「そういうもんだ」が口癖、習慣になった。
最近、自分の中の思いが抱えきれなくなったのでここに吐き出すことにする。
習慣になった理由は日常生活のなかでストレスや、つらい出来事があったとき「まぁ、そういうものだろう」と思いこむことで、苦痛が幾分か和らぎ少し気が楽になるから。
今、大学4年生なのだが自分がこんな思考をするようになったのは中学1年の頃。新学期早々だった。私は「イジメ」にあった。
実は自分は先天的に左上肢に麻痺の障害を抱えており、左手が上手く動かせない。
軽い物を持つくらいの簡単な動作はできるが力の加減ができない。走るときは上手く左手を振れず手首からプラプラとだらしなく揺れてしまう。自分の障害を他人にどう見られてるのかを気にするようになり、内気な性格になった。正直、今でも両親を恨んでいる。
中学では最初の自己紹介のときに自分の障害を話し担任、クラスの皆に理解してもらおうとしたのだが、自己紹介するより前にある1人の女子生徒(自分とは違う小学校だった)が私に向かって
というふうなことを言った。
その時私も「実は左手に障害があって…」と伝えればよかったのだが、内気な性格ゆえに曖昧な返事をした気がする。よく覚えてない。
不運なことにその女の子は明るい子で友達も多く、スクールカーストでいうと上位の存在だった。あっという間に自分の障害のことは学年じゅうに伝わり、「イジメ」が始まった。
持ち物を隠され、壊され、暴行を受け…。
毎日続いた気がする。そんな中で「自分がこういう身体に生まれてきたから、こうなるのも仕方ない、そういうものだろう…」と思うようになった気がする。その思考は今でも根強い。
勿論イジメのことは担任に相談した。しかし担任は私の納得のいく対応をしてくれなかった。当然だ。今でさえ学校側はイジメを大事にしたくなく、教育委員会は「イジメ」なんて負のイメージは火消ししたがる。担任は私に関与しようとはしなくなった。
不幸中の幸いか、イジメは6月くらいで終わった。私が抵抗も、反応もしなかったからだろう。私は「そういうものだ」と諦観することで事態が収束することを子供ながらに確信した。
自分より優れた人がいても諦観してしまえば嫉妬する必要はない。
困ったときに手を差し伸べてくれる人がいなくても諦観してしまえばウンザリすることもない。
障害のことで笑われても「そういうものだ」と思えば気にもならない。
大学も1留している。
(なので正確には大学5年生となる)
実習で上手く結果を残せなかったからだろう。これは障害はあまり関係なく自分の過失だと思う。
1留,しかも身体障害者。こんな人材は必要とされるはずもなく就活は未だに企業から内定をもらえていない。こんな現実にも自分は「そういう運命なのだろう、そういうもんだろう」と納得してしまえる。そんな自分が嫌でもある。
今や自分には友達もなく頼れる人は誰もいない。親には頼りたくない。
こんな性格でいる限り就活も人間関係も上手くいかないことは分かっている。
でも、自分が今まで受けてきた処遇、育ってきた環境では諦観しないとやっていけない。
だれかからみれば甘えだろう。でも、
だれかこんな私を助けてほしい。
もう私にはどうすることもできない。