2013-01-18

田舎生まれの僕が都会に出て、また田舎に戻った話

都会と田舎対決が再燃しているので、僕の話も書こうと思う。

僕は田舎に生まれ、都会で過ごし、今はまた田舎にいる。

自分で言うのもなんだが、ちょっと変わった経歴だと思う。

僕が子供の頃は、周りは農家ばかりだった。

親はサラリーマンメインの兼業農家だった。

昭和40年代当時では、周りには兼業農家は少なく、いま思えば異質な家庭だっただろう。

子供感覚は敏感なもので、なんとなく座りの悪さを感じていた。

勉強は好きだったが、教師はやる気が無く、授業は面白くなかった。

ある日、憲法について子供ながらに議論をふっかけてみても、教師は生意気言うなと言いながら僕の頭を叩いただけだった。

部活に入ってみたが、先輩の理不尽しごきに耐えられず、噛み付いて喧嘩。そして退部。

そのころは気づかなかったが、教師も、部活の先輩も、田舎特有の濃密な監視ネットワークの一部なのだ

それに気づかなかった僕は学校で浮き始め、そして、学校に行かない日が増えてきた。

明るい部屋で布団にくるまりながら僕は毎日考えた。

何がいけなかったのだろうかと、自分の行動を思い返した。

窓の外からトラクターの音しか聞こえない。

僕はこの退屈な村で、同級生と同じように一生を過ごすのだろうか。

いや、そうではない。村を出るべきだ。

そして、どうせ村を出るなら、僕のことを蔑んだ人々を見返してやるのだ。

それから僕はがむしゃらに勉強し、東大合格した。

からはじめて出た東大合格者だった。

僕は東京一人暮らしを始めた。

大学生活は自由だった。

新しい人間関係に囲まれ、バイトに明け暮れ、充実した毎日だった。

バブル期東京は眩しく光り輝いていた。

ただ一つ不満だったのは、当然ながら周りも東大合格者だったことだ。

あの村で僕が光り輝いたのは一瞬の事だった。

東大卒業し、官僚の道を選んだ。

ときバブルのまっただ中だったが、民間企業は眼中になかった。

霞ヶ関は民間を動かせるから、民間よりも上だと思っていたし、なにより、僕の村からはまだ官僚が出ていなかった。

官僚仕事は、国を動かすという言葉の通りだった。

駆け出しは駆け出しなりに、その醍醐味を味わうことができる反面、地味な仕事が多かった。

目立つ仕事をしたい。その一心でがむしゃらに働いた。

時には国会議員意見を戦わせ、上司に噛み付く事もしばしば。

そんな中、ある市への出向を命ぜられた。

そのころは気づかなかったが、国会議員も、上司も、霞ヶ関特有の濃密な監視ネットワークの一部なのだ

それに気づかなかった僕は浮き始め、そして、はじき出されたのだ。

市役所での仕事悲惨だった。

職員からすれば僕はお客さん扱いで、まともな仕事はさせてもらえない。

しかし、目立つ成果を挙げられないと、霞ヶ関に僕の存在を知らしめることはできないし、ひょっとしたら片道切符になる可能性もある。

そんなある日、生まれた村に帰省し、同窓会に参加した僕は愕然とした。

僕が主役ではないのだ。

東大合格し、官僚になり、日本を動かしている僕が主役ではなく、親父の寿司屋を継いだあいつがクラスの中心なのだ

そう、あのほこりっぽい教室ヒエラルキーそのままだったのだ。

その夜、ホテルの部屋で布団にくるまりながら僕は考えた。

何がいけなかったのだろうかと、自分の行動を思い返した。

窓の外からは下手なカラオケの音しか聞こえない。

僕は村一番の秀才で、国を動かしている官僚なのに!

この退屈な村で、何の刺激もなく一生を過ごす同級生に、なぜ僕の凄さがわからないのか。

あの日、村を出ることで、僕のことを蔑んだ人々を見返したはずなのに。

その翌年、僕は村長選に出馬し、村長になった。

同級生たちもようやく僕の凄さに気がついたようだ。

僕の力で、何も無いこの村を、都会的な村に変えて見せるのだ。

必ず、全国から取材や視察が殺到する村にしてみせる。

村役場ホームページアメーバピグへの全面移行や、村営水族館民営化など、霞ヶ関に、いや、宇宙に衝撃を与えるアイディアは山ほどあるのだ。

僕はずっとこの村があるかぎり村長で居続けるつもりだ。

この村に僕以上に村長に適した人材などいない。気に入らなければ選挙で落とせばいいのだ。

続く

http://anond.hatelabo.jp/20120731160117

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