簡単に言えば1か0かという感じ。
オタクの好む物語にセカイ系というのが昔あったけど、それは個人-社会-世界とあるなかで、個人の出来事が社会をすっ飛ばしていきなり世界とつながるとかそんな感じだったと思う。
オタクの思考様式においては、始点と終点しか見えてなくて、中間にある無数の多様で複雑な段階が見えてないことが多いと感じる。社会を形成して生活している人間というのは、個人の精神生活つまり始点だけにとどまることもなければ、世界の終わりや論理的帰結つまり終点に辿り着いてしまうこともなく、その間の多様で複雑な中間領域で人生を営んでいくものだ。そういう当たり前のバランス感覚がオタクには欠けているように思える。論理の飛躍や雑なレトリックを用いて中間領域が吹っ飛ばされる。思考が一瞬で極端なところまですっ飛んで行ってしまう。
でも現実はそうじゃないんだよ。もちろん議論の相手もそういうオタク的思考様式は持っていない。
始点(1)から終点(100)の間に、中間領域(2)-中間領域(99)があるとする。議論相手は始点(1)から中間領域(2)へ移行することを提案しているのに対して、オタクの議論の仕方だと、「中間領域(2)へ移行するということは自動的に終点(100)に辿り着いてしまうということだ。それは危険だ」という感じ。
この危機感、感覚に疑問を感じる。もちろん可能性としては最初の一歩が破滅を導くということはある。しかし現実はそう単純ではない。机上の空論ではなく、もっと現実的にプラグマティックに考えてみてはどうだろうか。
オタク的な想像力というのは一見優れた性質に見える。だが、その旺盛な想像力は、実際には細部の複雑さを考慮しない幼稚なものであるとも言える。複雑な中間領域を無視して終点まで驀進するだけの1か0かの単純な想像力だ。オタクは社会という現実の生活のなかでじっと地に足をつけ、他者との関わり合いのなかで妥協点を探して、なんやかんや不満はあるなかでもある程度は譲歩しつつ生きて行く、というようなことを完全に拒否しているように見える。
少しでも自分に都合の悪いこと、つまり中間領域(2)に一歩足を踏み出すということをまるで終点(100)が提示されたかのように相手の意見を捏造して、全否定する。こういう論法だと、もちろん相手も終点(100)については否定するしかない。オタクとしてみれば終点(100)が却下されたのなら、始点(1)にとどまることが是認されるべきだという考えなのだ。議論するべきは中間領域(2)-中間領域(99)の間のどこに着地点を見つけるかなのに。
こういうオタク的論法は現実の生活をよりよくしていこうという議論のためのものではないと思う。社会というのは論破して終わりという場ではない。様々な力関係、利害関係が存在して、いろいろな波に飲まれていくものだ。オタクももう自分の世界だけには閉じこもってはいられない状況になってきた。
お前いつもオタクの話してるな