はてなキーワード: 法則とは
有能?それはなんかの冗談?
利益の80%は20%の有能な人が稼ぎ出すって風に使われるんだが
その上位20%以下の60%は居ても居なくてもいい人、下位20%は居たら有害な人とも言われる
ただ、だからって下位20%を全部切ったところで、結局20%の有害な人が出てくるもんなんだけど
で、居ても居なくても良い60%に入る人なら運不運って物もあるが
そうじゃない有能な人は、多少運が悪くても自分で選ばない限り氷河期なんかとは無縁だったよ?
まぁ企業で総務か人事のみで40代を越えた後に企業が廃業なり倒産なりして
コネの一つもない状況ならどうにもならなくなるかもしれんが
「自然界で起きている事だからそれが正しい、或いは優れているのだ。よって自然界に存在する行為を為せない人間は劣っていて当然」ってバッカじゃねーの。
動物行動学・行動生態学の発展の中で、子殺しの行動が見直しをされるようになったきっかけは、インドのサルの一種であるハヌマンラングールの例である。
このサルは、成獣の雄が多数の雌の群れをハーレムとして持ち、雌たちとの間で子供を作る。群れで生まれた雌は群れに残るが、雄は群れから出て若い雄の群れを作る。成長した雄はやがてハーレムを持つ雄に攻撃を仕掛け、勝てばハーレムを所有するに至る。この時、群れを乗っ取った雄は、その群れの雌が抱えている乳児を、全て食い殺してしまうというのである。これは突発的、異常などではなく、群れを乗っ取った雄は必ずこうするのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E6%AE%BA%E3%81%97
コレを人間社会に当てはめると、結婚する相手に連れ子がいた場合は、その子を殺す事が優れた行為であり、よって連れ子を殺す人間が優れているということになる。
つまり「子孫を残せない方が劣ったマイノリティーなのは必然だよ。生物の種の保存の法則から言えばね。」とかほざく人間は
上のような「連れ子を殺す人間が優れていて、連れ子を殺さない人間は劣っている」という価値観であるわけだ。
じゃあいいです。俺、別に劣っていても、連れ子を殺す事が立派なこと(優れていること)だと思わないので。それは価値観の違いですね。
で、もしこの行為が「優れた行為ではない」と主張するならそれは何故ですか?普通に自然界に存在する行為なのに何故それを否定するんですか?
コレを否定するというのならそれは、自然界にある行為や事象の中から自分の価値観に添った物のみを恣意的に持ち出して、なんだかよく分からない「自然科学」という権威をちらつかせて、自分の価値観を正当化してるだけという事です。そしてそのような言説を撒き散らす人は所詮、自分の価値観を権威にすがることでしか主張、説得することが出来ない怠惰な無知蒙昧の軟弱者だということです。
http://anond.hatelabo.jp/20090103145547
http://anond.hatelabo.jp/20090103152239
しかし老人なんて、生物の種の保存の法則から言って劣悪なマイノリティーなわけで、
そんな連中に「社会秩序の維持」という重要な仕事を任せてもいいんでしょうか?
あと、二人の男が一人の女を奪い合ったなら、女はどちらの男ともセックスをするのが、
どうしてそうならないんでしょうか?
とっくに子どもを産めなくなった老人が絶大な権力を握っていたり、
この手の社会ダーウィニズム的言説が疑似科学だという反論は増田でも何度もなされているのに
なぜ性懲りもなくこういう主張を行う奴が現れるのだろう?
参考:http://anond.hatelabo.jp/20080327221759
生きるために食べること、寝ること。交尾をして子孫を残すこと。これらは生き物として最低限の活動であって
その「最低限の活動」を全うできない個体が「劣っている」と評価されるのは至極当然のことだと思う。
とっくに学問的には否定されてる社会ダーウィニズムを信じている馬鹿がいつまでも淘汰されないのはなんでなんだろうね。
その、進化論的文脈でいう「劣っている」とか「優れている」は「繁殖」という一面に着目しての評価だから、あんたの言ってる「繁殖力の優れた個体は(繁殖力に)優れている」ってのは単なるトートロジーなの。そんなことぐらいちょっと考えればわかるだろ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/01/post-d30b.html
前節で述べたように、量子力学が非決定論であるということの意味は、個々の選択機会における結果が予見できないという意味である。このような選択機会のアンサンブルを考えると、その結果の分布は、完全に決定論的な法則によって記述される。
このことから、たとえ、量子力学が、自由意志の起源にはなり得たとしても、その自由意志は、本当の意味では「自由」ではない。何故ならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。
このことについて、第6章で紹介した「中国語の部屋」(Chinese Room)の議論を提出したサール(Searle)はその著書「心、脳、科学」の中で、明確に述べている。
たとえ物理的粒子の振舞いの中に何らかの不確定性の要素があり、その予測は統計的なもののみによって可能であったとしても、粒子の振舞いの予測が統計的にのみ可能であるという事実からは、人間の心がその統計的にのみ決定された粒子に命じてその本来の経路から外れさせることが可能であるという事実が帰結するわけではありません。それゆえに、この統計的不確定性という事実のみから人間の意志の自由の可能性は生じ得ません。要するに、不確定性という事実は、人間的自由が持つ何らかの心的エネルギーが分子を動かし、それがなければ別の方向に行っていたはずであったその分子の運動の方向を変えるというようなことが可能である証拠にはならないのです。
よりあからさまに言えば、量子力学に基づく自由意志は、次の「アンサンブル限定」(ensemble restriction)の下にあることにある。
アンサンブル限定(ensemble restriction)
個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、このような選択機会のアンサンブルを考えると、その全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。
アンサンブル限定の付いた自由意志においては、個々の選択機会については、あらかじめその結果を完全には予測できないという意味でそこには「自由意志」が存在するように見える。だが、同じ様な選択機会の集合(アンサンブル)を考えると、そこには決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できるのである。
あなたが、ある瞬間に意志決定を行うとしよう。その選択肢は、AかBかという簡単なものでも、あるいはもっと複雑なものでも良い。あなたの意志決定が量子力学的なプロセスに基づくものであるとすると、その瞬間の意志決定の結果が、どのようなものになるかは、あらかじめ予想することはできない。現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想することは不可能なのだ。これが、量子力学の非決定性である。
さて、そのような意志決定を行うあなたの「コピー」を沢山用意したとする。これが、すなわちあなたのコピーからなるアンサンブルだ。このアンサンブルの中の、ある特定の「あなた」の選択は、上に述べたような理由で予想することはできない。しかし、全く同じような「あなた」のコピーからなるアンサンブル全体としての振る舞いは、完全に決定論的な法則で予測することができるのだ。
必ずしも正確とは言えない比喩だが、一人一人が何歳で結婚するかという問題を考えて見よう。私たち一人一人は、何歳で結婚するかを、自由意志に基づいて決定していると思っている。確かに、ある人が何歳で結婚するかは、完全に予想することは不可能である。だが、社会の中のこのような人々のアンサンブルをとってくると、人々が確率的に何歳で結婚するかということについては、厳密な社会科学的な法則が成立するように思われる。アンサンブル限定のついた自由意志は、たとえて言えばこのようなものだ。つまり、個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由はないのである。
あ、全世代と比較して?ごめん、同じ学歴・年齢で研究者の道に進んでも、1000万取れるって思われているのかと思った。
同じ大学卒・年齢で比較したら、研究職コースは、高いほうじゃないと思うよ。究極的には、企業から見て、「研究したい」って人と「開発したい」って人、どっちの方に金出したいかっていう話だと思う。現に、自分の周り見ててもそうだもん。とにかく、「研究」こだわると、給料が下がるのは確実。「開発したいです」「技術を生かしたいです」「人の役にたちたいです」って言うと、給料が上がる。
それから、「研究職」なら、どこでも自分の好きな「研究」が出来るかというと、そんなことは全然ない。極端な話、何でも「研究」って呼べるからね。「学問的には、使っている原理/法則が全然新しくないから、研究してもいい論文にはならないけど、商品開発の上では必要なこと」に携わる人も、企業だと、普通に「研究職」って呼んでいるところが多いと思う。本当に自分でテーマ決めて、商品開発ではなく学問的に新規性のある「研究」を行えるところは、いわゆる「企業の研究職」でも、極限られていると思う。
後は、「研究者の給料」って言って、大学教授を引き合いに出すのは例外的すぎ。まず、せめて40代にならないと、なれないじゃん。20代の話でしょ。20代なら助教か、運が良くて講師でしょ。それに、大学教授になれるのは、今20代の人の年代では、本当に極々一部の人だよ。今、助教をやっている人でも、一生大学教授になれない確率の方が高いはず。
そりゃ、大学教授は、年収1000万もらっている。ただ、理系で大学教授になれるような人は、同じ努力で、医師になれた人が大半だと思う。医師と比較すれば、大学教授のほうが給料は低いでしょ。それに、大学教授は、給料自体は固定。頑張っても年収があがる仕事じゃない。だからといって怠けていると、研究費が来なくなって本当に研究ができなくなる。
一言で言えば、やっぱり、給料というのは、社会的ニーズを反映しているんだよ。大学院にいると、世間は「研究したい人」なんか本当は欲しくなくて、「便利なものを作ってくれる人」や「問題を解決してくれる人」を欲しているんだなぁ、というのがよくわかる。だから、研究や論文にいそしむより、商品開発や特許にいそしんだ方が給料が高くなるように、この世の中は出来ている。
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。
それぞれが並列的に書いてあるのが気になるけど。
なぜ、ブロガーは専門外のことを書くのか。
(中略)
4.時評:新しいことについての記述は、専門外/内であるに関わらず、「だれもまだきちんと考えてない話」として話す価値があると思うから
これは痛い。
2ちゃんねるなら「このニワカが」と嘲笑される。
専門外の人が思いつくような立論や論点はとっくに専門家が検討済みで、下手するとノーベル賞とってたり「○○の定理」とか名前がついてたりする。ハズカチー。
いや、通説・判例を語るくらいならまだましとして(今思いついたように語るのは痛いけど)、物理法則・成文法など現実的制約をいっさい無視するトンデモ学説とかを語りだすと最悪。2.の啓蒙についてもまた同じ。
そんなものがあるような気がする。
隣国との確執についてあえてマスコミを使って取り上げ、国民の不満を政府からそっちに逸らすという、まつりごとのコツっていうやつがひょっとしたらあるのかもしれない。逆にスケールの小さいプチ役人的な組織にも犠牲になってもらったり(NHKやJASRACがそれ)。まんまと政策にハマッているようでなんか癪だ。
これって多分、どこの国でもとっている手法かもしんない。
私の主張をまとめるとこうかな。
1.その内容が「本当に正しい」と分かるには、個人で考えた内容だけでは足りない。
本当に正しいのであれば「誰に確認しても同じ答えが出る」はずである。
他の人が「本当に正しい」かどうかを調べる行為をここでは「確認」と言う。
2.「自分で考えた内容は正しい」と最初から決め付けてしまうのは早すぎる。
その内容は「自分の知識に基づいて出た答えの一つ」でしかなく、その考えで押し切る行為は「違う視点から矛盾が出る可能性」を捨てている。これでは論理的思考をしているとは言えない。
3.議論のほとんどが「結果が出ないと分からない事」で議論する。
誰しも分かりきっている内容なら、確かに個人の判断で済ませても正しいと言えるだろう。
だが、最初から内容が分かっているのなら議論はしない。 答えが分からないから自分以外を巻き込んで議論する。
その議論で「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」というのはやっぱり論理的思考とは言えず「誰が考えても同じ結果」が出るであろう答えを見つけようとするのが「論理的思考」だ。
4.「落しどころをお互いに考える」のを「政治的理由・妥協」で決めてしまうと確かにそれは論理的思考ではないが、「お互い考えた内容が本当に正しいのかを確認し、より正しい方に精度を上げる」という形であれば、それは立派な「論理的思考」だ。
例を取ると、科学研究者がある法則を発表して、その内容が正しくないと思った世界中の研究者たちはそれを同じ手順で「確認」してみる。
結果、ほとんどの科学者の結果が同じであれば、初めて「それが正しい」と分かる。
の答えがこれに当たる。
x.実際の所、ほとんどの人が「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」という方法が論理的思考だと思って行動する。
だがしかし、それはただの言い争いで論理的思考とはかけ離れている。
論理的思考に「自分が絶対」などという「私情」は含めてはいけないのだ。
自分の考えを疑うぐらいが論理的思考には重要、それは矛盾を排除し正しい答えを導き出す唯一の方法。
ふぅ・・・とりあえずこんな感じ。
先にいっておくが、これは論理的に正しいものではない。
まぁ、私のまとめも論理的に正しいものではないんだよね。
どちらが本当に正しいかは、行動した結果次第という事になるんで、下手するとどっちも正解とかどっちも不正解とかもありえる。
ってシメとくけとこんな感じでいい?
だって一行ごとに変なこと言ってんだもんよw
村の掟とかのレベルまで制度に含める気か?
そりゃ含めるだろ。でないと近代法治国家が成立するまで婚姻制度がなかったってことになっちゃうぞ?
西洋では擁護されるべき「子供」という概念が発明されたのは、産業革命の後。
性的自己決定能力があるかどうかは、かつて社会が14歳をどうみなしていたかとは独立だろw
ニュートンが発見する前から万有引力の法則は成り立っていたんだぜ?
相手の意思がそこにあるか無いかの判断基準。それだけ。
恋愛結婚以外では本人の意思はない、というのは十分にイデオロギッシュだと思うぞw
頭悪い子? 彼がどういう情欲を抱いていようがそんなこととは関係なく、別にキモくない、と言ってるんだが。
根拠にもなんにもなってねえw 少なくともかつては立身出世のために幼い娘を使う親は結構いただろうな。
忘れないうちに調べてみた。
% diff host.old host.txt | grep '[<>]' | sort > d2.hatena.ne.jp > ugomemo.hatena.ne.jp > url.hatena.ne.jp
新サービスうごメモと、漏れていた d2, url を加えた。
% diff resolve.old resolve.txt | grep '[<>]' | sort > 59.106.108.80: d2.hatena.ne.jp. > 59.106.108.91: url.hatena.ne.jp. > 59.106.108.94: ugomemo.hatena.ne.jp.
今回は 59.106.108.64/27 だった。59.106.108.96/27 との使い分けに何か法則があるのだろうか。
消したようなのでバックアップしておく。
http://anond.hatelabo.jp/20081216205541
僕の周りにいる人間はみんな馬鹿でして、ああこいつなんて頭が悪いんだと思ったことは数知れず、いや、数はどうでもよいのですが、僕が人を見下すことにかけてずば抜けた才能を持ち合わせているのかについて多少書いておこうかと。
小学校に入学したときから卒業するまで、ずっと「今学期先生にクラスみんなの前で名指しで何回褒められたか」を数えることを欠かしませんでした。授業中積極的に手を上げた、1回、進んでクラス委員を引き受けた、1回、今学期は12回だったので前より減ってしまったな、とこのような調子でした。クラスみんなの前でというのが大切な条件であり、例えば班を組んでいる中で褒められたものは数に含めません。どのように振舞えば先生に褒められるか考え、意図した行動で褒められればよしやったという気分になりました。3年生と4年生のときには、帰りの会でその日のクラスメイトの善行を褒め非のある行いを諌める制度がありまして、そこでもできるだけ僕の名前が出るよう、音楽の時間には楽譜の読めないクラスメイトのために楽譜にカタカナのド・レ・ミを振ってやったり、給食係の後片付けを手伝ったり、分度器を2セット持ってきて忘れたクラスメイトに貸し与えたりと、さまざまな恩を振りまいていました。恩のパターンを増やしてできるだけクラスメイトが僕を褒めやすくするよう気をつけ、また適度に僕もクラスメイトのよかったところを褒め、褒められてばかりの状況にしないよう気をつけました。おかげで先生の僕に対する心証はすこぶるよろしく、三者面談ではクラスの中心になってよく頑張っていると必ず褒められ、毎学期の通信簿も上々の出来でした。いや、さすがに小学生の僕でも意図してここまで厭らしく点数稼ぎを行っていたわけではなく、どのような振る舞いをすればよく見られるのかということを意識しないまでも身体に染み付け、そう振舞うように僕は自律していたのでありました。
僕が勉強しなくてもよい成績を取れることに気がついたのは中学生の時分でありまして、テスト前に1週間くらい勉強すれば普段はなにもしなくても簡単に高順位が取れる、勉強時間では周りの生徒より少なかったかもしれません。そのころは親や先生や友人にちやほやされて気をよくしていたものですが、高校に入ってからは同じやり方で学年トップが取れるようになりまして、周りの皆様は僕のことをさらに頭がよいとみなすようになったものですから、すっかり天狗になってしまい、それと同時に頭がよいことは僕のアイデンティティであり触れえざる自尊心のよりどころとなりました。これで周りの人間と普通に接することができれば僕は普通の秀才君になれたのですが、元より卑しい性根の持ち主ですから、必死に勉強して自分より成績の劣る生徒を見下すことに快楽を覚えるようになって、それでもその卑しい性根を表面に出さなければまったく問題のないことなのですけれど、そんなことできるわけもなく、勉強の話になるとどうしても自分を売りたくなってしまいます。河合塾の模試で全国20位くらいになったときが絶頂期でした。教壇の前で先生から模試結果と図書券をもらった日には、一日中にこにこと気色の悪い笑みを浮かべ、友人が僕に模試の話題を振ることをまだかまだかと期待していたのでした。そんなことをしながら僕は自尊心をさらに肥大化させるのですが、臆病な自尊心と尊大な羞恥心といったところでしょうか、恥をかかされることを極度に恐れ、周りもそれは察していたようで何か壊れやすいガラス細工の置物のように僕を扱うようになりました。
それなりによい成績を維持し続けることができたので、大学も難関と呼ばれるところに合格し晴れて入学、さあ知の世界とやらにはどんな人間が集まるのかと期待していたものの、1年くらいたつと、あれっ、どうも違う、こいつらは自分と同じくらいの学力のはずなのにどうにも頭が悪いらしいと感じるようになりまして、そうなるとさあ持ち前の腐った性根の出番だ、友人との会話にちょっと難しい言い回しを使ってみたり、アーレントだとかフーコーだとか少しかじっただけの知識をべらべら披露してみたり、そうすると友人は僕のことを頭がいいと尊敬するようになるので、僕の悪癖は余計に拍車がかかるのでした。小難しい言い方をするやつは頭がいいと見せかけたいだけで本当は馬鹿だなんてよく言われますが、これは案外あたっているような気がします。
大学生はみなTOEICを受けるというので僕も受けてみところ、1回目は何も対策を採らずに740点くらい、世間では皆様が730点を突破するのに必死こいているのに僕は易々と通過してしまい、2回目は3日勉強して830点くらい、何だ簡単ではないか、TOEICが難しいといっている連中は馬鹿ではないのかなどと今でも思っているのですが、とにかく程ほどの得点が取れたのでTOEICには飽きてしまいました。TOEIC830点なんて何のことはない、実はTOEICで流れてくる英語が聞き取れるだけで、普通の英語は英会話教室の教師のようにゆっくり話してもらわないと聞き取れませんし、会話などできるわけもなく、外国人の教官に質問するときはあらかじめ質問文と対応を考えておいてそれをそのまま述べるという情けない有様でした。それでいてリスニングやスピーキングの特訓をして英語力をつけようともしないのです。なぜならばれて恥をかく心配がほとんどないから。己が羞恥心それだけが汚されないために勉強してきた人間なのです。そのような恐れがなければ当然努力するはずもありません。
僕の怠惰な性格はとうとう大学へ通うことすら妨げるようになりました。と、ここで疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。「大学へ行かないで引きこもるのは恥ではないのか?」そこは舌先三寸、まず「自殺したい」と言って心療内科にかかって抗鬱剤などを処方してもらい、家族や教官に「鬱になった。医者に薬を出してもらった」などと言えば、大概は「無理をしてはいけない、しばらく休むといい」と心配してもらえます。最近はこのように鬱でもないのに医者にかかって「自分は鬱だ」と言い訳をする人が増えているらしいのですが、自分の両親は落ち込んだ表情と声色を使って「鬱で死にたくなった」と言っておけば簡単に信じ込むことは心得ておりましたので、当初の見込みどおりに鬱を装い実家へ帰省、こうして日本にまた一人のニートが誕生したのでありました。いや、人を騙すのは簡単だ、両親が二人とも馬鹿でよかったと、そんなことをたまに考えることがあります。
未だに僕の邪悪な性根、穢れた精神は誰にも知られておらず、嫌味なやつと思われることはあってもここまで腐りきっていることは誰も想像できないでしょう。裏表のある人なんてのはかわいいもので、外見は変哲もない人間、中を見たら中はダニ、ゴキブリ、ハエ、蟲、蟲、蟲、糞便、尿、吐瀉物、血液、汚泥、悪臭、ありとあらゆる汚物が満ち満ちており、誰も想像しえぬほどの穢れた、醜く、忌まわしき、獣の、ああ、言葉では言い尽くせないほどの本性を僕が隠し持っていると考えるだけでも、気持ち悪い、殺したい、殺したい、殺したい、なんとかしないと。
鏡で自分の顔をずっと見つめていると段々おかしな気分になってきて、鏡に写っているのは本当に自分の顔なのか、実はそうでもないような気がしてきて、そんなはずはないのだけれど、物理法則は絶対のはずなのだけれど、頭の中が掻き回される感触、ぐるぐる、ああ気持ち悪い、見ていると吐き気がする。
少し落ち着きました。ついでにネット上での活動も懺悔ついでに書いておきましょう。一丁前にウェブサイトやブログも運営しておりまして、そこでもまた例のごとく、どこかで聞きかじった知識をつぎはぎしてさも自分で考え出した理論であるかのように雄弁を、そうネット上では雄弁をもって披露していました。それらしいことが書いてあるので馬鹿がどんどんブクマしてくる、まともな人が見れば「これはひどい」タグをつけるところでしょうが、若干のアカデミズムをちらつかせておけば文盲を引き付けることは十分容易いのです。「こいつら本格的に馬鹿だなあ、これでネットリテラシーとか言ってたりするのかなあ(笑)」などと思いながら、一方では人がたくさんいる掲示板を首尾よく荒らす方策などを練っていたり、はてなにいくつかアカウントをつくって気に入らない記事にネガコメ攻勢をかけるなど、裏ではネットの荒れ模様を作り出すことに労力を費やしていました。2ちゃんねるで6年くらい続いていたスレッドを糞スレ化することに成功したときは快感でした。FAQに載っているような質問をパターンを変えてしつこく繰り返す、自分で投稿した質問に対して「テンプレ読め、ぼけ」などの煽りを入れるとたいてい誰かが加わってくれます。自作自演と見破られないように手を変えながら同じことを、徐々に間隔を詰めて繰り返し、返答の煽り具合も過激にしてゆけば、次第に通常の質問でも荒れ出しついに人がいなくなってしまうという手法でした。かなりたくさんの人数を操作できたので非常に満足しました。よもやあの○○さんがこんなことをしているとは思わないだろう、あはははは。
ネットは僕の本性を活かすには恰好の舞台でありました。リアルな僕の存在を知られる可能性は警察沙汰にならなければ限りなく0に近いので、僕は本性に従った行動をほぼ無制約に起こすことができ、それは大変素晴らしい所でした。甘美。エクスタシー。こんな馬鹿げた駄文も匿名でなければ流すことはできないわけでありまして。
人間はみな、かくも恐ろしき二面性を持ち合わせているのでしょうか。僕はいつからか自分の本性に薄々感づいていましたが、自分の内面を覗いてみたついさっきはっきりそれを自覚したため、言葉にして綴ってみたら気持ちの悪い感覚が離れず、自分の身体の中はどうなっているのだろうか、本当に筋肉があって臓器があって人間の身体なのだろうか、皮膚を切ってみたら肉は少し見えたけれどバラバラにしないと本当のことはわかりそうにないので、しかし自分でバラバラにして自分の目で中を見るような器用な技は持っておらず、諦めるしかないのかなあ。考えれば考えるほど、螺旋の階段を下りるように、闇の底へ、もう戻れない、何もないのか、いつまで続くんだこれは。
東京およびその周辺の人は、エスカレーターに乗るとき、左側に乗るよね。
大阪では右だよ、とか、国際的には右に乗ることが多いらしいよ、とかは、この話ではどうでもいい。面倒なので、大阪周辺とか東京と大阪の間にあるところ、東京より大阪の方が近いところは置いておこう。
エスカレーターの片側に乗るのは、片方は普通に乗る人、もう片方はエスカレーターを歩く人、と言う風に決めておけば歩きたいのに前の人が止まっているので歩けないって事態を防げる。そういった気配りのためのルールだ。
片側に乗ったり歩いたりするのはエスカレーターに負担がかかるとかは、この際どうでもいい。
特に東京では、混雑したところでも、エスカレーター片側ルールを徹底しようとするので、エスカレーター周辺で人がごった返した状況がよく見られる。ルール破って両側に乗った方が結果的に流れがスムーズになるんじゃないの?と思うような、目的と手段を取り違えた悲惨な事態になっている。それに物申したい気持ちもあるが、それもこの際どっちでもいい。
私は今、大阪よりも明らかに東京寄りで、東京と大阪の間にはない地域にある地方都市、仙台に住んでいる。
仙台でのエスカレーターの乗り方を見ていると(意識的に左側or右側と決めている人もいるだろうが全体を見ると)基本的にフリーダムだ。
どうしてなんだろ?と考えてみた。
あまり急がない人の多い地域?他人に配慮できない人の集まる地域?いや、違うなぁ。
私のたどり着いた結論は「エスカレーターの片側に乗りましょう、と決めると歩く人が歩きやすい」ということに気づいていない、だった。
・エスカレーターは、歩きたい人もいるんですよ
・両側に乗ってたりしたら、歩けないんですよ
→だったら、歩かない人は片側に寄ればいいんじゃない?
ただ、これだけの話。気づく人なら、小学生でも気づきそうな話。けど、気づかないんだと思う。
別に、仙台人をバカにしてるわけじゃない。こんな簡単なことでも、人間は案外気づかないもんなんだよ、と私は思うわけ。
こんな単純なことだが、気づくためには、まず、歩きたい人がいることを理解しないといけない。そして、歩けないことを理解しないといけない。一番気づきやすいパターンは、自分が歩きたい人になって、歩けないことを体験することだ。が、そうでなければ、
歩いてる人がいることを理解し、歩けないことに気づき、その2つを結びつけなきゃいけない。
そして次に、それを、じゃあどうすれば解決できるだろう、と疑問に思わなければならない。
このような極めて単純なことであっても、何かに気づくこと、気づいたことを結びつけること、それを疑問に思い解決法を考えようとすること、その3つのプロセスを経るのは案外難しい。
大学の先生で、講義で主に黒板を使い、写真を見せるときはOHPを使う先生がいる。
その先生は丁寧に板書をし、終わってしばらくしてから学生の方を見ながら説明をし始める。講義を受ける人のことを考えた、非常に上手な講義だと思う。
だが、その先生がOHPを使った後、OHPをしまわないから、それが非常に邪魔で黒板が見えにくい。
それだけ丁寧な講義をしてくれる先生だ。気づいていたら、OHPをどけるくらいのことをしてくれるだろう。つまり、その先生は気づいていないのであろう。
・OHPでかい
・邪魔で黒板見えにくい
→どければよい
ただこれだけのこと、と思うかもしれないが、気づかないものなんだろう。と、私は思う。
http://www.tanteifile.com/newswatch/2008/12/09_01/index.html
http://zarutoro.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/tbs-d116.html
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50751049.html
偏見っていうのは、今まで漠然と例えば愛知県の人に会うたび「こいつもエビフライばっか食ってんだろうな」とか思うようなことだと思っていた。いや、つーかそれもまあ偏見なんだろうが、実際にはそういうストレートな偏見は意外と見られなくて(あまりに偏見偏見しすぎていて本人が「さすがに」と意識するから)、もっと重大な偏見は実はもっと廻り回ったところにあるんじゃないかと近頃思い始めた。
愛媛県人と愛知県人と飯くいにいって、二人ともエビフライを頼んだのに、「やっぱり愛知県人ってエビフライ食べるんだな」とか思ってしまう感じの偏見。隠れ偏見。最初からストレートにそうだとは思ってないけど、刷り込まれたある偏見法則が、その法則が正しいことを証明するためにネタ・アラ探しをしてしまう感じ。愛知県人には最初から「エビフライくってんじゃねーのか?こいつ?」って目で見ているから、愛媛県人と同じ数だけ食べていても、より記憶にひっかかり、「やっぱエビフライくってんだ」と安易に結論付け、知っていた偏見が証明されたことに安堵してしまう。という感じ。この偏見は、下手に「自分でちゃんと裏づけをとった」感が(実は違うけど)出てしまうから、余計に「偏見だ」と自身も自覚ができず、ストレートな偏見より妙に強固になってしまい、更にその偏見がまた偏見を生むという構図になりがち。
偏見というと「○○は××なんだろ」というストレートなものばかり想定してたけど実はこういった偏見の方が面倒臭いよな。
こういう現象に対して、なにかいい言葉があったような気がするんだけどそれが思い出せなくて歯痒い。なんだっけ。