好きだ 集合論が好きだ 統計学が好きだ 情報理論が好きだ
Unixで Linuxで MatLabで Mathematicaで C++で Javaで 紙と鉛筆で 口頭で
全てのプラットフォームで行われる ありとあらゆる論証行為が 大好きだ
数列をならべた 並行スレッドの一斉実行が ファン音と共に他のプロセスを reniceるのが好きだ
ふと思いついて計算してみたモデルが 想定していた通りの結果をはじき出した時など 心がおどる
Athlonの64bit(フィア・ウンド・ゼヒツィヒ)でフェドラ7を使うのが好きだ
某M木先生さー、何でもかんでも「脳科学で説明出来ます」って擬似科学入ってるよねー、と言われた時は 我が意を得た様な気持ちだった
ラグランジュの未定乗数で ハミルトンの原理の拘束が表現されるのを知るのは 楽しい
リゾラッティの ミラーニューロンに関する基調講演を聞いた時など 感動すら覚えた
還元主義のfMRI万能論者達の発表が 質問攻めと共に叩きのめされる様などはもう たまらない
居並ぶフックス型微分方程式が 私の押したEnterキーとともに
金切り声を上げるCPUに あっという間に計算されるのも最高だ
哀れなM$オフィスユーザー達が 雑な数式エディタで 健気にもフィッツヒュー・南雲モデルの方程式を書こうとしている時に
PCがフリーズして ドキュメントが過去5時間分のテキストごと木端微塵にされるのを見ると TeX使いは ちょっと優越感を覚える
露助の教授に「あなたの理論は間違ってる事が(ロシアで)20年以上前に証明されていてねぇ」と指摘されるのが好きだ(ラボ内だったからな)
必死に守るはずだった仮説が反証され 実験の不備が指摘され 論文がリジェクトされるのは とてもとても 悲しいものだ
米国の物量(研究資金的な意味で)にものを言わせた研究所に 自分と同じ研究内容を先にPLoSに発表されるのだけは 勘弁だ
締切り(近々だと1月に1こ)に追いかけられ 太平洋標準時だからこっちの朝4時まで大丈夫!と徹夜するのは 体力的にそろそろ無理だ
君達は 一体 何を 望んでいる?
情け容赦のない 鬼の様なピアレビューを 望むか?
並列処理の限りを尽くし 三千世界のCPUを焼き尽くす 嵐の様なシミュレーションを 望むか?
「D論(クリーク)!! D論(カフェイン)!! D論(メンタルヘルス)!!」
よろしい
我々は満身の 力をこめて 今まさに スライドを指し示さんとする レーザーポインタだ
だが この暗い研究室の中で 3年もの間 堪え続けて来た 我々に
大論争を!!
一心不乱の大論争を!!
。。。。えー、
「男が出来る気がしない」と、 http://anond.hatelabo.jp/20081127063438 を書いた増田ですが、
どーせ釣りだろと言われた/予想以上にHELLSINGに反応してくれた人がいた/NIPSに持ってかなきゃ行けないスライドがいつまでたっても終わんない/ので、ついカッとなってやった。反省はしている。
つまりそれは集団の意思決定=政治学であり
集団での金やらモノやらの動き=経済学だ
そういう「自然ではあるはずがない」単純な仮定空想の状況を作り出して実験することも容易い。
やっぱりさ、人間をある程度捨象してしまうことだよね。つまり類型論。類型論って、ステレオタイプのこと。
そうすれば、因果関係も見えてくるじゃない?でも、類型をつくる時点で、それは人を捨象する学者の価値判断がそこに含まれてしまう。
やっぱり科学っぽくない?まあしかし厳密な正当性なんてものを社会みたいに相関的、イコール互いに影響しあう対象の研究に求めるのは酷。
ある程度の妥当性が認められれば万歳でしょう。
じゃあどういう風に類型を作るのが一番妥当なんだろう?マックス=ウェーバーはプロ倫を考えてみる。
まず事実があるじゃん。資本主義ができる前にはプロテスタントが広がってった
プロテスタントには商工業者が多い。プロテスタントは現代でも重役につくことが多い。
フランスはナントの勅令を廃止してから財政難に陥った。スペインはゴイセンを迫害してから没落していった。
適当だよ?ウェーバーさんがどういうやり方したかは知らないよ。適当適当
でもこれら個別の事実を並べて、ある色メガネでみるとそういう法則が分かるんじゃないかってこと
色メガネは絶対に必要なんだよね。つまり他の色を捨てるってことだよ。
まぁ結論ありきでやらないってことが重要だよね。どの色メガネを使うか最初からきめてたらそれは「ただの今頃の若いもんはおやじ」だよね。
統計に余計な価値判断を加えるのが社会科学、というか社会学?ですが!その価値判断が社会学のすべてなので!スマートでアクロバティックな価値判断がよろこばれます!つまり多様な価値観!複眼的な分析が重要なのです!
まあhttp://anond.hatelabo.jp/20080806174216の言い直しになっちゃうんだけど、
文系の人間でも確かにそういう感覚は分かるよ。こんなに前提知識と文脈の把握が必要なのかよチクショーって思うことはある(その上、異様にまだるっこしい)。ただ、そういう前提として抑えるべき情報量が過剰である、ということを理由に「だから無価値である」と断定されると、酷く困惑するよ(自分は興味がない、ということならそれはそれでいいと思うのだけど)。
例えば、近代史なんかを語る時、前提として知るべき情報量が多くなるのは仕方がないことなんだよ。当時の社会的状況であるとか、個人的な書簡であるとか、各種の記録から必要な情報を洗い出す。その史料の検証作業は非常に冗長でだるい作業としか言いようがない。でも、それらの文脈を把握すること無しにモデル化して解釈されたら、結論が明後日の方向に向かってしまう、そういう学問だってことは分かってもらいたいんだ。理系の人が文系的分野を「モデル化」するとき、時として演繹的判断が行き過ぎているように見えるのはあまりいいことだと思わない。
繰り返すけど、文系・理系は車輪の両輪だよ。文系嫌いになるのも無理ないかな、と思う面もあるけど、そういう世界もいつか分かってもらえると嬉しい。
そう言ってもらえると多少は救われた気になるけれど、複雑な気分だな(増田は違うみたいだけれども、経済学や法学への不信を口にする理系人はやはり少なくないし、後者の学問はダメって言われているようなのもちと悲しい)
自然科学は入り口程度の知識しかないけれど、それでも自然な法則をほんの僅かな式で綺麗に表現する手法は本当に凄いし、物事を明晰に分析してみせる理系の知人のことは尊敬しているよ(だから、文系的センスのみで理系を切って捨てる人間には嫌悪感を感じる)。
文系の人間でも確かにそういう感覚は理解できるのだけれど、そのことと価値を混同した話をする理系の人が居て、「勘弁してよ」と思わされることはあるなあ。例えば近代史なんかを語る時、前提として知るべき情報量が多くなるのは仕方がないことだし、その文脈を把握すること無しに変にして解釈されたら恐ろしいことになる、ってことが伝わらなかったりするのは凄くもどかしい。理系の人が文系的分野を「モデル化」するとき、時として演繹的判断が行き過ぎているように見えるのは分かってもらいたいな(もちろん、それは理系の人全てが陥る罠ではないけど)。
文系・理系は車輪の両輪のようなものだと思っているので、出来ればほんのちょっぴり我慢して、文系の世界も理解してもらえたらなあ、といつも思ってる。
本題と全然関係ない横レスだけど「日本人という概念は明治以降」ってのは正しいんだけど、
「今の目から見て日本人と分類できるようなものがそれ以前からあったか?」って言うとあったと思うよ。
増田は「恐竜」を例にあげて反論してるけど、そういう学問的に/実体から帰納的に定義されたものと、「概念そのものから出発して演繹的に作り上げられた存在」を一緒くたに論じるのは間違い。ある概念定義を前提としている「今の目」を過去に遡及する時点で、既に偏見が入ってるわけです。
たとえば「オタクという概念は80年代初頭」ってのは正しいけど、「今の日本人から見てオタクと分類できるものがそれ以前から…たとえば平安時代にだってオタクはいたんだ」云々という主張が全面的に正しいかというと、余り同意を得られないだろう。なぜなら、それではオタクという概念が無限に拡散するだけで意味がないから。そもそもオタクという「概念」が先行して始めて人は「オタク」になるので、そういう自覚なき人々をオタクと呼んでも全く意味がない。
「ゼロ」という「概念」は数学においてある時点で「発見され/つくられた」概念だけど、「ゼロの発見以前からゼロと分類できるものがあった」からなんだというんだ。そんなこと主張することに意味があるだろうか。また、「ボクシング」というスポーツは近代に入って発明された概念だけど、「現代の眼から見てボクシングと言えるものは…」ってそんなこと言い出したら有史以来のあらゆる手による殴り合いをした人、果てはカンガルーまで『ボクサー』になっちゃうよ。それはなんかおかしいでしょう?
あのさあ、「一般的にはこういうことが言われている」ということを主張したら、いつの間にか俺が「こういうこと」を主張していることになってるのはなんでなんですか、とさっきから何度も聞いてるんですが。「そうとしか思えないから」って、あんたの主観でしょ。しかもあんたが俺のことを色眼鏡で見てたことはあんたが自分で言ったことだし。
ほう、その辺の本には「神」なんて言葉が乱舞しとるがな。じゃあ日本の古典がどう宗教的価値に直結しとるんだ?
これは確かに読み飛ばした、失敬。
日本の古典の話をしてるんだが。とりあえず便宜的に日本の言文一致体以前以後で区切ってみようか。
なんか、今でも一般人が学ぶ意義のあるような文献がそれ以前にある?
しつこいなあ。食い下がってるのはどっちだよ。「意義」の定義によるだろ。「一般人レベル」でいうのなら、欧米先進国様の古典を学ぶ意義と同程度のものは間違いなくあるよ。日本文化のうち文学と美術と舞台芸術に優れたものがあることは君も否定せんだろうが、それらの趣味が思想だのなんだのに劣ることはあり得まい。
グレコ・ローマン文化の話じゃなかったのかよ。近代以降ならそりゃ当然だろ。フランス革命1789年と明治維新1868年の差が今更どれほど重要だとあんたが思ってるのかは知らんが(明治維新は不完全な革命とかいうなよ。そんなこと言えばロベスピエールとかナポレオンってのはどうなるんだ)。ただその意味で言うなら欧米であってもドイツなんかは後進国なんであって、あんたが言ってるのは「イギリスとフランス」の話でしかない。「欧米」ではないぞ。
君の言うステータスシンボルのような意味での「役に立つ」自体を俺は批判し否定してるんだよ。まやかしだってな。で、撤回したんじゃなかったか? やっぱ食いさがってんじゃんww
ほら、君は「??だとすれば」という仮定が読めないんだよね。背理法とか理解できてないんじゃないの?出来の悪い中学生とかで、「もし√2=p/qと既約分数で書けたとするとpもqも偶数になるが」とかいうと、「pもqも偶数なわけないだろ!」とか言って聞かないガキがいるよね。
あとさあ、まやかしはまやかしで構わないけど、そういう意味なら俺は英語の「役に立つ」もまやかしだと思うがねえ。
とりあえず、「まやかし」と「役に立つ」をあんたはどういう基準で使い分けてるのか明示してくれ。でないと話にならん。
えーと、そういう主張をしたいのならまずソースよろ。
はあ?何のソースだよ。俺は君の主張を自然に演繹しただけであって、敢えて言うならソースは君の発言だが。
東大卒は毎年数千人だ。それで、MIT卒は何人いるか知ってる?ハーバードは?プリンストンは?スタンフォードは?オックスフォードは?ケンブリッジは?
本当に新天地を切り開くようなエリートってのは、せいぜい数人程度だろ。その数人にどういう教育をするかと考えた場合、国内でまかなおうなどと無駄な縄張り意識を発揮するよりは、とりあえず世界トップレベルの大学に送り込めばいいんじゃないの、と。
天才信仰ですか。まあいいや。仮にそうだとしても、「年に数人」レベルの人間に「教育」なんておこがましいと思わんか。そんな人間はほっといても自分に最適な場所を探してくるし、そこが日本である可能性もあれば海外である可能性もある。
国を背負うほどのものでもない普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンすることに金を使うよりは、普通の大学を出る普通の何万人のレベルを上げるほうが安上がりだし価値があるんじゃねえの、と。
誰も「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」なんて言ってないし、そもそも東大生の中で「教育制度がもっとよければ俺はもっと偉くなれた!」なんて言ってる奴は落ちこぼれだけだよ。だから「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」という発想自体がそもそも無意味。
いや、主流の座から滑り落ちたものを普通はスタンダードとは呼ばないだろう。そう言えるからには、後続のものがスタンダードを一つの目標に据えて設計されたとかそういう事情が必要だ。ちなみに釘をさしておくが、別にこの主張に固執するつもりはないから反論は不要。否定してくれてかまわん。
でも、コアの計算部分がライブラリに分離されちゃうケースが増えると、ますます低水準処理がどうこういう意味がなくなるような。
出来合いのライブラリを使ってない研究者だって沢山いるし、そもそも計算アルゴリズム自体に工夫をする人だっているわけでな。その辺は計算の規模と計算機リソースの兼ね合いと、あるいは本人が計算機を好きか嫌いかなんていう、実に卑近な事情によって決まってくる。それこそ情報工学の研究者であっても、俺が例に挙げたパターン認識や待ち行列の研究者の中には計算機の実践的側面なんかに興味がなく、Cを使ってアセンブラまがいのコードを書き、新しい言語なんて覚える暇があったらもっと他のことをするとかなんとか言ってる人だって一定の比率で存在する。おわかり?あんたの言ってる「情報工学」は「コンピュータ工学」でしかないことに気付いてほしいな、いい加減に。そこだけ理解してもらえればあとはどうでもいい。そうすれば、あんたが噛み付いてる点自体が枝葉末節だってことにも気付くだろうし。
前にも書いて綺麗に見ない振りされたけど、それ言語の選択と無関係だよね。
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元々の話覚えてるか?「低レベル寄りの言語を知識としてだけでも知らない人間に」云々という話だっただろう。どうも話が巧妙にずらされてる気がするんだが。たとえばいきなりJavaを覚えさせられた人間がそれがわかるとは到底思えない。ライブラリのソースを読めるレベルになってはじめてわかることだろう、それは。
C++の話も同様。敢えて「C++らしい」処理を書けば計算量はどんどん増えて、例えば行列をカプセル化して演算子をオーバーロードしてなんてことやってたら計算時間が倍ぐらいになってもおかしくはないだろう。一晩で終わる計算が翌日の昼までかかるということになったら作業効率には歴然たる差が出るぞ。
あなたは、なにも僕の質問に答えていないよね。
あなたの演繹論法のひとつひとつの根拠が空疎な点について、根拠を強化するなり、
できないのなら、結論の間違いを認めるなりしてほしいけど、
感情的に認められなさそうだから、期待はしないよ。
はてなは、理屈っぽくて、議論大好きな人が多いところが好きだ。
でも、論理と理論をごっちゃにして使っている人がいると、がっかりする。
がっかりは言いすぎだけど、せっかくの熱弁もこれひとつで台無しだと思う。
「え、その違いがわからずに議論してるんですか?」
「もしかして、普段から、自分の議論が論理的に正しいかどうか、全然判別できずに議論してませんか?」
と、疑惑の目を向けたくなってしまう。
検算ができない子に、この計算がここで間違っていると指摘しても、
その子は自分は正しいと言い張るかもしれない。
論理と理論をごっちゃにしている人に対して、僕は同様の疑念を抱いてしまう。
もし、こちらが、あちらの論理の間違いを指摘しても、相手は理解できず、
お互いに気分を悪くして、議論が終わってしまうのではないかと、すこし不安になる。
ごく簡単に言えば、
理論は、ある結果(現象)が起きる因果関係を説明するモデルだ。
以下、演繹、帰納、理論について、もう少し詳しく説明してみる。
アリストテレスは人である。人はいつか必ず死ぬ。よって、アリストテレスはいつか必ず死ぬ。
こういうのを演繹法という。「アリストテレスは人である。」「人はいつか必ず死ぬ。」この2つが事実であって、
事実から、「アリストテレスはいつか必ず死ぬ。」という結論を導き出している。
つまり三段論法というのは、A=B、B=C、よってA=Cのことだ。
(これ、イコールじゃなくて、包含関係で説明するのが本式だが、そこは省略する)
なお、演繹法では、事実とした事柄が、実は、事実ではない場合、
当然ながら、結論が間違ったものになることには、注意が必要だ。
帰納法は、多数のサンプルとなる事実から、共通して言えることを結論とする方法だ。
A猫は4つ足で歩いていた。
B猫も4つ足で歩いていた。
C猫も4つ足で歩いていた。…と可能な限りのサンプルを集め、
サンプルとして集めた猫が、全て4つ足で歩いていたなら、
「猫は4つ足で歩く」という結論が導き出せる。
帰納法では、少なすぎるサンプルから結論を出したり、
サンプルからは言えないことを結論にしてしまったりすることに注意が必要だ。
理論というのは、ある最終的な結果が起こるための因果関係の説明だ。
因果関係というのは、原因(の現象)と結果(の現象)の1セットのことをいう。
レシピの詳細は省くが、
シチューという最終的な結果は、
人が、包丁、まな板、鍋、火などを使って調理することで起きる。
順番を間違えるとうまく結果が出ない。因果関係に則っていないからだ。
シチューが生まれる過程を簡潔に説明し(無駄な現象を捨象するという)、
シチューを作る上で、あまり重要ではないことが書いてあるのは、上手な理論ではない。
(たとえば、調理中にキッチンにゴキブリが出たら、すぐさま潰してください、とか。)
ここまで説明した「理論」というものは、論理によって構築される。たとえば、帰納法を使って、
おいしいシチューAには、肉が使われていた。
おいしいシチューBにも、肉が使われていた。…と、
自分がおいしいと思うシチューのサンプルを集めていき、全てに肉が使われていたなら、
自分がおいしいと思うシチューを作る要素のひとつは肉であると結論づけられる。
また、どんな理論も仮説だ。仮設と言い換えてもいいかもしれない。
理論とは、ある結果に至るプロセス(因果関係)を説明したものに過ぎないので、
いずれ、もっと上手にそのプロセスが記述される可能性があるからだ。
こういったことは、議論をする相手には、ぜひとも知っておいてほしいよなあと、思う。
自分の書いている文章の論理展開も、気にしながら書いてほしいよなあ、とも思う。
あらゆる現象を完全に説明できるたった一つの理論というのも、未だ発見されていない(そして、たぶんない)。
だから、お互いに指摘しあって、修正しあえるのが良い。
そのためには、少なくとも議論する人同士が、前もって、
ボクはキミより賢いのだから、ボクの言っていることはキミには理解不能なんだ。ボクの言っていることを理解不能なキミが、ボクの言っていることを批判しても的外れなだけで議論になんかならない。だから、キミはボクの意見を批判してくれるな。
こんな風に、誰かから自分の意見を批判されると「ボクちゃん賢い」という前提を振りかざして、議論を止めようとする人がいるけれども、そういう人たちには、たいてい、次のような特徴がある。
1.議論における「賢さ」の尺度は、議論をしている人の展開する論理の正しさ(演繹と帰納の確かさ)であることに気づいていない。
2.論理の正しさを自身で検証することができない。
3.自分の論理が破綻していることに気づいても、それを認めようとはしない。
たとえば、冒頭の「ボクはキミより賢いのだから、フニフニ」という演繹論法にしたって、彼らは演繹の最初の前提である「ボクはキミより賢い」が正しいといえないことがある、穴のある論理だということに気づいていないか、認めようとしないのだ。
上にあげた3つの特徴全てにあてはまる人と議論するのは時間の無駄だ。論を戦わせるよりは、相手が、「自分で状況を見て、考えて、結論を出した」と思うような方策を採るのがうまいやり方だと思ってる。