世界はだんだんよくなっているって記事を読んで思ったのだけどそこまで世界がよくなっているという実感がない。ここでいう「世界」とは利便性に限定されすぎている。
利便性に限っていえばこの世界=先進国ではよくなっているだろう。ユニクロやトヨタ、セブンなど海外の労働力やフランチャイズシステムによって安く物を売ることができるようになった。今の日本がよくなっているというのはそのギャップに支えられているに過ぎない。その利便性もいつか崩れるだろう。金融資本やITの発達によって日本は中国やアメリカの後進国になるのは自明だ。その時にいままでの資本構造、とりわけ薄給の労働者によって支えられていた供給システムはたちゆかなくなる。
ところで世界がよくなっているというがここでいう世界とは何のことを言っているのだろうか。自由という意味に限って言えば利便性が向上した世界はよくなっていると言えるが人間が自由であるというのは哲学的には完全に否定されている。基本的に人間は環境の動物で与えられた名前、与えられた環境によって何を感じるか何を好きになるか何を幸福に思うか「後天的」に刷り込まれる動物である。
自由とは前提条件であって必要条件ではあっても意志そのものをかたちづくるものではない。日本ではたびたび閉塞感が言われることがあるがこれは自由の問題ではなく世界が自由であること、その自由ゆえの閉塞であると言えるだろう。
自由であることは人間を苦しめる。以前の共同体ベースの社会では人間関係がその共同体の中に組み込まれていたので自らの役割をこなせばよかった。どのように振る舞えば幸福になれるのかがある程度の指針として機能できていたが自由をベースにした社会では人間関係は社会に組み込まれてはいない。組み込まれていないとはつまり社会が人間関係をつくる場所として「閉じている」ということだ。これを閉塞感という。つまり閉塞感にたいする反論として自由は反論になっていない。人は自由ゆえに閉塞するのだ。
世界は自由になった。その文明、利便性の向上によって。それはいいことだ。よくなっている。しかしその一方で個人の選択が無限に広がった結果、自由を意志できる人だけが自由に生きられるようになっただけでその他の人達、つまり自由を使えない人達は宙ぶらりんのままになっている状態である。それすらも自由であるといえばそれまでだ。しかしなんの共同的な意志をもたず、はたまた自由意志ももたない人達がかなりいるように見受けられる。自由が共同体を無意味化した結果自由を行使できる人だけがまるで自由は普遍的な概念であるかのようにその重要性を説く。いや重要なのは重要だが自由は一般的な人々にとっては意志を形成する基盤にはならない。
月にロケットを送ったら不毛の荒野だということが分かってしまった あれから人類は迷走を始めたのだ 地球上の快楽を集めるのが目的のすべてに落ちぶれてしまった
そういえば動物化するポストモダンって本があったな