はてなキーワード: クラシックとは
俺は人間をやめようと思う。
進歩しようと思う。ということだ。
一般的に人間の限界と呼ばれる垣根を飛び越えていこうと思っている。
その為に何をすべきだろうか、と色々考えてみているんだが、とりあえずそのやるべきことを羅列していこうと思う。
・哲学書を読み、理解する。
・語学にも親しみ、有名な洋書を読めるようになり、またその洋書にも親しむ。
・遅くても午後十時には寝て、できれば午前五時くらいには起きる。
・小食。
・毎日三十分以上は歩行する、あるいはそれと同等の運動をする。
・たまにはゼェゼェと息を乱すくらいの運動をする。
・内臓の機能を保つ、つまりは健康を保つ。(上記の運動行為は必ずしも健康を保持するためだけのものではないことを明記)
・人と"良く"会話する。
・たまには誰かと勝負する。
・有名なインストルゥメンタルを聞く(クラシックやジャズなど)。
・苦痛を愛する。
タイプムーンのキャラクター・マテリアルを読んでたら人間をやめたくなったんだ
俺は別の何かになるべくすることにする。
優劣を決めたがるのは人の性というかなんというか。
クラシックを理解出来ないって大声で叫ぶことで自分は音楽を純粋に楽しんでるとか思っちゃう人もいることだし。
アニソンはジャンルじゃない、とかも単なる揚げ足取りだねー。だから何なのっていう。その人が話している前提を汲まなきゃ意味なす。
あれでしょ、なんだかよくわからないけど人気出ちゃってるものを否定したがる気持ち。アニオタだってそういうのあると思うよ。
あとこの発言主も言ってるけど、アニソンは地雷かもしれないね。残念だけどいまだにネット上って偏ってる人のほう多いし。特にツイッターなんてそうでしょ。ちょっと観察しただけでそう思えるんだから
そもそも「アニソン」なる分類が嫌い。
ああ書いたけど、増田は男。
女性に限らず、適当な話題を作るときっていうのは共通の要素が必要なんだよね。音楽にしても、ファッションにしても、小説にしても、学問にしても。
だからたとえば職場の飲み会とかでビジネスと下ネタの話しかできない人ってのは、他人にあまり興味がないんだと思う。
これはゲームとアニメと処女についての話しかできない人にも言えるんだけどね。閉じてるんだよ。閉ざしているんじゃなくてね。
少なくとも髪を染めたということは、何のメーカーの何の商品で染めて次は何の色で染めたという話ができるわけだけど、髪を染めない人ってのは自分がなんで髪を染めていないのかっていう自分語りしかできないんだよね。正直言ってそういう男はつまらない。
染髪の話題に触れられたけど、別に髪を染めるだけじゃなくて、たとえば音楽なら、いつもはジャニーズしか聞かないけど、実はクラシックでは新古典主義、ポストロックなんかもたまに聞くんです、っていうだけで、話題になる対象が倍々に広がる。というのも、クラシックを聞く層ってのはたいてい吹奏楽や合唱、現代音楽とジャズのうち、どれかは必ずと言っていい程耳にしている。そうすると今度は理屈っぽくいけばDTM含めた作曲や、どんな楽器を演奏したことがあるかとか、聞き専でもどんな楽器や楽団、あるいはバンドが好きで、某曲のあのクライマックスにかけての音色の積み重ねがステキ、とか引き出しが増えるし話も続く。
学問につけたって、今は学際領域がたくさんあるから、自分が全く関わってこなかった分野で、その無縁な専門家の人とたまたま領域が一緒になったってだけで居合わせてしまい、仕方なく何か話するにしても、「いやあ、あなたの分野の研究はさっぱりわかりませんよハハハ」っていうより「某さんのナニガシ研究は私の分野にはない新鮮なものだった。○○というのは私の方の分野では××との兼ね合いから○×になってしまってチョメチョメなんですが、より研究を進めていけば互いの分野により共通したペケペケになるかもしれませんよね」っていう方が、その場しのぎとしては前者のほうがいいだろうけど、有意義な時間を過ごすなら後者のほうがダンゼンいい。
結局のところ予習しなきゃだめだよっていうことなんだけどね。
ここしばらくのところ、開かれた人間と閉じられた人間、ということを考えてきた。
それを考えるに至った理由は、高校時代には良いことだと思ってきた好奇心が、
大学に入って、なんだか悪いことのように思えてきたからだ。僕自身、周りの影響を受けて遠慮するようになってきたのだ。
それが大人になることなのかもしれない。だけど全く楽しくなかったし、読んできた無数の本の内容が
全て否定されるような気がした。それに否定してくる人たちはみんな退屈だったんだ。
退屈は悪いことだ。新しいものを生み出すことをしない。
退屈の空気に慣れると、変化を嫌がるようになる。
だけど変化を否定した組織や共同体は、死んでいるんだ。変わるとしても、腐敗するだけなんだ。
僕の周りでは、どうやって変えるかについて議論をする奴はいなかった。
開かれた人間は閉じた人間には興味がなくて、自分たちでやっていけばいい、と言うんだ。
そうなのかもしれない。変わりたくないって言ってるやつを無理に変えることはない。
でも、変わりたいけど変わり方がわからないやつに対して、何ができるかを考えることには意味がある。
それともう一つ。この文章をここまで読んでいるだけでも、完全に閉じてはいないことを分かってほしい。
僕の周囲を見渡してみると、好奇心を肯定する人間と、否定する人間、そういう基準で人間を二つに分けられることに気付いた。
ここで書かれている「好奇心」は、質問を歓迎するか、ということで言い変えてみてもいい。
好奇心を肯定する人間は吸収し続けている。これを開いている人間と呼ぶことにしよう。
好奇心を否定する人間は、ルールを学習した後は、それを変えることを好まない。
これを、閉じている人間と呼ぶことにしよう。
一般的に学校の先生は殆ど閉じている。学校という組織が開くことを否定するものだからだ。
彼らは、質問はありませんか、と言う。
だけど、僕らの疑問に興味を持ってはくれないんだ。
予習が足りないとか、授業をちゃんと聞けとか、そんなことを言うんだ。
開かれた人間は大体が、閉じられちゃったら仕方ないよね、と考えている。
諦めてしまっているんだ。ただ開かれている人間を見つけたら、一気に仲良くなる。
で、僕が考えるのは、なんとか人間をこじ開けることができないかということだ。
それを小説でやろうと考えていたんだが、小説を動かすエンジンになる「思想」
が明確化されていないのに小説の結論を出すのは難しい。
だからエッセイを使ってみることにしたんだ。
http://blog.livedoor.jp/simoom634/archives/50189369.html
というエッセイで言及していたことだ。
つまり、頭の中で考えるんじゃなくて、文章にして考えてみるんだ。
グレアムの流儀に従ってみることにしよう。
エッセイは質問から始まる。
閉じた人ってどんな人?開かれた人ってどんな人?って具合に。
で、僕にはあらかじめ考えがあったわけじゃないんだ。どこにたどり着くかもわかってないんだ。
ここで2つ目の質問を出そう。これは大事なテーマだ。
「閉じた人はどうやったら、開いた人になれるの?」
これは最初に書いた定義に従えば、どうすれば好奇心を取り戻せるかってことだ。
それは閉じた組織にいるときには難しいことだ。閉じた組織は疑問を持つことを否定するんだ。
じゃあどうする?反抗するのがいいのか?従って、だけど頭では違うことを考えているのがいいのか?
これはどちらも間違っている。
反抗したところで、閉じた思考の持ち主は、とりわけあなたの上司は、閉じることに関してはあなたよりも一枚上手だ。
なにしろ彼はあなたよりも長い間、どうやったら疑問を抑えられるかを学んできたのだから。
もし従ったならば、あなたの思考は多かれ少なかれ、それに適応してしまう。
開かれた人間はコースアウトするんだ。面白そうなところに向かおうとするんだ。
そして自分のルールを見つけて、楽しく生きるために必要な原則を見つけるんだ。
開くために必要な手段は、素朴な疑問を持って、それを潰さないようにすることだ。
それと、楽しんで生きることができる例をもっと沢山知ることだ。仕事は義務で、趣味に生きるっていうのではなくてね。
開かれている人の集まる場所を考えてみよう。一人になることだって、麻痺させないためには悪くないんだけど、
それは寂しいし、慣れないだろう。
だから開かれた人のいる場所を考えてみることにしよう。
彼らは大体が一人でいるか、小さな組織にいる。
もしくは、大きな組織の中でも、独立性の高い小さな組織にいる。
大きな組織と開かれた人は相性が良くないんだ。
彼らが彼ら自身のルールに従うから。。
子供の頃はみんな開いている。みんな素朴な疑問や、旺盛な好奇心を持っている。
それが「正しい」ものかは別にしてね。
それが大人になるにつれて、規律とか、常識とか、空気とかを理解するようになっていく。
親や学校や社会の教育で、そういうものに従うのが正しいものだと思うようになっていく。
閉じた人間はこう答える。でもこれは伝統だから。歴史には理由があるんだよ。
もっと閉じた人間はこう答える。これはルールだから。ちゃんと守らないと。
それはトートロジー(Q女とは?A人間のうち男でない方みたいな説明のこと)じゃない?って疑問には、沈黙を持って答える。
どちらでもない人間は迷う。おかしいなあ、と思う。
それを開いてやろう、とぼくは思うわけだ。
音楽や小説や映画やエッセイや美しい学問は、人を開く役に立つ。
必要なのは、相互に矛盾するような性質のものを両方受容することだ。
こんな具合に。
だけど、どちらでもない人間は、少ししか空いてないわけだ。
だから一度に沢山の物を入れることはできない。
それに強烈なメッセージには拒否反応を示すかもしれない。
始めは、変わってしまうのは怖いことだから。
「教え」が入り込んでくるのは、自分が自分でなくなるような気がするからだ。
だけど、「考え」だって、「教え」の総和にすぎないわけだ。
素敵な大人達が厳選したものではあるけどね。
それに対抗するには、沢山の教えを学んで、シャッフルすることだ。
沢山の教えの中には、閉じたものも、開いたものもある。
だけど歴史に残るものには、開いた人の作るものが圧倒的に多い。
彼らが何かを変えてきたからだ。
だからそういうものを受け入れることによって、開いた人になることができる。
だけど、閉じた大人たちだって、本を読めとは言うんだ。
どの本を読めとは言わないけどね。
それは彼らがどの本が良いかを理解できないからだ。
そういう訓練を(つまり沢山の本を読むことだ)してこなかったからだ。
別に本に限らないんだ。音楽でも、映画でも、漫画でもいいんだけど。
とにかく自分の中に規制を設けないことだ。読みもしないのに、聞きもしないのに批判をしないことだ。
そしてとりあえずちょっとずつ試してみることだ。
何か気に入ったものがあれば、その作者の他の作品や、その作者が好きだったものや、薦めているものや、
amazonで薦められているものを調べたりしてみることだ。
一つ注意点。昔の小説は、昔の作品は、長い前置きがあるんだ。
忙しい現代人の為には作られていないんだ。
それを耐えるためには、読みやすい文章のものを選ぶこと。そしてそういう事実を理解することだ。
だけどそうやって開いたところで、社会の押し付けはしつこく続く。
これに対抗する方法は、戦うことじゃない。さっさと逃げることなんだ。
素晴らしい場所を見つけるんだ。技術や知識を磨きながらね。
なんなら素晴らしい場所を作ったっていい。
素晴らしい場所を作るっていうのは、尊敬できる友人と起業するってことだ。
そうすれば素晴らしい人生を送れるはずだ。少なくとも閉じた人間よりは、沢山のことを見ることができるし、
沢山の感情を感じることができるんだ。
昨晩、仲のよい男友達(彼氏ではない)と二人でクラシックを聞きに行って、その後ディナーした。
(ディナーが終わったら家の前まで送ってくれた。泊まりとかそんな事実はない。)
このことを友人(女)に話したら、浮気だと言われた。
浮気なのだろうか。
そもそも私にも相手にも現在お付き合いしている人はいない。
操立てする相手がいないのだから浮気にはならないのではないか。
(厳密に言うと操立てする相手がいないわけではない。
私にも相手にも好きな人がいる(私は相手の好きな人を知っているし、相手は私の好きな人を知っている)。
だけど悲しいことにふたりとも望みのない恋愛をしている。
私たちが恋愛の話をすると、おまえってほんと趣味悪いな、なんてと言いながら傷を舐め合うだけという結果に終わる。
不毛なことこの上ない。
きっと友人は、好きな人がいるのに違う異性とデート(私の感覚ではただ遊んでるだけなのだが)することが許せないのだと思う。
そして互いを慰め合ってる姿が惨めたらしく、醜悪に映るのであろう。
これは浮気なのだろうか。
それに対する、彼は優秀だっていう全く反論になっていない擁護がなんでこんなに支持されてんの?
http://anond.hatelabo.jp/20100216222839
この部分に対して、ぼくは反論を述べている(というか、そりゃちゃうだろと言ってる)わけですよ。
そのブログの中では、海外のモヒさんや腰パンさんが引き合いに出されて、国母のカッコは異常とはいえないよーと主張してる。
彼が優秀だ、という主張も当然含んでいるけれども、その一方で比較がなされているよね。
これ、もちろん「腰パンはぜんぶうんこ」とか「モヒなんか地球のチンカス」的発想だと擁護になってないと感ぜられることもあるかもしれないけれど、まぁ海外では許されているという実例としては十分擁護の体をなしているわけで。
ソレに対して、「ボーダー全部カスとしか思わなかった」は個人の感想に過ぎないわけでして、ここが食い違ってるんだね。
一応、比較という意味では十分な擁護になっているし、スノーボードという競技の上で国母一人を批判するのはおかしい、という論調にもなってくるだろうと思う。まぁ、実際に成功しているか否かはともかくとして「海外から見て異常だ」という批判は回避できるよね。
次。
このブログの主張をもっと読むと、どうやらこの騒動の発端となったのは「記者会見」で記者が国母に「その服装どーなん?」というような質問をしたのが発端らしいけれど、それを「謝罪になってない」と報じた、とこのブログの人は主張してる。
これもまた「謝罪を求めちゃいけない法律とかあんのw?」とか言われても困るのだけれど、そもそも謝罪をするための場ですらないと言ってるし、それを「謝罪になってない」と報じることは悪意のある報道ではないか、という論旨は理解出来るよね。これも立派な擁護論として成立すると思うよ。謝罪会見じゃない場で服装について質問して「謝罪になってない」というのが事実だとすればね。
んで、俺が何よりあなたさんにツッコんだのは。
ホント読んでないね、ってこと。彼が優秀だ、って以外にも色々挙げてるじゃないですか、と。
それについて、あなたの価値観的に「モヒ・腰パンは全部クソ」っていうのはまぁ、それは個人の考え方だけど、その回答をした時点で当初の書き込みと矛盾するじゃないですか。一応、反論にはなってるよこれ。ただ、あなたのような価値観の人間からすると、「ボーダーは全部クソ」って帰結になってしまうのかもしれないけれど。
とりあえず、なにが言いたいって「読んでから批判したら?」ってことなんじゃないかなー、と。
個人的には、スポーツイベントで多少奇矯なカッコ、それもボードみたいなその成り立ち自体がショウ・スポーツだってことも加味すれば、今回のこれは許容されていいんじゃないのと思う。これ、さぁ。クラシック音楽祭にロックバンド呼んで「なんだその格好は!」って話に近いよね。このブログの人はその商業要素としてボードがオリンピックに取り込まれた面も批判してるし。
なんにせよ、幾ら需要があるからといって、オリンピックにショースポーツ呼ぶときはそれなりに考えないといかんのではないか、と思わされた。ボーダーにとっちゃ、五輪より自分のやってるスポーツの流儀が大事に決まってるし、そんなスポーツを呼んだのは五輪なんだからね。なんらかの形で統制を取って取り込むか、あるいはそのスポーツの文脈を認めるか。問題の根底はその辺りにありそう。
スノーボードって競技自体が、ザルツブルク音楽祭に来たローリングストーンズって感じの存在なんだろうねぇ。
そこに凝り固まって、挙句本文をまともに読まないような人はやっぱアホというのではないかなー、と。
色んなスポーツにはそれぞれの文脈があるし、それを個人の価値観の下に一刀両断ってのは・・・ねぇ。俺の価値観に合わないから反論にならない、なんてことはないわけですよ。(そもそも、それすら読めてないけどね。引用部を読む限り)
反論お待ちしますよー。
最低な映画でした。
あれだけの映像を撮っておいてあそこまで退屈に編集できることにも驚きましたが、それよりも自然を冒涜する残酷なアジア人vs自然を守る優しい白人という構図にゲンナリしました。わざわざご丁寧に「アジア人による残酷なフカヒレ漁」というフィクションシーン(しかも本編においてこのシーンがフィクションだという説明は一切ない)を入れちゃって、ねぇ・・・。オーシャンズはドキュメンタリーと謳っていますが、わざわざヒレを取られて苦しむ作り物のサメを作ってアジア系の役者を雇って漁師を演じさせてそしてこんな意図的なフィクションシーンを作り上げてしかもこれがフィクションだという説明はエンドロールにほんの一瞬だけって、これはドキュメンタリーではないです。
いやぁ、冗長で退屈で下手っくそな編集で底の浅い胡散臭い宗教チックなナレーションでクラシックもどきのウンコBGMが煩いだけなら「最低な映画」とまでは言わないけれど、フィクションであることをほとんど隠してのアジア人フカヒレ漁シーンにね、もうね、ほんと酷いやり口だな、と思いました。
それにしても、試写会であんなに人がいっぱい寝てるの初めて見たわ。
数年越しのレスですが、本人です。
現在は、聖教新聞を読んだり、ネットで池田名誉会長の詩を読んだりしています。格調高く、人を鼓舞し暖かくする言葉は、素直に耳を傾けるといいと思います。
ただし、宗教にはこだわらないので、キリスト教イスラム教その他宗教でないものにも、素直に耳を傾けていることが、高校までと決定的に違うことかと思います。
1.学歴は?専攻は?面白かった?
転職を繰り返し、つい最近退職しました。小売店で、仕入れや陳列などを任されていました。月収20万。仕事の内容は面白かったです。
ただ、人間関係や社のブラックな考え方についていけず辞めました。
これからはもっと自分に合う仕事をやりたいとこんな時代にも関わらずの決断です。
格調高いものが好きです。
ファッションも好きです。
休みは、自宅で映画みたり家計簿つけたり、だらだらすごしたり。
美術館やバラ園散策、半日本屋やCDショップに入り浸ることも。
4.本は読む?映画とか?どんなの?
本は人生の肥やしだと思っています。
月に3~4冊程度、拾い読みで7~8冊。
100年スパン、数世紀スパンを読みつがれる名著に触れたいですが、
実際はそういう本はこれから増やす段階です。
ヘッセ、宮本輝、7つの習慣、ダ・ヴィンチ・コード、BLコミックなどいろいろ。
5.交際範囲は?恋人は?友達は?何系とかある?
大学までの友人、つまり宗教がらみの交友関係は日常生活ではまったくありません。
今となっては大事な友人たちですが、宗教活動をやっていない、また仕事や人間的成長の面で後ろめたく思う気持ちがあります。
日常でつきあいのある関係は、地元で知り合った友達1人とその彼女、恋人・セフレが入れかわり立ちかわり(笑)で1~2人、
1回カラオケに行った元同僚、買い物つきあいのある実の姉とその子どもたちくらいです。
知り合いとしては、芸術家肌の普段スーツ着ないでどうやって食べてるのっていう人と近しくなる傾向があります。
品性のある人、根のやさしい人と付き合うことにしています。
6.増田にとっての世界はどう見えてるの?自然科学的なもの?超自然的な真理の法則があると思う?そういうのはどうでもよくて、地表百メートルの人間の生活圏内の人間関係が全てとか?どこに重きを置いているのかある?
自然科学的なことは、世間一般なみにそのとおりだ思います。超自然的な真理の法則はあると思います。科学で証明できないことはこの世にたくさんあり、そのうちいずれ科学が進歩すれば証明される類のこともあれば、主にその人の精神のために信じたほうがよりよいだろうこともあるという見方です。後者は、例えば「神を信じ感謝する」そのことによって明日を生きていけると本人が思えば、そうすればいいというだけのことだと思います。だから、誰かに少なくとも強くは押し付けることがありません。本人の主観と信念の問題です。神がいて、あるいは仏の不思議が働き、運命や宿命を腑に落ちるようにとらえることのできる物語が、本人の中で社会生活と折り合いがついていれば、それは大いにありだと思います。
7.これからなにをどうしたいの?
幸福に生きていきたい。
死ぬときに、心から愛し信頼する人がいて、心から愛され信頼してくれる人がいるような人生にしたい。
お金も仕事も老いも病もすべてのことの大前提に、ただ人生を楽しく力強く生きていく生命力をつけたい。
人の一生をものさしにすると、その間に起こることをすべてひっくるめて、心を強く美しくすることがいちばん重要だと思うんです。
そのために信仰が僕にとっては必要だと、年を重ねるほどに確認します。
くだらないことから、……やはりくだらないことまで増田にいろいろ記事を書いてきたが、そうだ、苦手なジャンルの記事も書いてみよう、ということで、音楽の記事を軽く書く。
とは言え、私はほとんどアニソンしか聞かないので、さて何を書こうと思ったとき、前々から思っていた疑問である「駅前で演奏している生の音楽に(音楽のセンスのない私が)たまに異常にインパクトを受けるのはなぜか?」をちょっとだけ言及したい。
もちろん、音楽にはちゃんと音楽理論があるらしいので、的外れかも知れないが書いていきたい。
まず、やはり私がインパクトを受けるのは、「演奏が(ある程度)うまい奏者」だと思う。別の楽器から紡ぎ出される……別の場所から空気の振動として、自分の体それ自体にも伝わってくる音色やリズムがアセンブルされて一つの調和になってしまうという驚き、インパクトというのはあると思う。ヘッドホンやスピーカーでは、あまりその辺が分からない。もっとも、私の使っているオーディオがしょぼいから、という面は大いにあるだろうが、音響の良い映画館で音楽を聴いても、やはり、何か違うなあ、と思ってしまうのも確かだ。
それでもう一つ思ったのは、月並みだが、ライブかどうか、という面が大きいのではないかという点だ。
なぜ、ライブかどうかが重要かというと、観客の心の一部に「演奏者の失敗を期待している自分」という面があるからではないかとと思う。それを別に責めている訳ではなくて、スリルの裏返しでもある訳だから、それも含めて観客は楽しんでいるし、演奏者もそれも含めて楽しませようとしているのではないか。
だから、そういう意味……ストリートパフォーマーという意味で、大道芸人とミュージシャンは一緒くたにされるのだろうと思う。
そして、題名の件に話が移る訳だが、「良いコンサートは眠くなる」らしい。私もネットで見た発言なので、そうらしい、としか言えないが。おそらく高級なクラシックコンサートやハイソな現代音楽のようなコンサートの話をしていると思うので、ふーん。そうですか。おにぎりおいしいです。としか言えない面はあるが、何となく理由は想像できるような気がしてきた。
要するに、無茶苦茶設備が整ったホールで、マナーの良い観客の前で、一流の演奏者が演奏する訳だから、もはや「精密すぎて」もはや人間が演奏しているのか、機械が音を出しているのかよく分からない境地に達しているのではないだろうか。……いや、そう書くと語弊があるか。「安心感」が異常にありすぎるということだと思う。
だから、街の雑踏の中では、「それなりにうまい奏者がうまく弾ききれるか」という面で、スリルを感じた衆目の目を惹きつける、という様な意味では、なかなか良くできたシステムだと思うし、「良いコンサートは眠くなる」という話は、なかなか贅沢な時間の使い方で大変結構なことではないか、などと思う。
誰も喰いつかねえな(笑)レイプとか浮気だとか非コミュとかには敏感過ぎるのに。
「商品/作品」って言うなれば「芸能/芸術」ぐらいの違いだと思う。
そして本来的にその2つに大して違いなど無い筈だが、どうしても違いを感じてしまう所。
「TVなんてファック!下らないんだよ!」という奴は大抵芸能嫌いの芸術好きで、
その逆は「大衆文化が受け入れられない奴はカスだよ!」という罵倒はたまには見るが、
ウェブの中じゃ大して見ないんだわ。これが。
で、これは一般にも有ると思うんだよ。
商品であろうが芸能であろうが、作品だと思いたいし、芸術だと思いたい。ってのは。
「オレだけの女が一番良いに決まっている」ってアレね。芸術だと思えば所有しているだけで気持ちが昂るのさ。
カローラとフェラーリぐらいの違いだ。両方とも車には違いないが、その枠組みを外す。何より自己主張が強い。
「要するに喰い時ってのは出来てから1年後、その頃には不具合の殆どが対策されている。」っての。
ただね、面白く無いと思うんだよ。生活必需品でもなく、汎用機械でもない物にそんな理論当てはめてしまうと。
...。ゲームの話だったな。FF13が売れている割には話題性が少ない気がする。確かにこれは黄色信号だ。
田舎ですらあんだけ広告の旗が立っていたってのに、もう撤去されてる。
因に、やった事が無い上で書くが、音楽はゲーム史上最高レヴェルにあると言える。
BGMにチープなピコピコ感が皆無。ってか寧ろ反転して、早速ロックともテクノともクラシックとも呼べない代物に仕上がっている。
「無駄に良い」という。通常戦闘のBGMが壮大過ぎて、ボス戦のBGMが変則過ぎる。
まぁ、商品に芸術を見い出せるか?って話だったな。失敬。
沢山のコメントや私信もいただいてます。ありがとうございます!
ホントにホント~に励みになります!!
さて、ブログのコメント欄は「管理人が見てから公開する」設定になってるのであるが、やはり政治的要素を含むテーマになってくると、しかもブログランキング1位!!になってくると、困った問題も起きてくる。
コメント欄を誰でも投稿可能な状態で設置している以上、いただいたコメントは、信義則に反しないようきちんと読ませていただいてはいるのですが、
まず、「賛同するが過激すぎるコメント!」。 すまん!。熱意はありがたいが公開できんのだ!。
それから、「熱烈な(!)反対意見」。申し訳ないが、ここを公開討論の場にする気はないのです。
最後に「怒り心頭に発するお叱りのコメント」。う~~ん、あなたも困った人ですね!。
全国に1000万のブログが存在すると言われる現在。わざわざここに怒るために来なくても・・。どうか怒らなくてもすむ他のブログい行って、心穏やかに暮らしてください(苦笑)。
というわけで、ここは私が1ヶ月に270円をlivedoorに支払って(安い!)維持している私個人の私物です。
私が公益法人の職員だとか、教育に携わってるとか(威張るほどには携われてないけど)ということとは別のレイヤーで存在させてます。
ほとんどの人々がCDに求めてるのは「音楽」ではなく「物語」なんだよ。
それはビジュアル系バンドやアニソンでも、クラシックでもみんなそう。
「実力派」だって優れた歌唱・演奏でなく、実力派って「物語」を売ってるのさ。
もちろん実際に実力がなければその「物語」の説得力がなくなるから、下手な「実力派」ってのは難しいけど。
そういう「物語」なしに、いい音を売りますなんてやっても、ま、1万枚売れたら奇跡だね。
1億人のうち数千人にとってしか意味を持たない「技量」ってなんなんだろう(笑)
CDが売れなくなったってのもその延長で説明できる。