はてなキーワード: 演繹とは
http://anond.hatelabo.jp/20080215165308
この増田は何を言いたいのだ?文章を読んでもさっぱりわからない。
なんでこの増田にはてぶがつくの????
文系の人間が全て論理的思考ができないとは思わないが、自ら「文系」を名乗る人間がこんな論理的ではない文章を書くと、「文系」という幅広い分野が論理的思考が弱いような印象を持ってしまう。
さらに、文章を読む限り、元増田はどうも論理的思考について軽んじているように感じられるが、元増田には「論理的思考ができていないと、文章の説得力がなくなる」という当たり前のことを知って欲しい。
元増田の書いた文は、まさに論理的思考のなされていない文章だよ。
論理的思考力というのもそうなんだが要するに集中力と持続力ですよ。
だから、1年かけて絵を仕上げたとか、不利な対局でも投了を認めざるを得ないとこまでがんばるとか、そういう事と等価な部分はあるでしょう。
それまでの議論が「数学が論理的思考力を育む」「論理的思考の習得が数学である必要はない」という数学の必要性→論理的思考の習得が妥当かというものであったのにもかかわらず、いきなり「集中力と持続力」の話を持ち出してる。数学に「集中力と持続力」は直接関係ないでしょう。もし、関係があると考えているならば、数学と「集中力と持続力」がどのようにつながるかを説明しなければならない。
さらに、「集中力と持続力」のつながりで「1年かけて絵を仕上げる」「不利な局面で粘る」という例を示しているが、この例は数学とは全く関係がない。「そういう事と等価な部分はある」と何か価値があるように書いているが、まずもって「そういう事」とは何なのか、等価だから何か言えるのか、何も書いていない。
うんざりするような単純作業を、完成形をイメージしてこつこつ進めるという事は、「すぐに結果を出すこと」とは矛盾するし、頭のよい人ほど安直に結果を出すことを求められがちになるけど、みんながそれをやったら責任のなすりつけあいと業績のかすめとりあいで社会が貧しくなるので。
論理的思考が必要な理由の一つは、「安直に結果を出さない」または「安直に出された結果を許さない」ことにある。
責任のなすりつけあいや、業績のかすめとりあいを引き起こす原因の一つは、論理的思考の欠如にあると言っても良い。
「あのときアイツがミスったから、全部ダメになった。」 → 失敗の原因を安易に特定し、責任をなすりつける
「自社製品を売るために、独自の規格で販売しよう。」 → 自己の小さな利益にとらわれ、市場規模拡大や消費者利便向上を無視している
常日頃よくみるタイプの考え方だが、様々な要素をモレ・スキのないように埋めていく論理的思考があれば、このような「安直な結果」は生まれない。
http://anond.hatelabo.jp/20080215222923
この元増田が書いているが、
数学の問題を解くときに
1) x > a の時
2) x < a の時
3) x = a の時
のような答え方になる時があるだろ?あれは全ての場合を考えてスキのないようにしているのだ。
この数学で学ぶ論理的思考が、「安直な結果」を生まない思考能力を育てる。
あとは長いし、文章に意味もないので割愛するが、一点だけ気になるところが。
エンジニアリングがうまくいって世の中に人工物が溢れた結果が、数学があんまり役に立たない、という現状をもたらしたともいえます。
この理屈からしても、「数学があんまり役に立たない」のは、あくまでエンジニアリングに携わらない人間に限るということは注意しなければならない。万民に数学が役に立たなくなったわけではなく、数学が必要な人間と、数学が必要のない人間とに別れているということだろう。(万人に数学が不必要なんて書いてないが、)
マーケティングや情報通信、金融、販売、農業、etc、自分の頭を使って何らかのシステム(数字を扱わないものも含む)を作る行為を「広義のエンジニアリング」と捉えると、論理的思考はそれぞれに必要な技能ではないかと思われる。様々な状況に応じて対応することの出来るシステムを構築するには、「AだからBになる」という演繹的な考え方や、「A/B/CからDが推察される」という帰納的な考え方が必須になるから。
その、論理的な思考を育てる方法として、数学が最も適しているかどうかは正直に言えばよくわからない。ただ、論理体系がしっかりしており基礎理論が固まっているという点で、等しく多くの人間に行う教育としては適切だと思う。
蛇足だが、作られたシステムを享受するだけの人間(単純労働者)や、まったくシステムとは離れた所で活動する人間(芸術家など)には、数学は必要ないかもしれない。
特に人の名前とかそういう理由を見出しにくいものは覚えるとっかかりすらつかめずずっと苦労している。
これすげぇ気持ちがわかるwwww
理由がないとダメだよな。何かもっと単純な法則から演繹できるもんじゃないと。
俺が化学得意じゃなくなったのは、反応式の左辺が与えられたときに右辺が一意に決定する理由がわからなかったから。
化学の先生に聞いたら、それはそういうものですとか、センスがあればわかります、とか意味不明なこと言われて益々わかんなくなった。
その先生本人は微分積分が苦手で…とか言ってるアホだったが…。
物理は覚えること少ないぞ。
高校の力学は原理3つしかないし、波の辺りは波がなんなのか理解すれば公式は全部自明になったと思う。
キルヒホッフの法則とかは要するに電荷が保存しますよって話だし、云々。みたいな感じで…。
自然科学に関する仮説は対象が自然現象なので実験や観測による証明が必要になる。
数学は公理から出発して演繹的に体系を構築するが、説明しているのは数学的なことだけ。
だから数学的な証明だけでよい。
まじめに話し合おうとしているのか、中2病の大学生が二日酔を慰めようとしているのかによって対応は違うから。なんにせよ、元増田がゲーデルを知らないことはよく分かった。以下読み物。
数学の歴史は長いが、ユークリッドやピタゴラス以降、恐ろしく長い空白があった。その後、ニュートン、ライプニッツあたりから突如急角度の上昇が始まる。この後、オイラー、ガウスといった大天才がヨーロッパに続けざまに現れて17世紀から19世紀くらいまでは数学の黄金期と言って良い。こんな急激な進歩があったのは、数学、物理学、工学がかみ合って足並みをそろえて進歩を始めたことに原因がある。当初、数学は本当に純粋学問だったが、微分積分が物体の運動を予言できることからにわかに風向きが変わり始めた。
「反証可能性」「未知の事象の予測」「知られている事象との一致」といった厳しい原則に基づく科学的アプローチは天動説に反する観測的事実が蓄積し始めたことに端を発するといってよい。太陽を中心とする円形軌道に地球を諸惑星を置いたコペルニクスのモデルは、当時の精密化した天動説と大差ない誤差を持っていたが、太陽を焦点とする楕円軌道を提唱したケプラーは、きわめて精密に観測結果に一致した。
その後、ニュートンが現れ、ケプラーの法則を万有引力の法則と微積分で説明することに成功した。
このように近代数学と近代科学は足並みをそろえて歩き始めたのだが、この二つには大きな差がある。自然科学(いわゆる科学)は自然の事物を理解するための仮説の集合であるのに対して、数学とは最初に提示された公理とその操作方法に基づく演繹された知識の体系であるということ。つまり、数学は自然に根ざしていない。これは強調してもしすぎることはない点で、しばしば数学者はこの数学の自立性を以って自然科学を見下すことがある。
数学は公理とその操作からなる演繹的な体系と書いたが、もちろんはじめはそうではなかった。最初はものの数を数えるところから始まり、距離を測り、面積を測り、重さを量り、時間を計るためのツールだった。つまり自然に根ざしていた。が、19世紀後半に精密化が進んだ後、いったん数学は崩壊の危機に面した。それを救うために公理系を整理し、再出発して網羅的に数学の完全性、無矛盾性を証明しようとする動きがあらわれた。だが、最後にはゲーデルが現れ、完全且つ無矛盾な公理系はないと証明して、公理主義者たちをがっかりさせた。
数学は出発点こそ自然科学に密着していたが、今では(失敗したものの)公理に基づく独立した体系と考えて良い。そうしたところで、数学の出す答えが変わるわけではない。が、じっくりと考えたときに、自然現象がこうもうまく数学に従うという点については少し気味の悪さを感じざるを得ない。たとえば、速度を積分すると距離を算出できるというのは、科学的な仮説である。この仮説は徹底的に検証されているので安心して利用できる。だが、速度ときょりという自然現象がなぜ数学的概念である微分積分にこうも厳密に従うのか。突き詰めて考えると、それは時空間の線形性、時普遍性に支えられているが、それ自身がなぜそうなのか、誰にも分からない。
微分積分というのは公理から出発して導き出された数学の体系のひとつである。それ自身は自然科学的アプローチで反証する必要ない。なぜなら、数学の証明は自然科学の実験による「証明」とはまったく異質の厳密な証明だからだ。一方、自然科学の実験による「証明」は確からしさを積み上げることでしかない。
理解を助けてわかりやすくするために、たとえ話を出しているのに、
「そのたとえはおかしい、こうだ」とか言い出す人がいる。
んで、議論は流れて、たとえのうまい下手を競い出す。
念頭に置いているのは、
何か課題があって、それの解決策を提案する場合、
たとえ話から演繹される結論が、解決策として有効だと主張するようなシーン。
それなのに、たとえ話のうまい下手の話になって、
そのたとえから演繹される結論が変わるわけでもないのに延々とたとえ方について議論する。
うまい下手を争うのではなくて、結論に影響が出る場合についてだけ指摘すべきだ。
このたとえ論争、よくネットで見られる光景だけど、非生産的だからやめませんか?
嬉々として自分のたとえを披露しちゃう人は、ある種優越感ゲーム的な感覚なんだろうな。
具体例。
腐るほど「winnyを自動車と包丁にたとえた人」と「それを批判する人」が出てくる。
法律的に言えば、winnyを開発することが幇助に当たるかどうかは、幇助の故意があったかどうかに尽きるから、
このたとえはまったく本論に関係のない、くだらない論争だったりする。
それなのに、やれ「winnyにはおよそ正当な利用が見込まれていない」だの「180キロまで出せる自動車メーカーが云々」だの、
たとえのうまさを競ってると。
「だからこのたとえは無意味だ」ということを言ってるひとは調べた限りではいない。
まず一番最初に言いたいこと。
ここで問題なのは、「なんにでも興味を持つことの善し悪し」ではなくて、「興味を持ったジャンルから、
一つ専門を選んで、それを飽きずに続けることができるか」だと思う。
そういう意味で、 http://anond.hatelabo.jp/20070823233243 この増田の友人の善し悪しは判断できない。
ただ、掃除なんて普通は面白くないことに面白みをみつけることができるという性格は、非常に優れて
いるのではないかな。研究でも、会社でも、何でも自分が望んだことがやれるわけではない。望まないこと、
面白くないこと、嫌なことを、面白いこと、やりたいことに変えることができるというのは、成功する
要素のうちの一つではないかと思う。
理系であろうと、文系であろうと、専門を持つことが重要なことに変わりはない。
そして同様に、幅広い興味とそこから得られる知識による、専門の相対化が必要になってくる。
社会でも研究室でも、専門にしか興味ない「専門バカ」が一番使えない。
理系研究室に長くいた経験では、いろいろなことに興味を持ってどんどん新しい知識を吸収していく
タコ壺にはまったり、意味ない研究してたり、ディテールにこだわって小ネタで終わったり。
様々な分野に興味を持ち、新たな発想を導き出すこと。
これから下の文章は酷いな。論理的な思考がまったくできてない。
たとえば「比較○○学」というのはまさにそれで、知った限りのものごとを体系化するだけで一つの研究になるし、その体系化の手法は理系で要求される高等数学のような、特殊で難解な技術だったりはしない。
特殊で難解な技術が幅や深さを規定するわけじゃないんだよ。それに経済じゃ高等数学使うけど?
なんだって、文系といったってこれは文学部系の学問に限ったことではないかって?おあいにくさま、東大で法学部や経済学部に行った人が研究を志すと思いますか?彼らの多くは大学ではなく社会で輝くことを志すのです。だから、深さよりも広さ、スペシャリストよりもジェネラリストが求められるのは当然です。
なんで法学部や経済学部の学問としての特徴を語るのに研究意欲のない学生を例にあげるんだ?
この文章で何か意味のあることが言えると思うの?
とにかく、文章が滅茶苦茶。聞きかじりの知識と無茶苦茶な論理構成。
理系で成功できなくて妙にコンプレックス持ってるみたいだし、文系に恨みをもってるのは
小難しい評論なんかが理解できなかったんだろうけど、たぶんそれは帰納・演繹あたりの
基礎的な思考能力がないからだと思うぞ。
そしたら、
というTBをもらった。
どうやら、無知は恥ずかしい、というタイトルにした方が良かったのかもしれない。
サブタイトルが暗に示すように、対話では論理的である必要は必ずしも無い。
その理由を示す。
しかしながら
だから、論理だけを使って何かを証明することができなくもない。
だけどもだっけどー、通常の対話では完全な証明を与える必用は無く
「説得」という形をとるのだ。
じゃあ、説得とはなんなのか?
人間は外部から情報を与えない場合には、「演繹」という論理ステップしか実行できない。
一方で外部から情報を与えると、「帰納」という論理ステップを実行することができるようになる。
ただし、この「帰納」というのは統計的な正しさしか保証しない。
しかしながら、人間が定理だと信じていることは、全て統計的な正しさしか持っていない。
これによって、件の命題の真が統計的に保証されれば、説得が終了したことになる。
つまり、本来は論理的である必要など無く、
外部からの情報を入れれば、あとは各自で演繹してくれればいいのだ。
もちろん、数学のようにピンポイントな仮定と、トリッキーかつ複雑な論理が必用な場合は別である。
だけれど、そんな複雑な論理構造が通常発生することはまずない。
説得が成功するかどうかは、各自の持つ公理系と、各自の持つ論理能力に依存する。
後者は、馬鹿を相手にする気がないので、私にはどうにもできないが、
前者に対してはわかりやすい説明をすることで、
説得力を増すことができる。
従って、これからはこの目的で、説明文を書くのでよろしく。
だけど、これから用事があるので
続きが読みたかったら、TBくださいね。
「スランプっていうか、よく分からんねんけど」
「それスランプちゃうん」
「いや、なんていうかそうじゃなくて、スランプってのはあれやん
一生懸命出そうとするんだけど何も出てこなくて、出せなくて、苦しい」
「便秘か」
「便秘って俺もうここ何年もなったことないからよくわかんね」
「むっかつくわ」
「そうじゃなくて、あれ、出す気がしない、頭では出したいと思ってるんだけど」
「そんなん言われてもなあ」
「なんか俺はもう出さない人間になったのかなあ、って
ほんとのプロってほんとにすごいんだよねえ。バンドとか。
俺が一生懸命書いたしょうもない文章書いてもつまらんし」
「おもしろいよ」
「知ってる」
「知ってるし、みんなに言われる」
「きもい」
「それも知ってる」
「超きもい、死ね」
「自分でもよく分からんのだけどね、確かに俺の書いたゴミで誰かの感情が動くなら
それはそれでけっこう楽しいし、嬉しいし、でもなんかよくわかんね」
「ふーんガキみたい」
「テレビない」
「帰る」
「多分終わってるよ」
「ガキみたい」
「あした大日本人見にいこうぜ」
「明日仕事」
「まじで明日月曜っすよ」
「だーかーらそういうのはもう少し早めに言ってって言ってるでしょ」
「いやなんか俺そういうのだから」
「水曜ならあいてるよ」
「仕事終わった後でいい?」
「何時に終わる?」
「多分俺のが早いから終わったら電話する」
「はいはい」
「どこ行くの」
「適当に調べとくけどなんでレディース割引ばっかりで差別うざい」
「知らんし」
「メンズデーのところ行っていい?」
「そんなんあるん」
「少ないけどあるにはある」
「エロいやつちゃうん」
「しらんけど。行ったことないけど行ってみる?」
「いやや」
「えー」
「えーちゃうわ死ね」
「寝る」
「寝るなしょうもない文章でも書いて死ね」
「おやすみ」
http://anond.hatelabo.jp/20070127150025
それって、『偽の命題をいったん真と仮定すると』じゃなくて、『どんな命題でも真と仮定したならばその命題自体は真と証明できる』ってことじゃないの?
それは、仮定は全て正しいとする、いうお約束(あるんだよね? 確か)から考えて当然そうでしょうけれど。
元記事http://anond.hatelabo.jp/20070127114923の
ってのは、「どんな」の場所的に、『本当は偽の命題を何か一つ真と仮定してしまえば、その仮定と無関係な命題も否定する命題も含めてどんな命題も真と証明できる』って文章っしょ?
『犬は猫であるは真』と仮定すれば、『砂糖は塩である』という命題も真だと証明できてしまう、みたいな(犬とは猫とは砂糖とは塩とは何か、犬と猫は相容れない、砂糖と塩は相容れない、みたいなあれこれを論理学っぽく書くのは省略)。
もっと単純にいこうぜー( ´ー`)y-~~
仮定を2つ用意します。
仮定1:AはBである
仮定2:AはBではない
この上で、2つの命題について考えてみることにします。
命題1:AはBである
仮定1より明らか。
命題2:AはBではない
仮定2より明らか。
イメージ的にはこんな感じ。
『犬は猫である』 は、それ単体では論理的に矛盾のない命題であることに注意していただきたいかと。
これを否定するような命題(例えば、「犬はイヌ科である」「猫はネコ科である」「イヌ科はネコ科ではない」)を持ってきて、
それらを同時に仮定して演繹したときにかぎり 『犬は猫ではない』 も 『犬は猫である』 も成立させることが出来るんです。
科学とはなにかて、
思うに究極的には事実の解明でありその過程で現実の単純化が行われる。その単純化された「単純化された事実」を「モデル」と呼んでるのだろうな。そしてモデルは、事実を説明する役割をする。
人間には物事を解明しようとする本能が備わってるとかよく言われるけど、俺はそうとは思わない
進化論を科学たらしめてるのは、それは生物界という現実に足がついてるからであり、ID論は創造者なんていう「現実に足が付いてない」概念を持ち出すから科学の範囲から外される。のだろう。
事実を追求するにあたり、科学は徹底して論理的でなければならない。論理とはなにかて、それは事実と論拠と主張から成り立つものであり、事実を元に、その事実をどうすれば主張に繋げられるかを説明するために論拠があり、それが即ち論理。そして、論拠と主張が即ち、事実を説明するために与えられた「モデル」に相当するのだろう。モデルから演繹された結論が事実に添えばそれはとりあえず事実を説明したと見なされるのであり、1つの仮説が出来上がる。つまり科学とは、論理を逆に辿る営みであり、事実からモデルが作られるのではなく、事実に合うようなモデルが創作されるのである。これこそが「科学は仮説によって成り立ってる」といわれる理由なのだ。きっと。(たとえばf=maは1つのモデルだが、ニュートンが「こうなってなきゃオカシーヨ」と言い出したのが発端であり、それの正しさを追求しだしたらキリがないと俺は解釈している。ただ、様々な経験則よりf=maは正しいのだろう、とされているんだろうな。相対性理論が絡むとどうなるかは知らない。念のために言っておくが、あくまで「f=ma」は演繹によって導出されたのではない、と俺は解釈していると主張したい)
だけど問題は、事実にあうようなモデルなんていくつも作れるのであり、ここらへんは詳しくはないけど心理学なんかいくつものモデルが錯綜している感がある。物理学でも、たとえばニュートン力学と相対性理論という相対するモデルが存在し、何れも事実に近似してあるので実用に耐えられないレベルではない。ただ、精度を高くしようと思ったら相対性理論をつかうとか、そういった細かな修正はある。ただ、実用する際にはニュートン力学が主に使われるので、その意味では工学は科学ではない。たぶん。
わかりにくくてすまん。勢いでかいた。あとそれから、
↓参考にした
久々に興味ある話題なので転載してまとめるよ。
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。
確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ!
と、定義できればこれほど簡単なことはない。
実際、そのような定義が正しいとは思う。
しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。
科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。
なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。
人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない
猪から豚が、狼から多種多様な犬が生まれたからといって、進化はあると言うのは紛れも無いニセ科学的な論法である。事、人間に関してはミッシングリンクなどと言う名称までつけて事の解決を図ろうとしているが、これは現在は実証しようがないと認めているに等しい行為である。
進化論をやっかいなニセ科学にしている理由に多種多様な化石の存在がある。
そして、始祖鳥を筆頭に恐竜から鳥が、魚から両生類が、両生類から爬虫類が…と言うように進化したと言われている。しかし、これを証明できるほど遺伝子工学は進歩していないし、結論は別のものであると考えたほうが遥かに健全であろう。今の段階でこの希望的観測を学校の授業に取り入れるのは間違いである。
クローン猫の事例を出せば納得してもらえるだろうか。
恐らく多くの人間は遺伝子が同一なクローンはオリジナルに極めて近い性質であると考えたであろう。
私もそう予測した。
しかし、実際は違った。模様から性格に至るまでそれは明確に別の固体のように振る舞い、一卵性双生児のように極めて近い存在とはならなかった。しかし、同じ遺伝子であることに間違いは無い。細胞の寿命に関する機能が原因ではないかとも言われているが、多くの遺伝学者、識者が予想もしなかった結論がでた。
つまり、当時のクローン技術で予測された結果は正しくはなかったと言うことだ。
科学とは証左できない存在を排除するプロセスを経て初めて機能する具体的事例をここに出した。
しかし進化論では、状況証拠から結論を予測するしか出来ない。これは間違いを必然的に孕む手法であり、何より間違いを正す手段が無い。
更に言えば、進化論を形作る多数の証拠には扱いに困る物も多い。
例えば、中国政府が北京原人は実在すると主張し続ければ北京原人は存在することになる。(証拠が既に紛失してしまったので検証しようがない)
◆進化論の背景
現在、進化論のような理論が提唱されても学会で否定されるであろう。
このような証左を求めることが出来ない存在は現在の科学では入り込む余地がない。
しかし、これは当時の時代背景を考慮に入れなければ説明できない問題である。
実は科学とはアインシュタインの相対性理論をターニングポイントにその性質がガラリと変わっている。
それまでは、科学には無限の可能性があり、明らかに出来ない事象は存在しないと信じられてきた。
しかし、このドイツ出身の物理学者が提唱した相対性理論によって、そのことが明確に否定されてしまったのだ。ビックバンと呼ばれる宇宙開闢以前の時間が存在しない『モノ』の考証を物理学は放棄した。
これは、当時の科学者には相当な衝撃であり、決して受け入れられないと考えた学者も多かった。
しかし、誰一人、論理的にそれに対抗できる概念を作り出すことが出来なかった。
(その残滓がタキオンやエーテルと言えば理解できるだろうか?)
さて、話は戻るが進化論はアインシュタインの相対性理論発表前にダーウィンが提唱した論文が発端になっている。科学が万能であると信じられた時代の遺物。まだ、科学が錬金術と近い間柄だった時代に生まれた存在である。
はっきり言ってしまえば、進化論とはアインシュタインが科学の万能性を否定する以前の学会だからこそ認められた存在であり、これは科学というより歴史学といったほうが良い代物である。
◆本文を書こうと思った背景
ちょうど大阪大学の菊池誠教授の『水からの伝言』でニセ科学が話題になっていたので常々思っていたことを文章にしてみようかと。それまでは、非常にナイーブな問題で、米国のほうではインテリジェント・デザインとかいう物まで生まれてしまうほど議論にさえならない状態だったこの問題に区切りをつけて、科学とニセ科学を明確に分けたい!という衝動から書かれた文章。
伝えたいことは進化論の科学的な証明プロセスはありえない存在であり、進化論を科学と扱うことを否定して貰えればそれでいい。
進化論が流行らせた最大の間違いは何か?と聞かれれば私は獲得形質を挙げる。
既に遺伝学的に否定された獲得形質ではあるが、
この考えが根本となり、ナチスの優生論が生まれ、多くの人間が犠牲となった。
淘汰は自然には起こらず明確な人の意志によって行われたのだ。
(追記)
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20061226222936
実はこの手の話は感情的になる人間が必ずいる。しかし、大事なことは追試をどう行えば進化論が肯定・否定されるかを彼らが提示することはないという事実だ。
私は進化論が間違いだと言っているわけではない。そもそも進化論は否定する必要さえない段階の説なのだと言っているのだ。
タイトルが釣り過ぎという指摘はその通りでございます。賢い貴方に乾杯。
07:41:09-12/27(水)/2006
インテリデザインという不正確な表記をインテリジェント・デザインに訂正
14:11:45-12/27(水)/2006
【A】に対して。
科学の中でも追試が行われ易い分野とそう出ない分野がある。これは、時間スケールが関係しているよ。長い時間をかけて出来るような、天文学や進化の関連では検証が簡単ではないものが多いです。
でも、進化でも検証されてきてる分野はでてきてる。たとえば、大腸菌を使った進化を検証したものでしょう。だから、まったく、追試が出来ないかと言えばそうではない部分も持ち合わせているようです。それ以外にも社会性の昆虫の分野の性比の問題なども進化的な検証から成果を上げていますよ。パルサー天体のようなものもあるくらいだから恐らく、天文も同じでしょう。また、検証が難しくとも現存するデータで理論が正しいかどうかを確かめる為に統計学を利用しているが、20世紀半ばの集団遺伝学を引っ張ったフィッシャーのように統計学へかなり影響を与えたような事も産まれている。
科学ってものは未解決なものをといていく事で知見が深まっていく。未解決な例を上げて、否定する論法は偽科学と科学の関連でよく使われてるが、それでは説得力が乏しい。たとえば、進化が関連しそうな未解決なものを進化的な方法を取り入れずに解けたならそれは一つの有力な考え方になるだろうし、進化を否定する事につながるかもしれない。要するに、他の方法で未解決なものを説明する試みをしてみないと行けないです。もちろん、インテリジェントデザインのように、超自然的な存在がそうしたのだ。と一言で言われたら、変わりの未解決問題の解決説なのかもしれないが、ここで大きな問題は、超自然的な存在を持ち出す事によって、ブラックボックスを常に作ってしまう事にある。
このブラックボックスってのは、何か都合が悪い事があれば、超自然的な存在の影響だと言う捉え方も可能だし、逆に良い事があってもです。そうする事によって、それ以上の知見を求めない事に問題があると考えていますね。もし、超自然的な存在がいたとしたら、知見を深める事をタブーとはしないと思うけど。倫理的な問題はちょっと別だが。思考を止めて盲目的に信じる事がどのような事に通じるかそれは書かなくてもわかる人が多いだろう。
ただ、偽科学と科学の間にある対立で残念なのは、相互理解が全くないところにある。偽科学だと言われてるものたちが科学(=科学的手法)に対して誤解があるし、科学者が偽科学に対して攻撃的なだけのことも多い。科学じゃないけど、感情的な理解を少しはしていかないと理解はされない。情緒と論理の間の対立のようなものだ。ただし、科学への誤解が解ければ、おそらくニセ科学の多くは科学の顔をしないようになるだろう。
【A】に対して。
そもそも一卵性双生児の性格がまったく一緒かというと、そんなことはないわけで、つまり性格は遺伝要因と環境要因のうち後者の影響が大きいと考えられます(通常は似たような環境で育つので近いものになるとは思いますが)。昔の人はいいことを言った。「生みの親より育ての親」
模様については以下を参照のこと
http://plaza.rakuten.co.jp/kemusiro/diary/200608170000/
素人考えで性格も模様も一緒になるはずと考えるのは勝手ですが、みんなもそう思ってたと考えるのはどうかと思います。どちらも知識さえあれば事前に予測できたことです。昔の人はいいことを言った。「下手の考え休むに似たり」
以下蛇足。
この手の文章を読むと、だいたいどういう方面の人かというのが分かるのだけど(インテリジェントデザインがキリスト教右派の主張の焼き直しにしか過ぎないことがバレバレなように)、この文章はどうも分からない。分からない原因は対立概念が書いてないからだと思うのだけど、「進化論」がニセ科学だとするならば、人間その他の生物はどのようにして発生したと考えているのでしょうか。そこを詳しくききたい。
俺にとって「反証可能であるか」「追試可能であるか」どうかなどどうでもよく、
血液型性格判断も、マイナスイオンも、ゲルマニウムも、水への言葉も
「ナゼ」「どのような仕組みで」と言う部分をすっとばしているから「科学ではない」ではない。と言いたい。
「理由はよく分らないのですが、こうするとこうなります」
ではただの経験則であって、万人に通用するかは分らない。
「B型は身勝手だから」「マイナスイオンは体にいいから」「水が人の心(の波動)を受けるから」
全て「どのような仕組みで」をすっ飛ばしている。
だから『科学ではない』これではいかんのか。
ひとつの理由。
偽者と本物が同じ土俵に立つわけにはいかない。
同じ土俵に立って戦えばピエロになるだけ。
科学とはできないを突き詰めるもの。
可能性を夢想するものではない。
科学は万能などではない。
我々にはできないことの方が多すぎる。
だから前提条件が必要なのだ。
空を飛ぶ為には人間が両手を広げてブーンと言うだけでは飛べない。
これは前提条件だ。
「人間が飛べない」というものを証明したものではない。
同じ論点で、宇宙人がいないと断言するのは間違っている。
「宇宙人は少なくとも確認されていない。」
科学からすれば、それ以上でも以下でもない。
それを「居る」と断じる人たちと戦おうとするのが間違っているのだ。
「居る」「居ない」で戦おうとする人たちに
「いまは確認されていないのでは?」と問う声は届かない。
すべてはおまじない程度の可能性。
すべての可能性は否定はしない。
テレビが映るのを不思議と思わないのに幽霊を見るのは特殊な才能だと思っている。
そんなアンテナ感度の違う人たちと同じ土俵で戦えるわけがない。
仮説にもなっていない言説ということなんでしょうか?
かせつ 0 【仮説】
〔hypothesis〕ある現象を理論的に統一して説明するために立てられた経験科学上の仮定。その真偽の検証は、仮説から必然的に演繹(えんえき)された諸命題を実験や観察によるテストで確かめることによってなされる。検証された仮説は法則や理論として公認される。