私の主張をまとめるとこうかな。
1.その内容が「本当に正しい」と分かるには、個人で考えた内容だけでは足りない。
本当に正しいのであれば「誰に確認しても同じ答えが出る」はずである。
他の人が「本当に正しい」かどうかを調べる行為をここでは「確認」と言う。
2.「自分で考えた内容は正しい」と最初から決め付けてしまうのは早すぎる。
その内容は「自分の知識に基づいて出た答えの一つ」でしかなく、その考えで押し切る行為は「違う視点から矛盾が出る可能性」を捨てている。これでは論理的思考をしているとは言えない。
3.議論のほとんどが「結果が出ないと分からない事」で議論する。
誰しも分かりきっている内容なら、確かに個人の判断で済ませても正しいと言えるだろう。
だが、最初から内容が分かっているのなら議論はしない。 答えが分からないから自分以外を巻き込んで議論する。
その議論で「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」というのはやっぱり論理的思考とは言えず「誰が考えても同じ結果」が出るであろう答えを見つけようとするのが「論理的思考」だ。
4.「落しどころをお互いに考える」のを「政治的理由・妥協」で決めてしまうと確かにそれは論理的思考ではないが、「お互い考えた内容が本当に正しいのかを確認し、より正しい方に精度を上げる」という形であれば、それは立派な「論理的思考」だ。
例を取ると、科学研究者がある法則を発表して、その内容が正しくないと思った世界中の研究者たちはそれを同じ手順で「確認」してみる。
結果、ほとんどの科学者の結果が同じであれば、初めて「それが正しい」と分かる。
の答えがこれに当たる。
x.実際の所、ほとんどの人が「相手を屈服させ勝利することが議論の目的であって、適切な答などどうでもいい。」という方法が論理的思考だと思って行動する。
だがしかし、それはただの言い争いで論理的思考とはかけ離れている。
論理的思考に「自分が絶対」などという「私情」は含めてはいけないのだ。
自分の考えを疑うぐらいが論理的思考には重要、それは矛盾を排除し正しい答えを導き出す唯一の方法。
ふぅ・・・とりあえずこんな感じ。
先にいっておくが、これは論理的に正しいものではない。
まぁ、私のまとめも論理的に正しいものではないんだよね。
どちらが本当に正しいかは、行動した結果次第という事になるんで、下手するとどっちも正解とかどっちも不正解とかもありえる。
ってシメとくけとこんな感じでいい?
理解はした。つまりアレだ。想定している状況が違いすぎる。 まさか「正しさ」という言葉を、素の意味での「正しさ」として語っているとは思わなかった。 一般的に、議論の目的は...