はてなキーワード: 教会とは
石川町の駅の前に現れた彼女は、いつものように妖精のようで、いたずらっぽい笑みを浮かべて、今日はなにをしてやろうかという顔をしている。
「待ちました?」
「ええ、15分」
そういって、2人で歩き出す。
三ヶ月前からはじまった横浜開拓計画は現在でも実行中で、2人の手には横浜市のハンディな地図が握られている。
「保土ヶ谷は失敗でしたね」
「まあ、でも石川町はかなり期待しているんです」
ぼくらのデートは、カメラ持参の街歩きが主で、それはぼくの趣味にも彼女の趣味にも合っている。毎回、駅を決めて、目星をつけて、とりあえず予定は作らずに勝手気ままに、好きなように散歩するデート。
旨そうな店があれば昼食をとり、面白そうな店があれば入り、歩き疲れたらカフェを探す。街歩きは一種の冒険で、見たことのないなにかに出会うかっこうの手段。特に横浜はそんなものに満ちあふれていて、シャッターを切るたびに増えていくすてきな思い出が、なにやら旅行記のようにさえ思えてくる。
「そういえば、飲むところ、見つけました?」
「あ、ごめん。ちょっとネットではピンと来るところなかったかなあ」
「困ります、それじゃあ」
「なんかどっかにあると思うんだよね、この辺なら」
今日のデートは、ささやかな彼女との忘年会のおまけで、一応形式的には、仕事仲間と親交を深めるための散歩だった。
しかし、彼女とのデートは悪ガキ同士の探検のようで、あれこれ目の前に現れるものを宝物でも発見したようにシャッターを切る。彼女はどちらかというと構図で切り、ぼくはどちらかというと物で切る。だから彼女は遠写が主で、ぼくは接写が主。探検が終わったあとにお互いの撮った物を付き合わせると、けっこう見ているところの違いが分かって、1度で2度おいしいような心地になる。
あれ、これ、カメラ仲間じゃないかと、そう思うときもある。
「そういえば、石川町は洋館狙いでしたよね?」
「あ、ああそう」
ぼくは地図を見る。
「撮ってみたいかも」
「じゃあ、そのように」
教会では、結婚式の真っ最中で、華やかな衣装の方々が、雑談をしている。
そういう中でそそくさと洋館目当てになるのはちょっとしゃくで、2人で手などつないでカップルですアピールなどしてみる。まあ、どう考えても、何ヶ月もふたりで散歩デートしてれば好き合っているのは否定できないのではあるが、それでも手をつないで視線が合ってしまったりすると、やっぱりそういう関係だよね、という意識が募る。
視線が気まずい。
「キスしても怒らない?」
「怒りません」
それで彼女は視線をそらして照れる。
もうキスなんて何十回もしているのに。
結局のところ、関係の飽きとはマンネリから来るというのだけど、それは、これがされて当たり前、という共通認識が構築されてからはじまるような気がするのだ。
むかしの彼女との関係は、「完全な同意」に基づいていて、その中で一番刺激が大きい、抱き合うことがすべての目的になっていた。だから、抱き合うためのデート、抱き合うための飲み会、抱き合うための日々。そんな風になってしまっては、2人の関係はマンネリになる。
結局セックスのために付き合っているのでしょう?
ほど貧しい関係はなく、その貧しさにひたすらに打ちのめされる。
だから彼女との関係はいつも揺らいでいて新鮮で、恋人のようでもあり、友人のようでもあり、同僚のようでもあり、同士のようでもある。
それなりの居酒屋を見つけて、わいわいと話し始める。
「あんまり飲まないでくださいよ」
おっと、彼女は今夜をご所望だった。
結局のところ、それがすべてになってしまうと、手をつないだ瞬間に愛撫をはじめてしまう、キスした瞬間に愛撫をはじめてしまう、もう触れ合った瞬間に、抱き合うことへのカウントダウンがはじまってしまう。
それは、とても息苦しくて、すべての女性とのつきあいが、そのためだけにあるのだとそういう錯覚に陥ってしまうのだ。ぼくは君を性的に喜ばせるためだけに存在しているのだって。
そうじゃないって、関係で示して欲しい。
身体の関係がなくても、シャッターを切り合っていれば、それで充分だって。
食事が済んで、小ぎれいなホテルの部屋を取ると、彼女は淑女から一変する。
シャワーを浴びて、裸でシーツの中で待っている彼女に向き合う。
「電気消して」
「輪郭ぐらい見えないと、上手くできない」
常夜灯を点す。
キスをして発情していないのを見て、柔らかく抱きしめる。ぎゅうと肌と肌を合わせるように。それで肌の温度が合ってくるのを確かめる。
「つめたい」
「冷え性だから」
「ぼくもそう」
可愛くチュッと頬にキスをする。くちびるで頬を愛撫するようなキス。
それで視線を合わせて、とろけ合う2人を確認する。
もう片方の頬を愛撫。瞳が潤んでくる。
髪をやさしく撫でる。もう溶け合いはじめている。
彼女との日々はそんな感じで、陶酔はあるのだけど、いつまでも、なぜか新鮮さが保たれている。曖昧な彼女との関係は、どこまでいっても曖昧で、それが、いつまでも都合よく毎日が展開される。
全部って答えはないのだろうか。
そんなことやこんなことで今話題のウィキペディア。投稿者が減るのはウィキペディアのためにもそんなに悪いことじゃないんじゃないか、とも思ったんだがどうやらそんなに減っているわけでもないのかな。投稿者の減少が何故いいことかっていうと、良くも悪くもノイズが減るんじゃないかと期待するからだ。内容の信頼性とか記事の質は相変わらずだろうけれど、同じ話題に関わる人間の数が減ればおかしな記事はおかしな記事なりに純度を上げて「おかしさ」のS/N比が上がるとすれば、それはいいことだと思うわけ。ザーザー言ってて何を言っているのかよく分からない放送よりはアホな芸人が喋りまくっている番組の方がまだマシなところがあるようにね。テレビを見たがる子供に砂嵐を見せるか民放の馬鹿騒ぎを見せるかというのは究極の選択っぽい気がするけど、幽霊の見えそうな砂嵐よりは民放を見せて「また馬鹿なテレビを見てるのかい」って言った方がまともな子供に育ちそうなものだ。で、それは放送大学を見る幼児に向かって「難しい番組だねえ」と言っているのとあまり変わらない。どっちがいいかは最終的には価値観の問題かな。
だから「おかしさ」って書いたけど、何か特別な要素の純度が上がった状態とでも思ってほしい。で、たぶん、絶対的な投稿者数が減った後に相対的な比率で増えてくるのは、職業的な専門に対するストイックさとか、オタク的な過剰さとかを備えた「熱心な」人達だ。ハタから(つまり「世間樣」から見れば)見ると良くも悪くも常軌を逸して、つまりに真摯に追求している、あるいは配慮を欠いている、つまり常識を変革すべく頑張っている、そういう人達だ。まあ自分の学界の片隅に籍を置かせてもらってるけど、そういう人達のもつ情熱とか執拗さとか真剣さとかは、まさしく人生を賭けた壮絶なものだと感じる。
ちょっと話は逸れるけど、ウィキペディアはなぜ専門家に優しくないのか、という疑問を持っている人は結構いる。専門分野で執筆に参加したけれど、結局「専門家じゃない人たち」に気圧されて撤退してきた本当の専門家を、個人的にも何人か知っている。こうした不幸がどうして起こるかっていうと、おそらく上に書いたような「熱心な人達」と専門家が正面から鉢合わせしてしまった場合、専門家の人達は「おっと、インターネットなんかでシロウト相手に喧嘩している場合じゃないや。今月中に論文仕上げないといけないしな」てな具合に本来の戦線に戻っちゃうからなんだな。研究者はそっちの方で人生を賭けているんだから当たり前のことだ。まあ仕方がないね。
で、宗教の話をしよう。結論からいうと、ウィキペディアにおける生命力という意味では宗教的な情熱を持って行動している人々も市井の「熱心な人達」と張り合ってるんじゃないかと思った、ってことだ。人には物事の「宗教性」に比較的敏感な人たちと、そうでもない人たちがいる。ご存知のようにな日本は圧倒的に「無宗教」な社会だけれども、注意深く暮していれば宗教的な空気というのは比較的よく遭遇するものになっているように思う。まあ創価学会とか明らかなものは置いておくとしても、クリスチャンの多い朝鮮半島からの留学生などが増えているといった事情もあるんじゃないかと思う。例えば東京の都心のカフェで小一時間耳をすませていると、その地元のクリスチャンのコミュニティが会合の場所にしていることが分かったりする。いきなり聖書を読み始めれば分かりやすいけど(そういうことも結構ある)、そうでなくともメンバーが出会ったときの挨拶の言葉だとか、そのグループの顔付きだとかをしばらく見ていると「ああ、なるほど、そういうグループだったのか」って思うわけだ。これはたぶん信者さん自身がもつ「仲間意識」と同じようなものだろう。別に隠しているわけじゃないだろうけど、フリーメーソンの変な握手みたいな、ある種の言語化されない巧まざる符丁が作りあげられている。
それで、定期的にウィキペディアを眺めていると、上に書いたようなのと同じ体験をするんだ。つまり明らかに宗教的な関心で活動している投稿者というのを見付けることができる。僕の個人的な関心のせいもあるかも知れないけれど、クリスチャン、もっといえば福音派の方が以前から熱心な投稿を続けているのに気付くのはそう難しいことじゃない。だってほとんど毎日新しい記事を書いてるからね。その編集履歴を眺めていると、気がつくことは三つ。一つ目は、自分のモチベーション、あるいはバックグラウンドを表明した上で編集活動を行っていること。二つ目は用語法に非常に敏感なこと。三つ目は(たぶん自覚しているはずだけど)自分の視点というものを相対化できている人もそうでない人も、よくも悪くも書きたいことしか書かないということ。二つ目と三つ目の点が悪しき融合を遂げてしまうと百科事典のはずなのに「キリスト教事典」みたいなちょっと文脈が他とズレた項目ができてしまう。内容的には正しいだろうから、まあ必ずしも悪いことではない。というか、文句をいう筋合いは全然ないからどうでもいいけど。
書いておきたいのは、そういった方々が福音派なのは偶然じゃないということ。福音派って何かしら、という人もいるかと思うが、ざっくり言えばプロテスタントの中で一番熱心に「聖書が絶対だわよ」って考えている人たちのことを日本語では福音派と呼んでるみたいだ。で、中学校くらいの知識を総動員して説明すると、プロテスタントってのはもともとのカトリックの人たちが「教会ってステキ。おフダをどんどん買えば天国に連れていってくれるんだから」とかちょっとアレな感じになっていると思って、「そんなアホな。聖書を読む方がよっぽど御利益があるに決まってる。金もかからんし」という感じで喧嘩別れした人たちの末裔のことだね。そんなわけだから貧しいながらもマジメにコツコツ働く人たちに圧倒的な人気を博したみたい。で、福音派ってのはその中でも「聖書が大事だね」っていうところで突っ走っている人のことだと思ってればいい。たぶん。「これ全部本当のことが書いてあるんだぜ」「だよね」「最後の審判くるよね」「ヤバいよね」「でも千年王国チョー楽しみ」みたいな。信じられないかも知れないけど、これ全部本当の話、ってやつ。念のため書いとくと福音派って中にも聖書の話と現実の歴史の対応には諸説ある。というか複雑すぎてよく分からん。
福音派はアメリカで多くて、ブッシュ共和党の支持母体になってることは有名だね。政治に熱心で極端になると共産主義は悪魔の手先、イラク先制攻撃万歳、進化論教えるなら学校やめるし、中絶するなら病院焼いちゃうよ? (実際、焼いてるし、医者を殺してる)みたいな人が多いみたい。中絶反対、てのはカトリックの方が厳しいのかと思いきや、実は福音派の人たちもけっこう過激な人たちが多い。ヨーロッパの国がほとんど中絶を合法化しているのに比べて、アメリカで未だに喧喧諤諤の議論をしているのはそれが原因のひとつかな。福音派が政治とか社会問題に積極的に関わりたがるのは全然不思議なことじゃない。つまり福音派であることと積極的なコミットメントには密接な関係がある。というのは、福音派の人たちは自分たちの考えを広めることをかなり大事に考えているからだ。つまり布教(福音派だと伝道っていうのかな)がかなり大事。まあ宗教は何でもそうだけど福音派は特にそこが目立っていて、ちょっとゴリゴリした感じになっているんだね。みんな、生まれ変わって新しい自分にボーン・アゲインしようぜ ! トゥギャザーだぜ ! みたいな。まあ、回心するのが大事だから回心させてあげよう、ていう感じかなのかな。とりあえず頑張れ、としか言えないけど、個人的には家を焼かれちゃたまらんし、できちゃったら産むしかない、ってのは穴があったら入れるしかない、てのと同じくらい野蛮だぜ、って思う。理性ってのは原理的に自然を抑圧するものなわけで。
最近のアメリカの福音派の政治的な人たち(キリスト教右派と呼んでる)は民主党のオバマが政権取ったし、アフガンもベトナムっぽくなりつつあるし、ゲイの結婚もちょこちょこ合法化されてるし、ちょっとヤバいんじゃない? とか考えてるみたいだけど、とりあえずどうでもいいや。うん。ウィキペディアの話だった。政治的・宗教的荒しが日本の数ケタ上の密度で起こっている英語版なんておぞましくて覗く気もしないけれど、書きたかったのは、日本語版ウィキペディアでも熱心な福音派の人たちが(たぶん二人くらいで)頑張ってます、ってこと。ウィキペディアの編集者の中で二人くらい、っていうのが意外と日本における福音派の「熱心な人」の比率としていい線をいってるのではないかと思ったが、調べてないので分からない。まあヘドが出るほど嫌いな人もいるだろうけど、オタクだと思えば貴重な存在かも知れない。で、オタクが絶滅しないように、そういう彼ら(彼女ら)もきっとしぶとく生き残っていくだろうな、と思ったんだ。ある日突然「ウィキペディアは悪魔の手先だから見ちゃダメ」ってことになるかも知れないけどね(英語圏には実際そういう趣旨でできた何とかペディアもあるし)。
ってことで、立法趣旨を確認するには、法案提案者がどう考えているのかを知るのが大事ってことで。
○枝野委員 ありがとうございます。
それでは次に、児童ポルノの方の定義のところについてお尋ねをさせていただきたいというふうに思います。
「「児童ポルノ」とは、」ということで、「写真、ビデオテープその他の物」というまず一つの限定がございます。ここのところで、従来の自社さで衆議院に出されておりました案では、「絵」という文言が入っておりましたが、今回「絵」という文言を外しました。そういたしますと、「その他の物」に絵が入るのか入らないかということになるわけですけれども、含まれる絵と含まれない絵があるというふうに理解をしておりますが、どういったものが含まれて、どういったものが含まれないのかということについてお答えいただければと思います。
○大森参議院議員 自社さ案の方では例示のところに「絵」がございましたけれども、今回明記してございません。これは一つに、コミックとかそういうものが入るのか、こういう問題もあったものですから例示から外しております。それで、枝野委員おっしゃるとおりに、絵につきましては、「その他の物」に含まれ、児童ポルノに該当することもあり得ると考えております。
この法案では、児童ポルノとは、児童の一定の「姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの」とされておりますが、ここに言う児童とは、十八歳未満の実在する児童をいうことになります。したがいまして、絵につきましても、実在する児童の姿態、これを描写したものであると認められない限り、児童ポルノには該当しないことになります。こう考えております。
○枝野委員 ありがとうございます。
さてそこで、ちょっと悩ましいのは、実在の児童を描いたのだけれども、実際に裸にしてそれを描いたということではなくて、顔だけ実在の子供、例えば芸能人などのような有名人の顔であれば、顔だけは実在の子供の顔を描きました。だけれども、裸の部分についてはこれは全く想像してかきました。こういった実在の児童を想像して描いた絵というのは、これはどちらに入るのでありましょうか。
○大森参議院議員 その場合に、人物、児童という人間は実在しているけれども、その姿態が、架空ですね、これが実在しない場合、想像してかいたものになりますので、実在する児童の姿態とは言えず、児童ポルノには該当しないと考えております。
○枝野委員 このあたりのところは表現の自由と絡みますので、やはり明確さが要る。今のようなものを本来は規制の対象にすべきかどうかということはまた別に問題があって、うまく規制できるのだったらすべきというのもあるかもしれませんけれども、この法律の解釈として、対応としては今のようなことでやるべきだろうというふうに思います。そうしか解釈できないだろうというふうに私も思います。
今の特に後の方の話など、法務省それから警察庁、同じような理解でよろしいでしょうか。
○松尾政府委員 ただいまの発議者の御答弁の趣旨を尊重して運用していくべきものと思っております。
○小林(奉)政府委員 警察におきましても、ただいまの法務省さんと同じように、発議者の説明の趣旨を体して適切に運用してまいりたいと思います。
○枝野委員 それから、これが、もちろん今のようなお答えになるのをわかった上でお尋ねをしておりますので、例えば実在の子供をモデルにした絵だとか、あるいは芸術、何が芸術かというのは、芸術じゃない作品をつくっていらっしゃる方でも御自分では芸術とおっしゃるわけなので、これも主観的なものが入るのですが、まさに一般的に、美術館などに描かれている、例えばヨーロッパの方の教会なんかの壁画みたいなところを見れば、例えば子供の裸の姿とかいうものの絵があります。あれが実在の子供を描写したものかどうかわかりませんけれども、ああいったような芸術作品のようなものは、やはり今のお話の「性欲を興奮させ」などの解釈のところで問題ないということになるケースも多々あるのではないかなというふうに思うので「性欲を興奮させ又は刺激する」すが、そういった理解でよろしいでしょうか。
○大森参議院議員 今枝野委員、教会の壁画などの裸の絵とおっしゃったのでしょうか。それはまず、実在する児童かどうかということも問題になってくると思います。
それから、芸術作品ですとか、あるいは芸術作品とかに出てくる場面についてどう判断するかということについても、例えば芸術作品が何か、どうかということも非常に難しいのではないかと思います。したがって、この法律の関係につきましては、あくまで当該描写に係る児童の姿態が第二条第三項の第三号の要件を、もちろん二号もあるかもしれませんが、この要件を満たすものであるか否かによって、同号に言う児童ポルノに該当するか否かが判断されることになります。
○枝野委員 ありがとうございます。そういったことで運用していただければ、変な拡大とか間違った運用ということはないかなというふうに理解をしたいと思います。
それから、先ほどもここで出てきていますが、「性欲を興奮させ又は刺激する」というのが要件になっているわけですけれども、この「性欲を興奮させ又は刺激する」ということについての判断者はだれであるのか、あるいは、だれの性欲を興奮させ刺激するということであるのか、これについてお答えをいただければと思います。
○大森参議院議員 「性欲を興奮させ又は刺激する」、この構成要件につきまして、だれの性欲をという御質問でございますけれども、通常、構成要件に規定してありますことは、一般通常人というものを基準としております。
最終的にそれをだれが判断するのかということになりますと、犯罪構成要件に該当するか否かの最終的な判断は、刑事事件におきましては裁判所がすることになります。
○枝野委員 それで、一般人の性欲を刺激するかどうかということになりますと、逆に言えば、ごく一部の人たちしか性的な刺激を受けないというケースについてはここには含まれないという理解でよろしゅうございますね。
○大森参議院議員 今申し上げましたように、構成要件該当性の判断というのは一般人を基準といたしますので、一般通常人より特に性的に過敏に反応する方とかを御想定なさっているのかと思いますが、今申し上げたように一般人を基準にいたしますので、枝野委員がおっしゃったような場合は、児童ポルノには当たらないことになると思います。
○枝野委員 それで、先ほど途中でちょっと切りかえてしまったのですけれども、先ほどおふろのコマーシャルみたいな例を申し上げましたが、一般的に言えば、これも、人によって子供も成長程度が違いますし、シチュエーション、映し方によって全部違うとは思いますが、普通には、三歳とか四歳の子供たちが例えば裸で水遊びをしている、それがニュースの映像とかで流れたりすることがありますね、いよいよ暑くなりましたなんというニュース。それから、温泉地で普通に温泉に、おふろに入っている子供、それも少なくとも二歳とか三歳の子供。
これは、何歳からかということをここで議論しようと思うと、これはまさにケース・バイ・ケースなのでそういうことは申しませんが、そういったケースみたいなところは、これは一般人の性欲を刺激するとは普通には言えないということで大体解釈されるだろうなという理解でよろしいでしょうか。
ただ、低年齢、三歳とかとおっしゃったのでしょうか、その裸であれば絶対該当しないかということは必ずしも言えません。性的に未熟な女の子、女児の陰部等を描写したものと認める写真についても刑法上のわいせつ図画に当たるとした判例がございます。
そういったことから、常に否定されるわけではないと考えますけれども、今おっしゃったような事例につきましては、それが通常一般人から見て「性欲を興奮させ又は刺激するもの」と言えるかどうかという、この基準によって判断していただければ妥当な結論が出ると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20091109124346の続き。
編集時刻:
2009/11/05 11:08:51
編集者:
konoike
編集内容:
edit
それにもかかわらず、1000万円要求された人もいる。病気で弱っているところを狙って騙されるのである。
編集時刻:
2008/08/11 06:25:08
編集者:
ekiqlo
編集内容:
edit
天理教では、「[[おさづけ]]」を取り次いでもらうことによって何でも病気が治るらしい。しかし、天理教だけで癌が治ると信じて、病院に行かなかったところ癌が進行して、再び病院に行った時には手遅れになったなどの被害が多い。その宗教行為自体にはどこの宗教でもあるようなものなので、問題はない。だが、天理教だけで治ると言うことを信じさせられ、病院に行かないことが間違っている。これはとても危険なことである。
もし、「おさづけ」だけで病気が治るのなら、病院や医者は必要ない。しかし、その天理教が天理よろず病院・憩の家という正規の医療機関を持っている。矛盾しているのである。天理教のおさづけが効かなくなったため、二代目真柱が設立したのである。
これは今の天理教の考え方が間違っている。天理教本来の教えは医者の手に余った時は「おさづけ」に頼るというものである。本来の教えを守らない信者が増えたせいで、被害を受ける人がでてしまったのだ。「おさづけ」を取り次げばお金になることもあるのだろう。二代目真柱が病院を開いたのも、形は違えども人々を病気から救いたいという理念があったといわれている。
この宗教行為は、天理教が「教祖」としている中山みきが、病気を治す力を持っていたことに由来する。中山みきは自身が認めた何人かに、その力を分けていたと言われている。つまりその人達に「おさづけ」していたのである。
しかし、今の幹部や教会長にその力はない。現在の天理教においてその効力はない。それにもかかわらず、1000万円もの大金を要求しておさづけを行う悪質な教会長がいる。本来おさづけは無償の宗教行為である。騙されてはいけない。詐欺行為にあたる。また、医師でないものが有償で治療行為していることから医師法違反と見なされる可能性がある。このような悪質な行為をする教会、信者に騙されないこと。それは偽物の天理教である。
編集時刻:
2009/11/05 11:06:18
編集者:
konoike
編集内容:
天理教では、「[[おさづけ]]」を取り次いでもらうことによって何でも病気が治るらしい。しかし、天理教だけで癌が治ると信じて、病院に行かなかったところ癌が進行して、再び病院に行った時には手遅れになったなどの被害が多い。その宗教行為自体にはどこの宗教でもあるようなものなので、問題はない。だが、天理教だけで治ると言うことを信じさせられ、病院に行かないことが間違っている。これはとても危険なことである。
もし、「おさづけ」だけで病気が治るのなら、病院や医者は必要ない。しかし、その天理教が[[天理よろず病院]]・[[憩の家]]という正規の医療機関を持っている。矛盾しているのである。天理教のおさづけが効かなくなったため、二代目真柱が設立したのである。
これは今の天理教の考え方が間違っている。天理教本来の教えは医者の手に余った時は「おさづけ」に頼るというものである。本来の教えを守らない信者が増えたせいで、被害を受ける人がでてしまったのだ。「おさづけ」を取り次げばお金になることもあるのだろう。二代目真柱が病院を開いたのも、形は違えども人々を病気から救いたいという理念があったといわれている。しかしその真柱も、これをよしとしない幹部によって排斥された。
この宗教行為は、天理教が「教祖」としている中山みきが、病気を治す力を持っていたことに由来する。中山みきは自身が認めた何人かに、その力を分けていたと言われている。つまりその人達に「おさづけ」していたのである。
しかし、今の幹部や教会長にその力はない。現在の天理教においてその効力はない。それにもかかわらず、1000万円もの大金を要求しておさづけを行う悪質な教会長がいる。本来おさづけは無償の宗教行為である。騙されてはいけない。詐欺行為にあたる。また、医師でないものが有償で治療行為していることから医師法違反と見なされる可能性がある。
編集時刻:
2008/06/08 18:54:35
編集者:
ekiqlo
編集内容:
1c1
http://anond.hatelabo.jp/20091109124346の続き。
しかし、現在の天理教には、高慢で欲の深い教会長が増えていて、信者の信頼を失っている。これにより信者は教会から離れていくようになった。
# URL: http://www11.atwiki.jp/tenrikyo/
# URL:http://shukyohigai.wiki.fc2.com/?page=天理教
# URL:http://www11.atwiki.jp/anti-religion/pages/40.html
# URL:http://ja.yourpedia.org/wiki/天理教
http://d.hatena.ne.jp/keyword/8%a4%c4%a4%ce%a4%db%a4%b3%a4%ea?kid=279974
「八つのほこり」であれば、以下のページに記されています。これは「公式サイト」の情報ですので、真実はどうあれ、キーワードとして説明するのであれば、まずそれをリンクとして張るべきです。
http://www.tenrikyo.or.jp/ja/teaching/teach/dust.html
しかし、id:konoike氏は上のページを無視し、以下のページを張り付けています。
# URL: http://www11.atwiki.jp/tenrikyo/
# URL:http://shukyohigai.wiki.fc2.com/?page=天理教
これらのページに含まれる内容はどれも「被害者」と称する一部の者の発言であり、強い偏向が見られます。信頼できる情報源も見当たりません。内容が中立的、客観的な視点から大きく外れています。
rna 人権 それなら自分の人権も疑ってからものを言えば? 試しに人権を放棄してみては。まずは私的所有権から!今すぐ全財産を赤十字に寄付するんだ!/まさか自分の平穏な日々が自分の実力で維持できてるなんて信じてないよね? 2009/11/14
なんと言う頭の悪さwww 人権なんてかけらもなかった時代から私的所有権も個人の財産もあったんだけど、そんなことすらこいつには分からないらしい。私的所有権を人権の中に統合するのはいいが、それは単にそうするべき都合があるからに過ぎない。「人権がなければほかの諸権利もない」なんて発想があるとすれば、それはなんの考察もなしに人権を思考の根拠とするものだ。そしてそれこそが元エントリにある「人権真理教」であり、「手近に転がっていた教義を自らの拠り所にすると、後はひたすら無自覚無批判にそれを絶対不可侵のものとして奉」るという態度なのだが。やれやれ、
こんなこと言ってもバカだから「なにをいいたいのかわからないだろうとは思うけど」さwww
letterdust 人権なんてかけらもない時代は、盗賊に対して封建領主の庇護があり、法律上は帝なり教会なりの土地であるという建前で成り立ってたのだと学校で習ったのだが。まさか封建制度に「私的所有権」があったとは。 2009/11/15
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20091114035232
はあ…。では「封建領主」だの「帝なり教会なり」だの「封建制度」だのが成立する前はどうだったというのだろう。とうぜん「おれの肉」だの「おれの家」がのぐらいはあったと思うのだが、これは「私的所有」「私的財産」じゃないのか。
もちろんそこにあるのは今現在いう用語としてのそれぞれとぴったり同じわけではないが(なにせ制度が今日的に確立していない時点の話だからな)、それはできたての人権と今日の人権がぴったり同じものではない、というのと同様のことでしかない。人権がないとしたら全財産はどこかに寄付だ、とかいったことは全く言えないわけだから、「人権真理教」ぶりの指摘としては十分だ。「人権がなければほかの諸権利もない」のでは全くない。
しかし「人権なんてかけらもない時代」をなぜいきなり「封建制度」と直結させているのか。まさか「人権制度」か「封建制度」の二つしか存在し得ないとでも考えているのだろうか。だとすればこれもまた大した「人権真理教」ぶりではある。
私の友人のジョンは敬虔なキリスト教徒だ。 ミサへの参加はもちろんのこと、教会が主催するボランティア活動にも積極的に関わるし、日々の祈りもかかさない。 日本へ移住したのも布教活動のためだと言うし、日本語は実になめらかである。 このバイタリティが信仰心から生まれるものなら宗教も悪いものではなかろうかとさえ思えてくる。
私自身は典型的な日本人がそうであるように無宗教に近い仏教徒だ。ジョンと友人になった経緯は既に延べた通りだが、思いおこせば奇跡的な出会いと思わざるを得ない。
さて、最近のジョンは日本のサブカルチャー、とりわけアニメに感心をもったようで、日本では誰もが知っているアニメというと何だろうと私に質問してきた。
「ポケモン」や「サザエさん」といった定番のものを紹介し、最後に「ドラえもん」を紹介した。するとジョンは「ドラえもん」に対して異常に怯えはじめた。 ドラエもんの中には悪魔がいるというのだ。
言われてみるとDORAEMONの中にはDEMONがある。 そして、ねこ大好きな純朴な人々に自分は猫型だと偽るなど実に悪魔的な諸行ではないか。そんなことにも気付かずに我々はドラえもんをほほえましい人間の味方と騙されきっていたとは自分の馬鹿さ加減に呆れる。
未だ自分が悪魔に騙されていると気付いていない愚かな悪魔崇拝者どもの目を醒させるために我々は活動を開始することにした。 この事実を広めていこうと思う。 皆にはこの文章をなるべく多くの目に触れるようにコピペしてもらいたい。
Kill DORAEMON, Kill DAEMON !!!
結婚の話が停滞していた時期があって、なかなか進まないことで不安になっていた私は、式とかパーティとか、イベントへの夢を膨らませることで気を紛らわせていた。それはちょっとまずかったかも…夫にはあからさまにドリーマー扱いされた(事実だけど、でも私の気持ちもわかってよーとは思った)。それに、私は友達の式やパーティに何回も呼ばれていたので一定のイメージはあったんだけど、夫は皆無だったせいか、ほんとウザそうだった。でもまあ、式やパーティは楽しく、おめでとうをたくさん言ってもらったせいか、イベント後、夫は「幸せ~」としばらく嬉しそうだったのでよかったです。
実際に準備をし始めたら、きつかったのは自分自身の気持ちを整理することだった。やっぱり現実として「夢」のようにはできないこともある、それに、ちょっとしたことを重大なことのように感じちゃうんだよね。自分の気持ちをまず安定させることが大変だった。例えば、キリスト教の結婚式のいいところは、誰でも気軽に呼べるところ。私もいろいろな人に招待してもらった。だから呼びたい人は多かったんだけど、自分の通っていた教会は非常に容量が小さかった。もちろん、自分の通っている教会で式を挙げたかったので、その気持ちのほうを優先させて、残念だけど式から呼ぶのは親族と夫側の友人だけにした。当日のスタッフを兼ねて教会の友達が来てくれるので、私側の他の友達に来てもらえなくてもそれでいいや、と思った。そうやって自分を納得させたのに、母親が、ある人に勝手に声をかけたので私は悲しかった。いやそりゃ、キャパが大きければ問題はないんだけどさー。母は、なぜ私がいらいらしたか、わからなかったかもしれない。
ちょっとしたことでは、レースのベールにしたいと言い出せなかったこと。店に勧められたのはパイピングのベールで、結局それに決まり、レースがいいと言えなかったことを後悔した。つまらないことだけど、かなーり心が暗くなった。式までには何とか、そのことを忘れるようにしたw
後から振り返ると、あのときはけっこう視野が狭かったよ思うよ!ドリーマーな自分も、ウザがっていた夫もね。そういう状態で互いの折り合いをつけなきゃいけないのは、大変だね。
2)価値観の違いやいろいろなことで夫とぶつかるときもある。結婚してからのほうが、私にとって受け入れ難い言動や考え方を見ることが多いような気がする。でも、私はこの人ととっても結婚したくてたまらなかったので、ずっと一緒に暮らしていきたいと思っている。
教会式でなければ歩かねーよ
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
あと神は子供を閉め出すようなことを喜ばないと思うよ、地獄へ行くと思うよ、とかさ。
これがまさに僕がとらわれている考え方だと思います。
子供閉め出し=悪。で、この悪を行いながら、神に誓いをたてるとか、はりぼての誓いじゃんか。そんなうそ臭い茶番絶対できるかー。。てな風に考えています。
はてサっぽくて気色悪い考え方だが、元増田が絶対に意見を変える気はないと言っている以上、妻側をどうにかする方法を考えるべき。
教会で挙式ということであれば、お二人で今まで神父さんには会われているのですよね?
でしたら、一度神父さんにお伺いを立ててみるというのは如何ですか?
宗教の違いもあるでしょうし、もしかしたらいいヒントを下さると思います。
婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
子供閉め出し=悪。で、この悪を行いながら、神に誓いをたてるとか、はりぼての誓いじゃんか。そんなうそ臭い茶番絶対できるかー。。てな風に考えています。(ちなみに二人とも特定の信仰はありません)
宗教的に考えるなら100%増田が正しい。キリスト教は教会の神聖儀式に女が口を挟むこと絶対許さないよ。増田と男性親族が決定権を持つ。
婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
僕には少し前に入籍を済ませた妻がいて、結婚式を計画している。
妹は僕の結婚をとても喜んでくれていて、旦那さんと赤ちゃんと3人で行くからね、式を楽しみにしているよ、と言ってくれた。
これに妻が難色を示している。
ずっと、厳粛で静謐な式を挙げたいという夢があった。
赤ちゃんは突如泣き始めたりするので、それで式の厳粛で静謐な雰囲気が損なわれるのが耐えられない。
なので式の間だけは、ベビーシッターを雇って式場に待機してもらうので、シッターに預けてもらいたい。
もしくは、入り口付近とか、泣いたらすぐに出られる所に座ってもらいたい。
以上を、僕から(僕の)妹に伝えてもらえないだろうか。
もちろん披露宴は、お客様に結婚を披露し我々がおもてなしする場なので、赤ちゃん含めゲスト全員に出席していただいて構わない。
ただ、神の前に誓いをたてる、一生に一度の式は、二人のためのものだと思っている。
だから私のこの希望を反映させてほしい。
(ちなみに妻は、赤ちゃん自体は好きだし、妹の赤ちゃんも可愛がってくれている。)
厳粛な式というコンセプト自体はわかるけど、
ゲストに釘を刺したり注文をつけたりするということはゲストを信用していないということだし、失礼だ。
来てくださったゲストを「あなたは出席OK、あなたは外にいて」と、主催者側が選別するのは傲慢だ。
傲慢な選別をした上で見かけ上「厳粛」な式を挙げて、何になるのか。
挙式中どこに座るか、赤ちゃんが泣いたらどうするかは、あくまでゲストを信頼してゲストに委ねるべきだ。
もし本当に泣いてしまって、(現実的には考えにくいが)妹がそれを放置する様なことがあれば、
当然式場の担当者に外に誘導してもらう。
それでさえも「厳粛な式が損なわれる」と考える様であれば、ついていけない。
二人の式にお祝いに駆けつけてくれているゲストを選別したり注文をつけるような事はできない。
歩み寄りの余地は無い。
(ちなみに僕は 1.二人だけで挙式、2.結婚式をやらない という代替案を出したけど、どちらも却下された。)
ということで話は平行線です。
彼女は、「あなたは自分の価値観を守ることばかり重要視して、私の気持ちを理解しようともしない、希望を叶えるにはどうすれば良いか考えてくれさえしない。」と言って失望している様子。
僕は僕で、彼女の考え方は傲慢で失礼だという思いから逃れられない。
で、対立が対立を呼び、ついには離婚も視野に入ってきてしまっている状況。
小町あたりで書いたら僕が吊るし上げられるネタだと思うんだけど、ここの皆さんはこの対立をどう思われますか。
解決案、お叱り、励まし、なんでも結構です。
ちなみに、妻と僕の実家は、僕たち夫婦にまったく口出しをしてこないでいてくれる。
なので、家どうしの対立という要素は皆無で、あくまで妻と僕の間の対立です。
妹に、妻の希望を伝えるぐらいはしてもいいのではというご意見いただきましたが、
僕としては、お招きしたゲスト(妹)が、夫と子供を連れてくると(好意で)言っている以上、それを歓迎すべきだと考えました。
それに対して妻の希望を伝えるということは、赤ちゃんは連れてこないでねという暗黙のプレッシャーを掛けることになると思っています。
お招きするゲストにそういった「連れてくるなよオーラ」みたいなものを示唆することは、ホスト側として失礼で傲慢だと、どうしても思ってしまいます。
たくさんのTBありがとうございます。
嫁も「自分の価値観を守ることばかり重要視して、夫の気持ちを理解しようともしない」ように見えるのだが。嫁が譲歩しているのはどの点だ。
しかし議論の末、披露宴は譲る、という事になりました。
また、式中は本当は外にいてほしいがそこは譲歩して、泣いたら出て行きやすい席に座ってもらうだけでもいい、
とにかく厳粛な式がやりたくて赤ちゃんが泣いたらぶち壊しになると思っている事を、妹に伝えてほしい、
あとは伝えられた側に任せる、というスタンスです。
で、結局僕が引っかかっているのは、妻が赤ちゃんを少しでもNGと思っていることそのものな気がしてきました。
という僕の考え方が根底にあり、赤ちゃんNGというのが、凄く偏狭な考え方に思えてしまいます。
当然赤ちゃんが嫌いな他のゲストもいるとは思いますが、妹・その子供・夫については、友達とかではなく、僕の家族なんですよね。
だから、すみませんが家族は寛大に受けれてほしい、拒否しないでほしい、という思いがあります。
また、妹夫婦は非常に遠方に住んでおり年に一、ニ度会えるか会えないかで、相当な手間をかけて来てくれるので、こちらからの注文は極力つけたくない、という気持ちもあります。
それが疑問だ。
結婚式には何回も出席しました。
子供や赤ちゃんがいる式も何度もあったし、泣き始めたら必ず母親がすぐ外に連れ出していたし、それで場の空気が悪くなるという場面も見たことがありません。
むしろ、神父さんが誓いの言葉を読んでいる時に赤ちゃんがフギャーとなって、皆がクスクス笑ってほほえましいムードにつつまれる、という様なシチュエーションしか経験したことが無いんですよね。
だから妻から参加NGと言われるまでは、式で赤ちゃんが泣いて眉をひそめるとか、そういう人がホントにいるの?という感じでした。
さらに多くのTBありがとうございます。
シッターに預けるよう妹に伝えても妹は失礼と思わないのでは?というご指摘をいくつかいただいてますが、その通りです。
妹は無理に赤ちゃんを連れてこようとしているわけではなく、僕が断ったり、式の時は外にいてと頼んだ場合は、その通りにしてくれます。
単純に、遠方で泊まりの旅になるので、置いていきにくいという理由と、兄である僕に赤ちゃんを見せたいという理由で、一緒に行くと言ってきた様です。
なお、僕自身にもし赤ちゃんがいたら、止むを得ない理由が無い限り、人の式には連れて行かないと思います。自分も大変ですしね。
この件は、妻が式への赤ちゃん参加をNGと考えている事自体を僕が認めることができない、という話だという気がします。
僕はこの件だけに限定すれば、譲歩はしていません。
彼女の譲歩案は根底が「赤ちゃんはNG。厳粛じゃなくなる。」というこだわりに貫かれており、いっぽう僕は、妻のその考え自体に引っかかっているので、譲歩の余地がないんです。
かなりどうしたらいいのかわかりません。
この先、子供が生まれて、赤ん坊が泣くたびに「なんで、こんなにギャーギャー泣くのよ」ってヒステリー起こすの目に見えてるもの。暗い家庭になりそうだ。
僕も同じことを妻に指摘したんですが、赤ちゃんそのものが嫌なわけではないとのこと。
あくまでも、厳粛な式という夢があり、その理想を叶えたいがために大人だけで式を行いたいとのことです。
僕は、夢見た一生に一度の式だからといって、自分の家族を、例え赤ちゃんでも、入場お断り扱いにする/もしくは泣いたらいなくなってとあらかじめ釘を刺す、ということができません。(泣いたら/泣きそうになったら出て行くのは当然だとは思います)
厳粛な式が夢だったことはわかるし、だからそれなりの会場を見つけた。
だからといって、家族(の一部)の出席を断るのはやりすぎなんじゃないかと思うんです。
家族を一部締め出してまで行う「厳粛な式」がナンボのもんじゃい!と思ってしまいます。
ちなみに今回、僕の妹の赤ちゃんの話なので僕の家族びいきに見えるかもしれませんが、彼女側の家族の赤ちゃんが相手でも、僕は全く同じように感じ反応します。
これまでに書いてきた話は、ほぼ全て妻には伝えました。
でも結局「なぜ私の夢を無視するの、ゲストのことばっかり言うの。」という話になってしまいます。
夢を無視してるんではなく、夢を実現するには、家族を式から締め出すという(僕にとっては)傲慢な事をやらないといけなくて、それがどうしてもできないんですが、話はまったくまとまりません。
「神の前」「厳粛」ってんなら普段の信仰心はどうなの? 日曜に教会行ってるとか、そういうところまで含めてつっこんでみたら?
これがまさに僕がとらわれている考え方だと思います。
子供閉め出し=悪。で、この悪を行いながら、神に誓いをたてるとか、はりぼての誓いじゃんか。そんなうそ臭い茶番絶対できるかー。。てな風に考えています。(ちなみに二人とも特定の信仰はありません)
自分の善悪基準を人に押し付けようとしている(正確に言えば、自分の善悪基準のために、人の要望を聞き入れられない)わけだから、僕の方が傲慢じゃないかというご意見は、確かにごもっともだと思います。
ただ僕がこの様な善悪基準を持っている事自体は、しかたないというか、自分ではどうしようもありません。
問題は、妻が、僕の善悪基準でみたら悪に属することを切望している。この時僕は妻の願いをかなえてあげらるのか、という事ですね。
それが今の僕にはできていません。
それを叶えてあげるのが、愛なんでしょうか。
なんだかよくわからなくなってきました。
たくさんのTB、コメントにびっくりしてます。ありがとうございます。
一点補足です。
上で、神が。。とか地獄が。。とかという話を書いたので、少し誤解を招いた部分があるかもなんですが、
僕自身は、神とか地獄とかいうことを考えているわけではないし、宗教的な素養や意識は、全くないです。
式はキリスト教式でも神前式でも人前式でもなんでもいい、とにかく真剣にこれから一生一緒にいるために宣誓するわけです。
その場を嘘くさいものにしたくないという気持ちが強いんだと思います。
(あくまで僕の価値感ですが、)「子供締め出し=悪いこと」であって、そういう悪いことを裏でやりながら、真面目な顔して「誓います」とか言うのがどうしても、嘘くせー、ウケるわその茶番、あほか、という風に感じられてしまう。
映画「アンタッチャブル」に、デ・ニーロ演じるアル・カポネが、人を暗殺しながら、同時にオペラを感動して泣きながら観てる場面があるんだけど、それと同じような「なんだそれ感」というか。。
そういう「嘘くさい」事を「厳粛」と認識し積極的に望む妻に、がっかりしてしまっていました。期待と現実のギャップへの失望。
客観的には、潔癖すぎ、頑なすぎだし、自分の価値観を妻に押し付けるな、というご意見も、ごもっともだと思います。
ただ、こういう式を「嘘くせー」と感る自分の価値観自体は、これまでの人生で身についてしまっているもので、どうにもならない。
要は
・「嘘くせー茶番」とどこかで感じながらも、「でも妻が幸せならいいや」と思って妻の譲歩案を飲めるかどうか
・かつ、自分が「嘘くせー茶番」と感じるものを「厳粛で静謐」と感じる価値観の妻を、僕が受け入れられるかどうか
だと思います。
他の増田も指摘してるけど、
な。
嫁さんになにがしたいのか、じっくり聞くといい。
身内に向けてだけでもいいからやりたいかもしれん
これなら、大々的な披露宴じゃなくて、ちょっとした食事会でOK
他人に向けて、ファッションショーしたい
出来合いの式場でマズイメシと、流れ作業のパックでもやらせりゃいい。
ここでガマンしとかないと、一生ネチネチ言われるぞ。
もしかしたら、菓子まきしたいかもしれない。>これってローカル?
披露宴じゃなくて、「結婚式」したいなら、神社でも教会でもいきゃいい。
二人でもいいし、両親だけ参加でもいい。
人前式したい人もいるだろうから、これも人によって違う。
単に結婚式のコスプレしたいだけの相手なら、ドレス着せて二人で写真撮っておけばOK
嫁と、元増田が「やりたくない」事をじっくり話し合って、
お互い譲れる所や譲っとけ。基本一回だけだ。
金や時間で、どーにもならない事も多いから、振り落とされる事もあるよ。
まあ、「他人に祝ってもらう」じゃなくて、「認識してもらう」って方が強いよね。
あ、一時の恥だと思うかもしれないけど、コスプレ、自己満足はほどほどにした方がいい。
これまた一生ネタにされるから。
50もブクマしてもらって、個人的にはここまで誰かに構ってもらったことがないので興奮しました!
今日は持病の通院のため朝から休み。のんびりした時間を過ごしてかなりくつろげた。毎日こうだといいな。大学時代を思い出した。孤独だったのに特に苦しくなかったのは、こういう風に充実した時間を過ごせてたおかげなんだな(平日の人の少ない書店、喫茶店、映画。やりたいことをストレス少なく自由にやれる感じ。←社会人になって失ってしまったものばかり)。
今からもう明日の会社が怖い。憂鬱というより、もはや怖い。一部ブコメで指摘してもらった通り、今心が苦しいのは過労が原因というのもあるかもしれない。でも、過労といっても、雑談を交わしあえる人間関係があるならいくらでも働けると思うんだ。一人ぼっちであんだけ頑張らなきゃいけないから、もう悲鳴を上げそうなんだ。
コメントを下さった方にお返事。
こんなにいっぱいレスしてしまうくらいコミュニケーションに飢えてます。なので、色々コメントをもらえてうれしかったです。
同調(?)してくれるようなコメントから何人か気になる方がいたんですけど、大半の人がはてなダイアリーは書いてないんですね。人となりを知って仲良くなれるかなと期待したんですが。残念でした。
http://anond.hatelabo.jp/20091004214026さん。
創作意欲は低い人間です。センスがない。あと、今は全く時間がない。。。
http://anond.hatelabo.jp/20091005003417さん。
お互い辛いですね。2chとかで出会いはあるのかな??ネットで本当に出会いってあるのかな?ネットからリアルの付き合いになるには、それこそ抜群のコミュニケーション能力かルックスが必要だと思うんだ。その点、絶望。
あー、明日の会社がいやだー。
教会や修道院が領主として農民に奴隷的労働を強制するのはよくあることでした。
クソな労働環境文化が、なぜか突然、消え去ったのでしょうか?
もちろん、クソ労働環境の原因の一つはそういう労働文化だったでしょう。
領主も農民も、そういうクソ労働環境を当然のこととする労働文化を内面化しており、領主は農民を奴隷のようにこき使うのが当然と考え、労働者にはそれを受け入れてしまう奴隷根性が染みついていたのでしょう。
しかし、クソ労働環境文化など、経済的な前提が変われば、吹き飛んでしまうものなのです。
大開墾運動でした。*1
領主達は、自分の所領の森を切り開き、畑にし始めました。
森を切り開いて畑にするには、人手、すなわち労働力が必要です。
そこで、領主達は入植者を募集しました。
わざわざ新しい開墾地に「転職」する理由がありません。
待遇が変わらないのであれば、わざわざ今までの生活を捨て、苦労して森を切り開いて畑をつくるなんてバカバカしいので、それでは人は集まりません。
そこで、領主はいままでよりもずっと有利な条件で入植者を集めることにしました。
具体的には、賦役労働はなく、定率や定量の税だけ納めればいい、というような条件でです。
こうして、森が切り開かれ、新しく畑が作られると、領主の収入は増えました。
農民も、いままでよりもずっとよい待遇になったので、幸せになりました。
聖母マリア・十二使徒・パリサイ派・イスカリオテのユダ・十字架刑・キリストの復活・マグダラのマリア・タルソのパウロ・新約聖書・ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア教会・ローマ教皇・カノッサの屈辱・十字軍・ラテン帝国・ヴァチカン市国・カトリック・プロテスタント・免罪符・マルチンルター・カルヴァン・イエズス会・フランシスコザビエル・コンキスタドール・ピサロ・正教会・東ローマ帝国・ロシア帝国・イコン・英国国教会・コプト教・異端・魔女裁判・ジャンヌダルク・グノーシス主義・ ナグ・ハマディ文書・トマスの福音書・マニ教・ネストリウス派・景教・カタリ派・モルモン教・エホバの証人