はてなキーワード: 必然性とは
ちょうど今モテキ3巻読んだとこで、この文章読んだ。
3巻の後半に、ソラニンの作者であるところの浅野いにおの連載中の漫画の「おやすみプンプン」のパロディというかモロパクリの描写が出てくるんだが、それがまた面白い。この場合は、物語上必要なパロディであった、と言えるんだけど、引用の仕方に工夫は無い、つまり隠そうとしないものだったんだけど、そういうパロディはどうなのかね?それもふまえて「仲間意識で囲い込むためだけの引用」という事だろうか?
そもそもモテキは実は最初からずっと引用しっぱなしの漫画だと思う、物語に触れる部分でも台詞の中にも、物語のテーマ自体がネットの特にはてなでもよく言及されている非モテについてである。明らかに作者はネットを見ている、そういう引用もある。
この神聖かまってちゃんというバンドもネットの寵児のようなバンドなので、物語のスジは実は通っている。ネットを通して明るみになったこの非モテという問題を、非モテというだけで人を殺してしまうような奴が出てくるこの問題を、男性だけの問題と思われがちなこの問題を、女性の作者が解体しようとしている、そういう漫画だと思ってる。
その為の引用だとしたら、女性作者が男性に仲間意識を持ってもらう為の引用だとしたら、どうだろう。
「お笑い」の言説の中に大真面目な顔でジョークを言え、みたいなのがあるけど、もはや現代のお笑いではこれが絶対に正しい訳じゃない、誘い笑いというのもまた一つのテクニックになっている。
仲間意識を持ってもらうための引用も一つの物語を紡ぐテクニックだ。
あと、台詞やタイトルやキャラ名が物語に関係していないといけない、あるいは必然性を持ったもので無いといけない、というのもまた古いというか、お手本通りすぎる、真面目か!
一見、無意味な数も何かを表していることがある
優秀な増田達がこれをどう解明するか見届けることはないだろうが
これで俺のエントリーは終わりにする
追記 : いや、それは1000番目のベル数だって分かってるんだよ。どうしてそんなものを何の前触れもなく書くか分からないから訊ねてるのであって。話題の必然性もないのに優秀もクソもないよね。
ググっただけで分かる優秀さは儚い
何のつもり?
追記 : いや、それは1000番目のベル数だって分かってるんだよ。どうしてそんなものを何の前触れもなく書くか分からないから訊ねてるのであって。話題の必然性もないのに優秀もクソもないよね。
http://q.hatena.ne.jp/1121527958
この質問を、未だに忘れられないでいる。自分にとっては目新しい疑問ではなくて、幼少の頃からたまに思考が向けられるよな、比較的ありふれた問いかけの類型だ。深遠で、しばしの間は自分を虜にするが、決して答えに辿り着けない問題の一つってだけ。たまに心を向けて、すぐに飽きるだけ。
印象に残ってるいるのは何故だろうか。盛り上がってたから、って理由はまず有るだろうな。盛り上がる、つまりはそれだけ関心を呼ぶ疑問ってことだ。なるほど、自分も関心を寄せてるが、同時に他者も関心を寄せてるのだと一つの事実でもって知ることが出来たから。そして、一定割合の人には、問いが根本から理解されないのだと、これもまた一つの事実でもって認識することが出来たから。最後に、自分ははてな界隈って自分より遥かに優れた思考力を持った人間が集う場所だと認識しているが、それでも最終解には至らないのだなと。
当時の自分は、↑の問いかけを考えながら、上-下軸のことを連想した。いや、天-地軸と呼んだほうが適切か? 地球上において、天と地は全く異なっている。ほとんどの環境において、光は天から降り注ぐ。足場は基本的に地の側にある。だからなのか、進化の過程において、脊椎動物の多くは上下で構造が異なる。自分はそこに、脊椎動物のご先祖さまが天=海面側に視界を向ける必然性があったからだと感覚的に推測してるが……いや、これはヒトという種の身体構造を説明するには不要だろう。光学機器は高い場所に設置したほうがいい、だから目は天の側にある。脳が天の側にあるのは、頭部もしくは顔面が果たしている何らかの機能が天側に置かれる必然性を持ち、そして脳と短距離で接続される必然性があるから、かな? ああ、眼に着目(w)しても解答可能かもな。眼は単に眼球のみで構成されるにあらず、接続された神経・血管、保瞼とそれを駆動させる筋肉、そして眼球を駆動させる筋肉が要る。コンパクトに仕上げるなら埋め込む方がいい、骨で囲めば破損の確率も減らせる。エロゲの触手ばりに可動性を実現させるのは、設計として無茶だろう。(でも、中立進化としては絶対に無いとは言い切れない、かも)
頭部が天の側に配置される必然性があるとする。これで、天-頭-体-足-地という軸が固定される。ただ、これは1本のマッチ棒が出来たってだけの話だ。「下に空があって、重力は上に働いていて、物は上に落ちていく」って世界は、言語的・主観的な違和感を除外すれば、一応成立しないだろうか? ……と思っていたが、しない理由を一応提示することは可能かも? 人間の視界は上下で広さが異なると聞く。これが事実なら、後は重力方向を身体で感知できるのだから「ある視界の偏りを重力方向と一致させる」と規定すればいい。つまり、生物としてのデフォルトが規定可能ってことだ。視覚を長方形、空間を長方体と捉えるから「長方形Aを長方体の面A'に重ねた時、長方形の辺Bと長方体の辺B'が重なる確率を答えよ」みたいな疑問が湧くのだろう。そりゃ、1/2だよな。だが視覚が台形であれば、長辺と短辺の区別が生じる。重力方向によって規定される昇-落のどっちかと、長辺と短辺のどっちかを合わせれればよい。これならプログラミングが容易だよな。(もちろん、視界が台形であるって推測が外れてたら覆る話だけども)
これは、つまり「初期条件の設定が誤っている可能性」も含めて、思考を進めるべきって観点だ。で、最初に挙げた「波長と色覚細胞と意識される色」の問題に当てはめると……色相環を思考条件に用いるべきなのかどーかって疑問が湧く。一般的に色はキレイな円環構造で把握しがちなのだけど、別の構造化も可能なんだよね。
http://www.icoffice.co.jp/zukan/c_color.htm
色を円環構造で捉えれば「(中略)正三角形の頂点Aが円周上の点A'と重なる確率を求めよ」的な疑問が湧く。だが、置かれた図形と重ねる図形が共に歪な三角形(等辺を持たない三角形)であれば、重なる面積を最大にするための解は1つに近づく。もちろん、仮定してる条件は色々とあるわけだ。
(1)人類は脳機能的に、特定の色構造を持つように出来ている=生得的色構造
(2)色覚細胞の数には、生得的に偏りが生じる(R>G>Bの順だっけ?)
(3)生得的色構造と入力されてくる色覚の差異を照らせば、認識色と波長帯が一致する
(1)は、人類がデフォルトで持っているバイアスの傾向とでも言えるか。「この波長が重要だから優先的に処理するよ!!」みたいな。もち、上で述べたように円グラフ状のモデルではなく、歪な多角形、あるいは多面体で表せるよに思っている。総じて言えば、太陽光下に生きる人類種は進化の過程で培った視覚処理のバイアスを持ってて、想定された通りの太陽光下で生育すれば、大体は最高のパフォーマンスを発揮しますよ、ってなとこか。また、通底してるのは、脳みそにあんまり初期構造を設定したくないって発想だな。自分の予想では、目から脳みそにつながる神経配列を取り替えてしまっても赤ん坊は、赤を赤いと認識するだろうと思ってる。「RGBの3色ピンを正しく接続してね!」なんて家電製品みたいに融通効かないハードじゃねーだろうと。重要なのは刺激の量で3色を区別できることだけで、ここは生得的にも正しく学習が進むように予防線があるのではないか。多少、自然光より偏った光の下でも正常に育つように出来てるのではないか。
さてはて、長駄文すぎるな。文章の最初でリンクを貼った質問に対して、現在の自分が抱く思考で、出来るだけ短く答えるなら、以下のよな感じだろう。
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私も解答を知りませんが、自分なりに考えついた着眼点を提示いたします。
貴方は色を一般的な色相環のイメージで捉えていませんか。自分には貴方の問いかけが、まるで、色相環の円筒の内側で、RGBの三角柱を回転させ続けているように思われるのです。そして、円筒上の一点とある角が一致する必然性を求めているように思われます。
ただの思考実験ですが、主観上の色を、単純な色相環で捉えず、非点対称・非線対象の多角形もしくは多面体で構造化されるものと認識するはどうでしょうか。同様に、目から脳へと送られる色覚情報も、色覚細胞の数といった要因により、3種の刺激量が異なるように思われます。例えば白は、はたして生身の人体にとって(255,255,255)という具合に3要素の一致を表しているのでしょうか。視神経レベルで見ると、実は(255,240,200)といった数値であるのかもしれません。主観上の色にしても、視神経レベルでの色にしても、歪な形状で構造化できるのかもしれません。もし歪な形状を適用できるのであれば、視神経レベルと主観レベルの色構造を重ねたとき、一つの解を導ける……かは今の自分にはよく分かりません。
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ちっとも短く纏められない件。加えて、長文過ぎて誤字脱字を探す気力もない件。
つっても
本人がそう親告しなければレイプじゃないじゃん。
とか言ってる人に全然説得力なんてない訳ですが。
これどう考えても親告しないだけで、泣き寝入りしている人が出てしまうという想像力は働かない?
あなたは沢山この手の行為を行っている訳でしょうから、その陰には泣き寝入りしている人が2人や3人(じゃきかないか)いると考えるのが自然でございます。
そのことについて、あなたは皮膚感覚では「親告しなければレイプじゃないじゃん」と思っている訳だから、理解できないんだろうね。そういう感性が全く非モテ的には(というか非モテに社会がそう教えた訳だから、元となる社会的にも)受け入れられないと言っているの。お分かりでしょうか。
多少の無理はお願いしなきゃいけない場面ってのはあるわけじゃない?そのときにお願いができるかどうかというのは、日ごろの練習によりけりだったりもする。
ああ、増田は人を使ったことがあるんだ? 私も下級管理職だから分かるが、無理なことは無理なんだ。
逆に必然なら必然性を説ける訳で、「営業の観点からはまかりならん」「コストに見合わない」とか説明できないと無能だよ。だって「何でそんなことしなきゃならんのですか?」と訊かれた時に困る訳だから。それを力ずくで押さえつける組織は人が育たないよ。
自分で「多少の無理」としか表現できないことをお願いしなきゃいけないと言ってるようでは、21世紀の企業においてはパワハラと言います。
政権交代から約100日。「こんな筈ではなかった」「やっぱり」「意外に」など評価は様々。
こういった評価をぶつけられる機会は2010年夏の参議院選挙ということになろう。
民主党を中心とした3党連立政権に対する信任投票の意味合いが大きいことは疑いない。
ただ,選挙結果とその後の政治風景を想像しておくのも無益なことではないと考え,駄文をしたためることとする。
1 民主党単独で過半数確保
(1) 民主党関係者の悲願。社民党,国民新党などに気兼ねをする必要のない政権運営が可能となり,数の上では相当に安定した政権となる。この場合,国民全体の意思としては「3年間は民主党に任せた。3年間の政治運営があまりにもひどかったら下野してもらうけど。」と受け取られるだろう。
(2) 社民党・国民新党にとっては内心面白くない。社民党が持っていた連立離脱カードがほぼ無価値となる。普天間基地移設問題が参議院選挙前に片付いていないなら,この問題に対するスタンスの違いから社民党が連立から離脱することも十分ありうる。
(3) 自民党は解党の危機に直面する。二大政党制による政権交代が健全な民主制に必要であるとしても,将来の与党候補が自民党でなければならないという必然性はない。
(1) 非自民・非共産というのは1994年の細川連立政権のときの枕詞。相当古い。民主党からみると,自民党・共産党は連立政権を組む相手とはならない。民主・自民の大連立? 福田元首相時にそんな話もあったけど,つぶれた経緯を考えるとありえない。自民党の一部議員を引き抜いて過半数がとれるかどうかの泥仕合がはじまる。過半数を押さえられれば「ねじれ国会」という最悪の事態は免れる。ただ,気を遣うべき勢力が多く,政権運営は今以上に不安定となろう。
(2) 社民党・国民新党が発言力を確保できるかは選挙の結果次第。
(3) 公明党も政権に加わらないと参議院の過半数はとれないだろう。公明党は中道政党であるが故に民主党連立政権に加わることは十分ありえるとみる。
(4) 自民党は民主党の多数派工作に対して防御しきれるかが鍵。あるいは,政界再編を仕掛けるか?
3 民主党単独で過半数には足らないが,3党で過半数
現状維持。社民党の連立離脱カードは意味を持ち続ける(ただ,あまりにも理不尽な行動をしつづけると,公明党を取り込みにかかる可能性はありうる。)。
4 3党で過半数には足らないが,公明党を足せば過半数
これらの想像を踏まえつつ,民主党連立内閣への評価を踏まえながら来年夏の投票行動を決めるのはいかが。
追記
批判するなら批判対象に見合った批判の仕方というものがあるだろうと言ってるだけだ。ヤフーニュースや2ちゃんに馬鹿がいる、レベルの根拠しかないなら、それに見合った批判でいいんで、大騒ぎする必然性まではないんだよ。
ネットで馬鹿が多いならネットで批判するのがそれに見合った批判じゃないのか?別に関係ない人のところにまでスパムやら送ったわけでもない。どのあたりが見合ってない批判だと思ってるのかわからない、わからせる気もないだろうが。
あと何を根拠に大騒ぎといってるのかまったく理解できない。はてなの一部でいくつか記事かかれてブックマークがついたぐらいで別に法改正とか伴った政治運動でもないし大騒ぎというのは大げさすぎだろう。
最後は、自分たちが正しいんだから、お前は黙っておけってわけか。
おいおい曲解するなよ。もし「馬鹿は放置しろ」というお前の考えが正しいなら、黙るのが正しいといってるだけで、こっちは「馬鹿は放置しろ」というお前の考えは正しいとは思ってないし、当然黙るべきといいたいわけでもない。反語とか皮肉ぐらい理解してくれ。
なんかまだ勘違いされてるようだが、このツリーで書いたのは「率先して行ってる人」を対象としたものじゃないよ。あんたのように直接やらないけど、そういう風潮に加担しちゃってる卑怯者への批判がメイン。
ほら、曲解だ。
現実に存在してるならそれで根拠は十分だろう。ごく一部の人しかやってないから放置しろということなら強姦だって放置しろということになる。というか「2ちゃんやヤフーニュース」だから放置するべきってのがわからない。
放置しろ、なんて誰も言ってない。批判するなら批判対象に見合った批判の仕方というものがあるだろうと言ってるだけだ。ヤフーニュースや2ちゃんに馬鹿がいる、レベルの根拠しかないなら、それに見合った批判でいいんで、大騒ぎする必然性まではないんだよ。
泣き寝入りなんて、しなくていいじゃないか。勝手に議論をすり替えるなっての。
そもそも馬鹿の言うことだから放置すべきなら、あんたらが「はてさ」の相手をするのはなぜ?曲解して屁理屈を述べる「はてさ」の相手なんかする必要ないんじゃないかね。
最後は、自分たちが正しいんだから、お前は黙っておけってわけか。そんなだから、無駄な議論が起きる、あなたたちにとってもすごく損、なだけじゃない。「もともと性差別を率先して行っている人達には、相も変わらず何も届かない」。目的とやってることがずれすぎ。
単純にいえば、「非モテのほら吹き」呼ばわりされたらアウトということ。
非童貞だと嘘をついて嘘バレして恥をかいたという話と同じ。
http://anond.hatelabo.jp/20091109124346の続き。
団体のうち、青年たちで構成される組織を一般的にこう名づけられる(例えば[[商工会]]青年部(([http://21impulse.jp/:title]))など)。 ++天理教の組織の一つ。構成員の男女の性は乱れていて問題となっているが、改善されない。
天理教では、青年部ではなくて青年会と呼ぶのが一般的のようです。
http://www.google.co.jp/search?as_q=&hl=ja&num=100&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&as_epq=%22%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E9%83%A8%22&as_oq=&as_eq=&lr=&cr=&as_ft=i&as_filetype=&as_qdr=all&as_occt=any&as_dt=i&as_sitesearch=&as_rights=&safe=images
http://www.google.co.jp/search?as_q=&hl=ja&num=100&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&as_epq=%22%E5%A4%A9%E7%90%86%E6%95%99%E9%9D%92%E5%B9%B4%E4%BC%9A%22&as_oq=&as_eq=&lr=&cr=&as_ft=i&as_filetype=&as_qdr=all&as_occt=any&as_dt=i&as_sitesearch=&as_rights=&safe=images
泉東分教会に所属する16〜40歳までの会
これははてなキーワード「青年部」の定義である「団体のうち、青年たちで構成される組織」と一致し、別項を新たに設ける必然性がありません。
もちろん「必ず似る」と言っているのではない。
ただ、「似てしまう必然性はある程度認められる」ということは可能じゃないかと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20091025190122
ありがとうございます。
このようなレスをいただけたことは非常な幸運だと感じています。
まず自分がそもそも「議論」の姿勢を取っていなかったことを、これを読んではっきりと自覚しました。
その上で最後に「本当は議論がしたかった」的なことを言ってもまったく説得力も意味もないな、と思います。
話題になっている宗教を信奉している人が読んでいる可能性は常に頭に入れていました。
しかし「みんながそうとは限らないことは知っている」との文面を免罪符にしたかったわけではありません。
わたし個人は宗教によって人を差別することはない、ということを繰り返し書いています。
その上で極端な例を挙げています。
この行為によって傷つく人がいるかもしれません。
しかし、逆に何かに気付く人もいるかもしれません。
それらは宗教についての文章でなくとも起こりうることです。
宗教についての話題においてのみ、ことさらに口を閉ざす必然性は薄いというのがわたしの考えです。
場の選択を間違えたことも、昨夜の一連のやり取りから理解しました。
この場の雰囲気がいいとかよくないとかそういうことではなく、単に議論に適しているかいないか、というだけの話です。
あの後、いくつか似たような問題に言及しているブログや掲示板を回ってみましたが、建設的な議論を行えている人と自分のやったことを比べてみると、さすがに恥ずかしさが湧いてきました。
お騒がせして申し訳なかったです。
そしてすみません、その上で、まだ言いたいことがあります。
こういうことを書くとまたいろいろ言われそうだけど、ブコメにしてもトラバにしても、文意を正確に読み取らないまま単なるイメージで、ことばを、リアルで対面すればきっと言えないであろうようなことばを投げつけてくる人が少なくなく、これには今回改めて閉口しました。
ネットとはそういうものだ、というのは、ネットがここまで普及した社会においてはもはや言い逃れでしかないと思っています。
わたしは、「信者を連れてきたから、ここで書いていることをこの人に話してみて」と言われたなら話す自信があります。
リアルで言えないであろうことは、このように不特定多数の人が集まる場では書かないことにしています。
匿名であっても同じです。
そういう意識で文章を書いている人が、一体どれだけいるのかと思います。
わたしは今年で30歳になりましたが、同世代もしくはそれより少し上の人々は今の日本のネット社会を構築してきた立て役者ですし、リテラシーが低いのはネットを知って間もない若者ばかりではないということも、ものすごく残念なことだと考えています。
「差別もケースバイケース」とのわたしの主張が到底受け容れがたいものである人がいていいと思います。
たくさんいていいと思いますしいるべきだと思います。
そういう発言に対して、発言者の意図を読み取る姿勢をはなから持とうとせず、黙して(対話として有効なことばを使わずに、という意味で)石を投げるばかりなのが今のネットです。
自分と異なる考えだからと言って石を投げるだけのやり取りは、もう、そろそろやめませんか。
ネットだから何を言ってもいいわけではない、これは、わたしだけではなく前述のような方にも同じく言えることばです。
「日本的なるもの」とのブクマタグをつけていらっしゃった方がいましたが、わたしが今回の件で思ったのは、そのように石を投げるだけの反応しか返せない人々のほうが、よほど「日本的なる」存在なのではないかということです。
正直、その思考停止のありようにぞっとしましたし、とても悲しむべきことだと思っています。
ご指摘のように、ブクマやトラバで好意的な意見、あるいは「この部分には賛成だけどこの部分は疑問」と、自分なりの考えを挙げておられた方がいました。
こうしたご意見をうまく拾えず話を膨らませることをしなかったのは完全にわたしの瑕疵です。
「議論」をしたいのなら、こういう方々と積極的に接点を持つべきでした。
冒頭のトラバを返してくださった方も、放っておいても何ら困ることはなかっただろうに、心ある方だと思います。
目的は「落としどころ」のほうで、確かにそのような結論が妥当なのだろうと感じています。
ここをきっちりクリアできるのであれば、わたしの会社も判断基準や価値観の多様性を持てるのではないかとある種のわくわくした気持ちすら覚えます。
こうした提言について昨夜はしっかり反応を返せなかったことを、深くお詫び申し上げます。
男の趣味はすぐガチに走って本格的なマニアか愛好家になってしまうので、あえて女子版のそれに相当するようなヌルい層を取り上げる必要性も必然性もないからじゃ?文化系趣味でもジャンル別に見れば、大抵は男の方が目立ってるよ。それぞれの趣味にお決まりのファッションもあるし。
きちんと読むといい文章だけどちょっと長すぎるかなあ。これじゃあまり読まれない希ガス。
僕もドイツにいたし、分野は違うけど学歴でも同じようなものだから言っとくけど、仮にhokusyuの文章をドイツ語に翻訳したってドイツ人には理解できないでしょうよ。現代のドイツ人でも意味不明の文章を書くので現代語訳が出たというカントだって自分の悪文は自覚していて、すまなそうにしてる。そういうものなんだよ。ドイツ人だって、あんなもんは分からんわと鼻で笑ってる。ましてhokusyuみたいに、理解できない人間を国語の成績が悪いなどとバカにしたところで、効き目がないんだ。あ、そう、で終わっちゃうから。
この部分いいね。GJ!
ことにhokusyuは、すぐに国語の成績が悪いと言い出すけど、あんな複雑怪奇な日本語を書く人間の方が国語の成績が悪いんだ。彼の文章ほど、解読して何が言いたいかが分かった瞬間にアホくさくて脱力する文章はない。あんなもってまわって書く必然性がどこにもない。脳の失敗なんてタグを作ったのが誰か、絶対に忘れちゃいけない。左翼の片隅にも置いておけないクズだ。
たくさんブクマがついてるのは知っていたが、無視してたんだが、読んでみりゃあくっだらないことじゃないか。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091015/1255541833
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091017/1255761383
ようは、手を出したら出した方が負けってことだけでしょ。それ以上のことはharutabeさんは言っとらんだろう。
mojimojiにしても、hokusyuにしても、あいつらバカなんじゃないか。彼らが言いたいことはT-3donさんのコメントが、よく言い当ててると思ったんだが、
mojimojiさんやhokusyuさんのエントリーは、排外主義や差別に際して「法に反してないから」「直接的な暴力に及んでいないから」それは暴力ではないと目を背ける人々に向かって、「いやそれは立派な暴力だから」と断じ問題に直視させる意図があるように思います。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20091012/1255348374
それは、意見としては分かるんだよ。こういうコメントに書き直すとね。
でも、排外主義そのものの暴力性と、実際に暴力をふるうこととは次元が違うのは当たり前の事だ。
人間には思想の自由、内面の自由があるよ。たとえ排外主義であっても、心のうちでそういう思想をもっていること、そういう内面そのものは誰にも否定できないよ。当たり前のことじゃないか。もし排外主義は暴力的だからいけないといってそれを否定する、そういう思想さえもつなというというなら、それはどんな独裁国家なんだろって話。
ただ、議論にできるとすれば、その排外主義を表現する自由がどこまであるかどうか。これは社会や国によって事情が違うでしょう。でも、mojimojiがいうような一方的な議論は成立しやせんよ、そりゃ。あんな議論が成立するなら、もしも左翼の思想なり議論なりが社会の根本にかかわって危険だとなったとき、「みんなで左翼を叩きましょう」なんて運動になりますわ。そういう正当化の根拠を与えようとしてる、だからバカじゃないかと言う。
手を出された時に警察は何をしてるんだというのも当たり前の話だ。そりゃharutabeもmojimojiもhokusyuも、みな社会に生きていて、その構成員である以上、法に縛られるのが当たり前の話であって、原則論を言えば実力として手を出したなら罰せられるべきなのは当然だ。もちろん、建前としてはね。でも、法としてどう運用されるかは、別。そこらの小さいもめごとでいちいち暴力だと言って警察を呼びたてるほどのものでなければ、無視されるのもそれは当たり前。そこに右も左もないよ。
そこを屁理屈こねて自由民主主義がとか2たす3がとか言うんじゃないよ。欧州の国でヘイトスピーチ規制があるのは、法として規制されてるんであって、それは社会の合意でしょう。排外主義者によるヘイトスピーチが本当に認められないと考えるなら、法によって社会的に規制する以外手がないのが現実だ。それを、国家権力に頼るのはいやだから、自分たちで何とかしようって話にしてるだけ。馬鹿馬鹿しい限りじゃないか。
もし警察権力を持ち出すならば、在特会だけ優遇してるという主張ならこれはまだまし。在特会の横暴だけ認めている、これは不当だというなら、まだ納得できるけど、そうじゃないでしょ。
はっきり言うけど、一番悪いのはhokusyuだのmojimojiだの、ああいう議論を真に受けるネット住民だよ。人がよすぎるんだよ。小難しいこと書いてるからちゃんと読まなきゃいけない、分からない自分が悪いと思いがちだけど、それは違う。ことにhokusyuは、すぐに国語の成績が悪いと言い出すけど、あんな複雑怪奇な日本語を書く人間の方が国語の成績が悪いんだ。彼の文章ほど、解読して何が言いたいかが分かった瞬間にアホくさくて脱力する文章はない。あんなもってまわって書く必然性がどこにもない。脳の失敗なんてタグを作ったのが誰か、絶対に忘れちゃいけない。左翼の片隅にも置いておけないクズだ。
僕もドイツにいたし、分野は違うけど学歴でも同じようなものだから言っとくけど、仮にhokusyuの文章をドイツ語に翻訳したってドイツ人には理解できないでしょうよ。現代のドイツ人でも意味不明の文章を書くので現代語訳が出たというカントだって自分の悪文は自覚していて、すまなそうにしてる。そういうものなんだよ。ドイツ人だって、あんなもんは分からんわと鼻で笑ってる。ましてhokusyuみたいに、理解できない人間を国語の成績が悪いなどとバカにしたところで、効き目がないんだ。あ、そう、で終わっちゃうから。なお悪いのは、hokusyuは書こうと思えば普通に書けることで、ならはじめからもっと普通に書けばいい。そうしないのは、わざと複雑怪奇に書くことで、純朴なネット住民を釣ってるだけ。それを、同じサヨクだというだけで持ち上げる人がいるから、余計に普通の人たちは、理解できない自分が悪いと錯覚する。釣られちゃいけないんだ。
仮にも東大のエリートにあんなのがいるってだけで、日本の恥だよ、恥。他人事ながら恥ずかしいよ。東大京大卒にももっと普通に話しやすい人はいる。あんなアホどもばかりではないと、これだけ、言いたい。本当に知性も教養もある人間は、自分の考えをきちんと他人に分かってほしいから、伝えたいから、そのように書いたりしゃべったりするものなんだ。わざと分かりにくいようにするなんてのは、テクニックとして愚の骨頂。それで国語の成績が悪いなどと罵倒するのは最低だと、ハッキリ書いておきたい。
(追記)
おもったよりブクマがついてしまったので、少し反応しとこうと思う。
tari-G うん、ほんとはNTさんの言うとおり。彼わざとやっている訳じゃないしね。要するに勉強不足。問題は勉強不足なのにそれを自分でちゃんと補えないこと。ま、日本の人文系は大概そうだけどね。 2009/10/19
NaokiTakahashi ああいうのは、むしろクソ真面目に文字通りに読んで解体してあげるのがいいのかもしれない。そんな暇はなかなかとれないが。 2009/10/18
まあ、本当にやるなら、真面目に「解体」するのがいいんでしょうが、わざわざそこまでする意味があるとも思われず。
でも「彼わざとやっている訳じゃないし」というのは、どうなのかな。彼の別のブログだとすっきり書いていて、その気になればできてる。真面目に書くとああしか書けないというより、ああいう文体を利用して立派に賢そうに演出してるだけだとみた方が正解でしょう。
もっとも、こういう弊害は彼に限ったことではなくて、まさに「人文系は大概そう」な一面もあるから、それはそれで脱力してしまうのですが。実際、分かりやすく、咀嚼して書いてやると、かえってバカに見えてしまって信用されにくい、とかね。
http://anond.hatelabo.jp/20091009230501
↑の続き。というか、新たに思ったことの走書き。
物語内で起きるエピソードには必然性が不可欠。原因と結果にしてもそうだけれど、より魅力的な物語を完成させたいと思うのならば、なぜそのエピソードに巻き込まれる(引き起こす)のが登場人物なのかを補完しなくてはならない。
偶然物語の中心にいたというので造るのは難しい。あるいは突き抜ければ魅力となるかもしれないけれど、それでもやっぱり必然的な物語よりは難しい。
設定にも絶対的に理由をつけるべきだ。どうしてその家族構成にする必要があったのか、物語の観点で、登場人物の観点で考えるといいような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20091006192224
上の記事によれば、下手と思わせない文章を書くには「繰り返しを避ける」ことだけを気にかければ十分であるらしい。しかし、私はこれでは不十分だと思う。なぜなら、「繰り返しを避ける」ということの意味が明らかにされていないからだ。たとえこの法則を知ったとしても、実践することは困難である。具体的で実践的であることに注意すると、下手と思わせない文章を書くには、少なくとも以下の3点に留意する必要があるだろう。
以下、それぞれについて詳説する。
下手と思われてしまう文章は、たいてい書きたい内容が整理されていない。同じ内容を、表現や話題を変えて何度も繰り返し書く。そのため、書かれた文章全体の内容の密度が低くなり、結果として読者に退屈な印象を与えてしまう。読者の眼を常に文章に惹きつけるためには、内容の繰り返しを避けて、文章全体の「意味の密度」を高める必要がある。
具体的な方法としては、MECE分析やKJ法などの論理的思考のフレームワークを活用することが挙げられる。これらを活用することで伝えたいことを排他的な命題群として整理することができ、内容の繰り返しが起こりえなくなる。ただし、もしあなたがブログなどのちょっとした文章を書きたい程度であれば、文章を書く手を一旦止めて「自分は何を伝えたいのか」「伝えたいことは幾つあるのか」と問うだけでも十分効果的である。
書きたい内容が十分整理できたら、次はそれを文章にしていく。この段階で注意してもらいたいのは、読点を多用して無意味に1文を長くしないことだ。1文を長くすると、それだけ文に込められた意味が多くなる。人の認識能力には限りがあるので、あまりにも長いとその文が伝えたいことを忘れてしまうだろう。1文にはできるだけ1つの主張のみを割り当てて、意味を明確にすることが重要である。具体的には読点を多用しないことが最も効果的だ(注1)。
また、文を短くすることで、自ずとその文の種類が明らかになる。具体的には「断定」か「類推」か「願望」か「事実の記述」かのどれかが明瞭になる。それゆえ、文末の表現も広がりが生まれ、元記事で指摘されていた問題も解消される。この法則もまた、記述の段階における「繰り返しの回避」の戦略なのである。
ひと通り文章が書けてきたら、文と文の関係を見直していくことが重要である。文章を読むということは橋を渡るようなもので、文の間につながりが無ければたちまち先に進めなくなる。下手と思わせない文章は、文と文のつながりが明瞭で読者に疑問を起こさせないものだ。
文と文の関係を見直す具体的な方法としては、すべての文に接続詞を挿入してみることが挙げられる。なぜなら、接続詞は文章間の論理関係を明示するため、文のつながりが不適切であればそれがすぐに明らかになるからだ。
挿入して不自然であることが分かれば、間に文章を加えるなり、文の順序を入れ替えるなりして調整していく。もしあなたがどの接続詞を使えば良いか分からないのであれば、それは文と文の繋がりを考えずに書いてしまったということだ。いちから書き直す必要があるだろう。このように、接続詞の挿入は書き手に具体的な修正案を考えさせる一種の指標となるのである。
ただし、この手法はあくまでチェックのための方法であり、実際にすべての文に接続詞を挿入する必要は無い。むしろ論理の転換といった重要な箇所以外では、接続詞はできるだけ省略したほうが文章が滑らかになる。接続詞の詳しい扱い方については、野矢茂樹氏の名著『論理トレーニング』『論理トレーニング101題』を参照されたい。
以上、私が考える「下手と思わせない文章術」について述べてきた。上の3点は一見するとまとまりが無いように思われるかもしれないが、実は文章を書く上で重要な意識が貫かれている。
それは、「文章を書くことと内容を考えることは、常に一体である」ということである。
私たちが考えることは、ある程度ことばに影響を受けている。言葉なくして、人は自分の思考をまとめることはできない。したがって、文章が下手であるということは、考えていることが整理されていない証拠なのである。文章と内容のつながりを考えず、ただ表面的な修辞に拘っても文章の下手さはいささかも改善されない。文章を書く人には、常にこの点を意識していただきたい。
最後に、この文章はブログの記事にしては長く端的ではないので、下手な文章に該当してしまうかもしれない。もしあなたが、私の文章に問題があると感じるならば是非言及していただきたい。そこからまた有益な「文章術」が生まれてくるかもしれないのだから。
注1 : 「1文を短くせよ」と主張すると、たいてい提出される反論に「小説や日記などのような情緒的な文章では、1文が長くて面白い文章もあるではないか」というものがある。しかし、その種の文章にも、実はこの法則は当てはまるのだ。小説における文章は、主に人の「認識と思考の流れ」そのものを記述するためにある。人の認識や思考はとめどなく続くものであるから、日常の文章よりもどうしても1文が長くなってしまう。小説の1文が長くなるのは、そうなる必然性がある。逆に人の思考や認識の転換を反映せずに、いつまでもだらだらと1文を続ければ、たとえ小説だとしても下手な印象を与えてしまうだろう。いかなる文章においても、文の長さの必然性を問い、可能な限り短くすることは重要である。
>で、VIP専属ウェイターになるには誓約書を書かされる。中で見たこと聞いたことはオーナー以外には一切他言無用。もし破ったら大変なことになりますよ、みたいな。で、親兄弟の居場所と彼女いる男はそいつの居場所まで店に預けないといけない。そこまでやる。さらに保険書かパスポートのどっちかを預けさせられる。怖えw
>さらに、高学歴の大学生しか雇われない。東京だったらなんと東大・一ツ橋・有名医大オンリーw早慶ですらお呼びでない。なんでかっていうと東大ぐらいの学生ならくだらないことをマスコミやら余所に流して小銭で人生を棒に振ることがないからだと。マーチなおれ涙目wwww
よってネタ決定。