人はどう生きるのが幸せか。
人それぞれ様々な考え方があるだろうが、
「死後の世界」に焦点を合わせて考えてみると、思わぬ発見がある。
まず「死後の世界があるかどうか」を考える。
1.死後の世界は ない
2.死後の世界は ある
自分自身が、死と同時に消え去る。
どんなに誇らしい人生を送っても、情けない日々を過ごしても、自分自身が消滅してしまったら関係ない。
自分が死んだその時には、誇らしさも情けなさも、もう感じられないのだ。
つまりこの場合は「死ぬ間際に幸せかどうか」が最も大事だろう。
だが実際に生きているのは「今」だけだ。
過去や未来への感情は副次的に作用するだけで、今幸せかどうかは、当たり前だが「今」の状況が最も影響する。
過去に辛いことがあっても、未来が不安でも、今が幸せならば人は幸せだと感じる。
ただ過去と違って、未来は不確定なので、人は必要以上に妄想を膨らませる。
だが死んでしまえば、未来は無いのだから、そんな心配は無用だ。
死ぬその瞬間に幸せならば、それまでの人生はすべて前フリでしかない。
明日、突然事故で死ぬかもしれないし、ギネスレベルの120歳まで生きるかもしれない。
だから、長生きした場合の長期的な幸せと、明日死んでも悔いのない短期的な幸せのプランを両立させる必要があるだろう。
2.の「死後の世界はある」と考えるならば、話は一挙に複雑になる。
死後の世界がどういったものかによって、答えはまったく違ってくるからだ。
古今東西の死後の世界感を見るに、まず2つに分けるならば、以下のパターンになる。
1.現世での行いが 反映される。
2.現世での行いは 反映されない。
1.の「現世での行いが反映される」というパターンは、比較的古い宗教に見られるパターンだ。
良い行いをすれば来世では幸せが保証され、悪いことをすれば来世では不幸になるという、非常に分かりやすく、伝播しやすい教えだ。
だが、このパターンの最大の問題点は、何が良い行いで、何が悪い行いなのか、判断基準が持てないことだ。
人を殺すことは、一般的に悪いこととされている。
もっと分かりやすい例で言うならば、あなたの前に1人の男がいる。
彼はいまだかつて無い恐ろしい病原菌に犯されていて、このままでは数億人に感染して死に至らしめる。
彼を殺せば数億人の命が助かる。
だが彼は運悪く感染しているだけで、なんの落ち度もない。
こういった場合、一体どちらが「正しい」のだろうか。
そういった曖昧さを多分に残すという意味で、1.の「現世での行いが反映される」というパターンは、考える必要がないと思われる。
たとえそのルールで死後の世界が構築されているとしても、そのルールを知りようがない以上、対策することが出来ないからだ。
つまり「どう生きようが、死後の世界のルール次第」ということになり、明確な指針は持てないことになる。
2.の「現世での行いは 反映されない」も同様である。
現世でどう生きようが死後の世界に関係ないならば、明確な指針は持てない。
ここまで考えて見るに、最終的な結論は
「明日死んでも、120歳まで生きて死んでも、幸せに死んでいけるように生きなさい」
ということになる。
これはなかなか難しい生き方だ。
皆が皆、できる生き方ではない。
だから誰かが死んだとき、それを悲しむことの方が多いのだろう。
死んだその人が笑顔で逝ったと思えるならば、葬式はもう少し希望を湛えたものになるはずだ。
「明日死んでも、120歳まで生きて死んでも幸せに死んでいける」という条件は
たとえ夢半ばで死んだとしても、生涯を夢に向かって全力で生きた自分を誇りに思って死ねるだろう。
夢を叶えた後に死んだならば、悔い残すことなく幸せに眼を瞑れるだろう。
このあたりの結論は、個人の価値観によって違ってくるかもしれないが
苦しいあまりに死を願うなら、すべてを捨てて好きなように生きるが得
死ぬるのは、いつでもできる
死んだ先のことは、死んでみなければ決して分からぬ
吉と出るか、凶と出るか