はてなは、理屈っぽくて、議論大好きな人が多いところが好きだ。
でも、論理と理論をごっちゃにして使っている人がいると、がっかりする。
がっかりは言いすぎだけど、せっかくの熱弁もこれひとつで台無しだと思う。
「え、その違いがわからずに議論してるんですか?」
「もしかして、普段から、自分の議論が論理的に正しいかどうか、全然判別できずに議論してませんか?」
と、疑惑の目を向けたくなってしまう。
検算ができない子に、この計算がここで間違っていると指摘しても、
その子は自分は正しいと言い張るかもしれない。
論理と理論をごっちゃにしている人に対して、僕は同様の疑念を抱いてしまう。
もし、こちらが、あちらの論理の間違いを指摘しても、相手は理解できず、
お互いに気分を悪くして、議論が終わってしまうのではないかと、すこし不安になる。
ごく簡単に言えば、
理論は、ある結果(現象)が起きる因果関係を説明するモデルだ。
以下、演繹、帰納、理論について、もう少し詳しく説明してみる。
アリストテレスは人である。人はいつか必ず死ぬ。よって、アリストテレスはいつか必ず死ぬ。
こういうのを演繹法という。「アリストテレスは人である。」「人はいつか必ず死ぬ。」この2つが事実であって、
事実から、「アリストテレスはいつか必ず死ぬ。」という結論を導き出している。
つまり三段論法というのは、A=B、B=C、よってA=Cのことだ。
(これ、イコールじゃなくて、包含関係で説明するのが本式だが、そこは省略する)
なお、演繹法では、事実とした事柄が、実は、事実ではない場合、
当然ながら、結論が間違ったものになることには、注意が必要だ。
帰納法は、多数のサンプルとなる事実から、共通して言えることを結論とする方法だ。
A猫は4つ足で歩いていた。
B猫も4つ足で歩いていた。
C猫も4つ足で歩いていた。…と可能な限りのサンプルを集め、
サンプルとして集めた猫が、全て4つ足で歩いていたなら、
「猫は4つ足で歩く」という結論が導き出せる。
帰納法では、少なすぎるサンプルから結論を出したり、
サンプルからは言えないことを結論にしてしまったりすることに注意が必要だ。
理論というのは、ある最終的な結果が起こるための因果関係の説明だ。
因果関係というのは、原因(の現象)と結果(の現象)の1セットのことをいう。
レシピの詳細は省くが、
シチューという最終的な結果は、
人が、包丁、まな板、鍋、火などを使って調理することで起きる。
順番を間違えるとうまく結果が出ない。因果関係に則っていないからだ。
シチューが生まれる過程を簡潔に説明し(無駄な現象を捨象するという)、
シチューを作る上で、あまり重要ではないことが書いてあるのは、上手な理論ではない。
(たとえば、調理中にキッチンにゴキブリが出たら、すぐさま潰してください、とか。)
ここまで説明した「理論」というものは、論理によって構築される。たとえば、帰納法を使って、
おいしいシチューAには、肉が使われていた。
おいしいシチューBにも、肉が使われていた。…と、
自分がおいしいと思うシチューのサンプルを集めていき、全てに肉が使われていたなら、
自分がおいしいと思うシチューを作る要素のひとつは肉であると結論づけられる。
また、どんな理論も仮説だ。仮設と言い換えてもいいかもしれない。
理論とは、ある結果に至るプロセス(因果関係)を説明したものに過ぎないので、
いずれ、もっと上手にそのプロセスが記述される可能性があるからだ。
こういったことは、議論をする相手には、ぜひとも知っておいてほしいよなあと、思う。
自分の書いている文章の論理展開も、気にしながら書いてほしいよなあ、とも思う。
あらゆる現象を完全に説明できるたった一つの理論というのも、未だ発見されていない(そして、たぶんない)。
だから、お互いに指摘しあって、修正しあえるのが良い。
そのためには、少なくとも議論する人同士が、前もって、
とんでも理論は論理的ではないw しかし、理論と名をつけてもいい。
http://anond.hatelabo.jp/20080316210124 ブクマありがとう。どんなものでも反応をもらえるのは、やっぱりうれしい。 読み返してみると、たしかに省略が多いかもしれないと思う。 かといって...
チベット問題に対する中国への抗議で、増田として出来ることってなんだろう? ・チラシを作って電車の広告のところに貼っていくとか? ・チベットの動画ファイルをエロいタイト...
少し違う気がする。 明確に2つ、違和感を感じる所があった。 一つ目は、論理と理論の違いについて。 二つ目は、論理と理論の違いを分かっていない人への対応。 といっても、論理...