はてなキーワード: 海よりもまだ深くとは
「生きづらい私は発達障碍者でした」というタイトルでツイッターで掲載された漫画がある。名指こそされていないが、この漫画を痛烈に批判したはてな匿名ダイアリーの投稿がここ数日、バズっている。
私はこの投稿を見て、元の漫画を知った。この漫画はもちろん描写は拙いし、よく書かれているわけではない。しかし、私は作者に書きたい内容があり、そこにはある程度の普遍性があり、結果としてエンタメになりうると思った。この漫画を自分なりに読み解いてみたい。作品と、それに対する酷評へのリンクは一番下に載せてあるので、背景を知りたい方は先に見てみてほしい。
この作品は以下の流れで進行していく
1. 若い頃、仕事がどうしてもできない。努力をしてもうまくいかず、職を転々とする。
2. 結婚し、仕事を辞める。子どもが生まれる。子どもが成長し、発達障害と診断される。
3. そこから自分が発達障害かもしれないと思い、自分もそう診断される。
4. これまでの自分の生きづらさは自分の怠慢のせいではなく、発達障害のせいなのだと知り、気持ちが楽になる。
5. 自分の人生はやり直せないが、せめて子どもを同じ発達障害を持つ身として親身になって支えてやれるかもしれない、という前向きな気持ちになる。
まずはっきりさせておきたいのは、この漫画では主観的に(もちろん客観的にも)発達障害を克服する(した)描写はない、ということだ。ライフハックを駆使して職場でのパフォーマンスを改善したとか、婚活してなんとかいい男を捕まえて、家事だけして楽に生きられるようになった、という話は書かれていない。批判にあるような(王道漫画における)主人公の奮起・成長・挑戦・勝利などはこの作品に全く関係はない。そもそも作者自身が発達障害を克服できていると思っていないのだから。
またこの作品に、理解のある彼くん、という要素を見出すのは筋違いだ。そもそも結婚して子供が生まれた、というだけで、果たして夫が発達障害に理解があるかすら書かれていない。伴侶ができたから人生が楽になった、という話にはなっていないのは明らかだと思う。
この作品において作者は自分は発達障害を克服することはできず、また辛かった過去をやり直すことも出来ないが、発達障害を認め、前向きな意味(同じ発達障害を持つ子どもを理解してあげられる)を見出す。これは受容の物語として読むべきだと思う。
ある意味で焦点がはっきりしている(必要な要素しか書かれていない)のでこの物語を克服者・成功者の語りとして読む人は理解できない。以下においてはこの話を受容の物語として読み、その普遍性について語っていきたいと思う。
あると思う。少なくとも私には感じ入るものがあったし、発達障害をもつ人間にとっては十分に共感できる作品だと思う。
私は(診断こそされていないが)明らかにADHDで、中学生や高校生の頃には大変苦労した。当時は発達障害という言葉が一般的ではなかったので、この作者のように、怠慢であると周囲に思われていたし、そのため自己評価が本当に低かった記憶がある。
この作品を読んで、大人になり、ADHDという言葉を知って衝撃を受けたことを思い出した。自分が宿題を出したり、授業に集中できないことは自分が悪いのではなく、あくまで発達障害というものだったのだと知ることで、自分の過去をやり直すことはできなくとも、何か気が楽になった。また、ADHDのことを知ることで、自分の将来をより良いものにしよう、という前向きな気持ちができた。
このような経験は、発達障害を持つ人間には珍しいものではないと思う。少なくとも発達障害という言葉を知らずに、自責の念に苦しんでいた人には刺さる内容なのではないか、と私は考える。
私はあると思う。どうしようもできないこと(発達障害に限らず)があって、それを克服できないまでも、そのことを前向きにとらえよう、という話は小説や映画などによくあるテーマだ。
私の好きな映画に「海よりもまだ深く」という映画(海街diaryと同じく是枝裕和監督)があるが、これもまさに上のようなテーマで書かれている。一冊だけ売れた冴えない小説家である主人公が、自分の人生を受け入れられずあがくが、裏目にでるばかり。母、別れた妻、子どもとの一夜を通じて、自分の上手くいかなさを受け入れ、前向きに背筋を伸ばして歩き出す、というのがこの映画のシナリオになる。この映画の前後で主人公の状況は何もよくなってはいない。ただそのままならない状況を受け入れ、そこから一歩踏み出そうとすることが作品における救いになっている。
この例のように、うまくいかない自分を受け入れ、前向きに歩き出す、というテーマはフィクションにおいては特に奇異ではないテーマだ。「生きづらい私は発達障碍者でした」という作品は、描写が稚拙で駆け足であるという問題点はあるにしろ、その伝えたいテーマは普遍的で、エンターテイメントとして成立しうる要素があると思う。
昨今、強い言葉で作品を斬って捨てるという批評がもてはやされる傾向にある。しかし作品を読むということはもっと地味で、注意を要するものではないか。私自身は何か批評の専門的な教育を受けたわけではないが、作者の意図を理解し、誠意をむって向き合うことをしてきたつもりだ。この文章を通じて、作品を虚心坦懐に読み、丁寧な読解を心がける人が一人でも増えればと思う。
以下に作品へのリンクと、はてな匿名ダイアリーの投稿のリンクを載せておく。
https://twitter.com/fukufuku_diary/status/1581977574023913472
https://anond.hatelabo.jp/20221020011014
またはてな匿名ダイアリーの中で一人、簡潔にいい批判をされている方がいたので、その人の投稿へのリンクもここに載せておく。自分と同じことを考えている人がいたので、少しほっとした。