はてなキーワード: あいかとは
ある芸術家が餓死寸前のイヌを展示して「イヌの餓死」という芸術を発表した。やせ細ったそのイヌは、薄暗い部屋に置かれた太い鉄格子の折の中で、もちろん餌も与えられずただ放置されていた。イヌはときおり頭をもたげては、虚空を虚ろな目で見上げたりもしていたが、体を起こすだけの力もないらしく、またぐったりと横になってしまうのだった。
芸術家は、これはまだ最初の布石に過ぎず、私が表現しようとする芸術の準備段階だと宣言した。「イヌの餓死」だけでも非人道的なのに、それが準備段階に過ぎないと宣言したことで、様々な人から非難が集中した。ネットでは芸術家のブログは炎上し、自宅には反対するグループが押し寄せ、それらをマスコミが取り上げ更に盛り上がり、収拾がつかない程に社会問題化した。
しかしそれだけの騒ぎになっても、芸術家は展示を取りやめ様とはせず、コメントも発表しなかった。その間も、イヌは餓死することなく、あいかわらず衆人の目の中で生き長らえていた。
芸術家が沈黙する中で、憶測と中傷だけが勢いを増していった。そんな折に、事態が一転した。とある過激な動物保護団体の者たちが、高い塀で囲まれた芸術家の家に、自家製の火炎瓶を投げ込んで放火したのだ。古い木造の家はあっという間に燃え上がり、家で寝ていた芸術家は逃げる間もなく焼け死んでしまった。
芸術家の死により、「イヌの餓死」の展示は中止となり、死にかけていた檻の中のイヌは無事に保護された・・・かと思われた。しかしイヌを助けようとした人々は、その折を開けてみて驚いた。そこにいたのはイヌではなかった。精巧に作られたイヌのオブジェだったのだ。簡単な機械仕掛けで、ときおり首を持ち上げるような動きをする。たったそれだけのものだった。
そこへ美術館の館長がやってきた。これだけの騒ぎになりながらも「イヌの餓死」の展示を取りやめず、芸術家と共に非難を浴びていた人物だ。その館長が、持って来た封筒から手紙を取り出して皆の方へ見せた。それは死んだ芸術家の手記だった。手記にはこう書かれていた。
「この展示には3つの目的があります。1つ目は、私が作ったイヌのオブジェがどれだけ人に『本物のイヌ』として見えるかを確かめること。作品を見た人に本物だと思ってもらえること。これこそが今の私にとって、芸術家としての望みです。2つ目は、動物に対する愛情を再確認して欲しいといこと。このみすぼらしいイヌを見て、人々はかわいそう、と思ってくれるでしょう。そして動物への虐待や安易なペット化を再考してくれることを願います。3つ目は、人の強さを確かめること。もしこのイヌを本物だと思ってくれる人がいるなら、きっとこのイヌを檻から解放してくれることでしょう。そういう強い人間が出てきてくれることを私は期待します」
そして手記の最後にこう書かれていた。
「私と共にある32匹のイヌのために」
http://anond.hatelabo.jp/20080123112828続きdeath、遅くなりました。ぶくまとTBでわっふるしてくれたひと、ありがとう。推敲してないので変なぶんしょうだったらゴメン。
携帯メールを教えてもらってからはちょくちょくたわいないやりとりをしてた。鼻息荒く「会いたい」というのではなくて一緒に飲むのもいいですねーみたいな会話だった。女はあいかわらず自分の情報を出さなかったし、日記に自分達のやりとりを窺わせる書き込みもしなかった。
旅行の日が来た。日記にも「出発でーす」みたいなタイトルで書いておいた。(今思うとこういうタイトルの日記って迷惑だよね。)他のコメントに混じって女が「いってらっしゃーい」みたいなひとごとっぽいコメント。会うことは他の人には知られてない、そのそっけなさが逆にちょっとした背徳の期待感になった。
日記を載せてすぐ、○○県の○○駅で会いたいとのメールをもらった。かなりの田舎だ。二日目なら寄れると伝えた。二日目、指定された場所で待つことにした。釣りの可能性もあったので時間つぶせる本をもっていったけど、女からひっきりなしに遅れますメールが届いたので返信で忙しかった。着きました!というメールがきたので振り返ると本当に女がいた。「○○さん?」あぁ、HNで呼び合う恥ずかしさよ、それは置いといて、相手はまぁ普通の女性だった。mixiでのテンションと違って落ちついた様子だった。
とりあえず彼女についていき、おすすめのお店で飲みのはじまり。最初はぎこちなかったけど、お互いのマイミクの話をしたり、mixiの話題で聞き役に廻ったりしたらすぐ打ち解けた。友達の友達だとすぐに信頼してもらえる。ただ、軽い緊張はあったので酒の量は多くなった。
酒がすすんだ頃に住所のことを聞いてみた。「住んでるのって東京だよね?」すると彼女、「ああ、あれ嘘、ネットって案外危ないから」とケラケラ笑いながら言った。時々東京のお店の話題を日記に織り交ぜれば偽装完了だそうだ。プロフに本名出してて初心者っぽかったのに、実はしっかりしてるんだなと思った。その本名もやっぱり偽名で、名前に関するコミュ(「姓が佐藤」みたいなの)にも入って偽装していた。mixiで実際に会うのは初めてと言う。よく考えると待ち合わせ場所も遠くから観察できるところだった。彼女はこちらの女マイミクとの関係を聞いてきた。それも、加入コミュなどでは関係性の推測が難しい女マイミクに絞って聞いてきてた。後で気づいたけど、会う前に入念にチェックしてきたようだ。(続く)
ごめん、また今度書きます。すぐ書けるかもしれないけど、ネットのない環境にこもらされるのでもしかしたらかなり遅くなるかもしれない。それとこれからエグい内容になるので通読はあまりお勧めはできません。続きです。http://anond.hatelabo.jp/20080127181332
こないだ東京に行ったんです、東京。数年前まで東京に住んでいたんだけど、あいかわらず人が多い。特に新宿駅周辺なんて人でごった返していて、歩くのにもひと苦労。そんな人混みの中にいると、いろんなことを感じる。
たとえば新宿南口改札近くの通路にガラスのドアがあるんだけど、ひっきりなしに人通りがあるので、ドアの方も大忙し。閉まろうとしては開けられ、閉まろうとしては開けられ。いっそのこと開放しときゃいいのに、ドアはゆらゆらと揺れ続ける。みんな、自分がドアを開けて通るときってどうしてる?後ろの人のために少し大きめにドアを開けるor手で支える?それとも自分が通れる広さだけ開けて通り抜ける?後ろの人にドアがぶつかりそうでも。そこではほとんどの人が後者だった。まあ人が多すぎて、支えるとかえって邪魔になるというのもあるかもしれないけど。
肩がぶつかりそうでも道を譲らない人。混雑した電車でバッグを座席に置く女性。コンビニの前に座り込む若者。歩きタバコをする男性。学校に無理難題を言う親。東京に限らず、最近はモラルというものが薄くなってしまっている。あるいはマナーと言うべきか、思いやりと言うべきか。一人ひとりが自己の利益だけを考えて行動している。まるで「すれちがう人間はみんな敵」と見なしているかのように。恥ずかしながら僕自身も例外とは言い切れないけれど、最近そういったことが気になってしかたないんだ。日本人の奥ゆかしさや思いやりはどこへ行ってしまったんだろう。
新宿の喫煙所に腰掛けながら、友達にそんなことを話すと「yomyom」という雑誌に載っていた話を教えてくれた。精神科医と漫画家の「世間が狭くなりました」というテーマの対談があったらしい。昔は世間が広かった。家には祖父母が同居していて、近所づきあいもあったので、外でのふるまいも誰かに見られているかもしれないという意識があった。けれど、今では核家族化が進み、近所づきあいなんてほとんどない。中には、家族の交流さえ断絶してしまい、本当に仲間内だけの狭い世間で過ごしている人が増えてきている。たとえばコンビニの前で座り込む女子高生たちも、仲間内だけで世間が完結しているから、周囲への迷惑なんて気にしない。誰かが眉をひそめたって、それは世間の外の人だからだ。彼女らは社会とつながっていない。社会人だって電車の中でマンガ雑誌を読みふけっていても、電車の乗客からどう思われるかなんて気にしない。(友達の話から内容を類推。今度、yomyom借りてちゃんと読んでみる予定。)
今は個人主義の時代で自分の利益を最優先する人がほとんどだけれど、たしかに親戚や知人がどこかで見ていると考えたら、もう少し節度のある行動を取りやすくなるかもしれない。周囲の人は、敵ではなくて「近しい人」と思って。その日から、少し自分の行動を変えてみることにした。前述のようなマナーを守るのはもちろん、同じマンションの住人とすれ違うときは挨拶をしたり、積み荷を崩しそうな配達員がいたら手助けをしたり、コンビニで店員に「ありがとう」と言ったり(まだ照れがあるので声が小さいかもしれないけれど。もう少し自然にしたいな)。周囲の人を親戚だと思って接するように変えた。
それをしたからどうなるってわけでもない。トクすることはないよ。ときには奇異な目で見られてしまうし。でも続けていこうと思う。そういう人が増えれば、心の背筋がピンと伸びそうだし、将来子どもが生まれても、胸を張って大人としての手本を見せられそう。何より、もっと日本を好きになれそうだから。
友達の話を聞いて思い出した話があった。
http://ayacnews.blog57.fc2.com/blog-entry-944.html
このお婆さん、素敵だと思う。
以前にマクドナルドでバイトの女の子に対して通常とは逆の順番で注文したら
どうなるか試したという書き込みがあった。
つまり、「店内で、バニラシェークの M サイズと、マスタードソースのナゲットと
レジの女の子はすっかり頭が混乱してしまって、何度も注文を聞き返し、おまけに
最後に「店内でお召し上がりですか」と聞いたそうだ。
面白い。そこでサブウェイでも同じことをしたらどうなるか試してみた。
「店内で、ペプシコーラの M サイズと、あと、レギュラー調味料を入れて、野菜を
全部とピクルス多めにして、M サイズのハニーウィートにはさんだサブウェイ
クラブをお願いします。」
バイトの女の子は顔を挙げて言った。「あいかわらずの性格ね。」
別れた彼女だった。
「僕らの時間も逆にたどれないかな?」
突然泣き出す彼女。
「おい、いきなり泣くなよ。こんなとこで・・・・」
「ごめん。でも逆にたどるなら、始まりは涙でしょ?」
あいかわらず、この国の死刑制度に対する存置世論は強いようで、、、
痛いニュース(ノ∀`)【光市母子惨殺】 元少年「生きたい」「検察、僕をなめないでいただきたい」…弁護団、涙で「こんなに胸を張って弁護できたことはない」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1033297.html
ブログ主の編集方針が偏ってるって事情を差し引いても「吊るせ吊るせの大合唱」状態。あまりに人の命の重さに対する感覚が軽すぎるんじゃなかろうか?
気に食わないやつが殺されたらスッキリするっていう人権感覚が蔓延したら「正義のための人殺しは容認される」っていうことにならないかと心配だ。
さてそれにしても、僕にはむしろ悲しみにくれる被害者を救済する手段が「被告の死だけしかない」というこの国の現状こそ問題にすべきだと思える。
刑事裁判の目的が、被害者救済ではなく社会秩序の維持に偏っている(っていうか、それしかない)現状のもとで、被害者家族は裁判へ参加することもできず、真実から遠ざけられてきた。(少しは改善がみられるが)
悔しさを晴らしてくれるのは「厳しい量刑=死刑」のみ、それだけが唯一の望みという人生はあまりに虚しい。
一家の大黒柱を失った被害者に必要なのは、加害者への報復的判決よりも、むしろ明日を生きる「生活の糧」じゃないだろうか?
例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故の被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告の死刑をこれほど強く望むだろうか?
いまでも量刑の判断基準に「被害者(遺族)感情」が加わっているため、加害者に経済的な余裕があれば、賠償金と引き換えの減刑っていうのが現実に行われているけど、これって金持ちなら加害者になっても減刑されるっていう不公平な仕組みだと思う。
自動車事故のように、過失割合も加味して、被害者に落ち度がなければ100:0、怨恨であれば80:20、正当防衛であれば30:70といった具合に、刑事裁判と民事の救済をセットにして判定をし、はじき出された金額を国庫から支出、加害者に財産があれば、それを没収して国庫に充当させるのだ。こうすれば、加害者の経済状態に関わらずに被害者全員の救済が行われ、金持ちだけを特別に減刑させる手段を取り上げてしまえる。
また、社会全体にとっても、死刑にならないことを前提で取り調べが行われたほうが、検察の言いなりになって供述調書にサインをしたり、弁護士の小手先の法廷戦術で事実に反する供述調書を丸呑みしたりして「事実の究明=事件の教訓化」よりも「反省の態度=上辺の取りつくろい」を優先するようなケースが減るんじゃなかろうか。
大事なことは、事件の背景にある社会矛盾や人間心理の不条理を解明して教訓化し、社会全体が努力してこれを取り除くことであって、上辺だけの反省は真実の究明にとって邪魔なだけだ。
そして「だれがそのコストを負担するんだ!?」って反論には「もちろん税金で」と答えたい。っていうか、人命よりもコストを優先する発想って、先進国としてどうよ?
どうも最近の死刑論議・刑事司法論議を眺めていると、感情的な死刑存置派の背後に隠れて(時にはそれを煽って)被害者救済や犯罪者厚生のためのコスト負担を安上がりにしたいという国家権力の怠慢を感じる。
そもそも手打ち職人って、うどんかそばじゃないんですから……。
7、8年前ならいざしらず、いまどきtableつかわないと思った通りのレイアウトができない方がおかしいと思うんですが、世の中ではちがうのでしょうか……。
10年前は複雑なtableのネスト構造や、スペーサーの使い方で自由自在にデザインしてみせますよ!というのをウリに、HTMLを手打ちしてました。
2000年ごろには、逆にtableやspacer.gifを排除するために、HTMLを手打ちしていました。
なんでそんなめんどくさいことしてるの?Dreamweaverとか使えないの?といわれ続けていく歳月。
でも、SEOブームなんてのがきたときは「いままでそんなこともしてなかったの?」って感じでスルーできたよ。
最初っから構造を意識して書いてるんだから、インチキSEO業者なんて入り込むスキマもないよね。
んで、動的コンテンツを作るときにも、エンジニアさんと連携しやすい。
問題は、DreamweaverでしかWebが作れない自称Webデザイナーと共同作業しにくいこと。
それでもさいきんはツールのほうが賢くなってくれたので、大分マシになったよ。
さすがに、ポチポチとタグばかり打ってる年齢でもないので、もっと他の部分で自分のリソースを使う割合が増えたけど、美学というか信念というか、そういうものを継承してくれるような若手がなかなか居ないので、あいかわらずエディタは手放せないのです。
まあ、ライティングも編集もオーサリングも同時にできちゃうから、便利っちゃ便利だけどね。
海は死にますか、山はどうですか。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070614/p1
それとも水あめを配布して甘辛く煮付けようという話しあいかな?
緩衝帯を儲ければいいだけの気もするな。
ネット調停委員会みたいなさ、揉め事判定する第三者グループをつくって、
ここはお前が悪い!みたいに断罪していくの。私刑禁止の原則に反するかな?
公的機関がやらないのだから致し方あるまい。
というか、ブックマークとか、本尊に突撃を防いでるという意味では緩衝帯だよな。
なんかバーチャルPCによるパケットブラックホールというか、トラッパーの代わりになってるよね。
ようやくd,qも移動かな?
シーサー並みに重たい構成これですこしは解消するかな?
なんていうか、暑い。
暑すぎる。
なんか高校あたりの年齢の学校のオーケストラかなんかで何故かクラリネット系の名前の楽器のものを自分が選んでそれを演奏する事に。
しかしそれはクラリネットなんかじゃなく、サンなんとかという名前だったろうか、サンクラリネット?まぁ形状は筒形でチェスの駒のクイーンやキングみたいな形状だった。
それを吹くととりあえず失敗、その後中学生時代の同じ部活だった比較的聡明な友達がその楽器の扱いを何故か本能的にある程度はわかっている設定で、トゥーという形で吹くと上手く音が出るよということだった。
なのでトゥーと吹いてみる。そうすると、その楽器は比較的低い音でドゥーーーーーーと響いた。吹くのをやめてもそれは止まらず、指で押さえていてやっと止まった。指を離すとまた反響が続いて音が鳴っているため、かなりうるさい。
そこでよくわからないけどかなり偉いっぽい外人の先生のところに自分なんかがいくべきではないが、この謎の楽器を止めるためにどうしたらいいのか?と聞きにいったが他の生徒に話しかけられているので諦め、他の手段でとめ方を調べる事に。何故かスポーツ新聞ちっくなものでさっきの聡明そうな男子がこの記事にその楽器の事が載ってるよ的なかんじで持ってきた。どうやら物凄く音が出る楽器らしく、音が出すぎて奏者は大変だったようなことが書いてあるブログのエントリだった。そしたら他の先生がやってきて、おー、君はその楽器を選んだのかねとにこにこしていた。アドバイスはあったろうか、それ以降は覚えていない。
場面一とどちらが先立ったか覚えていないが、最初は一番最初に住んでいた家周辺のようなコースを、次に現在の実家の周辺のようなコースを女子マラソン大会のような感じでマラソン中のようだった。最初のコースでお、何故か女子マラソン大会やっとると思った自分はエロ心でマラソンコースを逆走し始め、おぉ、あの人格好いいと思われるために走る。自分の前か後ろには普通にマラソン好きそうな眼鏡かけたおじさんが日課のマラソンちっくな走りをしていた。
ある程度走ると、線路があって、踏切が丁度下りていたので止まる事に(別段自分はマラソン大会に参加しているわけでも無いので無理する必要も無いし)。それで電車が来るのかなと思ったら、前の道路を車が通り過ぎた。一度踏切が上がった後、すぐにまた踏切が下がってきて、もう一度車が通り過ぎた。{その前後で子供とのかけあいか、おばあさんのあたりに視線が向いていた気がする)
それ以降は覚えていない。
オシムのような印象という漠然としたイメージだけで形成されたようなはっきりとした外見がないまま夢が始まり、夢が継続し、夢が終わった人物と、比較的大規模な木工のような作業をする場面。
場面一でその人物のような印象の人物との繋がりがあった気がする、指導者的役割という意味で、場面一の最後の先生のような役割の人だろうか。
場面三ではその人物と木工のようなことをした、メンバーは場面一の高校メンバーから男子を抜いた感じだったろうか、前面に出てきたのは男子で、自分の中にはクラスのような印象もある。
そこでは最後のところだけ覚えていて、最初にその指導者のパートナーに選ばれた自分は、最後に結局バーナーを指導者である彼の切った木にかけ乾かすということを指示された。
最初に指導者は特殊な形状のバーナーで木を乾かすことを実演、木は大体8平方メートルほどで木の周りに置いてあるクラスメイトの持ち物(靴や荷物など)をかるく燃やしながら木を乾かした。
その後自分がそれをやることに、クラスメイトからはおいおい、それやっちゃうのかよ、やらせちゃうのかよといった感じで揶揄される。
自分が何か言ったのを、オシムは18時30分には帰らなくちゃいけないのか?と問いかける。いや、そうではないと返答。
その後バーナー作業に入った。
それ以降は覚えていない。
もう丸見せの時代なんでしょうか?
黒子であるべき人間が舞台に立っていたところどんどん色が落ちて
もはや黒子の本来の意味を成していないのにも関わらずまだ黒子ぶっているのは滑稽だ。
もうミエミエの黒子のいるつまらん劇に嫌気がさしている人も多いのではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070526122055
創価学会はよくわかんないけど、
今の世の中『黒子』がみえすぎだろ!
2ちゃんねるで散々ネタにされてる朝日新聞とかパンツ丸見えなのにまだやってる。
ジャスラックもあいかわらずヤクザといわれても仕方ないところから取り立てたりしてる。
どれもこれもインターネッツのせいだっつうのはなんとなくわかりる。
旧態依然のスィステムがネットの時代についてきてないんですね。
いままでパンツ見えてもひとりで済んでたのが、いまはあっという間に知れ渡り
それどころか永遠に情報としてネットのあちこちに分散されて保存される。
人間の特徴である時間が経ったら記憶が薄れるといった現象もネットの特性がカバーしちゃう。
これからきついねパンツ丸見えの今まで散々やりたいほうだいやってきた人らはさ。
中国と違って我が国が日本なのをこれほど嬉しく感じることはないよ。
このエントリーも書けるしネ。
なーんてことを書いてみた。