はてなキーワード: 読書会とは
いにおと空気人形で泣いて
自分に近すぎる話で釣るのってどうかと思うんだよ
って。君はなにを読んでるのさ
すごくすごく狭い所で話をしている自覚があって
それでも私は私と言えるほど自意識も抑えきれず
よりごのみしてるくせに友達欲しいとかって嘆いて
手垢の付いたやり方でも、ワイワイしたかったな
けどどうせ冷めて、青ざめて、青い顔して去るんだろうな
ただ、誰かと話をする権利が欲しくて『複製芸術時代』とか精読してるんです
「自覚のないやつは痛々しい」とか言って
自分を縛って苦しそうな目を向けて
わかってほしいとか言ってるだけ
死にたい、って軽薄に言えたら楽なのかね
軽はずみに発するには年を食いすぎたよ
まだ一つも成長してないのに
デリダとフーコーとバルトとプルーストとヴァレリーを読み切ったら
いつか誰かが僕を愛してくれるのでしょうか
やり方が間違ってるのに
だったら嫌な顔してないでサークルはいればいいのにね
ってことで明日、読書会に参加してくる
がんばろう
必要とされたい
愛されたいんだ
tonbo tonbo 読書会で、その「限界」に言及したけど、「ラノベの限界」の解釈のニュアンスがずれてるんだよなあ。ブクマコメント見るとさらにズレて解釈されてる。もどかしい。商業的な限界を言いたかったんだが……。 2009/09/23
あえて商業に話を限定して言うけど、クオリアに限らず今のラノベでSF分を増やせば増やすほど読者は加速度的に減少していくというでっかい現実がある。これは詳細までよく練られていようが、理論的な整合性がきちんととれているかどうか、とかはあまり関係がない。
もちろん、いくつか例外はあるけどそれはあくまで「例外」なのであって、SF分を一定以上に濃くした物語で損益分岐点を越えようとすると、特に大手のレーベルのような初版が多いところにはバクチ要素がかなり強くなる。
さすが、ライトノベル感想サイト大手の中でも指折りのスイーツ(笑)脳の持ち主、極楽トンボ御大でございますな。
自分のジャンル小説リテラシーのなさ(SFもミステリもファンタジーも本当に読めませんよね、この人)をライトノベル読者全体の問題であるかのように語らないでいただきたいものです。
小・中学生でも、《涼宮ハルヒ》シリーズを単なるキャラ萌え小説として読んでいる読者ばかりでもないし、SFよりもある意味でハードルの高いファンタジーでも、『精霊の守り人』みたいな、リテラシーが要求される児童文学作品を普通に読んでいる(《守り人》シリーズは下手なラノベよりよっぽど売れてるし、学校図書館の貸し出しランキングでも上位に入る率が高い)。そういうものは全部「例外」ですか?
トンボ御大やラ管連の大勢は、そろそろ自分たちが「一般的なライトノベル読者」ではなくて、「まともな知性も向上心もないライトノベル読者」という少数派の代表であることを悟っていただきたいものである。この人たちの声が大きいことって、害悪でしかないと思うよ。
しかもその読書会は結局やらなかったしな。
出勤は一応している。
僕がわからないだけかと思って、いろんな人に聞いてみたけど、
やっぱり働いていない。
仕事を頼むと、
なんか色々言い訳して全くやらない。
何日かチラ見してみると、
本読んだり、
たまに昼寝したりして帰る。
ずっとそんなサイクル。
読書会やらリーラボとかには、積極的に参加しているらしい。。。
カツマーとか言っている。)
状況からして確実に給料は僕より高い。
そんな状況がみんなわかっているようなのに、
お咎めもなければ、クビにもならない。
ちなみに役員でも管理職でもない。
30代中盤にもなって、あそこまで仕事しない人を見たのは初めてです。
普段はそんなに気にならないのですが、
近くにそういう人がいると本当に心が折れそうになる。
そんな人って世間では意外と多いのかなぁ。
直接言えないので、ここで愚痴らせてください。
あーぁ。。。。。。。。。。。。。。。w(x_x)w
新入生、新社会人の新しい生活が始まってまだ間もないですが、
飲み会のお誘いにしり込みさせてる人。さっそく赤信号点灯中ですよ。
断っても断っても飲み会に誘って来る人っているんですよ
こっちだって特に嫌いってワケじゃなくて、
一応返事をしてあげているだけなのに・・
あの人、あんなに家に帰らないで何で呑んでばっかいるんだろう?、
人に言えない家庭問題でもあるのかな?なーんて
まあどうせ飲み会っていったって、こんな風に、本人のいないところで陰口で盛りあがるだけだろうし
お酒を飲まなきゃその人の自然な姿がわからない、なんてどれだけ他力本願なのか
普段は趣味の話が話せない職場環境、好きな女の子のタイプといったセクハラ、パワハラ・・・etc
・・それがわかったからって、相手のことを理解した気になって、あとで裏切られたとか騒ぐのよ。
だからすごいノリノリだとしても、何とかガンバして飲み会以外の集まりを考えてください。
勉強会や読書会、ミーティングに慣れてない人へのアドバイスとしては・・・
何かモノマネを身につけてください。
その場を盛り上げることができるし、一人でいるときも使えます。
女のコもこの人は安全だな、害がないな、って思うようになります。
だからアルコールを使わないで人と接することが苦手な人は、がんばって
ううむ、もうちょっと頑張って人文学を肯定して欲しかった……。
なお人文科学はそれ自身が人間を研究テーマにおいており、表現する際に用いる言語が数学(数式)ではないため、
文学の一番良くないところだと俺は思う。
「まあ曖昧だけどここはこう読むべきなんだよ。根拠? フィーリング!」とか
「なんか曖昧で俺には良く分からないけど、
とりあえず偉い人の書いた文章だから凄いんじゃね?」
という不健全な態度に繋がる。
むしろ文学は正確さを目指すべきだし、本当に凄い文学作品はかえって正確で、
これしかない! というふうに感じられる気がする。
それで、文学が正確に表現しようとしているものって何?
と聞かれれば増田がさんざん言っているように感情や人間性だと俺も思うのだが、
じゃあ感情とか人間性って何よ?
なんで(増田の主張によれば)自然科学(還元論)だとうまく扱えないわけ?
という突込みが当然入る。
感情とは何かって、もちろん楽しかったり悲しかったりすることだ。
でも単に楽しかったり悲しかったりするだけなら、難解な文学表現なんて不要で、
単に「楽しい」「悲しい」とか書けば済む。
「悲哀計」みたいな道具があって感情が量れれば、
「俺悲しすぎて今朝360mmHgもあったよ」という正確な表現もできるだろう。
が、もちろん感情はそんな単純に扱えない。
なぜなら、それぞれの感情は全部独自の今だけココだけあなただけのもので、
コンテキストから切り離して(還元して)扱うことが本来はできないからだ。
例えば、
非モテの三十路越え男性が初めて女性に告白されたときの喜びと、
モテ20代前半男性が何人もの女性を乗り越えた末に理想の相手と巡り合ったときの喜びは、
それぞれまったく違う。
で、文学が伝えたいのってそういう《ある感情(人間・情緒)が他とどう違うのか》ということだと俺は思う。
その違いを表現するために、
小説みたいにコンテキスト(人物の過去とか考え方とか)と一緒にしてみたり、
言い方を色々変えてみたりする。
文学は違いを明らかにするものだ、と俺は思う。
で、翻って自然科学を見ると、目指すところがちょうど逆。
自然科学はむしろ、違うように見えるものの間に一般法則を探す、という考え方だ。
多種多様な現実世界をより少ない(しかし十分な)情報量で表現できれば勝ち。
自然科学は同じところを探す。
で、文学も自然科学も、方向は正反対だけど、同じくらいマジになって人間を探求していると思うわけだ。
それぞれ相反しているということも無いと思う。
自然科学が極まって、あらゆる人間の行動が予測できるようになったとしても、
ぶっちゃけ小説だって最後まで決まった筋しかなくて、それでも感動できるんだし。
コンテキスト同士をぶつけてその人だけの読解を作る。
創作物だから、文学作品のように良し悪しを評価することはできる。
良い読みなら多くの人に共感されるだろうし、悪い読みなら否定される。
でも、だからといってテストのような方法で評価するのは多分間違い。
図画工作の授業で、先生と同じような絵を描いた人ほど高得点、という評価をするようなものだから。
本当は読書会のように、それぞれどんな風に読んだか・なぜそう読んだか、を話し合えれば良いんだろうけど、
大の大人でもなかなか難しいことだからなあ……。
実際は自然界をはるかに超越していて、現実世界に応用できるのはたまたま偶然。そこが数学の凄いところ。
(物理学の要請に従って数学が進歩した例はあるけど、それでも自然界から独立した体裁を取り繕うハズ)
196883次元の空間で回転する球が……とかいう話をどこかで聞いて萌えた。
連日の長文スマソ。
確実に個人バレするので詳しくは書かないけど、
旦那はその分野ではかなり名が通っていて、隣接分野でも知ってる人はかなり多い。
ちなみに私は隣接分野の大学院生。あんまりぱっとしない。
平日の昼間は講義やゼミ、読書会、学生指導、講義、会議、事務、自分の研究をやって、
帰宅してからは自分の研究や大学でやり残した仕事、ゼミや読書会の予習を片付ける。
寝るのは明け方になることも。
自分の研究以外に、翻訳や依頼原稿、インタビューなんかもある。
常にいくつか締め切り間近、すでに少し締め切りを過ぎた状態の仕事を抱えている。
出張もかなり多い。学会シーズンはまず土日がないし(わたしもそうなのでまず休みが重ならない)、
他大学での集中講義や海外の学会参加になったら1週間は家を空ける。ひと月に半分家にいないこともある。
で、いろいろ文句を言いたくなることもある。
だけど、好きで始めた仕事だしアカポスに就くことの大変さも私自身が身にしみてわかっているので、
思う存分仕事させてあげたい。
旦那が自分の夢だとか、旦那を支えるのが自分の仕事だとはまったく思わないし、
そんなことするつもりは一切ない。
ただ、この人は「私の旦那」という以上の責務があるのだとは強く感じる。
だから、私は旦那を一生「ひとりじめ」できない。
そこはもう諦めて自分の研究に打ち込むことにした。
これはどうでもいい愚痴なんだけど、
私だって努力しているのに自分の研究分野でも「この人の旦那さんは…」って話になるのもうんざりだし、
旦那の才能に嫉妬して、たぶん16年後に私はこんなふうになれないだろうなって勝手に絶望したりするのもつらいよ。
旦那はこんなにぱっとしない私でもリスペクトしてくれている。
だから、あんまりお互い干渉しない。
言いたいことを我慢しているようなところもあるのではないかと思う。
リスペクトできないのも困るけど、
お互いリスペクトし合いすぎても、たぶん上手くいかないんだと思う。
研究者同士のカップルが上手く行かないとよく言われるのは、
研究を生活に持ち込んでどうこう…というのも原因かもしれないけど、
リベラルすぎてお互いを誤った方向へ「尊重」しているからじゃないかなあ、と思う今日この頃。
格好つけて言いたいことも言えなくて、爆発した時にはもう手遅れ、みたいな。
うちは上手くいくのかな。
ちょっとすっきりしたし、勉強がんばろ。
私が通った公立小学校は郊外の都営団地に隣接していて、同級生の半数以上は団地の子だった。都内郊外といってもいわゆるニュータウンとは違い、古くからの住民が多く住む町だ。団地の意味は例えば練馬や町田とはだいぶ違っていた。つまり、少し言いづらいことだけど、その近辺は地区有数のワイルドサイドと見なされていた。
日光に修学旅行に行ったとき、入口に大鳥居がある駐車場にバスが入ろうとしたことがあった。前方で先生方が何か話し合いをはじめ、バスは入口の手前で止まった。10人ちょっとがそこで下りた。振り返って見てみると、後ろのバスでも同じことが起きていた。宗教上の理由で鳥居をくぐれない子がいるので、と先生が簡潔に説明した。その口調から毎年同じようなことが起きてるんだろうなと思った。先に下りた子と私達は駐車場の外で合流し、そのまま滞りなく観光地だかお昼だかに向かった。家に帰ってから「うちは鳥居をくぐってもだいじょうぶなの?」と母親に確認して、「今までさんざんくぐってるじゃない」と笑い飛ばされた。
4年生の時、隣のクラス担任の先生の口癖は「勉強が好きじゃない子が無理する必要はない」だった。授業時間なのに校庭で騒いでる子がたくさんいるなと思って見てみると、隣のクラスの子達が半分外で遊んでいて半分教室で勉強していたということもあった。よく問題にならなかったものだと思う(なっていたのかもしれない)。50代にもうすぐ手が届くという年頃の男性で、決して声を荒らげない先生だった。当然のことながらPTAからの評判は悪く、生徒には人気があった。
6年生の時の担任の先生はやはり中年の男性で、保護者から有志を募って読書会を開いていた。うろ覚えだが、灰谷健次郎や村上春樹、アレックス・ヘイリー、それに上野千鶴子などがリストアップされていたはずだ。
君が代や国旗の問題がマスコミでちらほら取り上げられるようになってから数年経つ時期だった。式典では起立しない先生の方が多かった。高学年に上がると毎年8月は原爆のことばかり勉強した。ばりばりの日教組の先生が集まっていたと聞いたのは卒業してしばらくしてからだったが、たぶん小学生の頃に聞いても意味が分からなかっただろうと思う。
私はその後私立の女子校を経て地味な国立大学に進み、事務職に就いた。取り立てて特筆すべきこともない平凡な進路だ。
自分が通った小学校がどちらかというと変わったところだとはっきり気づいたのは大人になってからだ。それとももしかして私が勝手にそう勘違いしているだけで、その頃はよくあることだったのかもしれない。とりあえず私としてはけっこう楽しかったです。