2015-08-31

リア充アピールをすることは自分を大きく見せること

mixiという文化が生まれ、周りが楽しそうな写真をアップする中で、自分はそういう楽しい遊びが少ないことを知った。

それがとても惨めなことであると誤認して以来、充実した写真をアップすることは他人より優れているアピールをしているに他ならないと思っている。

mixiに楽しそうなプリクラ自撮りBBQ海水浴をしている風景写真を友人達が日々アップしているのを眺めていると本当に気が狂いそうだった。

自分もそういう楽しいアピールをしないといけないと思い込むようになった。

周りは自分以上にずっと楽しいことをしている。

でも自分にはその周りと同じくらい楽しそうな写真がないし、イベントにも参加してない。家でゲームしたり家族とご飯食べに行ってたので、あまり友達と遊びには行かなかった。

中学2年にして私は、花火スキーみたいなテンプレートイベントを楽しめる=人生を楽しめている=人として優れている という概念自分の中に作り上げた。

私は昔からずっと、自分を人より優れているように見せたくて仕方がなかった。

でもその出不精なスタンスのままでは色んなものから仲間はずれにされてしまいそうで怖かったし、とにかく明るくてキャピキャピしたマジョリティに付きたかった。スクールカースト高めの人たちと一緒の立場になりたかった。

から高校1年生になってからは無理矢理外に出て何かを楽しむようになった。

中学生の頃は一緒につるんでウェイできる子が周りにいなかったので、高校生になってからは存分にウェイするようになった。

外食アミューズメント花火雪祭り。色んなものを見て、遊んで、写真を撮ってアップしてきた。

そうすれば自分は劣った人間には見られないだろう。

その一心だけで今まで遊んできた。

そうやってリア充アピールをしていったおかげで、高校生になってからスクールカーストの上位に立つようになった。

から良く見られたい欲が影響して勉強をするようになり、やがて学年一桁の成績を取るようになった。

部活部長も務めた。部員を一気に増やすことに成功し、色んな物事を統括するようになった。(所詮根暗運動が出来ないので文化部部長)

運動は本当に駄目だったけど、成績優秀で役員やってて遊びも程よく分かってるキャラ、という地位を作ることができた。

だけど、いつも空しかった。

その空しさは、「自分を良く見せるため!」っていうくだらない欲求のためにあらゆる行動をしているからだった。

誰かと遊ぶのが全く楽しくなかったわけじゃないけど、空しさを感じずにはいられなくなる。

いつまでも本当の充実感は得られない。

遊んだ直後は麻薬を使ったかのように「楽しかった〜」という浮ついた虚像を信じ込むことができる。

だけど数日立つと、遊んだ記憶ほとんどがふっと消えてしまう。

無理をしている疲労感が、楽しかった成分を上回るようになるからだ。それはつまり、ただ疲れたという思い出として処理される。

嫌なことはすぐさま忘れるようになっている上に、忘れる範囲がやたら広い。

しかたかもしれないこと、印象的なことも巻き添えを食らって記憶からなくなってしまう。

写真に取った部分しか思い出せないのである

本当に楽しいことを楽しいと思えるようになるのはいつなんだろう。

人生を楽しめている=人として優れている という意味不明概念をさっぱり捨てて、もっと楽になりたい。

そんなことにそろそろうんざりしてきたので、ここに書いてみた。

でも楽しそうな写真をアップし続けているウェイも、もしかすると「自分はこんなに楽しいことを謳歌できるので人間的に優れている」と思われたいからリア充アピールをしているのかもと思うと、勇気づけられる。そう思い込むしか今は仕方がない。

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