はてなキーワード: 指導教官とは
元増田じゃないが
指導教官で選ぶってのは教官単体でなくその大学が拠点になっているかどうかって意味も含まれてると思うぞ。
そうでなくても外部への院進学を考えるなら受ける前にあらかじめアポを取るものだし自分はそういう経験はないが
移動が予定されてるならその旨を伝えてもらえるんじゃないか?
まあ落ち着きたまえ。気に障ったのならすまん。ごめんなさい。
なんか日本の制度のほうが優れてるって読めたから、書いてみただけだよ。茂木の話とは分けるべきだな。
ただ、
大学院ってのは指導教官で選ぶべきものだし、そのために東大の学部から地方大の大学院に行くという選択肢だって普通にあるんだよ。就活で不利になるかもしれないというのだけがちょっと問題だけど。
指導教官で選ぶのはリスクがあるのでは? 移っちゃうかもしれないからね。
だったら、その大学院が目指す研究分野の拠点になってるかどうかのほうが重要だと思う。
だから、
ただし、化学や生物の実験系みたいに金やコネが強力にものを言う世界(有り体に言えば生臭い世界)では米国の方がいいという話も聞くね。そもそもネット内外で「日本の大学はダメ、米国に行け」と言っている人はその分野の人が多い。
というのは、十分理にかなってると思う。
よくわからんが、その進度の違いっていうのは、その後の業績に関係するの?
別に。早熟であることは能力が高いこととは違うからね。高校でゆとり生活を送るか大学でゆとり生活を送るかの違いだけ。
もっとも日本の大学もアメリカの高校も言われるほど楽なわけではないが。
たとえば、日本の大学生のほうが、他国の学生よりも、(より高度なことを勉強してるわけだから)アメリカの一流の大学院に多く進学するとか。
なんでみんながアメリカの大学院を目指さなきゃいけないわけよ。あんたみたいな人って言っちゃ悪いけど、わけもわからずに東大東大と言ってる人と何も変わらないと思うよ。
大学院ってのは指導教官で選ぶべきものだし、そのために東大の学部から地方大の大学院に行くという選択肢だって普通にあるんだよ。就活で不利になるかもしれないというのだけがちょっと問題だけど。
もっとも、修士進学時点ではそこまで業界事情がわかっていることは非常に稀なので、米国の大学院に行くことは、異文化体験や英語力の養成というメリットと、高い学費や語学ハンディによる留年・挫折リスクのトレードオフだと考えればいい。アメリカ文学みたいに、アメリカにいること自体がメリットの分野なら別だけど。どっちにしてもこれは学部の早い段階からTOEFLの準備をしていないと難しいので、実質的にはアメリカ好き・語学好きな奴だけが取る選択。
というか分野にもよるけど旧帝大あたりの教官はだいたい世界レベルだから。米国の大学教育が優れているのは、(優秀な指導教官の)質よりも量ではないかと思う。
ただし、化学や生物の実験系みたいに金やコネが強力にものを言う世界(有り体に言えば生臭い世界)では米国の方がいいという話も聞くね。そもそもネット内外で「日本の大学はダメ、米国に行け」と言っている人はその分野の人が多い。
「死ぬほど英語」第三弾。
第一弾: http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
第二弾: http://anond.hatelabo.jp/20100621000447
あ、ちなみに俺増田でこれ以外は書いてないです。
ブコメとトラバを見渡していて、やっぱりもう一度書き足しておくことに意味あるな、と思ったので。コミュニケーションって難しいよねー日本語ですら。
ブコメの伸び方を見て、やっぱり日本人には英語ってオオゴトなんだなあ、と痛感する。しかし俺はそのオオゴトっぷりが正に問題であると思っている。もっとどうでも良くなればいい。「死ぬほどキヴンジョ語を勉強してきたからわかる、キヴンジョ語学習の限界」というエントリぐらいの扱われかたがいい。そうなったら、英語で不幸になる人がずっと減るはずだ。俺は日本人の英語力向上とか心底どうでもいい。だけど日本から英語で不幸になる人がいなくなるといいと思っている。
結局のところ、俺が叫びたいのは、で自分の学生には実際に叫んでるんだけど、まあそれは何かというと、「自分の英語力にプライドを乗せるのはやめなさい」ってことになるんだと思った。「自分は英語ができない」ことを自尊心に対する脅威と受け取って萎縮したり反発したりするのも、「自分は英語ができる」と鼻高々に吹き上がるのも、どっちも誰かを不幸にする(そしてその二つは大抵表裏一体だったりする)。俺のTOEICは600点あいつは900点とかうだうだやってたって、ネイティブに対しては所詮フリーザの前の地球人だ。そしてその意味では、死ぬほど英語を勉強してきた俺だって変わらないんですよ、ということなんだ。
で、自分で書いたときは全然意識して無かったんだけど、俺が例として挙げた、「指導教官に英語表現を直された」「学部生にあいつの英語はだめだと言われた」。沢山の人が、これを「苦杯」もしくは「挫折」の例として受け取ったようだ。「俺はこんなに英語を勉強してきたのにこんなに出来ないことがあった!俺の努力は報われなかった!」という愚痴を引っ張る枕詞としての例。
自分の文章を読み返すと確かにそういう取り方もできるなあ、と思った。でも実際は全然そんなことないのだ。例の出来事が起きたとき、まず頭に浮かんだのは、「うっわーアメリカ来てよかったー」という安堵感だった。日本にいたら多分こういう指摘をされることは無かっただろう。アメリカ来て、自分では見えていなかった自分の英語力の実態が分かって、これからはそれに合わせて対策をとることができる。よかったなーホント来てよかった。そんな感じ。落ち込む要素は全然ない。
考えてみたら俺は、自分の英語力に全く思い入れがない。XBOX360の実績ポイントって知ってる?XBOXのゲームには、「実績」という要素があって、例えばあるゲームであるボスを倒すとXXポイント、という風にポイントが獲得できる。そのポイントは各ゲームとは独立にハードウェアに記録されて、色々ゲームを遊んでいくうちにどんどん増えていく。XBOXを起動して自分のアカウントでサインインすれば、今までの実績ポイントの累積が表示される。現在5480ポイント、とか。
俺にとって英語力は、実績ポイントみたいなものだ。そりゃまあ増えればそれなりにうれしいけれども、別にポイントを増やすためにゲームをやってるのではない。面白いと思うゲームを楽しんでやってたら勝手に溜まっていく。自分の実績ポイントを人に自慢するとか、他人の実績ポイントを見て一喜一憂したりとか、そういうことには何ら興味がわかない。俺のポイントは俺のポイントで、こないだよりは多少増えている。それだけ。
で、そういうわけで俺は、これまでの人生で自分の英語力に誇りを感じたことも、苦い思いを味わったこともないんだよね。うーん、それでも大学合格した時はちょっと誇らしかったかなあ。地元では周りにやたら持ち上げられたし。でも入学してみたら、同級生には帰国子女がわんさかいた。そもそもお前らもう英語なんか勉強しなくていいだろ、って連中ですよ。誇ってる暇なんか全然なくて、むしろ「クラスメイトからも英語を教われる」ことがすごく嬉しかった記憶がある。だっておっさんネイティブ教師より、かわいいバイリンガル女子に聞いた方が楽しいじゃないですか。授業でわかんなかったとこを丁寧に教えてくれた女子に告白して玉砕したのは、まあ苦い思い出と言えなくもない。
真実として、英語は、英語だ。「たかが」でも「されど」でもない。「英語なんか」でも「英語こそ」でもない。英語。自然言語の一つ。英語。「死ぬほど英語を勉強してもネイティブ並にならなかった」という事例には、俺にとっては何のドラマ性もない。ただ「そうだった」だけである。そうだったからにはどうすればいいのか考えればいいだけである。そこに苦いドラマを見いださずにはいられない人がいたら、その人はたぶん英語をオオゴトにしすぎている。
http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
論文書く前に他人の論文を大量に読んでいれば、表現が訂正させれっれることはないんじゃない?
学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。
移民が英語で暮らせても、現地のビジネスマン向け英語教室に通うのはキャリアアップとしては必然だと聞くし、
結局、本人が書いてあるように全能感からきた怠慢による失敗談であって、日本人が英語ができるはずがないというのは自己正当化じゃない?
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。
どうかな。カルロスゴーンはブラジル生まれでフランスで教育を受けているが日産で経営手腕を発揮している。
フランス語やポルトガル語を使わず英語を使って従業員とコミュニケーションしているはずだ。
俺は英語学習オタクだ。これまでの人生の中で大量の時間を英語学習に費やしてきた。中学校から始めて、日本にいてできる英語学習法は殆ど試したと思う。高校時代には学習参考書や問題集を二百冊以上終わらせた。ネイティブの個人家庭教師がついていて、さらにマンツーマンの英会話スクールにも通った。大学は迷わず英語学科を選んだ。大学在学中にTOEFLのスコアは640を超えた(厳密には覚えていないが、目標が640でそれを超えたのは間違いない)。
大学を卒業後、アメリカの大学院の博士課程に留学した。ここでも俺の英語は「通用した」。授業に問題なくついて行き、ディスカッションにも十分に参加できる。タームペーパーや授業でのプレゼンの評価はAかA+。学会での口頭発表もすんなりとこなすことができた。
しかし、留学中のいくつかの出来事が、俺の「自分の英語力」に関する認識を変える。
ひとつめ。在学中に指導教官(英語ネイティブ)と共著で論文を書くことになった。俺が最初のドラフトを書き、指導教官がそれをチェックするという形で、共著と言っても実質俺の論文みたいなものだ。しかし、ドラフトを書き上げ、指導教官に送って、それが戻って来たのを見て愕然とした。ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
ふたつめ。TA(ティーチングアシスタント)としての仕事の一貫として、学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。授業自体は問題なく進んでいた。しかし、学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、英語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
ある学問領域における学生の仕事としては、言っていることの内容が通じればそれでよい。評価はその内容の質に基づいて下される。しかし、実は世の中には、「同じ内容をどのように伝えるか」が遥かに重要になる文脈の方が多いのだ。そして、「通じる英語」と、「上手に伝える英語」の間には、ものすごく深くて広い河がある。そこそこ英語のできる日本人、TOEIC900+ぐらいでちょっとした留学経験のある人には、往々にしてこの認識が欠けている。
その後俺はPh.D.を取得し、日本に帰ってきて大学に就職し、今でも仕事の中で日常的に英語を用いている。しかし、自分の英語力は、ネイティブの言語能力には遠く遠く及ばないものだという認識がある。「通じる英語」は問題なく使いこなせる。自分の学問分野においては、俺は英語で実績を上げていて、俺の名前は国際的に認知されている。しかし自分には、英語を用いて「言葉の力」を利用するのは難しい。例えば人を説得したり、納得させたり、なだめすかしたり、楽しませたり。そしてそれは、俺の努力が足りないせいでも、ましてや日本の英語教育が悪いせいでもない。第二言語として英語を学ぶ日本人の限界なのだ。(というか、ネイティブですら、話下手や説明下手は山のようにいるのだから、第二言語学習者については何をかいわんやである)
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。ジョブズが英語でやってるのと同レベルの仕事を日本語ではできないのと同じように。
「通じる英語」を身に付けたばかりの日本人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。得意げに日本の英語教育にモノ申してみたり、「英語ができない日本人」を問題視する発言をしてみたりする。しかし、英語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる英語」では全然足りないのである。その意味では、TOEIC600と900の違いは誤差でしかない。結局勝負を分けるのは「どれだけ優秀なネイティブの参謀を捕まえられるか」なのだ。
...いや、何だろうね、どうも最近の「日本人は英語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人は英語ができないことを前提にして、それを補うシステムを設計しないと生き残れない」ということになるね。英語以外の言語についてはごく自然にそういうスタンスを取るのに、何故か英語についてだけは個人の努力に責任を負わせようとする傾向があるんだよね。俺はそれは間違いだし、無い物ねだりだし、中途半端に英語ができる人間の勘違いを助長して結果として不利益を生むだけだと思っている。
俺はテーマを与えられたけど、
指導教官が「俺は分からんから自分で考えてやって。」というスタンスだったから非常に苦労した。
学内の詳しそうな先生に相談しに行ったらやっぱり政治的な理由で
無下に扱われたしね。
あと中退なんて考えなくていいよ。ちゃんと修了できる。
修了出来なかったら指導員の能力が問われるからちゃんと修了させてくれるよ。
んで結局修了できるなら、ニッチで細かいことよりも
横からだけど、正直、君がダメなんじゃなくて先生がダメな気がするなあ。研究者としてじゃなくて指導教官として、ね。
別の提案をする(Aがありますが、こういう問題がありますので、Bと組み合わせるといい結果が出そうです)→組み合わせただけ?
「組み合わせただけ」で修論としては上出来だよ。「いい結果が出そう」という見通しすらなしに単にやってみただけの修論だってごく普通なんだから。学生がそこまで自分で言えるようになっただけで十分なのに、修士課程の学生に先生なにを求めてるんだろ。「組み合わせただけ」の上に何か積めるならそりゃ博論レベルと言っても過言ではない。
多分、教授は君が持ってきたネタの関連分野一筋に一生捧げてきたから、君の言うことがトリビアルなように錯覚しちゃってるんだろうね(本当は修論なんて、表面上の新規性さえあれば、トリビアルなネタでもいいはずなんだけど)。
そこで提案だけど、助教とかポスドクとかにこっそり相談してみたらどうだい?で、助教やポスドクが詳しくて教授があまり知らなさそうな分野のネタと、現在君が関心を持っている分野を「組み合わせ」てみる。そうすれば「組み合わせただけ」でも教授にはつまらなく見えなくなるよ。
要は、あんまりしがらみがない人に「単に相談に乗ってもらっているだけ」という形で、実質上、半分裏の指導教官みたいになってもらうわけ(ただ、このもくろみ自体はできるだけ伏せておくこと。助教やポスドクは立場が弱いので、教授に逆らうリスクを負わせてはいけない。あくまで、君が個人的に周りの人を質問攻めにした結果、その分野に詳しい人に相談に乗ってもらうことが多くなったという形にする。これ重要)。それで何とか乗り切れるんじゃないかなあ。
修士で完全放置っていうのはちょっとひどいよなあ。数学とかだとそういうのもあるの?いや、最近話題の生物かな?
まあ、私立の院ということで、学生の数が指導教官に比べて多すぎるので眼が届かないんだろう。しかし、とにかく指導教官どのコミュニケーションが不足している気がする。
相手が怒ろうがどうしようがしつこく絡んだ方がいい。どうせ今年限りだ(M2だよね?)
まあ、君だけ無視されてるんだとすると自分ではどうしようもない状況になっている可能性もあるが、その場合(これは最悪の場合だと思うが)は指導教官を変えるという手もある。そろそろ納涼会みたいなイベントがあるだろ?そこで学科主任に泣きつくんだ。教授準教授縦割りシステムになってから、そうやってる移動している学生は結構いると思う。まあ俺が知っているのは国立の場合だけど。
ああああああああああああああもう色々とやばい。
自分はなんでも後回しにしてしまう性分で、
今まで本当にぎりぎりまで行動を起こさないこの性格のおかげで、
さんざん痛い目にあってきた。
しかしギリギリのところで何とかなっていたので、
これまでも「まぁなんだかんだ何とかなるよ」とゆるく構えていたら、
ほんとうにのっぴきならない事態になった。馬鹿すぎる。
友人との連絡を途切れさせ過ぎてそろそろメールしないとやばいし、
実はパンキョーを取り終えてないことを指導教官の先生にそろそろ言い出さないといけないし、
サークルの仕事はきちんとやり終えてないからそろそろどうにかしないとやばいし、
進路のために動かないといけない時期のタイムリミットが直近までせまってきてるし、
借りたものも返さないといけないし、
国民年金の手続きどうにかしないといけないし。
膨らんでいく風船が、いつか割れるとわかっていてじっと何もせず見てて、
脈拍だけはずんずん速くなっていって、このままだったら心臓止まるんじゃないかって。
そんな気分。
それなのにこうやって増田書いて、何をはじめるでもない。
きっと始めてしまえば「なんでこの程度のこともっと早くやらなかったんだ」って思うようなことなのに。
哲学と単に言っても大体は「西洋」哲学なので、東洋人的感覚からすると「何当たり前のことグダグダいってんの?」とか「んなわけねーじゃん、バカなんじゃねーの?」ってのはありがち。その例は典型的な後者だよな。そんな薄っぺらい論理で「自然より人工がいい」と言われても、東洋的な感覚からは納得しようがない。
それに、ヘーゲルは学者の間でもわりと評価が分かれる。おれの指導教官は(さすがに異端だろうが)全否定だった。曰くヘーゲルは「太陽系の惑星の数は(キリスト教で)完全な数字である"7"なのだから、第8の惑星(海王星)は存在するはずがない」などとのたまう愚か者であって、あんなゴミクズのような書物はすぐに捨てたほうがいい、らしい。ゴミクズ・・・増田の2万円・・・
まあ・・・哲学は学者によって主張もスタイルも全く異なるので、同じジャンルに放り込まれていてもそれぞれが全く別物と考えるべき。題名や著者名でなんとなく買うようなやり方は避けるのが財布のためだろう。哲学を内側から利用する人(論文を書くなど)でない限り、「プラトン、アリストテレス、カントもヘーゲルもベルクソンも読んだ上で初めて、言ってることが吟味できます」みたいな読み方(つまり、フツーの読み方)は時間効率的にほぼ無意味に近いわけだから、立ち読みして興味を惹かれたもの以外、無味乾燥な屁理屈としてスルーするのが得策なんじゃないかなあ。
小説とは嘘である。だから今日という日にここに小説を書くというのは理にかなった行為であると思う。だから今日はここに存分に書いてやる。書きまくってやる。小説だから嘘なのであり実在の人物などには関係がないのである。勘違いしないように。ちなみに筆者は太宰治の『人間失格』を読んだことはないのだが、きっとこういう話なのだろう。
もはや死んでしまいたいと男は思った。
だが死ねなかった。死ねるはずもなかった。あらゆることに下手な嘘をつき、死にたいという自分の気持ちにすら嘘をつくようになった。ただ問題を先送りし、問題をさらに悪いものにするしか能がない男にそこまでする甲斐性も度胸もあるはずがなかった。男はもはや生きているのか死んでいるのかよくわからない生活をするようになった。今もそうしている。
男がこうなってしまったのは大学4年のときにさかのぼる。彼は初めて留年したのだ。
中学受験も成功し、そのままエスカレーターで高校も入学、大学受験も某有名国立大学に入学と順風満帆な人生だった。ところが大学3年に入ってからその人生がきしみはじめた。前期のあるテストで今までにないほどに手も足も出なかったのだ。その出来事は男のプライドを大いに傷つけ、その傷ついたプライドを修復しようとするあまり大いに肥大させた。「授業に出なくても大丈夫だ」とよくわからない妄想をするようになったのだ。後期は惨敗だった。
留年という事実に耐え切れなくなった肥大したプライドは男を逃避行動に誘った。挫折を経ず、反抗もすることもなかった男は見た目以上に子供だった。外に出ることをやめてしまった。インターネットで肥大したプライドを慰めることしかできなくなった。いわゆる引きこもりでニートになってしまった。事あるごとにつっかかり、事あるごとに自分を卑下し罵倒した。いや、自分を罵倒する癖は以前からあった。
男は過去にあった忌まわしい記憶をいつまでも覚えており、些細なことでそれを思い出し、後悔するという妙な癖があった。その記憶は自分に好意があった女の子を泣かせたとか、自分が重要な役の学芸会に少しの熱で休みそのことを先生に怒られたとか、他人から見たらなぜそんなことで思い悩まなければならないのか不思議で仕方がない代物ばかりである。だが男はそんな自分が許せなかった。そんな癖が自分だけでありおかしいことに気がついたときにはたまりにたまり、もはや取り返しがつかないほどのトラウマ状態になってしまっていた。それを思い出したときは数分間自分を罵倒し続ける時間が続き、何もできなくなってしまうほどになっていた。
言うまでもなくその癖は引きこもりになっている間にさらに悪化した。些細なことに対してでさえ自分を許せない男が引きこもりになった自分を許せるわけもなかった。授業に出ないこと、ネットに依存していること、ろくに外に出ないこと、ただだらだら寝ていること、まるで掃除をしないこと、自分に嘘をついていること、それらすべてが自分を罵倒する理由となった。もはや何をすることもできなくなっていた。4年の前期は1単位も取れなかった。
さすがに心配になった指導教官がカウンセリングを男に薦めた。だが男は自分を騙すほどの嘘つきになっていた。カウンセラーの前でひたすら自分の好きなことをしゃべるばかりでまったく役にはたたなかった。後期も単位はなかった。
男は引越しをすることにした。自分が引きこもりになった原因をネット依存だけに転嫁しようと思い立ち、インターネットができない環境に自分をおくことにした。だがもはや遅かった。男の癖はインターネットがあろうがなかろうが関係ないほどにその心を犯していた。ネットがなくなり依存するものがなくなった男はただ寝続けるようになった。
彼が反抗することを知っていればどれだけよかったであろうか。それでストレスを発散でき多少なりとも心の均衡が取れれば多少の改善は期待できただろう。だが彼は反抗することを知らなかった。限りなく彼は子供だった。ただ寝続け、そんな自分を罵倒することを繰り返した。その1年、彼は人をやめた。
彼は研究が好きだった。あらゆる物の分析が好きだった。ひたすらひとつのことに没頭できれば幸せであった。そんな男の夢は研究者、エンジニアになることだった。だがもはや彼がエンジニアになることはないであろう。勉強ができない、向上できないエンジニアに価値はない。夢は閉ざされた。
男はようやくエンジニアになることをあきらめ、学校を中退し就職することにしようと考えるようになった。だが考えるのが遅すぎた。その年、世界は大恐慌に見舞われた。それはいまだかつてないほどの大恐慌だった。部品を作り、それを組み立て、海外に輸出するという商業体系に依存している日本はその恐慌をまともに受けてしまっていて、働き口などなかった。
男は再び迷っている。まだ退学届けを出していなかったので大学に戻ることはできる。だが戻ったところで勉強できる保証などない。いや、できるわけがない。だがこのまま就職活動していてもこの大不況のときに2留で中退などという男を雇ってくれるなどという酔狂な企業も期待できない。たとえ来年景気が回復しても、彼はおそらく新たなトラウマでもう就職活動などできなくなっているだろう。
だが彼が死ねるわけがないのだ。自殺できるものは勇気があるのだろう。死ぬ勇気が。彼にはない。遺された親族のことを考えるとそんな気も失せてしまう。それはただ死なないでいい理由を探しているだけの逃避なのだが。これから彼は親が死ぬまで一生依存していくしかないのかもしれない。いやきっとそうなるのだろう。
嘘つきで親不孝。男は人間として失格であった。
もう一度言うがこれはフィクションだから現実の世界とは関係ない、ただの物語である。
ちなみに筆者はこの世のあらゆることは面白さに満ちていると考えてるので何があろうと絶対自殺することはできないと思います。
大学院を中退した人の日記が話題になっているようだ。http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733
自分も大学院を中退したことがあるので、昔話を書いてみたいと思う。といっても件の人とは違い、確固たる考えがあってやめたわけではない。
地方の進学校の高校にいた自分は、たまたま勉強ができたので東大に進学した。
自分の成績と照らし合わせた結果、たまたま東大になったという感じ。
(一時期は京大に興味もあったが、数学の過去問を見てできる気がしなかったので東大にした)
進振りのときも、将来のキャリアプランなどについては全く何も考えず、専攻を決めた。
「キャリアプランについて考えることすら思いつかず」と言った方が正しいかもしれない。
働くなんてことは想像もつかなかったし「勉強」は嫌いじゃなかったので、大学院を受けないなんてことを考えすらしなかった。
これまでは与えられたことを勉強していればよかったが、研究はそうじゃない。(指導教官の力を借りつつも)自分で問題を見つけ、解決していかなければならない。
しかし自分は、明確にこれをやりたいというものがあるわけではなかったし、論文の探し方すらロクにわからなかった。
一番の問題は「自分に熱意がなかった」ことだろう。
ある問題に対して寝ても覚めても、毎日毎日考えられるような熱意がなければ、研究はやっていけない。
でも自分は、専攻領域に興味はそれなりにあったが、人生をそれ一筋に染めるような熱意は到底なかった。
卒業研究は、全くのまぐれ当たりで面白い結果が出たので取りつくろうことができた。
M1のときの健康診断で、医者だったかカウンセラーだったかの人に対して「やっていけるか不安です」って答えたのを覚えている。
M2のとき限界に達し、修士論文の中間発表に出たのを最後に全く学校に行かなくなった。(中間発表までいったのにもったいないと思う人がいるかもしれない。でも、ぶっちゃけ修士になってから出した成果なんてほとんどない。卒業発表の焼き直しみたいなものだ)
家にずっと引きこもり続けた。
電話も鳴ったが、全く出なかった。電話が鳴るのが恐かったので、電話線を抜いたりしたこともあった。
その後もろもろあって指導教官と数度話をし、結局、籍だけは3年間置いてもらったものの、研究に復帰することなく退学した。
そのあとどうなったかというと、退学後も半年くらい引きこもり続けたあと、このままやっていくこともできないなと思いハローワークに行った。
自分はプログラミングしかできることがなかったからプログラマーを募集してる会社を探し、そこで見つけた会社に入社した。
今は最初に入った会社とは別の会社で、それなりに楽しく働いている。
今から考えると、修士を取ることはできないことはなかったのだろうなとも思う。
病院に行って適切な治療を受け、研究方法についてわからないことは何でも研究室の先輩や指導教官に聞くべきだったのだろう。
まあでも過ぎたことだし、修士を取れなかったことに対して今は特に後悔の気持ちはない。
そもそも、研究に熱意のない自分が流れで大学院に進んだこと自体が間違いだったのかなと思っている。
退学という強制ルート変更がなければ就職なんて考えられなかっただろうから、退学になってしまって逆によかったのかもしれないけど。
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2
たいていの大学の先生は似たようなこと思って学生に接してるはず。でも、はじめから自分で物事考えられる人なんていないんですよ。大学でもたぶん卒論書く直前までは、勉強ってのは基本的に自分で考えるんじゃなくて答えを出すことなわけで、自分でものを考えることなんてやったことない。テストで悪い点数をとることはあったけど、答えを出すまでやり直しになったことがある訳じゃなくて、あー、今回は成績悪かったね。次は正しい答えを出せるようにがんばる、で終了なんですよ。レポートも同じ。少なくとも私はそうだった。だからこんなこと言われても困る。
とか言われても、もうなんというか絶対間違える自信がある訳ですよ。「精神的な背骨が育っていないから」ではなくて、自分の意見を言わないのはそもそも研究の目的が理解できてないから。間違うのがわかってて、それを論破されるのがもうほぼ確実に予想出来てるのに、わざわざ自分からフルボッコされるようなこと言うわけないじゃん。もう黙ってるしかないじゃん。
って私は思ってました。修士のころはもうほんとに教授と会うのがいやでいやで仕方なかった。絶対怒られるから。今になって思えば怒られてるんじゃなくて、研究を進める上で重要ないろいろな視点を提供してくれてただけなんだけど、なにしろなんもわかってない状態だから自分のこと全否定されているように感じてた。博士課程に進まずに就職してたら、私だって間違いなく、大学院なんて教授が偉そうにしててろくでもないところ、あいつらは社会経験がないからな、博士なんて進まずにさっさと就職すべし、とか増田に書き込みしてたと思う。最近よく見かけるでしょ。あれの半分くらいはそんな理由だと思ってる。
ここからはid:next49さんへ。
学生の「精神的な背骨」とやらに責任を押しつけるんじゃなくて、辛抱強くその研究がいかにすばらしいかを説き続けてください。それが本当の意味で理解できないから、自分の研究に発言に自信が持てないんです。あなたは確かにはじめからそれが出来たかも知れない。大学の先生になるくらいだからとても優秀だったんでしょう。でも、そうじゃない人だっているんです。だいたい議論して研究を進める、という過程を経験したことがほとんどないんです。そしてあなたは、
君が背骨を手に入れる手助けをしきれなかった
と自分で書いています。あなたは自分自身でその「精神的な背骨」を手に入れたかも知れないけど、学生にそれを与えるのが大学の先生の仕事ですよ。それでお給料もらってるんでしょ。学生はその教育を受けるために学費払ってるんです。本来は。
ただ、時間が足りないってのはあると思います。私は4年かかりました。4年間の間辛抱強く指導してくださった指導教官にはとても感謝しています。馬鹿で物わかりの悪い私みたいな人間でも、いつかは伝わるものです。だから、
どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。
というのではなく、たまにはその研究がいかに重要か、いかにすばらしいかを話してみてください。学生の卒業研究テーマなんてほとんどの場合教授から与えられたもの、でしかないんです。なぜその研究が重要かわかんないけど、とりあえず言われたからやってみた。その程度の認識です。そして、その研究のことを一番よく知ってるのは自分ではなくて教授だと思ってます。だから黙るんです。自分のやったことがすばらいことだと納得出来れば、自然と自分の意見、主張が出てくるようになると思います。
おまけ
身近な学生で指導教官が教育熱心なあまりに、ちょっと筋違いの逆恨みされてやめちゃったり鬱になったりした人がいたので、そうゆう不幸がすこしでもなくなれば、と思い書いてみた。まぁ世の中アカハラするような電波先生がいることも否定はしないけど、それだけじゃないですよ、って話です。
(追記)
初めて増田で書いたんだけど、トラバできないし、どうやって元記事の人に伝えればいいんだろ。idコールってこれすでに使えてるの? だれか教えて。