自分はあまり政治には詳しくないし、信念たる思想も持ち合わせていないのだが、現代が個人主義に傾倒しつつある時代なのは肌感覚で理解している。
それと関係があるかは知らないが、何かしら他人、集団に対して働きかける言論へのカウンターとして「お前がそういう理念に基づいて行動するのは結構だが、それを俺に要求するのは筋違いだ/出過ぎた行為だ」というような言論を多く見かけるようになった。と思う。
確かに個人の権利や考え方が守られるべきだというのは、右に立とうが左に立とうが共通する、現代人として議論を交わすためのスタートラインと言っていいだろう。しかしそれを振りかざして思想的鎖国を行うならば、そもそも議論を交わす意味がなくなってしまうのではないか。
自分が「思想の押しつけはやめろ」が詭弁ではないかと考える根拠として、具体例を挙げる。
グレタ・トゥーンベリ氏による環境保護のための諸活動は記憶に新しい。そして、日本のインターネット(自分が観測できたとても狭い範囲)においては、結構冷笑的な視線が多いと思う。実際自分も、パフォーマンスを重視する政治活動や、少女を矢面において批判を差別とすり替える手法にはあまり感心できない。とはいえ地球の環境問題は我々が目をそらしていい問題ではないし、個人の努力で解決出来ることでもないので他者に働きかける必要があるのは当然ではないか。
あるいは昨今拡大し主張を強めるヴィーガン・コミュニティ。当然彼ら/彼女らは一枚岩では無く、元来ベジタリアンなどと呼称されていた、健康のために菜食を行うグループはさておき、家畜を解放しようと考えている一派からすれば、自分たちだけが主義を遂行するのでは何も達成できない。
個人の行動では解決できない事柄をなんとかしようと声を大にしている主張に対して、「押し付けるな」というのはあまりにも幼稚で、無思慮で、思考停止的で、原義的な保守にとってあまりに都合の良い個人主義の拡大解釈なのではないかと、(同じく声が大きな主張のいくつかに異を唱える身として)切に感じている。
そうそう、今のヴィーガンがまさにその状態なんだよな 「理解しなくていいから存在を認めてほしい」ってとこから始まるけど、結局数が集まるとお前も理解して行動を変えないと恥み...
思想を押し付けるには、民主主義という名の多数者の専制を背景にしなければ強制力が伴わない。強制力を伴わずに思想を押し付けたら、反発するのは当然のことだ。それに対し、「幼...