太平洋戦争から70年以上経った現在、戦争の経験者は少なくなっているこのごろ。
私の曾祖父は戦争経験者なのだが、もう曾祖父は私が生まれる前に亡くなったしその息子である祖父も亡くなった。
けれど祖父が伝えてくれた曾祖父の武勇伝…が私の中で残っている。
しかしもしかしたら忘れてしまうかもしれないし伝える子供もいないかもしれないのでここに残しておく。なお、本当にその出来事があったのかは私自身疑問に思うこともあるので「へ〜そんなことがあったかもしれないのか〜おもしろ」みたいに流してもらえればと思う。というかむしろ本当にそうだったか検証してもらいたい。
ちなみに曾祖父は戦争の途中で日本へ戻ったため終戦時は地元にいたらしい。
①出立日
曾祖父は戦争の割と初期に徴兵された。出立の日、地元の駅ではみんなご存知のあの「バンザイ」が行われ、列車に乗り込んだ。
目的地がそこそこ遠いため、空いた時間がたくさんあったという。そこでいるメンバーでカードゲームらしきもので遊んでいたらしい。戦争に行くとは思えない、まるで遠足に行くかのように和気藹々とした車内だったという。
曾祖父が配属されたのは中国のとある地域だった。陸軍だったので陸地の移動にはトラックが用いられたらしい。
ある日、曾祖父が同期とトラックで運転していると一面のとうもろこし畑が目の前に広がった。曾祖父達は喜び、何故か車内にあった炭火焼きを出して勝手にとうもろこしを収穫、焼いて食べたらしい。
しばらくした後、様子を見にきた隊長が「お前達何やってるんだ!」と走りながらこちらへ向かってきた。
地雷が仕込まれていたらしく、その地雷はトラックをこのまま走らせていたら確実に踏んでいた場所にあったという。食欲が命を救っていたのだった。
ちなみにこの他にもトラックで地雷を踏んだ事案はあったが曾祖父は特に怪我なく生き延びている。
③憲兵を殴る
曾祖父は酒好きな人で、陽気な人であった。そんな酒をよく飲んだ日の晩、門限を過ぎてから隊へ戻ったとき憲兵からかなり厳しく注意された。
しかしここで曾祖父は「うるせえ!」と酔った勢いで憲兵をぶん殴った。
「大丈夫か」「これを食え」など憲兵の目を盗んで仲間たちが曾祖父のことを心配し、ご飯を差し入れしていたのだ。
そして曾祖父が懲罰房から出るときには、入った時より太っていたという。
④敵と遭遇し逃亡
その日は霧が濃い日であった。隊が霧の中を進軍し、少し休憩に入ることとなった。曾祖父も一休みしすでに休憩に入っている仲間のすぐそばで休憩していた。
もう一度言うが、その日は霧が濃い日であった。ちょっとすすんだ先も危ういくらいの。
強風が吹いたのか、霧が少し晴れる。
すると、仲間の姿が映る。自分のようなアジア系の顔立ち、しかし装備している軍服が違う。
なんと、敵も休憩しているところに曾祖父達も休憩してしまったのだ。
突然目の前に現れた敵に、お互い驚く以外なく。
その日、会敵したにも関わらず戦死者はおろか傷病者も出なかったという。
他にも思い出したら追記するかも。