はてなキーワード: 国民性とは
先日、社内報が回ってきたのだが、その中に書かれていた社長からのメッセージに強烈な内容が含まれていたので、社内の人間だけに読ませるには勿体ないほどの含蓄があると感じ、テキスト起こしをさせてもらった。なお、特定の名称に関しては伏字とさせていただくことを、あらかじめお許しいただきたい。
さて今月、私は中国湖南省の長沙へ行く機会がありまして、じつに15年ぶりの中国旅行をしてきました。15年前にも北京や桂林へ行った事があるのですが、その時との変貌ぶりには目を疑います。まず、空港から街までは高速道路が完成しておりまして、街中に入ると車やバイクの大群が流れています。訪中するまではかつて見た自転車の大群が頭に浮かんでいたのですが、現在は違いました。高級外車の姿が目につく一方で、昔いた牛車の姿は何処にも見かけません。
ばい煙あるいは排ガスや黄砂によるものなのか、くすんだ街の光景は見通しが悪く、太陽の形を見ることもありません。昔と大きく違うのは観光地のトイレで、ちゃんと扉もあるうえに水洗化までされていました。また、レストランで出てくるビールも冷えていて、笑顔での対応も少しずつ見られます。
しかし交通モラルは低く、車の量も人の数も多過ぎるため、横断歩道を渡るにも決死の覚悟がないと永遠に渡れません。世界中の産業の生産拠点が一気に集まり、急成長を遂げた中国のごく一部を見ただけですが、その姿はまるで30-40年前の日本にも似て、人のことなどなりふり構わないといった自分本位の国民性を見る思いがします。事実、公害を撒き散らし森林を伐採し続け、緑地が減少し黄砂の舞う砂漠の拡大が深刻な状況な事に気づくこと無く、現在の中国は拡大成長だけをしてきています。北京五輪を機に、なんらかの変化が起こる事を期待するしかないですが、こういった感覚の国民がたくさん日本に観光に来ていて、日本の観光業に対し影響を及ぼしていると考えると、我々としても知らん顔はできません。
特に今回、当県を中心に展開しているスーパーマーケット業界の中堅企業の『×××』が10年前から長沙に進出し、このたびさらに数店舗を開業することを機に、話を伺いました。しかし驚いたのは店長の話で、開業当時に多くのお客様が来店されたにもかかわらず、商品は棚から無くなる一方で、売り上げがいっこうに増えないという現象が起きた。多くのケースでは、従業員がリーダーの目を盗み、商品を勝手に持って帰っていたそうです。また、家族が来店した際に同様の方法で商品を持ち帰らせるなどして、店側に多くの損害を出したと聞きました。でも、根気よく「なぜ持って帰るとダメなのか」を教え理解させた結果、10年で素晴らしい社員に教育されたそうです。実際に店内で買い物をしてみましたが、日本の百貨店方式の接客や精算が実によく行き届いていました。
古くから万里の長城での団体観光写真撮影を日本から教えに行き、拠点にしていた奈良県の写真屋さんも、社長が見ていないと店員たちがすぐに売り上げを誤魔化し、ポケットに入れてしまうと嘆いておられましたが、国民性とは本当に怖いものです。でも経済成長と共に、笑顔で「ありがとう」が言える国民に成長して来ている事を考えると、中国という国が日本にとってますます驚異的な存在になることは疑いありません。今回の旅行は、本当にいろんな意味で勉強になりました。
追記:「長沙 日系スーパー」で検索すると、せんだっての「日貨排斥暴動」の対象になった事が分かる。その時にこのスーパーはどれだけの痛手を蒙ったのかと考えると、複雑な思いになる。
http://it.nikkei.co.jp/digital/column/functions.aspx?n=MMITel000003102007
いくら初音ミクが凄くて、ニコ動と連動して誰でも音楽製作&アイドルプロデュースだ??とかいっても、結局は作る奴の絶対数が少なくて廃れるんじゃないの?
受身が好きで、出る杭になる事を恐れる国民性はそうそう変わらないし、DTMの未来形だ!とか、これからはCGMがTVを駆逐する!とかって論理は(少なくとも俺にとっては)ドットコムとかWeb2.0なんかと同じくらい虚しく響くんですが。
つーか、まだ黎明期の製品なのに買いかぶりすぎだろ。
セリフにセリフが被る演出ってほとんど見たことがいないんだけど
何でやらないの?やれないの?伝統?
エヴァンゲリオンの発令所のシーンで、ゲンドウのセリフの後ろでオペレーターの声が聞こえる、みたいに全く関係ないセリフがバックに流ることは少なくありませんが、確かに、相手を遮るような形でセリフを重ねて言い合いをするような演出は、あまり見られません。
これは、海外ドラマなどではよくある演出なのですが、日本人の国民性なのかなんなのか、どうも台本にしてしまうと相手の発言が終わるのを、行儀よくまっているようなやり取りが多い気がします。
最近の作品では、海外ドラマの演出を意識して作られているGONZOの『RED GARDEN』で、4人のヒロインが好き勝手に喋ったり、言い争ったりとセリフが交錯する演習が取り入れられていました。絵にセリフをあわせるアフレコではなく、セリフを先に収録するプレスコという方式で制作されたこのアニメは、ヒット作とはいえませんが、演出の可能性を提示した隠れた意欲作といえるでしょう。
続編となるOVA『デッドガールズ』もでているので、興味がある方はぜひ。
似たような状況なので、自分がやった打開策を提示
・同ジャンルの個人サイトとはっきり宣言したページを用意(但し管理人が同じ事は明言)
・ジャンルで大手になったページは管理人の素性が追及される傾向にある(ゴシップ好きな国民性?)ので、どちらのページもユニークアクセスがほぼ同じになる。
・個人サイトの方で私信なりなんなりを書く(ただし口出しされないだけで、見られているレベルは変わらない事を肝に銘じる)
・アンケートなど、おおやけに問いかけるようなものはメインのページでやる。(これに関する苦情はやっかみ以外のなにものでもないため気にする必要が無い)
日本が平和というよりは、銃や刃物が流通しずらい体制のおかげで、なかなか事件にまで発展しないだけの話で、この間の立てこもり事件みたいなのがおきたら、警察は犯人が投降するまで、警官は撃たれるわ、それをまともに救出もできないわで話にもならない。それに警察沙汰にしたがらない国民性もあって、一見平和に見えるだけに過ぎないんじゃないか。年間3万人自殺する社会が世界で一番治安が良くて平和な国なわけがないだろう。
個人的にこの記事には同意するんだけど、
(おそらく誰かが既に言っているであろう)「大学名言ったり芥川賞カンタンとか言ったりするのも自由なら批判も自由じゃね?」という反論に、自分はなかなか反論できん。
いや、なんかそれは違うんじゃないかっていう気はすんだけど。でもそのモヤモヤをいまだ言語化できない。
俺は、なんつーのかな、ちょっと若者が(別に若者じゃなくてもいいんだけど)いきがったことを言ったり、自信満々に野望を語ったりすることに、日本人ってちょっと厳しすぎると思うんだよね。他人が「大きなことを言う」ことを嫌うよね。で「図々しい」「お前なんかにできるわけがない」「もうちょっと現実見たら?」的に返したりする。でもそういうやり取り、俺は凄く嫌いだ。そんな事言って、何になる?と思うから。野望に燃えてる奴らの芽を、ただ刈り取るだけの行為。というとすぐに出てくる、「そんなんで刈り取られるくらいなら最初から花なんか咲くか」という論も嫌いだ。あまりに無根拠で、無責任すぎて。天才でも、ケチをつけられてスランプなんてザラにある。それでやめちゃうこともざらにある。これから力が伸びるかどうかと、ナイーブさは無関係なんだよね。ちょっと考えてみれば分かると思うけど。プロだってなんだって能力あってもネガティブでナイーブで人の意見にすぐ左右されちゃうなんて人はざらにいるわけで。そりゃ、誰に何を言われても、無視して、ぐんぐん力を伸ばしていくっていう構図は、美しいよ。モロ、日本人が好みそうな理想だよ。でもそりゃあくまで理想であって、リアルな人間はもっと泥臭いわけで。
勿論、敢えて批判することで伸ばす、ってのもアリだけど、ほとんどの場合、まるっきりそんな意図は見受けられない。ただムカつくから、攻撃する、という感情だけ。だから嫌なんだ。嫉妬に近い感情。「俺らより上に行くんじゃねー」「俺ができないのに、お前なんかにpgr」的感情。そういうので叩いてる。だから嫌なんだ。
なぜ、他人が大きなことを言うのをそんなに嫌がるんだ。
いいじゃないか。もっとおおらかな目で見てやろうよ。いちいちムカついて、彼らのせっかく生えてきた芽を刈り取るなよ。そんな暇があるなら、自分の芽を育てればいい。そうやって皆で足をひっぱりあって、皆で「どうせできるわけがない」とネガティブになって……いいことなんてまるでない。日本全体が小さくなっていくだけだ。
他人が大きなことを言うのを許すという土壌を築いていけば、つまり自分も大きなことがいえるようになる。「どうせ無理だし、恥ずかしいからこんな事言えない……モジモジ」てな心を解放してやれる。すばらしいことだ。ちなみに夢を実現させるためには、そうやって恥ずかしくても他人に言ってしまうことが成功のコツだ。今の日本のこのねちっこい足ひっぱりあい社会、皆好きか?嫌だ嫌だといってるだろ?その社会が現れている一端がこれなんだよ。他人が背伸びしようとするのを必死になって足をひっぱる社会は生き苦しい。もう皆分かっていることだ。悪しき恥の文化を消し去ろうや。日本人。今の時代、恥の文化なんて持ってたってなんにもならん。湿っぽくねちっこいいやらしい国民性はもうまっぴらだ。
http://anond.hatelabo.jp/20070709143810
http://anond.hatelabo.jp/20070709151552
『2ちゃんねる』を利用する人間が増えれば『2ちゃんねらー』というカテゴリーが生まれ、
なにかが起こると2ちゃんねらーがまたなんかやったぞ 2ちゃんねる閉鎖しろ これだから2ちゃんねるは。。。
とかいってる人も多い感じだけど、そもそもそのカテゴライズに意味はあるのかって感じる。
『2ちゃんねらー』がどうとか議論されてるけどそもそも匿名の場である以上、本来ならそこで起こる問題は参加可能な人間すべてを内包しているはず。
まるで外側から『2ちゃんねる』というものについて語っているつもりな人が多いけど、本当にそこに危惧を抱いているなら2ちゃんねるを通して現れている国民性や人間の根本的な醜さに目を向けるべきだと思う。
『私たちは言葉の力を信じている(朝日新聞)』などというのは馬鹿けてる。金のためにやってるだけにも関わらず大きなメディアは自分たちは聖人でありすべての外側にいるフリをよくする。
人間の醜さは世が荒めば表層に現れてくる。
そうしたら人間は不安になってくる。不安を作り出して(問題を提起して)売るメディアを通して人は不安を定型に当てはめて安心する。ああこれは国が悪いんだ・自民党が悪いんだ・安倍政権が悪いんだ・創価学会が悪いんだ・特定アジアが悪いんだ・2ちゃんねらーが悪いんだ、と。
だけど元をたどれば同じ民族の人同士だったり・民主の多数派が選んだ政権だったり・いままで築き上げた文化の一部だったり・自分の利用しているネットそのものだったりするわけで、うまく表現できてる気がしないけどそれがどうだから何が悪いとかいえないはずだと思う。
レッテルを貼って『女』だから仕方ないとか『在日』だから仕方ないとか本来なら簡単にはいえないことである。
いままであったいろいろな問題や事件を元にこういう性質のやつが多いというカテゴライズは確かに予備知識や集合知としては役立つかもしれないけど、本当にそれらについて語るときはそれらはあくまでその程度の情報なんだということを念頭におくべきだと思う。
恋愛指南・マニュアル通りにことが進まないことの方が多いし、知り合いのオタクや在日や中国人や学会員(は自分にとってきわどいが)がすべてちまたで書かれている通りであることはまずない。
(私の周りにはひとりぐらいしかいないが)学会員だって人助けをしたいと純粋に思ってる分、政治的な話やいってることはハナにつくことが多いけど根本的にはいい人が多いはず。オウム真理教の事件後に教団に残った人らもどれも純朴で信じやすい人なんだろうなあって感じのする人ばかりにみえた。(ドキュメンタリー映画・A/A2参照 - 森達也作品)
信者やアニメオタクや腐女子やバンギャルや在日コミュニティは自分でものごとを進められない主体性のない人たちが自分の信じたものを元に一本筋を通して安定を得ている人が多いと思うけど、そこにそれ以上のカテゴライズは不可能だと思う。
筋が通った結果どういう人かというところは彼らが信じているものとは切り離して評価するべきだと思う。
知り合いの人たちの話をしてみる。
まず創価学会の幹部が知り合いにいるけど、この人の話は民族性がどうちゃらとかいう話はとてもうざいし3ヶ月に一度は入会を勧められるが、この人の煎れるコーヒーはだいぶ美味いし趣味の美術関係の話などはとても好きだ。近所の面倒見のいいお兄さんといった感じで他の学会員からの信望も厚い。
知り合いの腐女子はとあるオフ会に友達に連れて行かれ、なぜかその会の幹部が1次会途中で腹痛で帰ってしまい一番関係ないといってもいい私が自然と取り仕切ってしまったときに知り合った。カラオケにいってアニソンを歌うという企画だったが、私はよくわからないのでとなりでカメラ係りを担当しながら笑ってみていた。彼らの情熱は微笑ましかった。どこか世間ズレした感性は世に疲れた人を癒す側面も時にあるようにみえたし、なによりアニメを作った人たちもこれだけ愛されてもらってとても嬉しいし次につながるやりがいが生まれると思う。文化の発展に貢献する熱心な受け手にみえた。
在日韓国人コミュニティは各地域に点在するので、地元に根付いて住んでいる人は係わり合いが多いと思う。私は母の実家がそのような地域なのだけど、母の偏見はとても強い。母はネットなどみないが、父の仕事の関係や近所づきあいの中で在日や韓国人や部落は迷惑千万といった結論に至ったらしくそういう話になるととても酷い言葉がでることもある。
かばう気はさらさらないので彼らがずうずうしく人のものを借りて壊して返してきたり、逆切れしたり、店のツケを10分の1ぐらいだと開き直ったりしたという事実はここに書いておく。中国政府は貿易する相手としては本当に最悪の相手というのも分かる。それも事実だと思う。体験したことがないので彼らのいいエピソードを書くことはできないのだが、ここまで読んでくれた方には何がいいたいのかは察してほしい。そういう人もいるしいい人もいるということだ。
方向性を決めなくては商売にならない・読まれる文章にならないという気持ちは重々分かるし私もこれからそういった文章を提出しなくてはいけないわけだけど、ようは表面的にならず裏側をつねに読むようなリテラシーぐらいは持っておくと勘違い人間になりにくいとという話でした。レッテル貼りで思考停止しないでね。
某大手国立大学卒業、25才、大手IT系企業に勤める優秀な社員が
絵に描いたような生き方をしたら
絵に描いたような悩みを持ったんだ
それはこんなカンジだ
「あ、はい」
「できます」
「大丈夫です」
「頑張ります」
一人が無理をすれば、他の人に無理がかかるんだ
会社なんてその最たるもんだ
べらぼうな目標に向けて無理を宣言すれば
もちろん、中間層まで全て、
一番のシワ寄せを喰らうのは実務者だ
なのに、困ったことに、なぜか、どうしてか
実務者も徹夜をして勤しむ
上の人間の無理を喜んで喰って、
無理なものを無理して吸収する
そしてたまに「頑張ったな」と言われて、喜んでる
みんな頑張れ?
みんな苦しいから俺もがんばろう?
みんなが頑張ってるから俺もがんばらなきゃ?
人が死にそうなぐらい働いてるから自分死にそうなぐらい働こう?
俺も含めて、おまえら正気か?
小さなプライドは捨てるんだ
無理なものは無理と言え
目の前の「はい」は本当にそれでいいのか?
そこで「やりたくないよ」と言えない事情がある
そんなことを言ったら生産性が低下する
「はい」と言い続けてべらぼうに働く社員を持って、低コストで高い生産性を確保してる他の企業と競争したら負ける
潰れる
食えない
みんなでいっぺんに変わらないと無理なんだ
けれどみんなそれぞれが閉塞してる
何も変わらない
そりゃ少子化になるよ
誰も結婚しねーよ
べらぼうな「はい」が閉塞を生んでる
もしこれが、
この国のNoと言えない国民性に起因するなら、
流し流され自分を消して他人に合わせて得た繁栄だとしたら、
俺はこんな国はデタラメだといいたい
こんなのは虚栄だ
こんな国に未来はない
これを見ている学生、リーマン、ニート、主婦、管理職、役員、天皇でもいい
先生の言うことに全て「はい」
親の言うことに全て「はい」
偉い人が言うことに全て「はい」
恋人が言うことに全て「はい」
読んだ教科書に全て「はい」
目で見たものに全て「はい」
自分自身の思考をしないで、価値観を消して、自分の考えを卑下して
自分以外を全肯定、鵜呑み、疑いなし
「しょうがないから」
「みんな言ってるから」
「教えられたから」
「あるある大辞典が言ってたから」
「あの人に褒められればいい」
「あの人に好きになってもらえればいい」
まず自分を持て、自分を出せ、好きにやっていい、自由でいい
疑問をぶつけて、怒鳴られ、白い目で見られて、恥をかけ
これは、この社会に対して、誰でもいいから手当たり次第に言うべきだと思った
けれど上司には言えなかった
だから、ここで言う
誰か、聞いてくれ
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http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50841971.html
>私は見栄っ張りなので、NoはYesと言えるときでないと言いたくない。
Googleの地元サンフランシスコではGoogle提供無線LANが街全体で使用可能という話は有名だ
なんでもGoogleはどの無線LANに繋がってるかで位置情報を把握し、それに基づいたターゲット広告を飛ばすというシステムを確立したいらしい
そのため、「FON」という無線LANネットワーク構築企業に多額の投資を行っている
ネット内の行動だけでなく、リアルの行動もGoogle先生にはバレバレになるということだ
というわけで、もしこのシステムが機能し始めたらどうなるかを授業中にシュミレーションしてみた
通話はskypeやGTalkで無料になるだろうし、メールもネットも無料でやりたい放題になる
しかし無線LANが行き届かない地域が出てくるために既存の携帯キャリアとの提携で、今までの携帯のシステムと併用になるだろう
そうなったとき、Googleは家で無料通話などができることを餌に、「FON」のシステムを家に置くように勧める
このシステムは自分の位置情報から近くにある店などの広告を受け取るという仕組みだ
店ごとの無線LANでその店の前を通ると、その店の広告がGPhoneのチラシボックスのようなものにはいってるというのも面白いかもしれない
広告にはタグがあり、【服】【雑貨】などのタグで街をぶらついてるだけで好きな店の情報が手に入るというわけだ
会社で暇つぶしに広告を見て、「クーポンもついてるし帰りに買って帰るか」ということになる
「服を買いたいんだけど行きつけにあまり欲しい服がなかったな」
「この近くにこんなに服屋あったんだ、いってみるか」ということになる
広告フィードが受信されてどんな会社か知り、会社の地域密着性が高くなる
…こんな感じで位置情報を操るだけでいろいろと可能性が生まれる
ビラもティッシュも配る必要がなくなる
その地域でしか手に入らないご当地アイテムや
まあなあ
肯定否定どっちもソースが怪しいんだけど
俺も虐殺は無かったと思っては居る。
強いて言うなら、南方戦線で人肉食ったくらいでビビッちゃうような
ナイーブな国民性を持つ日本人が非戦闘員を大量虐殺してケロッとしてるというのは
ちょっと考えにくい。論拠としては薄弱だけど。
中国みたいに「人肉は刺身もいける!」みたいな国民性ならあるいは。
妊婦の腹を割って赤子を突き刺したみたいな、虐殺にまつわる与太話も発想自体が大陸的。
日本人ってそういう突き抜けたところはあんまりない気がするんだよね。
考えにくいとか気がするとか、全部推量だけど。
あんたが一番解決策を志向する気がなさそうだけどな。
反省汁って、何を?
これからは痴話喧嘩であろうと他人同士のやりとりに積極的に介入しましょう、と言うのかと思えばそうでもない。
私も怖い、で逃げているから。何の責任も取る気はない。
でも社会を糾弾する権利だけはあると思っている。
結局
っていう自説を補強するためだけのダシにしているに過ぎない。
ひとつ言えることは、車内の人々があんた程のダメ人間だと決めつけない方がいいってことだ。
やたらに被害者の落ち度を探す奴いるけど
それを「今後の反省」に生かすために議論してる奴どれだけいるんだろ?
ほとんどがただいたずらに落ち度をあげつらってるだけな気がする。
結局、怖いからさ。嫌過ぎる事件を、直視できないから、
被害者にも何らかの落ち度があったことにして、
そして「自分及び自分の身内は、そんな落ち度は犯さないから、大丈夫だ」
と思いたいんだよね。でもそれって危険だよね。
正直、「助けて」って一言いったら、その30人の乗客が助けてくれたかっていうと
それはすっごく怪しいっしょ。なんか、「助けて」って言わなかったからだ
みたいになってるけどじゃあ助けてって言えば本当に上手く言ったのかな
勿論言った方が可能性は上がるからいった方がいいけど
そういう問題じゃなくてさ。余りに「助けて」って言わなかったからダメだったんだ
ってとこに、必死にもっていこうとしてる感が、なんだか不安だ。
そこに問題を落としこんで、「そうだ助けてって言わなかった(あるいはいえなかったでも同じ事)
からな。そうだそうだ。だからこうなっちゃったんだ」って安心してる感じが怖い。
助けてといえば「助かる可能性はあがった」だろうけど
そうすれば100パー問題なかったとかそこだけに問題があったとかじゃないっしょ。
今後の反省として検討する意味はあるけど、ただ安心する為だけに
論うなら、寧ろ逆効果なんじゃないのかね。
助けてって言わなかったこと以外に、もっと問題はあるだろうよ。
結局怖いんだろうな。自分も怖いし。わかるけど。
怖いから事件直視できないんだよな
悲惨な事件ほど被害者の落ち度を探そうとする奴多い気がする。
そうして「被害者にも落ち度があったから起きちゃったんだな」って安心したいのさ
俺僕私はそんな落ち度しないから大丈夫だって安心したいのさ
助けられないのも、ある面で無理はないけど
だからといって「そんなん無理だ。寧ろ助けないのが当たり前だ」
って開き直るのも違うだろ。
なかなか助けられなくても反省すべきだろ、そこは。
何で開き直るのかわからない。
結局みんな怖くて直視できない。
事件を受け止められない。臆病なんだ。怖がりなんだ。
でもそんなことしても一時の平穏だけしか得られんぜ
怖くても受け止めないと。目をそらして自分の今一時の平穏だけ
追いかけてたら、結局周りまわって大損だ
逃げてばかりで、そのまま人生80年逃げ切る、そう思ってる人ばっかりなんだろうな。
でもさ果たして何人が逃げ切れるんだろうな
皆が逃げれば逃げるほどますます状況は酷くなる。
結局皆少しの勇気が出せないまま、皆で潰れちゃったりするのかもな。
日本って結局、そういう国民性なんだよな。そう言うところが最高に情けないな。
その情けなさすら、認めようとしない奴ばかりで。
弱さを直視する所から強さは生まれるのだが
直視することすらできない弱虫の集まりだ。
日本では、活動休止→解散と至ったバンドやグループが結構多い。海外のミュージシャンに視点を移せば、ナイン・インチ・ネイルズのようにアルバム発売ペースが5年に一枚くらいのバンドやグループも結構あるのに、である。まあ、洋楽と邦楽では音楽界における事情がいろいろ違うことは事実なのだが、「止まったら死んでいるようなものだ」、という印象が日本では強いことに対する、ひとつの証拠になりそうなケースである。
別のケースを紹介しよう。西洋の人々は、長期休暇のたびによく旅行する。これは裕福な人々の間における余暇の過ごし方なのだが、日本人は裕福であっても旅行をする暇すらないような状況にある人が多い。またコチラの記事によるとアメリカでは55歳までに生涯暮らせるだけのお金を稼いでしまい、それ以後は働かずすごす人も多いようである。しかし、日本では60歳以上でも働きたいと思っている人が多いし、そもそも、「お金持ちなら遊んで暮らしてもいい」という考え方を許さない国民性が、日本人には少なからず存在しているように見える。
これらをまとめてみると、日本人は他の国の人々と比べて休むということを知らないのではないか、と思えてくる。本当のところ、このような国民性が高度経済成長期を支え、また、折れることのない不屈の侍魂(武士道精神)を作り上げ、日本が世界において高い評価を勝ち取ったことはまぎれもない事実であろう。しかし、このような国民性は、現在悪い方向にも働いている。過労死である。
実のところ、上で述べた国民性は、「初心忘るるべからず」の精神に基づいているように思える。つまり、社会や仕事に慣れてきて、会社内でも昇進が約束されるようになり要領のいい生き方を会得してからも、不器用だった頃の自分のようにたゆまぬ忍耐力と壊れることのない向上心をもって仕事に励め、ということである。そして、このような国民性は高度経済成長期において、年功序列制度と互いに助け合う形で日本の発展に貢献したのである。だから私からすれば、「勤勉な日本人」というレッテルは今の時代マイナスな意味合いも強いように思えるし、むしろお偉いさんが若い人などに強要している概念であるようにすら思えてならない。
最近、原則年中無休の店が当たり前のようになっている。それに伴い、社会人もだんだん年中無休体制に移行させられているように思える。これは「失われた10年」の生み出した悲劇なのかもしれないが、もうちょっとのんびりした生活を送れる環境が労働者に整わないと、過労死がもっと増え、不幸な世の中へと変わっていくのではないか、と心配でならない。日本人は、もっと休むということを知るべきなのではないだろうか?もっとゆとりを持って働くためにも、もっと人生を楽しむためにも。
ちまたで話題になっている「残業代ゼロ法」こと「ホワイトカラー・エグゼンプション」について。
大昔、労働における生産量というものは労働時間にほぼ比例していた。例えば畑を耕すのでも工場で物を組み立てるのでも、個々人に差はあれどそれは微差の範囲内で、基本的に長い時間働いた人ほど労働量が多いことになる。このような労働体系下においては、対価としての賃金は労働時間によって支払われるのが妥当と言える。
だが、情報化が進んだ現代では「時間=賃金」という等式は既に崩れている。例えば私の所属するエンジニア業界でも、同じ時間働いても個々人のスキルによって生産量が数倍から数十倍も違ってくる。1時間に3の生産量を上げられるAさんと、1時間に1の生産量しか上げられないBさんがいて給料が同じだとして、「時間=賃金」という対価の与え方では、同じ金額を稼ぐのにAさんはBさんの3倍の量の仕事をこなさなければならない。このような不平等をなくすために登場したのが「成果主義」であり、「ホワイトカラー・エグゼンプション」なわけだ。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」は残業代ゼロ法などと揶揄されて暗黒面ばかりが話題に上がっているが、そもそもの目的は労働法に記載されている「1日8時間、週40時間」という枠を取っ払おうというものだ。この法律が施行されることで、労働者は会社に9時から5時までいなければいけないという縛りから除外(エグゼンプション)され、各人が自分にあった労働方法をとることが出来る。
例えば、幼い子供を持つ親御さんたちは、決まった時間に会社にいなくてもよいので、打ち合わせの時だけ会社に出向き、後の仕事は持ち帰って家でお守りをしながらやる、といったことが出来るようになる。仕事が物凄く出来る人は、一日2時間働いたらさっと切り上げ、残りの22時間をプライベートに回すことが出来るようになる。持ち帰りの作業が一週間分ほどたまったら、ノートパソコンとともにのんびりと旅に出て、旅行の合間に仕事をするということが出来るようになる。安倍総理が「この法律を施行することで出生率が上がる」といってネチズンの失笑を買っていたが、彼の意見はあながち間違っていないのだ。
だが、こんなのは単なる原理原則論、理想論であって、実際の運用上でもちろんこんなパラダイスのようなことが起きるわけはない。
昨今の情報漏洩ブームのおかげで在宅勤務なんかは夢のまた夢。仕事が物凄く出来る人は出来ない人の5倍10倍の量を押し付けられ週日会社に縛り付けられ、旅行なんかは行く暇すらない。労働者はますます困窮する。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」の根底にあるのは、働いた時間など関係ない、生産量で人を評価しよう、というものだ。これ自体は間違ったものではないけれど、日本の企業風土では幾ら生産量を上げても決まった時間会社にいなければならないという暗黙の了解が既に出来上がっている。うちの会社はフレックスタイム制で、仕事が終われば3時半に帰ってもいいのだけれど、まずそんな人はいない。定時まで仕事をして、残業をしてやっと帰れるというのが社員の「当たり前」になっている。私なんかは仕事が暇な時は毎日定時に帰れるけれども、あちこちの島で火の手が上がっている職場でそんなことが許されるわけはなく、会社に居残って資格の勉強をしたり趣味のツールを作ったりしている。馬鹿馬鹿しい話だが、幾ら生産量を上げても早く帰れば「あいつは駄目だ」と思われるのが日本の企業風土であって、これだけはどうしようもない。実際私も「俺の会社は毎日定時に帰れるぜ」とか聞いたら脳たりんの集まりなんだなと思ってしまうしね。まあその逆もまたしかりだけど。
こんな状況下でホワエグなんかを導入したらますます惨状になるのは目に見えている。現在の企業側の認識としては、「サービス残業はいけないことだが仕方がない」という辺りだろうが、この「いけないことだが」の部分が結構大きくて、ホワエグによってサービス残業が合法化されてしまえば日本の労働環境は地獄と化す。何せ過労死をしても会社側は何ら責任を取らなくてよくなるのだ。良心的な会社ならともかく、悪用しようと思えば幾らでも出来るこの法案、ストッパーが完全になくなってしまうこの法案は大変危険だと言わざるを得ない。「現在も残業代出てないし、別に構わんよ」と嘯いている人は、もっと危機感を持ったほうがよいと思う。
先輩の会社のお偉いさんなのであまり遡上にあげたくないのだけれど、経団連の御手洗氏がよく言う「国際競争力の向上」というのは、つまり「安い賃金で多くの労働を」という以上の何者でもなく、こんなバイアグラのような方法で経済を伸ばそうと言う発想は極めて幼稚で短絡的である。日本の労働環境の向上なくして、経済力の向上などあり得ないのだ。音楽でも何でもそうだが、「人間的である」というものは普遍的で強い。法律も一緒で、非人間的な法律、そこに人間性や国民性が反映されていない法律は凶器と化す。今回の国会では廃案になりそうだが、来年以降も経団連と自民党の動きから目を離してはいけないと思った。