はてなキーワード: 俳句とは
16歳で初めて東京へ遊学、初め漢学を次に哲学を志して遂に大学予備門に入学、東京帝国大学では国文科に入り、二ヵ年の修行で病気のために退学した。居士は大学で修める学科が居士の志す所と没交渉のものが多いからというのを退学の一理由としているけれども、勿論病気ということもその退学原因の重大なものであった。
退学が病気に因る如く、居士の事業また病気によるものが多い。その俳句研究を始めたのは喀血後明治21、2年頃からである。 「俳句を研究せねば、足利以来の日本文学とその思想は到底鮮明することは出来ない」 とは、その頃居士が他に語る口癖であったが、斯く考えることもまた病身ということが手伝って力あるものである。そうして24歳より俳句の復興革新に志し僅々5年29歳の頃には略ぼその大業を成就するに近くなったのである。
次に30歳頃から和歌の革新を思い立ち、「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ歌集に有之候」という当時としては歌壇の反逆児としか思えない畏る可く宣戦の言葉を放って健闘すること3年有余、その34歳の頃には既に速くも歌壇一千年の永き惰眠を覚醒し、写生趣味による真実味と自然味とを和歌に注入して以て殿上文学たる和歌を地下の書生学徒の手に移したのであった。
次で文章の革新をも思い立ち、写生趣味を加えた言文一致の文を発表し、真実を自然のままに叙写するのでなければ、到底永遠の生命ある文章を得べからざることを称道し、所謂写生文なる一派の文を興すに至ったのが、明治32年頃からその晩年たる35年頃までの活動により成就せられたのであった。漱石の猫が生まれたのもまた実に子規居士の造った揺籃に於てしたのである。
かような明治文学史上に最大の意義ある事業を為す傍ら、明治24年頃から、俳句の分類だの、俳家全集などの編著にも精力を注がれた。
20歳喀血し、30歳脊髄を冒されて、腰は全く立たず、カリエスは開口して漏膿し、痛苦を伴った。30歳の頃以後は年百年中37度ないし39度くらいの体温を干満した。生まれて虚弱、13歳より5、6年僅かに小康を得、そうして盛年常に病魔に冒されて以て一生を終わった。居士は畢竟病を以て終始したものである。そうして享年僅かに36歳、明治35年9月19日示寂せられたのである。
寒川鼠骨「子規居士小伝」より
唐突だが、席替えだそうだ。
ゴーフルの缶に入れられたクジを引いた俺は、窓際後方2番目というなかなかよろしいポジションを獲得した!
窓際後方2番目といえばあまり有名ではないかもしれないが知るものぞ知る良席なのである。 春は暖かい日差しが程よく当たってかの極楽浄土が現世に顕現したかのごとくであるし、夏は日差しがキツくなるとはいえ窓際ということもあり涼風にありつける可能性が非常に高いので遥かな尾瀬が近い空だし、秋は秋で授業中に眼が疲れたなら遠くの山の紅葉を見て眼の保養をするとともに日本人的感性を育むことができて正岡子規が開発した俳句用の色紙(正岡子規式色紙)に一句読みたくなるし、冬ともなると暖かい教室の窓から深々と雪が降るのを眼にしてセンチメンタルでアンニュイな気分でメランコリニスタな気分に浸って若干ハイで眠れないのだ。ならば窓際の一番後ろの席でも良いじゃないかという反論をするものも必ずいるだろうが、その考えは甘いダダ甘い高校3年2学期から受験勉強を始める奴並みに甘いと言わざるを得ない。何故ならば一番後ろの席というのは一見教師の眼が届かなさそうなイメージがあるが決してそんなことは無くむしろ逆であり例えば舟を漕いでいたりすると教師というものは目ざとく見つけてくれやがる。そう考えると後ろから2番手3番手というのはまさに忍術で言うところの木陰の大事であり木を隠すには森の中人を隠すには人の中といった具合なのであるからして良席なのだ。こんな良席を手に入れられるとはそろそろ運が俺に向いてきたといって何ら差し支えは無いであろうしこれでハルヒと疎遠になるだろうことは想像に難くなく俺はいつに無く浮かれた調子でハルヒへの別れを告げんとした。さらばーハルヒー、フォーエ
「7番でごわす」
「うむ、涼宮山関の座席は窓側一番奥でごわすな」
こう宣告されたときの俺の表情は一体如何なるものだったのであろうか生憎自分の顔は鏡が無い限り見ることができないので想像するしか手段が無いのであるがそれは例えばブルータスに刺されたカエサルもしくは仮面に謀られた時の育ちのいい坊やはたまた覚醒した戦闘種族の息子に劣勢に立たされた完全体もかくやと思われるものだったのではないか、まあ俺はとりあえず世界の確率法則が酷く薄情にできていることにもう逆に感心しつつそれを支配しているかもしれない超越存在に向かって喧嘩を売りたいというか叩き売らせてくれよーし神とやらちょっとここに来て座りたまえああいややっぱ座らなくていい久々にキレちまった一緒に屋上へ行こうかボコボコにしてやんよ。
「虹が出ないだろがそれじゃ!」
暖かくなってきた。
暖かくなってきたから、国民全員が三週間くらい全裸で生活したらどうなるのか考えてみた。
以下、シミュレーション。
全裸を拒否、または期間中の着衣者に対しての射殺許可も認める。
多くの反対を押し切り、完全全裸週間が実施される。
全裸週間が始まってしばらくはAKB48のライブ会場に数十万人が殺到するなど、
だが二週間を過ぎたころには、意外にも
「全裸の光景にも慣れてきた。全裸とか関係なく、みんな全裸で生活してる」
という状態になる。
その後、全裸週間が終わっても国民の二割程度は構わず全裸で生活を続ける異常事態が発生。
「とても爽快です」
「せっかく日本に始まった全裸ムーブメントをここで終わらせるのはもったいない」
とか言い出す人がたくさん出てくる。
「バツイチだし。処女でもあるまいし、別に恥ずかしくないです」
「全裸きもちいいよ」など発言し、全裸文化の浸透に一役買うこととなる。
結果「日本は夏の間、服を着ないよ法案」が可決される。
可決に対して、ユニ○ロ社長は
「文明国家として最悪の恥ずべき決定。まったく理解できない」とコメントする。
法案可決から二ヶ月後、正式に全裸季間が実施される。
実施から一月後
「全裸の人に遅刻なんかで怒るのもバカバカしいので、遅刻くらい良いかと思うようになった」
というような意見が数多く載せられる。
後に、通勤ラッシュが軽減しているという調査結果が東京メ○ロから発表される。
実施後、痴漢行為による逮捕者が0人になったことが警視庁から発表される。
「触るまでもなく全裸だし。わざわざ痴漢しなくてもいいかなって」と答える。
元レイピスト「すでに全裸の人に暴行を働くなんて酷い事できないっすよ」
文化人気取り「私、日本人であることが恥ずかしいとか言っちゃってましたけど、すでに全裸なのにこれ以上恥ずかしいとか言ってられません」
スポーツジム経営者「はじめ何ヶ月かは新規入会がたくさん来たんですが、しばらくすると元に戻りました」
元プロストリーキング「ストリーキングをストリートキングと勘違いする人が減りました。ストリークって動詞なんですよ、知ってました?」
その他の影響。
全裸の人たちが怪我をしないようにインフラ整備がどんどん進む。
フランスのタブロイド紙・サンに「全裸なのに最も近代的な国家」として日本の紹介記事が掲載される。
流行語大賞に「衣替え」が選ばれる。
服を脱ぐ事で、みんな季節の変化に敏感になり、大々的な俳句ブームがおこる。
空前のむだ毛ブームが起こり、女性がむだ毛処理の手間から解放される。
みんなの体が丈夫になり、風邪とか引かなくなる。
その後、首相は国際和平会談に全裸で出席する(ただし、正装としてネクタイのみ着用)
それについてあの国の大統領は
「こんなに興奮した和平会談は始めてだよ。ところでこいつを見てくれ、すごく・・大きいだろう?」
と首相を評価する姿勢を示す。
発表から二日後「チラリズム原理主義・青縞の牙」による大規模なパンツテロ事件が発生する。
その際、某都知事は「君たちのやっていることはテロではない。エロだ」と述べ、 87543枚のトリ○プ製しまパンツを投げつけられる。
二針縫う軽傷。
この問題に対し、首相は「エロ本のモザイクは外しません。あれは日本の文化です」と発言する。
発言から20分後、問題は沈静化。
この問題から出版物のアンダーヘアを隠す事が再び義務づけられるようになる。
全国のPTAの人たちも「少し健全になったので良かったです」と喜ぶ。
なおパンツヌード写真とは、実際にモデルがパンツをはいた状態で撮影した写真ではなく、
子どもたちも全裸ということが問題視され、実態の調査が行われる。
結果は、傷をつけると目立つという理由から、虐待を受ける子どもがいなくなる。
痩せすぎてると目立つので、ご飯を食べさせてもらえない子どももいなくなる。
ロリコンが喜ぶかと思いきや、かえって冷静になり、悪いペドフィリアがいなくなる。
など、とっても良い事ずくめだったので某団体もなんとか納得する。
なお、調査資料は出版社の茜○社から提供された。
国際ナチュラリスト協会フランス本部から名誉ナチュラリスト国家として認められる。
「全裸で生活するような連中に鯨とるなとか言っても無駄だろ」ということで、捕鯨への風当たりが弱まる。
以上をもって「二年に一回くらい誰かが言い出しそうな事を言う会」
今年度の活動ノルマを達成した事をここに報告します。
http://anond.hatelabo.jp/20090505104332
全くもって、古くの小説害悪論、TV害悪論、漫画害悪論、ゲーム害悪論と同じ論調な訳で。 そういう「こういうジャンルが悪い!」てな論調ではなんら説得力を持たせられない。 だって、どういうジャンルでもこの言い方が通じるからね。つまり無為 じゃ、オタクがどうか、ってーと、これも意味が多彩で議論が発散する。 原義でいうと、マニアの中にいる協調、同調能力の低い奴への蔑視表現だし、 オタキングとかが逆に意志疎通部分はかなぐり捨てた求道者という啓蒙にも使ったしで、 現状の、まったり周囲の情報と同調しているようなアニメファンとは結構異なる。 で、最後の意味で使ったとしても、それがアニメの質の低下に繋がっているか? いや、これも違うだろう。直接的には制作者やその周りの環境の問題であり、 視聴者がどういうアニメを見るかは副次的な問題だ(それも確かに大きいが)。 アニメというジャンルが良い、悪い、で言うならば、その特徴によって語るべき。 アニメ、漫画、ゲームというのは、デフォルメによって 誰にでも理解が行いやすくなるという特徴を備えた媒体であり、 これは日本が昔から俳句や浮世絵などで培ってきた、 あらゆる物事を抽象化する文化の延長上に存在する。 そして、これらの媒体で「何を」表現するかにおいては制作者が行うことで あって、それの質が悪いからといって、そのジャンルが滅ぶ訳ではない。 #質が悪い原因はとどのつまり制作者に帰されるしかない 美術、演劇、映画が本当の文化だ、ってのは、単に歴史が長く、量が多く、 高尚なモノが多いと「歴史を積み重ねることによって」思われているに過ぎない んな事で日本の優位点を捨てようって話になるのはもったいない話だ。 逆に取り込んでやれば良いよ、高尚と思われる他の文化を。 でもそういうモノだってアニメにも存在する。 今MXでやってる東京国際アニメフェア見てるけど、良く出来てるよ。 高尚って言って良い作品が沢山流れてる。でもこれじゃ売れないんだよね。 じゃ、どうするか。そこを上手く拾わないと生き残れない。 まず、日本は漫画、アニメ、ゲームという文化をちゃんと表現する言語を作りたい所。 オタクは当然違う。サブカルチャーもカルチャーへの対立軸でしかない。HENTAIは(ry この3つのジャンルが、絵画や音楽や演劇などよりも、より抽象的な表現のメディアで、 その文化は日本が過去から培ってきた多彩な感受性、自然との協調、足るを知る文化より 生まれた「抽象性」から来ているという連続性、優位性をもっと意識する所から始めるべき。
http://anond.hatelabo.jp/20090216100157
根本的な勘違いだと思うんだけど、「生まれが良いところのボンボン」の考え方というのは、本当にボンボンかどうかは関係ないんだよ。極貧の家庭に生まれたはずなのに、なぜかたくさんお金を持っている人もいる。脳性マヒで寝たきりの友人が居るけど、俳句を書いて毎日楽しそうだよ。文字一つ打つのに3分もかかるけど、句集を出すんだって毎日書いているよ。読み書きはお父さんに習ったそうだ。幸福というのは他人から与えられるものではないし、「何々でなければ幸福になれない」という条件もないんだ。どんな環境のどんな境遇の人でも、自分の幸せを見つけて守っていく人が幸せなんだよ。
今、不幸なら、それは、あなたが不幸でいようとしているからだ。幸福になろうと決心して、幸福になるために努力しないと、いつまで経っても「あれがないと幸福になれない」「これがないから私は不幸だ」と言いながら、不幸にしがみつくことになる。慣れてるからね。人間、幸福になるより、慣れてる不幸のほうが安心出来るって知ってる? だから、生まれ変わって、今度は心の大金持ちを目指そうよ。
なんてのがあった
電力消費量が減る→発電量が減る→CO2が減るという理由だと私は理解しているのだけど、あってますかね?
その理解を前提とした疑問
こういった動きが出て結構経つけど,果たして今現在どのくらいの効果が出ているのだろう?
日本全体の電力消費量はどのくらい減ったのだろうか?
CO2排出量で無視できないのが火力発電だろうけど、その発電量は減ったのだろうか?
電力に限らず石油製品も同様で、スーパーのビニール袋の削減の方向に向かっているけど、それでビニール袋の生産量はどのくらい減らせたのだろう?
でも、これらはちゃんと効果があり、既にこの位の効果が出ていると言うことを示して貰わないと、経費削減の言い訳にしか聞こえない
(1)
【携帯で読めるように】短く文を切る。
(2)
【なんでそこまでして携帯で小説読むかというと】メールの延長ぐらいでしか文章読めない小中学生(並の人)向けだから。更に付け加えるならばそういう人向けに『感動』を手軽に切り売りする目的の娯楽物。
で、
(3)
【小中学生(並)の人間相手だから】内容は(背伸びしたい)子ども向け、エロ・グロ・バイオレンス主体。
…とまあ、そんな風に、
その条件と要請の下で築き上げられた文化(3)
で定義すれば大体規定可能。枕詞をはずすと、物の本質が見えない。基本は「枠」が生み出した一つの文化でしょ。たとえば
(1)5/7/5というスタイル枠
(2)暇な町人が難しいこと知らなくても取り組める娯楽
ただ人生のいいとこつーのは、それはそれで修正効くとこかな。人間の脳の可塑性は半端じゃないから。
だって年取ってから眼鏡かけてもしばらくすればフレームを認識処理から完全に消しちゃうんだぜ。
極論言えば『世界が倒立して見える眼鏡』かけても一週間もしたら正常に見えるようにしちゃうんだぜ。
それでエラーとか出ないんだぜ。
脳神経のシステム管理者って超優秀。超ヤバい。
ずっと公務員で小役人のまま一生を終えるかに見えて、50を過ぎてから突然書き始めた絵で歴史に名を残した人がいる。
逆に50歳過ぎるまでずっと生活のための絵描きをしてて、50過ぎてから始めた俳句で文学史に名を残した人も、
50歳まで商売人として仕事してて、引退してから地図作製を学びそれから日本中を足で歩いて詳細な地図を作った人もいる。
何かをはじめるのに遅すぎるということはない。
遅すぎるように思えるとしたら、それは遅かったことを言い訳に何かをあきらめようとしているときだけだ。
「高校国語」擁護派の意見を書いた増田より。今回はもう少し「文学」に話を振って、擁護してみるよ。
まず、プログラムについては大昔にプログラミングの基礎みたいのを独学で勉強した程度なのでBN記法とかは知らなかった。面白い言葉を教えて貰ったことに感謝したい。けど、一応論理学は大学で学んだし、法律のとっかかりみたいなのも学んだ。オレは「理想として」高校国語にはそれらが含まれているという話をしはしたけど、同時に高校の国語授業に「現実問題として」それらが欠けているという増田たちの主張も、もちろん分かる。その通りだと思う。
ただ、同じく「現実問題として」言うならば、それをやらないのは多分生徒の理解を超えるからだという面もあると思う。年齢が一年二年違うだけで、同じ事柄に対する理解力が驚くほど変化するのがこの年頃だ。大人から見て「こんな簡単な理屈が…」ということが、子どもには全然分からなかったりする。「論理的な精神活動とは全く別の芸術ですよ、ということにして明確に区別したらいい」という意見も、確かによく聞く意見だが(以前2chの教育板で、これと全く同じ議論をしたことがある)多分「論理的な精神活動『だけ』を教える科目」は高校では科目として成立しにくいだろうと思うよ。個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、同じ役割を英語に期待するのはやはり難しい(漢語はある程度日常化しているが、英語は(特に文字の面で)それほど日常的なものではない)と思う……英語の授業で民主主義の原理や自由・権利といった概念について学ぶというのはなかなか筋が通ってると思うのだが。
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「実際に異文化に触れた」経験が無意味とは言わないが、「実際に異文化に触れた」結果としてひどい偏見を抱え込むことも別に珍しくない。そもそも日常的に「実際に」他人と触れ合っていながら我々は、相手がその内面に何を抱え込んで生きているかを理解しているとは言い難いだろう? 文学で現実を分かったつもりになるのはキモいが、一方現実の体験の「方が」「同じこと」を「より効率的に」学べるという考え方もまた危険だと思う。どんな体験をしようとも、結局の所それを「解釈」するのは自分だから。つまり「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」(書物や人から聞いただけで自ら考えることをしなければ、実は何も分からない。一方、自ら考えるだけで書物や人から学ぶことがないのは、危険なことだ。)という意味でね。
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。初期条件として与えられた僅かなものをてがかりに、我々は一人一人自分自身のOSを構築して生きている。従って、一見同じに見える人間が全く異なるOSを積んでいても、それはごく普通のことなのだ。
そういう、OSの設計思想から異なる人間は普通に身近に存在するにも関わらず、日々の生活の中では互いにその「出力」しか見ていない以上そのことに気づくのは難しい。「数学」というのは、完全に定義された一つのOSを巧みに操作する方法を学ぶことだと思う。それは確かに高パフォーマンスをあげることが可能な世界だが、そこで学ぶことができるのは「一つの」OS思想でしかない。もちろん数学史上色々なパラダイムが時代時代に存在したことは知っているが、しかし「互いに通じない言葉」を用いていたら、それは数学ではないだろう。その意味では数学は「一つの言葉」しか用いていない。一方「文学」の世界には、先に述べた理由で無限のOSがあり、つまり無限の設計思想がある。たとえばオレが過去に感銘を受けた詩や小説の書き手は、オレに「(同じこの)世界をこんな風に見ている人間がいたのか」という衝撃を与えてくれた。それは自分自身のOSをくみ上げていく上で、また後々他者を理解する際におおいに参考になった。たとえば宮澤賢治の詩を読んでいたことが「共感覚」に対する理解を助けてくれたりした。
一方また、「言葉」を限界まで使いこなす実験を行ってきたのも文学の領域の仕事だ。論説文は名詞に、小説は形容詞に、そして俳句や短歌は助動詞や助詞にどこまで意味を盛り込めるかの実験だと考えてみても良い。「もしフランス語に『郷愁』にあたる言葉があれば、プルーストが「失われた時をもとめて」を書くことは無かっただろう」という話があるが、逆に言えば彼の試みは、自分が持っている言葉では未だ語り得ない何物かに千万の言葉を使って迫ろうとした行為だと言うことができる。それもまた文学の仕事だ。いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。自分が学んだ大学の教授の言葉を借りれば、時代を越えて残る名作の表現というのは「その時代の表現水準に挑戦した言葉」だと言えるからだ。凡百の「娯楽作品」と「芸術」としての言語表現を切り分ける場所があるとすれば、それはこの一点にあると言えるだろう。その意味で、いくつかのラノベ作品なんかは、「時代の表現水準を変化させ」「多くの人々に受け容れられることで後代の表現のスタンダードを為した」という正しい意味で「芸術」だと言っていいと思っているよ。
最後に、「音楽・絵画・スポーツ」の「本物」が清新に与えるインパクトはなるほど大なるものがあることは否定しない。けれど、その「本物」を全国全ての学校の教室に持ち込むコストはどのくらいだろうか? そして、それと「本物の文学」を教室に持ち込むコストを比較してみれば、どうだろう。それでも、国語の授業は非効率的で不要なものと言えるだろうか。
まあ、こうして述べながらも、改めて「国語」の授業に期待されているものの大きさと現実との差違には打ちのめされるような気持ちではある。まだまだ、増田が触れていた「情報伝達」に関わる話とかしたいところなのだが、時間がないのでとりあえずここまで。
じゃまた。
ジョブ名 | アビリティ | 特徴 |
---|---|---|
アンテナー | しゅうしゅう | 常にアンテナを張って情報を収集する能力に長けたジョブ |
ブックマーカー | ぶくま | 情報を蓄積する能力に優れたジョブ |
コメンテーター | こめんと | 個人の意見を発することを生き甲斐とするジョブ |
ディスラー | ばとう | 負のエネルギーをぶつけて戦うジョブ |
エロ | えろがぞう | 裸の写真を他人に見せつけることで男性を味方にするジョブ |
ファイター | たたかう | キーワード編集合戦、けんかバトル等幅広い場で活躍するジョブ |
ゴリブー | へんたい | 変態に変身することにより他人の興味をひくジョブ |
ヒモテ | ひもて | 自らを非モテと告知することにより同類からの同情を集めるジョブ |
イイヨメ | けさきがきゅう | 魅力的な嫁として意味もなく愛されるジョブ |
ジェイコン | いのる | はてなサービスの向上のため神に祈りをささげるジョブ |
ココロシャ | じばく | 自らの身体を犠牲に笑いを誘うジョブ |
ライフハッカー | かっこわらい | ライフハックを披露することによりパーティのやる気を向上させるジョブ |
マスダ | かくれる | 誰にも素性を明かさず生きているジョブ |
ネクラ | ねがこめ | 陰口を叩くことを生業としているジョブ |
オナニスト | じこまんぞく | 自分のみ満足する記事を書き体力を回復する能力を持つジョブ |
ペイヤー | ぜになげ | 財力を武器に他人にポイントを投げまくるジョブ |
クエッショナー | じんりき | 質問をすることにより他人の力を引き出すジョブ |
リョウシ | つり | 良質な餌を武器に他人の感情を捜査するジョブ |
スッピン | ---- | はてなーの本来の姿 |
テロリスト | ほしれんだ | 突如として現れ迷惑行為を行うジョブ |
ウタヨミ | はいく | 多種多様な俳句を詠むジョブ |
バキューマー | くうきよめ | 場の流れを吸い取ることのできるジョブ |
ヲチヤ | をち | 安全な後列からでも攻撃の行えるジョブ |
クロスサイトスクリプター | こーど | 他人の脆弱性を狙って攻撃を行えるジョブ |
ユーチューバー | ようつべ | 面白い動画の発掘を行うジョブ |
ゾンビ | たちなおり | 何度炎上してもしつこく復活するジョブ |
俳句ってそんなにつくものなの?はてだの方がつきやすくね?
どっちでもいいような気はするな。
「ゴシックとはけしからん!草書体にしろ!」みたいな。
昔の日本は一行の横書きの場合、右から左へ書いていたみたいだから、
音の池 む込び飛ずわか や池古
縦書きが横書きに変わった程度で、俳句の評価が「何やらちょろちょろしょぼしょぼ、尿路障害症患者のおしっこのようになってしまったではないか」くらい変わるような俳句は所詮その程度ってことにはいきませんかねぇ。いや実際9割がた落ちるとかどんだけー。
面白い記事を見つけました。
雑誌『俳句』平成18年二月号の「「インターネットの功罪」という記事です。
この記事はインターネットは俳句に対しどのような功罪(といいつつ悪いことばかり挙げてあったけど)をもたらしたかという事に関して書いてあって、
その中で目をひいたのは、「横書き俳句は何が問題か」という論題でした。
執筆者の福永さんは、現在のインターネット掲載されている俳句のほとんどが横書きであることを批判し、俳句というのはいかに縦書きが大事だということを指摘していました。
例えばこんな例。
瀧
の
上
に
水
現
れ
て
落
後 ち
籐 に
夜 け
半 り
という詩は横書きにすると、「句の力は九割方落ちる」とし
瀧の上に水現れて落ちにけり
この横書きの句を「何やらちょろちょろしょぼしょぼ、尿路障害症患者のおしっこのようになってしまったではないか」と評しています。
また、
愛
さ
れ
ず
し
て
沖
の
遠
く
に
藤 泳
田 ぐ
湘 な
子 り
という句は横書きにすると、
愛されずして沖の遠くに泳ぐなり
「大広間の畳の上での水練か身悶えかと思える」と評しています。
う??んどうだろうね。前者は確かにそうかも知れないけど、後者の句は人によっては横書きの方がよいという人がいるんじゃないかな。
ただ少なくとも、既存の俳句の中から横書きになると情緒を損なう句の例を意図的に取りだし、さも俳句全体に悪影響を及ぼすという風に論じるのはせこいなぁと思う。
なんか初めから結論ありきみたいで。
逆に、横書きにすればかえって、面白くなる句もあるんじゃないかな。
残念ながら句に関して守備範囲外の僕は、具体的な例を挙げることは出来ないけど、
短歌だったら、
海知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
これなんかは横書きにする方が詩感が表現できている気がするのは僕だけか?
でも是非はさておき、このような問題提起をすること自体はとても大事だと思う。
よしもとばなな先生は『Voice』(平成十九年三月)で「縦になるか横になるかぐらいで私の文章を変わらない」と頼もしいことをおっしゃっているけれども、
今後、縦か横か論争は、もっともっと深刻な形で議論されるようになるはず。
とりあえず漢字やひらがな、カタカナは縦書きが基本だから、横にすると読みづらいのは確か。
でもこれももっと若い世代は違和感がなくなるのかな。