はてなキーワード: なっちまったとは
昔、「ああいう作品を読んでる奴はオサレだよなw」「サブカル臭するよなw」という目で他人とその作品を見て、自分に関しても「これを買ったら、好きだといったら、他人からどういう人と思われるか」を考えて漫画等を買っていた時期があった。
学生時だったのだが、その当時は「別にただ好きなだけだよ」「サブカルとかそういうこと考えてるわけじゃなくて単に面白いと思ったから」とかいう人を信用できず、「ケッ、そうやって「ただ好きなだけ」って言う自分ピュアでしょアピールだろw」「本当はそういう事考えて選んでるのに、俺に見破られたから「ただ好きなだけ」って取り繕ってるだけだろw」とか思っていた。
しかしある時、ネット上で、俺によく似た奴に対して誰かが(確かはてなだった)発した言葉で、いかに自分がアホらしい選び方をしているのか、他者の視線に拘りすぎているのかということにふっと気がついた。
「○○はメジャーになりすぎて、もう今更なぁw」とか「あれは好きだったがもう有名になっちまったから、今好きだなんていうと、有名になったあと飛びついたミーハーと同じに見られていやだ」とか、考えていたが、ふっとそれを捨ててみて、今この世界に俺しかいない、と考えて単に読みたい漫画、単純に好きな漫画を選ぶようにしてみたら、楽になれた気がする。最初こそまだ優越感ゲームの残滓があって、「こんなメジャーなもの好きとかいう俺ってどう見られているんだろう」とか恥ずかしさを感じたこともあったが大分慣れてきた。「俺はこれが好き。なぜならこういう点が面白いから」と自分の中で言い切れるようになってからは本当に楽になった。以前は「面白い理由」さえも、他者の目を気にしていた気がする。「このギャグが面白い」なんていうと「おいおい、そんな低レベルなギャグがかよw?」とか「キャラクターがいい」なんていうと「そんなオタ受けバリバリ狙ったような陳腐キャラがいいとかwネタ的に面白いってうなら分かるけどw」とか、そういう視線が返ってくることにどこか怯えていたのだな。
自分の人生の中でいかに自分が好きなものを読む・聞く体験ができるか、みたいなところを指標にして考えたら、他者の視線は気にならなくなった。
ただまあ、そうやって本当に好きなもんばっか集めるといかに自分が凡人だったかということを思い知らされるがw
今日、友達と飲んだんだ。
そいつは高校時代からの付き合いで、
もう友達という枠には収まらないやつなんだ。
そいつが、明日入籍するという。
だから、今夜は独身最後の日ということで、うわー!っと飲んだんだ。
そいつが笑うたび、
そいつが語るたび、
もうこの日々は終わるんだ、明日からは別の道を歩むんだ。
そう思った。
正直に言えばさみしい。
しかしだ、とてつもなく、幸せな日だと思った。
人生の節目に、立ち会えることができた。
立ち会うことを許された。
とにかく嬉しくて、いつものペースも守れないまま、じゃぶじゃぶ飲んだ。
そこから記憶は無いけど、
なぜか無事家に帰ってきてる。
途中、知らない駅で降りたことが記憶に残っている。
そこから無事帰ってこれたようだ。
奇跡だな。
でもとにかく嬉しい。
この嬉しさをどこかに書き留めておきたいと思った。
だから今書いている。
おめでとう、友よ。
生姜千切り、豚バラを一口大、カリフラワーも一口大(芯の方から包丁を入れてめきょっと割ると楽)
クミンシード、カレーパウダー、胡椒、醤油、マヨネ、いいバター
ショウガの千切りと豚バラを炒めて色がついたらカリフラワー投入。焼き色が付いたら水を少し加えて蓋をして蒸し焼き。カリフラワーに火が通ったらクミン、カレー、バターをふり入れる。醤油を少しだけ鍋はだからまわし入れて全体に味が絡まったらマヨネをひとまわし。最後に胡椒少々。
ホウレン草を茹でる、ミキサーにかける、牛乳で伸ばしてブイヨン投入。塩こしょうで味を整える。
反省点:
のんびり構えてたらカリフラワー蒸しすぎた。ぐずぐずになっちまった。考えるよりも早く火が通る→7、8分+余熱で十分。
豚肉と味がうまくつながらない。なんか橋渡し的な味が必要。カレー粉控えめ、マヨネ省略で水の代わりに白ワインの方がいいかも。
店で隣に5,6人のおばあちゃんが集団で座ってでっかい声で話してた。
どうやら絵画教室にみんな通っているらしい。
それぞれ、「XXさんはお上手で」「XXさんは繊細で」「XXがお得意で」と、延々褒めあってる。
年のころはミナサマ70は超えている。
この年齢で絵なんて習ってんだからオハイソなんだろう。
褒めあい談義が若干ウザイと思いつつコーヒー飲んでいたら、講師の話になった。
「教え方が下手なのよね。褒めないから」
「XX先生は若いからいいわよ」
「私はXX先生の方が良かったわぁ」
…
70以上である。
まあ、XX先生がおいくつでお若いのかは存じ上げないので、
有閑マダムってのはいくつ歳くっても同じ生物なんだなぁ、と思っていたら
「XX先生は石膏の書き方教えてくれないのよね」
「こう、肌が滑らかなのにね」
「あら、私もよ。でもGacktって綺麗じゃない?そうなっちゃうわよねー」
「うちなんて孫に”おばあちゃんGacktのファンだから、Gackt書いてるのよ!”って言ってるわぁー」
おばあちゃん=氷川きよし、って脳しかなかった俺には、ますます白熱するGackt話に、一瞬頭まっしろだったわ。
しかしどんな石膏胸像デッサンしたらGacktになっちまったのか、とても聞きたかった。
おいらはCPAじゃないから会計は詳しくない。だから適宜補足してよエロい人。
日本の会計制度が国際基準に沿っていく端緒だった2000年の「会計ビッグバン」で、主要なお題目の一つに「時価会計」があった。これは、企業の持つ資産を時価評価した上で評価損益を計上しようね、という話だった。
当時はまだ、ト●タとデン○ーなんて会社は株式の持ち合いなぞをやってたから、時価会計には大反対した。だって、自分トコで持ってる他社株式が値下がりしたら、それだけで決算数値が悪くなっちゃうからね。
でも、国際化の掛け声の下、2011年までには「コンバージェンス」の名目で国際会計基準との収れんが完了する予定だ。
だけどよー、今回のリーマンとかAIGのパニックなんてのは、まさにその「時価会計」のおかげなんじゃないのかなと思うのだな。そりゃ、簿外債務なんてのがもしあったんだったらあくどいけど、それって要は自分トコで帳簿イジればできちゃう話じゃん。でも、有価証券とかの保有資産の値下がりって、自分じゃコントロールできないよね常考。
そりゃ、株価ってものが、今その会社を即座に処分したら1株アタマいくらで売れるかという指標だって見方もあるけど、それってゴーイング・コンサーンをぜんぜん考えてない話だわな。むしろ、株価を業績指標と捉えるなら、ぶっちゃけ保有資産の時価評価には目をツブってやってもいいんじゃねっかと思うワケよ。
今回米下院で否決された法案って、たしかそういう趣旨だったんだよね。でも、アメのキ●ガイ人権派共が、飢餓に困る人を助ける方が先だとかナンとかいったからおかしくなっちまった。あのね、金融が狂うと、助けられたかもしれないそういう人らもヤバいってことがなんでわからんのかねえ。
一つの考え方として、
可笑しくなっちまったもんは仕方がないだろう!
てのはあると思う。
もしくは、笑う方が何を思っていようが、笑われた方が何故攻撃されたと感じるのか。
グループで行ったときは、お互いの頼んだものをつまめばよろしいじゃないですか。また、それを前提として「グループとして」注文するものじゃありませんか。
ところがですよ。潔癖なのかなんなのか、自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人がいるんですね。抱え込んじゃってさ。取らねえよ、別に。オマエだけ好き勝手やれよ、もう。
ほかは同意するけどこれはお前……ダメだ。ダメダメだ。(一応これにはこの先があるけど、この人は既にこの「自分で頼んだものは自分だけで食べようとする人」って時点で批判しているので)
逆に自分は、こういう奴腹立つんだよ。グループでいったからって、勝手に「みんなでつまんで食べるよねー」って前提作ってる奴。(勝手じゃなくても、事前に提案されても反対したい←けど大抵なし崩しに同意させられる。同意しないとKY扱い)やだよそんなの。色々食べたいなら自分が色々頼めよ。強制的に「みんなでつまんで食べあいっこ」の輪に入れられるのが腹立つ。自分は、それが食べたくて頼んでるんだよ、お前らが頼んでるものなんて別に食べたくねえ。自分はマグロのカルパッチョが大好きなんだけど、頼むとそれを勝手に「うまそう、一口くれ」とかいって食べてく奴がいる。ほんっとこれ腹立つのね。そんで怒ると「いや俺のも食べていいからさ」とかいうけどお前の頼んでるものなんて別に食いたくねえんだよ、補償になってねえんだよそれは。
あのなあ、自分すっげえ好きなんだよ?カルパッチョ。注文してからめっちゃwktkしてんのよ?もうドレッシングの一液も残したくねぇ、ってくらいの勢いなんよ?しかも店のカルパッチョなんて、少量で高価なのばっかでさ。ちょっと取られただけで大ダメージなんだよ。そういう意気込みでこっちは頼んでるのに、勝手に「たべあいっこでいいじゃん!」の輪に入れられ、食べられてしまう苛立ち。そしてそれを断ると、「けち臭い」というレッテルを貼られるこの苛立ち。けちくさいのはそっちだろうが。カルパッチョ食べたきゃ新たに金払って食べりゃいいんだよ。金けちってんのはそっちだろ。
お前はこっちのものが食べたいからいいかもしれないけど、こっちは別に食べたくないんだよ!
「お互い様☆」とか思ってるかもしれないけど全っ然お互いさまじゃねえ!こっちは食べたくないんだから!
食べたいなら頼めよ、カルパッチョ。なんで自分のをとるわけ?っていうと「だってちょっとだけ食べたいから…」て答えがかえってくると思うが(そうじゃないなら頼めばいいんだからな)、しらねえよそんなお前のわがままなんか!なんで自分がそんなお前の身勝手なわがままにこたえてやらなきゃなんねーんだっての。
「みんなでつまんで食べる」とか、本当やめてほしい。お前らの頼んだものなんて必ずしもこっちが食べたくなるようなものじゃないんだから、同じ物量食べるなら、自分が自分の好みで選んだ美味しい食べ物を食べていたいんだよ!
大体こいつさ、「とらねえよ別に」っていってるけど嘘つけ!「グループとして注文してお互いつまみあうもんじゃないですか」って言ってるんだから最初から他人のつまむ気満々ってことだろうが!守らなかったら、つまんでくるってことだろうが!そりゃ守るわ。守らせてるのは誰だっての。「つまむもんだよねー」とか勝手に他人の食事まで己の者としている奴のせいだろうが。
こういう奴って本当他人の事考えてないのな。「自分がつまんでたのしいと思うんだから他人もそうにちがいない」っていう考え。
こういう奴にくらべたら、調味料クラッシャーとか、他の店と比較するとか、(そりゃよくはないが)たいしたことじゃない。だって、どれも「ただ言ってるだけ」「相手の食べ物が破壊されるだけ」なんだから。「勝手につまみあいに参加させられる」のが一番重大な被害。自分の食べ物他人に食われるんだから、これほど直接的な被害ってないだろうよ。
あーあ、カルパッチョの恨みが再発して長文になっちまった。ああ腹減った。
ブックマーク見て思ったんだけど、「カルパッチョ代だけ後で払えば」とか「一人で食べれば」とか、なんでそんな皆当たり前のように「みんなでつつきあうのがありき」で話すんだ?自分にとっちゃ、「みんなでつまむ」なんてのは誰かにとってのマイルールってくらいの感覚なんだが(だから、そんなマイルールをハナっから押し付けてきて、従わない方が変!とか言ってる様にドン引きするんだが)、お前らにとってはもしかしてうんこをした後手を洗うくらいに当たり前!な常識なのか?だとしたら物凄いカルチャーショックを感じる。
実際、大勢で集まったから、当然のように分け合うよね、なんてあんまり周りの環境じゃ無いんだよなー。大抵多人数で食事するときは各自好きなもんとって食べて談笑するのが普通。(だからこそ、上のような例が今でも腹立つんだが。しかも大抵カルパッチョは最初の方にでてくるから腹減った奴の餌食になる。おめーはハンバーガーでも食ってろ!!)誰かが「分け合う?」っていっても「いやでも皆好きなもん食べたいっしょー」「食べる量も人によって違うから、単にワリカンにするとアレだしなー」って言うのが普通の環境なんだよな。分け合って食べるっていうとアメリカ人のバーベキューか、子供のパジャマパーティーみたいな印象しかない。
でも、「大勢といったらつまみあうのが常識」と「個々人で注文し食べるのが常識」がぶつかりあったその時は、後者を優先すべきじゃないか?なぜなら後者なら我慢する人がいなくてすむから。その分、つまみあうのが大好きな人の、つまみあう分の楽しさは減るかもしれんが、だからといって好きなものを頼んで食べる以上「普通より下」にはならんだろ。一人の時など、普通の時は誰だってそうやって食べるんだから。でも、前者にすると、つまみ合うのが好きな人は普通以上に楽しくなるが、その分それが嫌な人は食べたくもないものを元を取るために食べ、自分の食べ物はとられ、そしてワリカンを払うなどという我慢をさせられなきゃならん。「普通以下」の気分にさせられてしまう。つまみ合う人たちの「楽しさ」のために、一部の人が「我慢」させられなきゃいかん。それは理不尽な話だろ。多人数で食事する以上、多人数がなるべく同じくらいの気持ちでいられるようにすべきだ。誰かがめっぽう楽しいが、誰かは嫌がっている、なんて状態を作りだすのは、楽しんでいる人たちのエゴだろう。嫌な人たちを土台にして、自分達だけ楽しんでるだけだ。
(てか、「じゃあ一人で食べれば」って意味わかんねーんだよな。え、多人数の食事の意味って「つまみ合う」ところにしかないの?っていう。そんなしょっぱい目的でしかないの?多人数の食事って。
たとえばフランス料理や懐石なんか、いくらなんでも誰だってわけあっては食べないだろうが、だからといって恋人同士のデートでのフランス料理が無意味ってなるか?「じゃあ一人で食べれば」ってなるか?ならんだろ。個々で食べてても「一人で食べればいいじゃん」なんて出てこないだろ。誰かと食事をするいいところって、わけあって食べると色々食べれてお得とかそんなセコい点じゃなくて、幸せな時間を共有するとか話したりするとかそういうところにあると自分は思うんでね、「じゃあ一人で食べれば」って言う人の意味が全然理解できねーわ。多人数の食事ってそんな程度のもんだっけ?)
これは、言葉狩り! といってもd:id:Apemanが言ってるようなちゃちなもんじゃにゃーないのにゃ。
どこかおかしいにゃんなんてものじゃにゃー。なにがなんだかわかんにゃーないうちに。言葉がどんどん代わっていくにゃ。
コンニャクと言おうとしたら「こんにゃく」になっちまった。コンクだ「こんく」。わかるかにゃー。
そりゃそうでしょ。国民全体では馬鹿の割合は大して変わってないってことだね。
だから個人的には、大学(特に変な名前の私立大学)は半分くらい潰して、そういう学生は高卒で働くのが当然という世の中にした方がいいと思う。
大学を就職予備校だと揶揄する人が昨今増えているが、それは平均以上の大学だけかもしれない。
私の周りにはいわゆる低ランク大学の学生が沢山いるのだが、彼らの多くは四年生の夏になっても就活すらしていなかったりする。
就活シーズンには「この前面接でやたら長い名前の大学のやつがいてさー」なんて話も聞いたりするが、そいつらはその名前の長い大学では真面目なやつだろう。
昨年度と今年度は未曾有の売り手市場だと言われたりしたが、彼ら低ランク大学の学生たちの中にはSPIって言葉すら知らないものも珍しくない。
個人的にはそうした低ランク大学の人々がどうなろうが知ったことではないが、大学の存在意義ってなんなんだろうなって思ってしまった。
そりゃそんな大学は潰れるだけなんだろうけどさ。大学に通わせてはみたものの、結局昔の高卒がやってる仕事と同じ仕事をやるなら意味がないような気がする。
おいおい、論理的におかしいだろお前。
男が純情な女をもてあそぶ→ひどい!人非人!サイテー!
女が純情な男をもてあそぶ→ひどい!けど男もいい思いしたんだからいいじゃん。
これから
何故こうなる?
その結論を導き出すなら上は
男が純情な女をもてあそぶ→ひどい!人非人!サイテー!
女が純情な男をもてあそぶ→寧ろそんなことをしてる男がサイテー!女は被害者!
でないと、その結論は導けない。
「ひどい!」といってるんだから女がもてあそぶ場合であっても普通に「その場合の女は加害者」とされているだろ。
男が純情な女をもてあそぶ→ひどい!人非人!サイテー!
女が純情な男をもてあそぶ→ひどい!けど男もいい思いしたんだからいいじゃん。
から導き出される結論は、「女はいつでも被害者」ではなく「男がもてあそぶのも、女がもてあそぶのもどっちも酷いし加害者だけど、でも男→女よりは女→男の方がまだ被害的にはマシじゃね。妊娠しないし楽しんだし」
ということだろ、って結論の方が長くなっちまったが。
ここから「女はいつでも被害者、ですか、ハイハイ」ってお前の知能が心配だ。論理学のいい本貸してやろうか?中学生でも分かる本だから大丈夫だ。感情的にすぐ「ヘン女ってすぐそうなんだろ」と自分の偏見と結びつけるのでなく、一つ一つの言葉を論理的に解剖できれば、割りと簡単に見抜けるようになる。
第一全部女性が言ってるかのように錯覚させようとしているが、ブクマコメントでそういった発言をしている人=全員女性ではないだろ。
なんかお前…これだけの文章でここまでダメっぷりを見せられるというのも一種の才能だな。
落ち着いて読むってことをまず心がけてみろ。それだけで大分違う。なに、感情的になるのはお前だけじゃない。よくあることだから恥じなくともよい。
##追記;
##当ブログの後半に、自分なりのまとめも書いておきましたので、良かったらどうぞ。
##昨日書きたかったけど眠たくて落ちてしまい、書けなかったことを書いたので。。。
##これを読む人達に、一番伝えたいコトだったんで。
を書いた増田だけど。
ブクマが沢山ついてびっくりした。
でも、良く考えれば、エホバの証人って自分を語る人は少ないはず。だって、自分が書いたように、宗教討論なんて避けるからね。
「あなたの信条を聞きたい」って人には喜んで話すけど、「俺の信条を聞いてよ、君はどう思う?」って言ってくる異教徒には警戒モード、防衛モードに入り、あわよくばその場で心の中で「神よ、試練に耐える力を私に下さい」と祈り始める(※本当です。二世なら解るよな?な?)人達なので。
それを、変とも思わないし、当然って思ってる。そういう概念なんだから、しょうがない。
だから、おいらみたいに、ドロップアウトしようとしてる人、もしくはした人しか、こうした場で話すことはないだろうと思う。
もし、現役でこうした場で話す人がいるとしたら、かなりの幹部とか、そういうバリバリの人で、あなたの家の近所にいるかも知れない身近な人は出てこないよ。
特に女性は公の場で語るのは非とされとるんで、女性なら尚更。まず聞けないだろう。
まぁ、それはさておき、ブクマコメントに自分なりにちょっとコメント返ししてみたい。
コメ返し対象のブクマコメントは下記の二つに寄せられたコメント
討論ではなく説得(証言と言う。証言?なぜ?それは、エホバの証人=エホバの証言ってこと)はOKというスタンスなので、言い方によっては結果的に討論に応じるってことはあると思う。
例えば、「あなたが何を信じているか聞きたい」と言えばきっと証言にやってきます。
で、一通り話を聞いた後に「自分はこう思うんだけど・・・どうかな?」と言えば答えると思う。
ただ、その場合でもエホバの証人は「回答できない時は、調べてきますので今は答えれないと言って沈黙せよ」と教えられてるので、やっぱり突っ込んだ話はできないかもだけどね。
目的が「エホバの証人の話を聞く」ではなく「エホバの証人と議論したい」と判断されれば、来なくなっちゃうし。
追記:公開後に読み直しで修正している中、たまたまついているのを見つけたので、ついでにお返事書かせて頂きましたw
JWって結構明確に、リーダー(幹部)系と一般信者に分けられた扱いがある。
で、自分は幹部系で一時期はエリートか?みたいな勢いがあった。
自分みたいに若いうちから幹部系に持って行かれそうなタイプは、自分みたいに考える人も結構いるようです。
ただ、そう考えながらも慣れたら苦痛じゃないしって淡々と宗教やめない人も多いです。
自分の場合、好きな子がおかしくなったとか、そういうのなければやはり淡々とやっていたかもとは思います。
10年もやってりゃ、何でも習慣化して無意識にできちゃいますからね(家々に訪問する奉仕活動=布教活動とか)
ただ、習慣化するってのもある意味、自我が死んでると自分は考え始め、そう思った時から急激に多大な精神的苦痛を感じるようになりましたけど(自分と同じ経験は時々聞きます)
神の組織である以上、減るはずがない。減るとしたらサタンによる試練がはじまったという証拠である。つまり、聖書にある終わりの日が近いという予言が成就しようとしている!って解釈するんで、どう転んでも良い教理になっとる。
二世で脱退ではなく残るが側を選ぶ人は、一般人より組織に友達が多いってのが大きな理由の人も実際いる。ただ、そうなればそうなるほど、友達のために宗教辞めたくても続けないとあかん。
一旦信者になった後、辞めますと脱退届け(断絶と言う)を出すと、宇宙論争を知らないゆえに悪魔の側にいる一般の人より、宇宙論争を知りながら悪魔の側を自らの意思で選んだ一番最悪な奴、という解釈に基づき、徹底的な排他を受けます。
それがどれぐらい厳しいかっていうと、断絶した人と、信者は一緒にご飯を食べに行くというのも許されない。それが発覚すればその信者も警告もしくは追い出される。
で、これは親子の場合でも、可能な限り、断絶した子とは接触を避けるようにといった教理なので、二世の社会人でもない子供は恐ろしくて脱退など絶対にできないのです。
社会人になっても、幼い頃から仲良くしてた人、みんなが自分をシカトするかと思うと恐ろしいという、人間関係の恐怖心から残っている人も結構います(ソースは自分調べ)
ちなみに、組織のほうからクビにされることを排斥といいます。
行われる制裁は全く同じです。つまり、みんなで一斉にシカト攻撃。
断絶や排斥者は数年すると、「戻ってこない?私が悪かったですと認めれば復帰認めるよ」と、声をかけにいく仕組みも設けられています。
元信者だけど心はJWという人は結構多いです。あと、優しい性格の人が多いのでみんなからの一斉に拒絶されることに本気で参る人もいます。
元信者だけど心はJWという人は、何かにつけて不安定になっています。毎日毎日が罪悪感。
普段は意識してないけど、911のテロ事件をハルマゲドンの到来だと確信して、慌てて、神の側につくので助けて下さい!みたいな問い合わせが組織本部にあった・・・というのも有名な話。
ちなみに、排斥になるよーな人は3割ぐらいは、この宗教は嫌いだけど、宗教の中にいる人達はみんないい人なんだよなーって浮ついた心で居る時に、出来心で・・・とか、
うっかりミス☆(いや真意は知らんが)みたいなので、いきなり翌日に排斥措置とられて真っ青って人もいます。
そういう半端者は排斥システムで本当に参るので、以後は真面目に・・・ってこともなく、二回目する人も結構居る。
多分、不倫するようなタイプの人は何度もやっちゃうと思う。知らんけど。ごめん、この行はテキトーに書いた。
いや、その理解はちょっと誤解がある。これは自分の書き方がまずかった。面白く読ますためにちょっと歪曲してた。
「がんばってこの試練を乗り越えれば」ってのは結果であって、目的ではないんです。
詳しくは、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03を参照してください。
最も、それでも結局はそゆことだろ?って言われたら、そうだねぇとしか言いようないけどさ。
現役でも目的と結果を勘違いして、マゾになる変態がいるのも一言付け加えときます。あれは見ていて最悪だった。
苦しいのは当然だ!アハハ!ってのはさすがにJWでもいかれた奴にしかいないよ。
残念ながらJWの教理上、増えることはないです。カミングアウトしはじめてる時点でそいつはもはやJWではない。形だけの奴ですよ。よってこれも、読書感想文みたいなもので、リアルタイムではないということを付け加えておきます。
そう、それをテーマにしたかったんだけど、歴史とかがテーマじゃないけど比率的に多くなってしまって・・・こうした考察を得てもらったのは当初の目的だったので嬉しい限り。結局、自分自身、その一人と言えますしね。
知らない方が幸せという言葉もあるので、プラスであるとも言えるのではないかと。実際、脱退したために一般社会の厳しさ、複雑さ、面倒さについていけず、エホバの証人にも一般の社会人にもなれない元二世も結構いる。ああ、こう書くとやっぱりマイナス面ばかりかなあ。
でも、どうして今の世は不条理なんだろうって鬱な人が希望を持つのが宗教の役割の一つではあると思うので、こういう仕組みは(宗教という性質上)しょうがないようには思います。
デメリット、問題点は同意だけど、プラスマイナスだけで簡単に片付けれない所が宗教にはあると思う。
他の具体例が、当ブログの上記で述べてる「断絶」というシステムです。
脱退自体は自由にできるようになってるんだけど、その場合の心理的制裁が半端ない。自由意志は尊重してますよ、責任は求めますがという側面は一番二世を悩ませてる性質です。自分もこれにはほんとうに克服するのに苦労した。
合わせてお読みあれ。
今度、見かけたら優しい言葉をかけてあげてください。
補足というか寝ぼけて中途半端に書きました。「リベラリズム」自体は初期より歪んだ形で持ってます。詳細は 当ブログの「断絶」の話とか、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03とか。
具体的に言うと、以前より開放的に見えるけど、一方でますます抜けたくても抜けれない二世が増えているというほうが正確だったのかも、です。詳細は上記の通り。
現世救済主義は一時的に信者を増やすのには有効ですが、質の悪い信者ばかり集まります。
それで、今の世に救いはないと明言し、天国に希望持てと言ってしまう宗教もあるのかなと。個人的感想ですが。
自分の親友だった学会員も二世ですた。JWとは違う形で葛藤しとったのは印象的でした。そっちはそっちでいろいろおありのようで。
そうやね!「リング」に出てくる呪いのビデオって例えはいいね。書いたのは全体的な傾向とか、自分なりの考察や感想なんで、全てのJWがそうだとは言いませんよ→宗教論争。
ナチの件は自分はどうでもいいので検証してません。事実であるかどうかも興味ない。テキトーですんません。
そしてそれを自分の精神基盤としている人間には当然、理論で話し合うのは難しいのです。
相手の話を聞いて、相手の価値観(もはや異国の異文化同士の交流と同じ)を理解しないと、話が全く噛み合ないと思う。
あと、別に宗教やってる人間が、サイボーグな訳じゃないっすよw
人間誰だって中身は同じです。欲望を自己否定したり抑圧する人と認める人、その行為を平気な人と苦しむ人、そのあたりの個人差じゃないかな。
表情だけならいい、感情(罪悪感、恐怖心、不安感、多幸感)までプログラミングされるのは経験してほしくはないけど、経験した者にとっては本当、恐ろしい体験です。二度と味わいたくない。
彼女は結果として得た世界の一つであって、役割ってもんではないかも。勿論、新しい世界は見せてもらってるけど。
自分の場合は、医者に薬もらって休職するぐらいまで自分の精神構造を一回バラバラにした。一ヶ月寝たきりになった中で自分の精神を再構築して、客観的に見れるようになった。
役割という言葉を与えるべきなら、その時、自分が壊れそうになっても自分と向き合った、あの時の自分だと認識してるよ。
最も、二度とあんな精神崩壊寸前の経験なんてしたくないけどね。
小さい頃から、この生き方が「真理」ですと言われた場合、そうではないと考えると今迄の自分は何?という自我崩壊になる。
と言われて悪魔主義になる奴なんてのは、なかなかいない。普通に生活して幸せに生きたいって思う人間ならね。
でも、そもそも、神か悪魔か?っていう概念、何よりも二択しかない?二択?何の?この世界って何?
そのレベルまで自分の人格を分解しない限り、幼少から育てられたエホバの証人の子供は、無意味な罪悪感から脱却できない。
増田でトラバくれた、元二世のお二人(http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 と http://anond.hatelabo.jp/20080723111359)はどちらかというと軽症だっただけと言える。
ただ、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 は、役に立ったと思ったり(いや、本当に役立ってるのでしょう。良かった良かった)
オフ会開いて共有してみたいと思うあたり、まだ完全には脱却できていないと推察します。
何かのきっかけで、完全復帰はしなくとも、気持ちが囚われることはあるはず。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951が文中で書かれた「高校でグレちゃった子」の話。
こういう子は、しばらくすると懺悔して復帰する可能性が高いです。
行動すればするほど、心に埋め込まれた精神の規定を成す概念が自分自身を締め上げていくはずだから。
遅かれ早かれ、何らかの行動起こすんじゃないかな。
それか、それを否定したくてもっと自虐に走るかも。
ちなみに、俺はJWの中で好きな子つうか、仲良くお互いにしてた子もいたよ。
男でも本当にいい友達とかおった。
でも、自分の育つ時代が一番、最悪なあのスパルタ時期でさ、みんなおかしくなっちまった。
頭良くて学校でも成績優秀な子が、どうしていきなり停学になるような不良行為を起こすんだい?
俺は、俺の好きだった子や、可愛がってた子、遊んでくれた年上のお兄さん達、が否定したいけど否定もできず、
そして自分を責めるという行動にしか走れずに混乱していく様を何度も見たよ。
自分の場合は、あまりに親が厳しくしたせいか、叱られる時に、叱られる自分と、叱られる自分を見つめる自分を作るようになった。
教理にも納得する自分と、納得できない自分、色んな所で自分が体の中に二人いるそんな精神構造になった。
これ、二世ではけっこう「自分もー」って言う人、いるんだけどね。
ただ、大抵の人は、客観的な自分を肯定しないんだよね。
それを何とか殺そうと努めて、結局、自己否定になり(そりゃそうだ、その精神だって自分だもお)おかしくなったり
それは私が不完全で救いを必要する人間だからなんだわとかいう変な自己解釈(俺の両親とかキモいから解らんがきっとそうだと思う)しちゃったり。
自分の場合は、その二つなっている自分は結局、どちらも自分であり認めなければならない。
おかしいのは俺か?違うんじゃないか?と、考え始め、しかし二人の自分を一緒にしようとすると、この考えは教理に違反している!という罪悪感と、俺はこう思っているんだ!と叫ぶ自分が脳内で騒ぎ立て、まともにまっすぐ歩けなくなるぐらい苦しんだりもした。
もっとも、学校卒業しなきゃ負け、と思い、10日でノコノコ返ったけど。そんなヘタレさ、どうせ。
自分はおかしくない、俺が思うことを俺がその通りに行動するのはおかしくない。これが人間。
それをいちいち、正しいか、正しくないか?と考えて誰も見ていないのに、勝手にビクビクしたり、これは聖書ではNOとあることだ・・・と脂汗が出るのは、俺が信じているからではなく、そのように作られてるからだ。
そうやって、自分で自分にカウンセリング?リハビリして、死ね!クソ宗教!とようやく言えるレベルにまでなった。長い苦労だったよ。
だからって、必死になって幸せになりたいと思わない。
俺の仲良しだった良い奴ら、同じ宗教というきっかけで知り合えたいい奴らは、本当、みんな社会的にドロップアウトしたり、「僕も信じてないけどさ・・・行く所ないじゃん」とかいいながら、今日も宗教活動してる。
俺をこんな目に合わせたのは・・・誰だ?
とか、思って叫んだ日もあったよ。親を蹴り上げて、会衆を燃やしてしまえとか本気で考えた時もある。
でも、そんなことをしたって、何か変わるか?変わらない。
失われた時間、失われた人間関係、無くした友達、好きだった子はもう目の前にはいないんだ。
俺はもうこんな歳だ。社会的にも働き盛りであるべき年齢。
俺がここで止まっても、世界は崩壊しないし、誰も困らない。
明日は淡々とやってくる。
だから、俺はだだっ子のようにぐちぐち言わず、自分で考えて自分で行動して、自分で生きていきたい。
だが、俺は一生、親の愛情としてあなたにああいう教育したのよと言う両親を、憎む事も否定することもできず、振り上げた拳をどこにも持っていけないまま、生きていかなければならない。
俺は、ここでみんなに知って欲しい、知って欲しかったんだ。
あの家にピンポンしてくる変な宗教団体の陰で、俺みたいな奴が一人、世界中に何百万人もいる教団のたった一人の小さな存在だけど.
こうやって、静かに戦ってた奴がいたんだぜ?ってことをさ。。。
ただ、すごく疲れる人生だった。
正式に脱退できたら、彼女と祝いたい。
そして、しばらくゆっくりしたい。。。
俺は、彼女がどういう選択するかも兼ねて、彼女にも教理を他の信者を通して学んでみてもらったんだよ。
彼女は「納得できる部分というか精神的に高い志をもとうしてるのはいいんだけど、自分の望まない話になるとシャットアウトするね」とさらっと言ってくれた。
それで、俺の心の最後のつっかえはとれた。
彼女が入信していれば俺はまた苦悩してただろう。
賭けには勝った。もう俺は大丈夫だ。そうさ、俺だってね俺は一人じゃない、俺を認めてくれる人は欲しかったんだよ。
でも、JWの複雑で独特な背景を好奇心で見てはくれても、俺自身を見て、俺の背負ってきた人生の一部がどんなもんか?みたいな視点から見てくれる奴は、彼女だけだった。
貴重なかけがえのない存在なんで大事にしたい。
俺はこの決断、こういう道を葛藤なしですんなり選べるようになるまで本当に苦労したんだ。
その自分の中に埋め込まれた変な宗教の精神構造のせいで、それを取り除くのが精一杯で、友達を作るのも途中で辞めていた。
恋愛するぐらい余裕ができたのもほんの数年前だ。それまで、自分は生きてるのか死んでるのか、俺は何?俺は誰?俺の本当の気持ちはどこ?って自問自答してたよ。
宗教は否定しない。
でも、誰もそれを強要してはいかん。
何より、子供に必要なのは自分で考え人生を選んで行くための能力と機会を与えるべきだ。
籠の中に突っ込んでも死ぬだけだ。
まぁ、そんな感じ。
言いたい事言えてすっきりした。
これが多くの人の目にとまると思うとすっきりする。
いい時代になったよ。
ネットなければこんな声、絶対に残せなかったから。