はてなキーワード: なっちまったとは
北の大地で大学生をやっていた時は本当に自転車を良く盗まれた。
キャンパスが広いせいか、気軽にみんな盗むのだ。
盗まれた人は頭に来て、他の自転車を盗んで乗る事もある。
・・・いやそれは15年以上前の話だから、今の学生さんは知らんけど。
僕はキャンパス内で盗まれた事はないんだけど、外で10回ぐらい盗まれた事がある。
経験上、皆が駐輪している所で良く盗まれる。
施錠2か所にしてても、盗まれるもんは盗まれるなー。
自転車があったであろう場所にぶっ壊された鍵がそっと置いてあると本当にorzって感じだった。
・・・大量の自転車の中から僕のがピックアップされる確率が何でそんなに高いのか謎だけど・・・
変な所にぽつーんと置いてあった時の方が盗まれなかった。
あ、必ず警察には届けるようにしていた。
せっかく防犯登録してるんだから、使わないとねー。
でね、登録してると帰ってくるんだ自転車。
半年後とか1年後とかにw
出てきた自転車は「いりません」って言えないらしく
その頃は免許すらなかったから、高い電車代払って自転車を取りに行った。
行ったらタイヤパンクしてて、近所に自転車屋なくって2キロぐらい歩いて
自転車屋に行って、修理してもらってロングサイクリングして帰宅したっけ・・・。
そうそう
別の時期に盗まれた自転車が盗難現場から無茶苦茶遠い所から2台同時に出てきた事もあるよ。
(もちろん2台とも別な場所から出てきた訳だけど)
もちろんその時乗ってる自転車もあって、3台の自転車持ちになってしまった。
なんか昔語りになっちまったけど
自転車盗む奴はみんなみんな死ねばいいと僕も思う。気軽に盗むな。
3台自転車持ってても困るんだぞ!!!1
先頭は別にどうでもいいや。あれだけの行動に出たくなる魅力がある製品だってのは分かってたし。ていうかそれくらいのお祭り気分にしたてあげてくれなきゃやってられん。
一番後ろの人間でも12時間並び続けているんだぜ。文字にするとあっさりだけど、疲労具合は尋常じゃない(まだどこか本調子じゃない)し、日焼け対策を怠ったせいで海水浴並みの日焼け具合になっちまった。少しでもテンション上げてくれる要素が欲しかったから、むしろ俺は盛り上がりを演出してくれた彼らには感謝している。どうせなら発売と同時にリリースしてその場でデモンストレーションでもやってくれれば完璧だったけどな。
それよりにやにやしながらケータイで流し撮りしている連中のほうがよほどむかついた。ぶつくさ解説しながら通り過ぎるのを目で追いながら、あーこいつらのうち何人かは絶対動画サイトに上げるんだろうなーと。俺はお前のくだらねーオリジナリティゼロのネタのために並んでるんじゃねーんだよと。
そのとおり。長くなっちまったので増田へぽいと。あまり作法がわからないのだけど、ここでは長文は忌避されるのか。
失われた若さへの嫉妬。そんなの元文面から自明だし、彼女の悩みの本質には関係ないから言及しなかったんだけど。
じゃあ、苦学して医者になった者の収入へのオブセッションとかも書かないといけなかったかな。そっちのほうが彼のコンプレックスの核心だとおもうし。
機微を描くということは悉皆描写とはことなるんじゃないかな。いちいち書いてたら論旨が拡散すると思うけど。
なんでこんな長文を増田で書こうと思ったのか不思議だ。長くなっちまったから適当なポスト先が無くて増田だってことかもしれないが。
若いことの利点てのは、その後色んなものが味わえることなんだと思うな。20代前半の女はそのうち28才になるが、28才の女は20代前半にはならんわけで。ピチピチを味わい、さらに旬を味わえるならそっちを選ぶのは無理からぬことで。しかし、女単独で考えるとこうなんだが、組合せで考えるとそうでもないって面はたしかにある。それでも元ネタの男が20代前半にこだわるのは、失われた青春の日々や過去の男に対する嫉妬だろ。そういう人生の機敏的なことを言い出すならそれも察してやれよ、と思った。
最近ちょこちょこ見かける「専門家の著書を読み込まないバカは発言するな」という罵倒に呼び起こされた俺の妄想だ。だからもちろんソースは出せない。問い合わせられてもなにも答えられない。
故小渕氏が半紙を持って記者会見に臨んだ時期の前後数年間、俺はとある非営利法人に勤務していた。まだNPO法人制度が整備される以前のことで、それ自体は自治体の認可と出資を受けた社団法人だ。行政からは初期出資以外の補助金も主に人件費名目でかなり支出されており、俺も名目は非常勤の自治体職員としてその法人に出向していることになっていた(はずだ)。当時は今ほど公務員叩きも行われず、時間外手当こそ出ないものの、業績も成果も無関係にそれなりの月給が社会保障込みで保証され、しかも仕事内容は「バイトでもできる」レベル、有り体に行っておいしい仕事ではあった。(当該自治体が今日破綻の危機にあるのが、俺のせいかどうかは知らね。)
しかしこの社団法人、実態はとある市民団体の外郭団体というか数あるダミーのひとつというか、むしろその市民団体の下僕ってのがもっともふさわしい表現だろう。そんなところへ俺みたいな性格と趣味性向の持ち主がなんで雇われることになったのかについては割愛する。というか迂闊なことを書くと正体を特定されそうだ。
正体を特定されると何がまずいかって、なにしろその市民団体がこれまでやってきた行いが尋常じゃない。なにしろ彼らの意に染まぬ発言をし謝罪と妥協を拒否したとある御仁にいたっては、自宅の周囲を街宣車で数週間にわたって取り囲まれ大音量で彼らの主張を繰り返され、ご子息は彼らの意を受けた教師らにより学校で吊し上げられたそうだ。家族や近隣住民を巻き込んでの実力行使をしでかす連中相手に立ち向かう根性は俺にはない。
ちなみに彼らはその行為を現在に至っても反省していない。法廷で有罪を喰らったこと自体は反省してるようだが、「もっと上手くやれば良かった」という戦術級の反省でしかない。そういや部下の発言を根に持っていびり自殺に追い込んだ上司も、一人や二人じゃ済まなかったっけ。
あと、一番多かったのは、こじつけで組織責任を問うパターンだな。中でも印象に残ってるのは、駅のトイレの落書きを根拠に鉄道会社の人権に関する姿勢を糾弾した事件。(そろそろ何という団体か分かってきた人もいると思うが、もちろんこれは俺の妄想だ。)不特定多数の乗客が利用するトイレの落書きを鉄道会社の責任に帰して、社内研修の予算を確保させやがった。もちろん形式的にはそれが直接市民団体に流れるわけじゃないんだが、そこで生きてくるのが俺が勤めてた法人。研修会の主催も使用テキストの発行元も派遣する講師の所属もその法人で、研修予算のほとんどが法人に入ってくる。そして法人は毎年上納金を市民団体に納めるってからくりだ。
それなりの大手の企業/団体の社員/職員研修となると年間数百万なんですぐだし、そういう成果が数百は存在する。もちろん窓口となるダミー団体も複数あって、結局年間数十??数百億が無税で(おっと、テキスト代の消費税は払ってたっけ。)市民団体に流れ込む。
手口は微妙に異なっても、右翼団体や総会屋のやってることと本質的に大きな違いはない。俺たちノンポリの下っ端は、「えせ○○じゃなく本○○だな、俺たち」とか自嘲してたもんだ。もちろん以下に述べるような構成人員の資質や組織のあり方も、右も左も保守も革新も反動も進歩も、そんなに大きくは変わりはせんだろうと思う。ベクトルの方向は違ってても、その先でやってることは五十歩百歩なんじゃねえの、とは思う。
さてまぁ脱線した。その市民団体の主たる主張はある種の人権擁護なんだが、他の様々な正義と平和と人道を標榜する団体と友好関係にあり、互いにしばしば主催する集会等への動員要請が行われていた。で、そういう要請は基本的には下っ端にしわ寄せが来るようになっている。8月6日のヒロシマを筆頭に、ずいぶんといろんなところの員数合わせに駆り出されたものだ。(従軍慰安婦とか南京事件とか○○の人権を求める市民集会とか××を糾弾する市民の会とか、アベレージで年に5??6件は出席した。もちろん俺の所属する法人orその上部団体が直接主催するもの以外でだ。)業務の一環として出張扱いになった上で交通費も現地行動費も出してくれるんだから、断る理由も特にない。
もちろんこれをもって「沖縄の11万人」がどうこうとか言い出す気はない。俺という異分子が1人紛れ込んだ集会がかつて存在した、というだけのことでしかない。がまぁ必ずしも俺一人が際だって異質だったってわけでもなかった。ある時は集会で眠気をこらえある時はデモで熱射病に用心してるうちに、似たタイプの人と親しくなったりするんだ。熱意なんぞ欠片もないがしがらみと人間関係とその他もろもろに絡め取られて動員されてる人たちと、同病相憐れみ、互いに愚痴りながら、所属団体に関して話し合ったりもする。
で、結局愚痴の行き着くところはいつも似たようなもんで、「人だねぇ」。どこでも運動のトップとか指導者は似たタイプだし、運動に理論的正当性を与えてる学者や研究者ってのもまたどのジャンルでも似たり寄ったり、もちろん下っ端で熱狂してるのも、はたまた利害づくで参加してる人たちも、これまた似たようなもんだ。利害づくってのは一番分かりやすい。運動から甘い汁(主に行政からの個人給付……おっと。)を吸えるなら参加するし、吸えなくなれば離れる。別に一般の勤め人とメンタリティが異なるわけじゃない。俺たち「最初は純粋だが今は冷めちゃった」連中より多少は熱意のあるふりが上手いだけだ。
真面目な下っ端ってのはほとんどが主観的に純粋な正義への熱意に基づいてるだけで、なんということはない。言ってしまえばカルト信者と異なるところはない。頭を叩きつぶすか、個別に一本釣りして脱洗脳を施すか、運良く何かの偶然で組織から離れるか、だ。ちなみに俺は三つ目の「運良く偶然組織を離れ得た」口だが、これまた詳細は秘密。
トップにも二パターンあって、ひとつは純粋な下っ端がそのままのし上がった口。もっともこういうのは大概、「敬して遠ざけられる口」ではある。なにしろ清濁併せ呑むことができないから。で、もちろんそういうのは少数派。残りはもちろん下衆野郎。893の頭目やら汚職議員がゾロゾロ。(特に西日本……)
俺の勤め先だと、理事長は前者のタイプかな。お飾りでお神輿なとっちゃん坊やにして便利な宣伝灯。一番勢力の大きい部門の部長は後者、分かりやすい俗物。昼間は数千人を前に人権尊重を講演し夜はセクハラ大王、セクハラとパワハラの合わせ技を連発しつつ部下の若い女性を片っ端から喰いまくるエロ親父。で、一番タチが悪いのが事務局長かな。表では大学講師の肩書きを背に正義と平和と人道を説きつつ、事務所に戻れば部下を交換可能使い捨て消耗パーツとしていびりぬくことに楽しみを見いだしてるとしか思えん。いやいや、こいつの直属でなかった俺は幸せでしたよ。5年間で3人が潰された。
さて、また話がそれた。ようやく本題に近づいてきたな。残る学者や研究者だが、もちろん運動に正当性やお墨付きを与えてくれる先生方だけが、こういう連中と独立に存在してるわけもない。
俺は上記のような講演・研修のテキストとしての必要もあって、年間二桁単位でISBNナンバー付きの本を作ってきた。もっともほとんどが予算化している企業/団体への割り当てと組織内部の学習用で捌けてしまうんで、一般の書店にはそれほど出回っちゃいなかったが。俺の主たる任務もその一部の校閲・編集だった。
で、そういう出版物の著者が、市民団体と仲の良い学者・研究者の先生方だ。もちろん彼/彼女らの動機は俺は知らん。崇高な真理への欲求に基づく純粋なものかもしれんし、市民団体に利をもたらしそのおこぼれをもらうためかもしれん。書いて出版される内容は学術的に妥当なのかもしれんしデマゴーグなのかもしれん。読んだらためになるのかもしれんし洗脳されるのかもしれん。
ただしその校閲・編集をわずかなりとも担当した個人の感想として、「こんなもん出版して金取っていいのかよ」といいたくなる代物がそれなりの割合で含まれてたことは確かだ。上記のような市民団体幹部との対談をテープ起こしして「てにおは」を整えただけとか、(整えたのも俺だ。)出典とか引用元とかの調査を全部編集担当の俺に丸投げされて、インターネットの普及してないあの当時に泣きながら縮刷版とか復刻資料集(もちろん、本物の原典にあたるスキルは担当者たる俺にはない。そのことは学者先生も承知の上だ。)をひっくり返しまくり、どうしても見つからないものは必死で出典に対するツッコミが入らないように原稿を書き換えたとか。もちろん「こんなんやっちゃっていいんですか」と上司にお伺いをたて、OKをもらった上で印刷所に渡し、ゲラは学者先生のチェックも受けましたがね。
要は俺の脳内妄想レベル+αの代物が、ISBNナンバーがついて書店でもわずかながら売られて運動内部では「正典」扱いされる「歴史書」になっちまった。しかも対立団体からですら、その団体との分裂の前後以前の記述については特に誤りとまではされてないし、発行側と対立団体側の双方ともに大枠を認めてる代物を批判する学者さんも、少なくとも俺の目には入ったことはなかった。つまり外形的には「専門家間でもほぼコンセンサスのとれてる通説」になっちゃったんだ。
うっかりそんなものを世に出す手助けをしちまったショックが強すぎてな、今更「正義と平和と人道に関する歴史の通説」なんてもんを読む気にゃならんのだわ。いまだに書評やらその団体の内部評価を見ると、俺のでっち上げた代物が参考資料扱いされててな、正直、おぞましくてかなわんのだよ。とまあ、これが「俺はいかにして『まず学者先生の御本を読め』という言説にアレルギーを抱くようになったか」という妄想なわけだ。
それは、オナニーや楽しみのための性行為を断ってしまう、それだけである。
僕は、随分昔から同性愛者にあこがれをもっていた。
彼らは異様に生産的である。母集合の少なさに反して、仕事や、芸術という分野にとてつもないアウトプットを残す。
ミシェル・フーコーなんかもそうだし、ケインズなんかもそうだ。
音楽や芸術の面だとさらに多岐に渡る。最近じゃRufus Wainwrightなんか凄まじい迫力のある曲を残している。
いつだって僕はそれを疑問に思ってきたし、自分もそうありたいと思いながらわずかながらの人生を生きてきた。
しかし、同時に、それは単純な憧憬、もしくは彼らの仕事に対する尊敬であって、決して自分は同性愛に傾くことはないこともわかっていた。
僕はやっぱり同性のハダカを見ても性的に興奮することはできないし、それよりも女性の裸体を愛撫しているほうがよく反応する。
ある意味で幸福でもあったろう、と思えるが、それは同時に喪失でもあった。
自分の才能のなさ、を呪うこととはすこし質の違った喪失感である。(※自分に才能があるとは到底思えないが、それとは違う)
それはたぶん、アメリカの白人が黒人の文化・芸術に抱く憧憬と喪失感によく似たものである。
エミネムやバーバーショップのトロイ・ギャリティのように、同質化することを望むけれど、自分自身を完璧に同質化させることはできない。
また、詳解はしないけども、今のコンシューマゲームに関る人々が、昔のコンソールのゲームをこよなく愛する感情によく似ていると思う。
そうして、ここまで考えたときに、ふと気づくことがあった。
数ヶ月前のことだ。
人間は、どんな状況においても、「子孫を残す」ことを求める傾向があると思う。たぶん、それは生物だからだろう。
人間が歴史上絶えて久しかったことなんてなかったわけだし、広島や長崎にだって木が生えて人も生殖したのだ。文化すらも残ってくれた。
生物だからこそ、危機に陥ったときは性交における子宮定着率が高まるのだろうし、スライムモルドだって特異な形態をとってのりきろうとするわけだ。
そして、同性愛者は生物学的には常に危機に瀕している。あたりまえだが。
だからこそ、彼らは自分の遺伝子を生物学的とは違うベクトルで残してゆく方法を無意識的に模索しているのではないか。
それこそ、ロレンスがいった
ぼくはどうして偉大な人物とされるほとんどすべての人々が、それを認めているか否かに関わらず、同性愛に向かう傾向にあるのか、そしてその結果女性の身体よりも男性の身体をいっそう愛するようになるのか---確かギリシア人がそうだったと思うのですが---、その理由を知りたいのです
の回答なのではないか。
実際そう考えてみると、合点のいくことは結構多い。
偉人ばっかだして恐縮なのだが、宗教的であれ、個人的にであれ、性活動を制限していた偉人というのは多いのである。
カントだって童貞だし、ゲーデルやヒルベルトだってそっちの執着はあまりなかったらしい。
そういえば分裂感違い君もそんなかんじのエントリ書いてた記憶がある。オナニーやめたとかなんか。※切込隊長もそうだったね
また、生物学的な生殖行為への渇望といったものから得られる感情もよく似ているといえば、性行為に貪欲すぎた人とかも挙げればキリがないほどにいる。
ここらへんだったら、専門外だけど歴史上の日本人にもとてもとてもいそうだ。※たぶん宗教的なもんが薄いから制限してた人が少ないんだろう
現代という時代は、恐ろしい時代である。
それほど才能のない僕らが、才能あるマッチョたちと対等に闘って生きていかなければならない。
そうでなければ、グローバリゼーションの中の雁行型経済発展に従って、
インドや第三国の才能ある外国人労働者におまんまを持っていかれてホームレスになってしまいかねない世界である。
僕は、この時代だからこそ、提言したいと思う。
我々は、生まれつきの才能がない僕らは、持てる思考回路をせめて有意義なものに使わねばならぬのでないか。
それを、オナニーや、楽しみのためのセックスや、男女関係の機微に帰着させるのはあまりにも軽率ではないか。
そこに脳がハマりこんでしまえば、たぶんその生殖行為こそが生物的にはあるべき姿だから、思考はそこから抜け出られない。
悪いわけではないんだろうけど、才能がない僕のような人間には、すこし損ではないか。マッチョになってからでもセックスはできる。
僕の提言はこうである。
「そして頭のキャパシティから性行為と男女関係を抜け」
たぶん、これだけで、脳は今与えられている生殖本能に危機があり、と感じるはずである。
そして、脳はそのとき脳内にある違う意味での生殖や、生殖本能につながる能力を伸ばそうとするのではないだろうか。
生まれついての同性愛者ほどの生産性は得られないかもしれないが、少なくとも、脳を使う仕事に従事している人には、少なくとも効果はあるのではないだろうか。
これは余談だが、肉体を酷使する競技に従事している人は、性行為は試合前日には絶対にしないらしい。
友人に才能ある競輪の選手がいるのだが、彼は「試合前にヤったらぜったいあかん。負ける」と言っていた。
試合前にヤったらどうなったか?そのとき、あまりの興奮に生でやったらしく、そのときの一回で子供が授かったのである。
たぶん、これも、ケースひとつだけど、人間の活動は生殖と深く関っている証明になるのではないだろうか。
まるで、イアン・マッケイみたいなハードコアの意見になっちまった。
でも、彼らだって、ありえないくらいプロダクティブだよね。
40男。同じく40男の友人が転職活動で夢を見て困ってる。
困っているというか、分かっていたんだけどやっぱりというか…。
20年来の友人で、1番長く続いた時が自分の紹介した職場で3年弱、
あとは最短1日とかで辞め、転職回数6回以上のヤツです。
ここまでの時点で相当自業自得なんだけど、うまくいかないわけです。
で、ノイローゼ寸前になりやがって、このままだと確実に手首切るだろと言うレベルになっちまったので
(共通の知人に意味不明メール出したりしだした。前の職場の人にストーカー風メール出したり…)
見るに見かねて転職活動を手伝ってるんだけど、相変わらず「富士通」とか「NEC」とか
大手企業ばっかり応募しては落ちてる。
こっちは、2流3流でも確実に受かるところ受けろと行ってるんだが
ここぞとばかりに「分かっているけど応募できない…」と言ってくる。
結局自分のデメリット(転職回数多い、仕事続かない、年齢)を理解してないフリをして、
夢を追ってるってことなんだろうと思うんだが…。
分かっていて引き受けたことだから、イヤになってはない…(想定の範囲内)んだが
今度は、自分が手伝うからコイツは自立しないんじゃないのかと思えてきた。
もう手首切っても放っておくべきなのか。
http://anond.hatelabo.jp/20071106015742
はてなRPGねえ。
d:id:kanose 村長
でいくわ、俺。
(夜、焚き火を囲んでkanoseとkaienが話している。rahorahoは座って仮眠を取っている)
kanose :なあ、kaien。
kaien :どうしたんですか?
kanose :俺に倒せるだろうか、kagamiが。あいつは闇の声に取り込まれたとはいえ、もとは俺たちの仲間だ。一緒に戦った仲間だ。俺にやつが倒せるのか……。
kaien :kanoseさん、そのためにここまで来たんですよ。僕はやるつもりです。確かにkagamiさんは仲間でした……けれども僕にとっては、この世界の平和の方が大切です。
kanose :そうか……すまないな。俺は村長なのに、二の足を踏んでいる。俺たちの目的は、闇の声から第一大陸を解放し、世界を光で包み込みこむことだ。
kaien :ええ、そのためにここまで来たんです、頑張りましょう。
(剣を持ったyosituneが2人の側に来る)
yositune :おい、何をカッコいいこと言ってんだよ、お前ら。
kaien :yosituneさん、起きていたんですか?
yositune :何がkagamiを 倒すだ。あいつがこんなことになっちまったのは、kanose、お前の責任だろ。てめーがあのとき、しっかりしていればあいつは闇の声に取り込まれずにすんだんだ。
kaien :やめてください、別にkanoseさんの責任じゃありません。
yositune :は、何言ってんだ、この馬鹿。
kanose :言わせておけ、kaien。そうだ、俺の責任だ。だから、俺が奴を倒す。それしかないんだ。
yositune :またカッコつけやがって。だいたいてめーは。
rahoraho :もう、いいでしょう、yosituneさん。
(yositune、少し驚く)
yositune :何だテメーも村長を擁護すんのか。俺の痛みはどうせテメーにはわかんねえよ。俺は村を闇の声の一味に焼かれたんだ。おい、きいてんのか、この……。
rahoraho :わからねーよ、俺はニートだからな。
(rahoraho、目を開ける)
rahoraho :けれどもこれだけはわかる。俺たちが必要としているのは、ニートでもエリートでも平和に暮していける世界だ。
kaien :rahorahoさん……。
(yositune、その場に崩れ落ちる)
kaien :そろそろ夜が明けそうです。これが最後の戦いです。長い一日になるでしょう。
kanose :行こう……。
(四人とも立ち上がる。夜が次第に明けていく)
相手「何?声が聞きたかった?」
自分「………………………………そういうことにしておいて」
ああああああああぜんっぜん可愛くない。そこは「うん♪」とか「当たり前じゃん」とか「やーそっちが声聞きたいかなーと思って」とか、とにかく気の利いた感じの返し方があるだろ常考。いや全く仰る通りなんだ、声が聞きたくなったから電話したんだがな、それをこう先回りして言われるとどう反応していいのか(その場じゃ)分からなくなるんだ。で、今みたいに後で思い出してああっorzとなる、それのスパイラルから抜け出せない。
まず恥ずかしい。恥ずかしいしそれに加えて「声が聞きたい、とか何いってんだよー。そんなこと思うなんてあんたも彼氏ができた途端に恋愛依存症(笑)のスイーツ(笑)になっちまったか」と茶々を入れてくる自分がいる。
で、そこらへんでぐるぐる考えたあげく、変にぶっきらぼうなしゃべり方になって「素直じゃないなー」と言われる羽目になる。
…素直になんかなれるか。
何故か。
俺は小学時代広島に住んでいたから、当然のごとく平和教育を受けた。
当然、感想を書かされるわけだな。
でも、「こういう方向で感想を書きましょうね」という無言の圧力が当然ある。
でもそんなのry、とばかりに「本当に思ったとおりの、授業そのものへの感想」を書いた。
正直小学五年生にもなると流石にうっとうしいからな。広島に生まれた者の試練だ。
当然、担任マジギレ。反省文を書かされる。
中学生になると、こういう誘導に対する反発が、普通の反抗期の子供以上に大きくなっていた。
帰ってきた後、「道路を歩く時の態度が悪い!」とわざわざ緊急集会で起こられた。
中でも印象的だったのが「昨日は私の誕生日やった。でもこんなことになって、先生はホンマに、ただ悔しいです。」
と涙ながらに語った女教師。知るかよ!
更にむかついたのが、その後一部の女子たちがもらい泣きしてやがったこと。なんでだ!?
こういうことが積み重なって、煽動とかそういうのに対して異常に反発するようになっちまった。
体育大会の集団演技や合唱コンクールにおける体育教師や女子のうるささとかもう…
俺自身はそういうマスゲームや歌が嫌いじゃなかったんで本気で取り組んだんだけど、
真面目に練習しない友達が影で非難されてるのを聞くといたたまれない気持ちでいっぱいだったよ。
俺も彼らも大差ない。嫌いなことを無理にやらせるとかどう考えても狂気の沙汰。
大学じゃこういう雰囲気を醸す場や人間を回避し続けてきたから楽しかった経験の方が多い。
でも会社に入るとそうは行かないんだろうなぁ。
純粋に相手を褒めてる人はいいんだが
「こういえば相手は喜ぶんじゃないか」というのを想定して褒める人ってのは時にやっかいだ。
要するにそういう人は、自己満足の為に褒めているので、相手が自分の想定したとおり喜ばなかった場合、逆ギレしだす(そこまでいかずとも、勝手に不機嫌になる)パターンが少なくない。その「想定」が、合っていればいいが、問題はその想定があまりに独りよがりな場合だ。
例えば女性に対していつでも「可愛い」といえば絶対相手は喜ぶなどと独りよがりな妄想を抱き続けそれを疑わないオッサンなんかが典型的なその例。そもそもこういう事をするのは一般的に(絶対じゃないぞ)、男性が多い。女性は総じてその辺を読むスキルが高いゆえ、想定をミスる事は少ないし、ミスっても「あ、この人にそれはよくなかったんだ」という風に思う事が出来るからだ。(無論、そういうことが出来る男性も多くいる)
そういった人間は、褒めた後の相手の反応が、自分にとって好ましくなかった場合、「なんだこいつは。せっかく自分が褒めてやったのに」と傲慢に憤り、最悪の場合「これだからこいつは」と自分の独りよがりの想定(というかほとんど妄想)ミスを相手のせいにしてしまう。男性の年配者は特にそうである。男性の上、年をとっているため、なかなか自分の非を認めたがらないという厄介な生物なのだ(それでいて社会的な地位もあったりするため余計に面倒な生物と化している。絶滅すべき種だ)。無論男性の年配者にも優秀な方はたくさんいますがね。寧ろ問題は特に優秀でもなく年を重ねたゆえに地位をゲットできた無能系ジジイだ。
都内の古くからやってる看板店にいってみそー
寿司をハシなんかでつまみやがって・・! てやんでぇ! べらぼうめ!出て行きやがれ!!
っていわれるよ!!
と、言うことはないけど、いいお店でカウンターで食うときにハシで食ってると
教えてくれるおやっさんもいるとおもうよ。何度か見聞きしたことがあるな。
すし屋さんはフレンドリーな爺さんが大将なことがおおいからね。
そんなラーメン屋さんみたい下品な指摘はないとおもうけど。
で、聞いたことないの?
落語のお題目になってるぐらい古くからの慣わしだよ。東京の方の慣わしだからかな。
もしかしたらこっちの方だけの習慣なのかもしれないね。
ちょっと探してみた。
http://www.sushiwalking.com/manner/index.html
寿司をひっくり返すようにしてネタを下にして人差し指と中指で支え、舌の上にネタが来るように口に運ぶのが正しい食べ方といわれています。この掴み方は、醤油に漬けるときシャリを崩さないので見た目にも美しく食べることが出来るのです。
もともと寿司は庶民のくいものだから、手でつまんで、表の荒縄で手をちょちょいと拭いてくのがならわしさ!
もしかしたらたこ焼きが高級食になる日もくるかもね。
えーなにそれー!?
楊枝って歯をシーシーするものでしょ?文明人なんだから箸つかおうよ!
そんな風にやりとりされる日がくるのだ!
うう。泣けてくる。なんて情け無い国。なんでこうなっちまったんだろ?
阿部さんとのファーストコンタクトはまだない。
いつでも実を引き締めて生きてきたのにどうしてこんなことになっちまったのか。
同年代の友人とも「緩くなったよなぁ・・・」とたそがれることしばしば。
親の庇護の元のほほんと暮らしていた中高生時代は、グロ作品でもなんでもイケたけど、今は年をとったのに(つってもそこまでじゃないが)そういうのダメになっちまったなー……のほほんとした、心温まるようなのを好むようになった。中高時代は「こんなんほのぼのしてるだけじゃん」とか思ってたけど。やっぱ人間心が平和じゃないとキツいのは楽しめないね。逆に心が荒れてると平和なのを好む。歌も今思うと景気いい時の方がやたら暗い曲が売れてた気がすんなあ。最近は変に馬鹿馬鹿しいほど明るい歌ばっかだよね。歌でも何でも、暗い作品が売れるときってのは、人々の間にそれを受け止めきれる余裕のある心があるってことなんだろーな