はてなキーワード: 俳句とは
http://anond.hatelabo.jp/20090216100157
根本的な勘違いだと思うんだけど、「生まれが良いところのボンボン」の考え方というのは、本当にボンボンかどうかは関係ないんだよ。極貧の家庭に生まれたはずなのに、なぜかたくさんお金を持っている人もいる。脳性マヒで寝たきりの友人が居るけど、俳句を書いて毎日楽しそうだよ。文字一つ打つのに3分もかかるけど、句集を出すんだって毎日書いているよ。読み書きはお父さんに習ったそうだ。幸福というのは他人から与えられるものではないし、「何々でなければ幸福になれない」という条件もないんだ。どんな環境のどんな境遇の人でも、自分の幸せを見つけて守っていく人が幸せなんだよ。
今、不幸なら、それは、あなたが不幸でいようとしているからだ。幸福になろうと決心して、幸福になるために努力しないと、いつまで経っても「あれがないと幸福になれない」「これがないから私は不幸だ」と言いながら、不幸にしがみつくことになる。慣れてるからね。人間、幸福になるより、慣れてる不幸のほうが安心出来るって知ってる? だから、生まれ変わって、今度は心の大金持ちを目指そうよ。
なんてのがあった
電力消費量が減る→発電量が減る→CO2が減るという理由だと私は理解しているのだけど、あってますかね?
その理解を前提とした疑問
こういった動きが出て結構経つけど,果たして今現在どのくらいの効果が出ているのだろう?
日本全体の電力消費量はどのくらい減ったのだろうか?
CO2排出量で無視できないのが火力発電だろうけど、その発電量は減ったのだろうか?
電力に限らず石油製品も同様で、スーパーのビニール袋の削減の方向に向かっているけど、それでビニール袋の生産量はどのくらい減らせたのだろう?
でも、これらはちゃんと効果があり、既にこの位の効果が出ていると言うことを示して貰わないと、経費削減の言い訳にしか聞こえない
(1)
【携帯で読めるように】短く文を切る。
(2)
【なんでそこまでして携帯で小説読むかというと】メールの延長ぐらいでしか文章読めない小中学生(並の人)向けだから。更に付け加えるならばそういう人向けに『感動』を手軽に切り売りする目的の娯楽物。
で、
(3)
【小中学生(並)の人間相手だから】内容は(背伸びしたい)子ども向け、エロ・グロ・バイオレンス主体。
…とまあ、そんな風に、
その条件と要請の下で築き上げられた文化(3)
で定義すれば大体規定可能。枕詞をはずすと、物の本質が見えない。基本は「枠」が生み出した一つの文化でしょ。たとえば
(1)5/7/5というスタイル枠
(2)暇な町人が難しいこと知らなくても取り組める娯楽
ただ人生のいいとこつーのは、それはそれで修正効くとこかな。人間の脳の可塑性は半端じゃないから。
だって年取ってから眼鏡かけてもしばらくすればフレームを認識処理から完全に消しちゃうんだぜ。
極論言えば『世界が倒立して見える眼鏡』かけても一週間もしたら正常に見えるようにしちゃうんだぜ。
それでエラーとか出ないんだぜ。
脳神経のシステム管理者って超優秀。超ヤバい。
ずっと公務員で小役人のまま一生を終えるかに見えて、50を過ぎてから突然書き始めた絵で歴史に名を残した人がいる。
逆に50歳過ぎるまでずっと生活のための絵描きをしてて、50過ぎてから始めた俳句で文学史に名を残した人も、
50歳まで商売人として仕事してて、引退してから地図作製を学びそれから日本中を足で歩いて詳細な地図を作った人もいる。
何かをはじめるのに遅すぎるということはない。
遅すぎるように思えるとしたら、それは遅かったことを言い訳に何かをあきらめようとしているときだけだ。
「高校国語」擁護派の意見を書いた増田より。今回はもう少し「文学」に話を振って、擁護してみるよ。
まず、プログラムについては大昔にプログラミングの基礎みたいのを独学で勉強した程度なのでBN記法とかは知らなかった。面白い言葉を教えて貰ったことに感謝したい。けど、一応論理学は大学で学んだし、法律のとっかかりみたいなのも学んだ。オレは「理想として」高校国語にはそれらが含まれているという話をしはしたけど、同時に高校の国語授業に「現実問題として」それらが欠けているという増田たちの主張も、もちろん分かる。その通りだと思う。
ただ、同じく「現実問題として」言うならば、それをやらないのは多分生徒の理解を超えるからだという面もあると思う。年齢が一年二年違うだけで、同じ事柄に対する理解力が驚くほど変化するのがこの年頃だ。大人から見て「こんな簡単な理屈が…」ということが、子どもには全然分からなかったりする。「論理的な精神活動とは全く別の芸術ですよ、ということにして明確に区別したらいい」という意見も、確かによく聞く意見だが(以前2chの教育板で、これと全く同じ議論をしたことがある)多分「論理的な精神活動『だけ』を教える科目」は高校では科目として成立しにくいだろうと思うよ。個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、同じ役割を英語に期待するのはやはり難しい(漢語はある程度日常化しているが、英語は(特に文字の面で)それほど日常的なものではない)と思う……英語の授業で民主主義の原理や自由・権利といった概念について学ぶというのはなかなか筋が通ってると思うのだが。
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「実際に異文化に触れた」経験が無意味とは言わないが、「実際に異文化に触れた」結果としてひどい偏見を抱え込むことも別に珍しくない。そもそも日常的に「実際に」他人と触れ合っていながら我々は、相手がその内面に何を抱え込んで生きているかを理解しているとは言い難いだろう? 文学で現実を分かったつもりになるのはキモいが、一方現実の体験の「方が」「同じこと」を「より効率的に」学べるという考え方もまた危険だと思う。どんな体験をしようとも、結局の所それを「解釈」するのは自分だから。つまり「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」(書物や人から聞いただけで自ら考えることをしなければ、実は何も分からない。一方、自ら考えるだけで書物や人から学ぶことがないのは、危険なことだ。)という意味でね。
また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間が存在するのだ。初期条件として与えられた僅かなものをてがかりに、我々は一人一人自分自身のOSを構築して生きている。従って、一見同じに見える人間が全く異なるOSを積んでいても、それはごく普通のことなのだ。
そういう、OSの設計思想から異なる人間は普通に身近に存在するにも関わらず、日々の生活の中では互いにその「出力」しか見ていない以上そのことに気づくのは難しい。「数学」というのは、完全に定義された一つのOSを巧みに操作する方法を学ぶことだと思う。それは確かに高パフォーマンスをあげることが可能な世界だが、そこで学ぶことができるのは「一つの」OS思想でしかない。もちろん数学史上色々なパラダイムが時代時代に存在したことは知っているが、しかし「互いに通じない言葉」を用いていたら、それは数学ではないだろう。その意味では数学は「一つの言葉」しか用いていない。一方「文学」の世界には、先に述べた理由で無限のOSがあり、つまり無限の設計思想がある。たとえばオレが過去に感銘を受けた詩や小説の書き手は、オレに「(同じこの)世界をこんな風に見ている人間がいたのか」という衝撃を与えてくれた。それは自分自身のOSをくみ上げていく上で、また後々他者を理解する際におおいに参考になった。たとえば宮澤賢治の詩を読んでいたことが「共感覚」に対する理解を助けてくれたりした。
一方また、「言葉」を限界まで使いこなす実験を行ってきたのも文学の領域の仕事だ。論説文は名詞に、小説は形容詞に、そして俳句や短歌は助動詞や助詞にどこまで意味を盛り込めるかの実験だと考えてみても良い。「もしフランス語に『郷愁』にあたる言葉があれば、プルーストが「失われた時をもとめて」を書くことは無かっただろう」という話があるが、逆に言えば彼の試みは、自分が持っている言葉では未だ語り得ない何物かに千万の言葉を使って迫ろうとした行為だと言うことができる。それもまた文学の仕事だ。いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。自分が学んだ大学の教授の言葉を借りれば、時代を越えて残る名作の表現というのは「その時代の表現水準に挑戦した言葉」だと言えるからだ。凡百の「娯楽作品」と「芸術」としての言語表現を切り分ける場所があるとすれば、それはこの一点にあると言えるだろう。その意味で、いくつかのラノベ作品なんかは、「時代の表現水準を変化させ」「多くの人々に受け容れられることで後代の表現のスタンダードを為した」という正しい意味で「芸術」だと言っていいと思っているよ。
最後に、「音楽・絵画・スポーツ」の「本物」が清新に与えるインパクトはなるほど大なるものがあることは否定しない。けれど、その「本物」を全国全ての学校の教室に持ち込むコストはどのくらいだろうか? そして、それと「本物の文学」を教室に持ち込むコストを比較してみれば、どうだろう。それでも、国語の授業は非効率的で不要なものと言えるだろうか。
まあ、こうして述べながらも、改めて「国語」の授業に期待されているものの大きさと現実との差違には打ちのめされるような気持ちではある。まだまだ、増田が触れていた「情報伝達」に関わる話とかしたいところなのだが、時間がないのでとりあえずここまで。
じゃまた。
ジョブ名 | アビリティ | 特徴 |
---|---|---|
アンテナー | しゅうしゅう | 常にアンテナを張って情報を収集する能力に長けたジョブ |
ブックマーカー | ぶくま | 情報を蓄積する能力に優れたジョブ |
コメンテーター | こめんと | 個人の意見を発することを生き甲斐とするジョブ |
ディスラー | ばとう | 負のエネルギーをぶつけて戦うジョブ |
エロ | えろがぞう | 裸の写真を他人に見せつけることで男性を味方にするジョブ |
ファイター | たたかう | キーワード編集合戦、けんかバトル等幅広い場で活躍するジョブ |
ゴリブー | へんたい | 変態に変身することにより他人の興味をひくジョブ |
ヒモテ | ひもて | 自らを非モテと告知することにより同類からの同情を集めるジョブ |
イイヨメ | けさきがきゅう | 魅力的な嫁として意味もなく愛されるジョブ |
ジェイコン | いのる | はてなサービスの向上のため神に祈りをささげるジョブ |
ココロシャ | じばく | 自らの身体を犠牲に笑いを誘うジョブ |
ライフハッカー | かっこわらい | ライフハックを披露することによりパーティのやる気を向上させるジョブ |
マスダ | かくれる | 誰にも素性を明かさず生きているジョブ |
ネクラ | ねがこめ | 陰口を叩くことを生業としているジョブ |
オナニスト | じこまんぞく | 自分のみ満足する記事を書き体力を回復する能力を持つジョブ |
ペイヤー | ぜになげ | 財力を武器に他人にポイントを投げまくるジョブ |
クエッショナー | じんりき | 質問をすることにより他人の力を引き出すジョブ |
リョウシ | つり | 良質な餌を武器に他人の感情を捜査するジョブ |
スッピン | ---- | はてなーの本来の姿 |
テロリスト | ほしれんだ | 突如として現れ迷惑行為を行うジョブ |
ウタヨミ | はいく | 多種多様な俳句を詠むジョブ |
バキューマー | くうきよめ | 場の流れを吸い取ることのできるジョブ |
ヲチヤ | をち | 安全な後列からでも攻撃の行えるジョブ |
クロスサイトスクリプター | こーど | 他人の脆弱性を狙って攻撃を行えるジョブ |
ユーチューバー | ようつべ | 面白い動画の発掘を行うジョブ |
ゾンビ | たちなおり | 何度炎上してもしつこく復活するジョブ |
俳句ってそんなにつくものなの?はてだの方がつきやすくね?
どっちでもいいような気はするな。
「ゴシックとはけしからん!草書体にしろ!」みたいな。
昔の日本は一行の横書きの場合、右から左へ書いていたみたいだから、
音の池 む込び飛ずわか や池古
縦書きが横書きに変わった程度で、俳句の評価が「何やらちょろちょろしょぼしょぼ、尿路障害症患者のおしっこのようになってしまったではないか」くらい変わるような俳句は所詮その程度ってことにはいきませんかねぇ。いや実際9割がた落ちるとかどんだけー。
面白い記事を見つけました。
雑誌『俳句』平成18年二月号の「「インターネットの功罪」という記事です。
この記事はインターネットは俳句に対しどのような功罪(といいつつ悪いことばかり挙げてあったけど)をもたらしたかという事に関して書いてあって、
その中で目をひいたのは、「横書き俳句は何が問題か」という論題でした。
執筆者の福永さんは、現在のインターネット掲載されている俳句のほとんどが横書きであることを批判し、俳句というのはいかに縦書きが大事だということを指摘していました。
例えばこんな例。
瀧
の
上
に
水
現
れ
て
落
後 ち
籐 に
夜 け
半 り
という詩は横書きにすると、「句の力は九割方落ちる」とし
瀧の上に水現れて落ちにけり
この横書きの句を「何やらちょろちょろしょぼしょぼ、尿路障害症患者のおしっこのようになってしまったではないか」と評しています。
また、
愛
さ
れ
ず
し
て
沖
の
遠
く
に
藤 泳
田 ぐ
湘 な
子 り
という句は横書きにすると、
愛されずして沖の遠くに泳ぐなり
「大広間の畳の上での水練か身悶えかと思える」と評しています。
う??んどうだろうね。前者は確かにそうかも知れないけど、後者の句は人によっては横書きの方がよいという人がいるんじゃないかな。
ただ少なくとも、既存の俳句の中から横書きになると情緒を損なう句の例を意図的に取りだし、さも俳句全体に悪影響を及ぼすという風に論じるのはせこいなぁと思う。
なんか初めから結論ありきみたいで。
逆に、横書きにすればかえって、面白くなる句もあるんじゃないかな。
残念ながら句に関して守備範囲外の僕は、具体的な例を挙げることは出来ないけど、
短歌だったら、
海知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
これなんかは横書きにする方が詩感が表現できている気がするのは僕だけか?
でも是非はさておき、このような問題提起をすること自体はとても大事だと思う。
よしもとばなな先生は『Voice』(平成十九年三月)で「縦になるか横になるかぐらいで私の文章を変わらない」と頼もしいことをおっしゃっているけれども、
今後、縦か横か論争は、もっともっと深刻な形で議論されるようになるはず。
とりあえず漢字やひらがな、カタカナは縦書きが基本だから、横にすると読みづらいのは確か。
でもこれももっと若い世代は違和感がなくなるのかな。
他人に何かしてもらうより、自分が何かをしたほうがよっぽど簡単で確実だと思うんだけどニャー。
はてブユーザーたちが「白痴」だったら、何を言っても理解されないだろうしニャー。
つまらないことしか書けないくせに、何が大喜利だ。俺がお前のIDを今、初めて知ったことが、お前のつまらなさを証明している。
ってことかニャ? それだと大前提は「俺がIDを知らなかったユーザーはつまらない」にニャるけど、この大前提自体どうなのかニャー。「おもしろい」とか「つまらない」とかは主観的で、一つに決められるものでもニャいと思うけどニャー。
確かに証拠があるわけじゃニャいけど、違うなら「違う」ってはっきり言えばいいニャー。ムキになればなるほど「図星だなww」って笑われちゃうニャー。何しろはてブユーザーは「白痴」ですからニャー。
はあ?お前馬鹿か?本気で言ってるのか?100文字で、適切な指摘なんかできる訳ないだろ。お前馬鹿だろ。常識で考えろ。お前らのやってることは、単なる放言であり愚痴であり、便所の落書きなんだよ。俳句・短歌・ゲームは芸術表現だけど、コメントは言論だろ。全然違うだろ。アホすぎる。
はてブユーザーに「常識」を求めるのかニャ?(「白痴」ニャんでしょ?)それにequinox79さんのコメントの何処に「100文字で適切な指摘はできる」って書いてあるのかニャ? それに「コメントは言論だ」って誰が決めたのかニャ?
「政治的立場を確保する」って意味がわからニャいんだけど……まあオレも「白痴」だから仕方ニャいニャー。考えるの面倒ニャー(って考えるのやめてる人に「バカ」って言うのは簡単だけど、ちゃんと考えてもらうには工夫と努力が必要ニャのさ)
お前らが言論を潰すから、仕方なく匿名でやってるんだよ。気付けよ。
名前出してブログやっててもネガティヴコメントつかない人もいれば、つきまくってても気にしニャいで続けてる厚顔無恥の人(失礼)もいるニャー。そういう人たちと元増田とで何が違うのか考えてみたらいいんじゃニャいかニャー(「俺に考えさせるな」って? 自分で考えニャいのは「白痴」じゃニャいかニャ?)
kathewkaさんは2007年3月3日に最初のブックマークをつけてるにゃ(最近はてダも始めたみたいニャ)半年以上同じ名前で発言を続けているのに「匿名と一緒」なんて言えるのかニャ?
ゴミのくせに喋るな。
「webなんてもともと汚れてる。ゴミだらけ」とask11さんは書いたけど、そこからどうやって「ask11さんはゴミである」が導けるのかニャ? 「webに何か書く奴はみんなゴミである」というアサンプションがあるのかもしれニャいけど、それだと元増田もゴミにニャっちゃうニャー。
本当に、こういう表面しか理解できない奴が多いのな。俺の元記事が本質を掴んでるからこそ、注目されたんだろ。文体なんて飾りですよ。
トラックバック15件もらってたけど、「テンプレ」とか「ネタ」とか言われたり、全然関係ない議論ばっかりニャー。それに、人が注目するのは本質に限らニャい。オレたち「白痴」だから、どうでもいいところにばっか注目してるかもしれニャいよ。
応援はありがたいけど、ところで、元増田の言いたいことはちゃんと理解されてるかニャ?「理解されてない」んだったら、元増田も「理解しやすいブログ」を書く練習をするといいニャー。甘えは禁物ニャんだよね?
こんな自明なことを、いちいち俺に書かせるな。白痴どもが。
お疲れ様ですニャ! そして全レスしたオレもご苦労様ニャ。まあオレのご主人がレスもらえニャかったからってスネて初音ミクばっか聞いてるからオレが代わりに書いてやっただけニャー。あー、やるせねーニャー。
さて、サブジェクトで大体の内容をお察しの方もいるだろうが、ひとまず最近の話題を、ある意図を持って並べてみる。
同社は今回、JASRACが24日に発表した「動画投稿(共有)サービスにおける利用許諾条件」について、仮許諾を得ることで同意。著作権保護の取り組みを加速させている。
創作者が二次創作をおおっぴらに認めないのは著作権とか法律とかその辺の整理や線引きがめちゃくちゃ面倒だからというのが大きくて、心情的にはむしろ二次創作を奨励したいか、少なくとも気にしないという人は結構いることと思います。
誰かがリーダーシップを発揮してまとめていった創作活動でもなければ*8、明確な目標があったわけでもないのに、これだけの創作活動が行われたことには純粋に感動できる。
(今回は素晴らしい作品ができたかどうかは問題にしない。製作者のモチベーションやアイディアの連鎖反応とも言うべき現象を目の当たりにできた喜びである。)
ただ人々が自分の作品にクリエイィブ・コモンズ・ライセンスをつけていても、何かしらのコミュニティがなければ、「オープンソース文化」は育たないのではないか、という意見です。
著作権は大変だな。
あれ、使われても栗コーダーさんには1円も入ってないです。使ってるのを発見して、こちらから申告すればお金くれるらしいですけど。
著作権はむずかしいな。
いよいよ動画サイトにも、○スラック直々の魔の手が迫ってきた昨今。
ニコニコ動画組曲だったり、らき☆すたのOP曲演奏のセッションだったり。
「先行者」などがもてはやされていた時代より、くっきりと「作品」としての体裁をもった共同作業が増えてきたように思う。
共同作業じゃなくても、YouTubeには個人で多くの才能を「無駄遣い」している人たち。
だが、悔しい哉、現在の法の下ではイリーガルと見なされかねない。そもそも法律の解釈は不透明。
なんらかの規制はいつか始まるし、Yahoo!と件の団体の動きは、その一歩になるかもしれない。
以前から、著作物にもナショナルトラストのような活動が必要だ、と思っていた。
既にCreative Commonsなんかはあるけど、何かが足りなかった。
グーテンベルクのおかげで人が手に入れたモノは大きかったけど。
その大きさを支えるために成長したシステムが、今、新しい創作の可能性を妨げている。
みんなの嗜好が多様化した現代で、CDや電波のテレビなど、単なる大量生産ではニーズを満たせない。
じゃあ、一つの権利を種に今までと同じだけの利益をあげるには、どうするか。
答えは、一つの権利を種に、より多くの商品を作ること。
もちろん、キャラクターのグッズは昔からあったし、今やメディアミックス戦略は当たり前。
じゃあ、商売人にとって次に目がいくのは、2次創作からもお金を取ることかもしれない。
ただし、大きな問題がある。
この段階では放送やCDなど、大量生産・大量配信のためのシステムはおいてけぼりになる。
これから必要とされるのは、オンデマンドで小規模な需要に応えられる、限りなく無駄が少ないシステム。
この変化に、取り残され始めている企業もある。
華原朋美やモーニング娘。が泣いているのも、その逃しかもしれない。
たぶん、権利を管理している組織は、抜け駆けをする。
たとえCDが1曲1枚しか売れなくなっても、そこから100の2次創作が生まれれば利潤を得られるように。
Yahoo!との提携、そんな事を考えながら画策していた人も、例の組織にはいるはず。
でも、多分失敗する。
2次創作を行う人数が増える分、作者の数が増えて、声が大きくなるから。
作者の声が大きくなれば、著作権団体は今までの方法で商売できない。
なにより、今ニコニコ動画で作品を発表している人たちは、観客と直接コミュニケーションを取っている。
オリコン一位のアーティストさえが、ブログで不満を漏らすようになる。
観客は自分達の支払いのうち何割が作者に渡っているかを知り、システムの不透明さと無駄の多さを知る。
作者と観客が、より多くの良質な作品が生まれ、お互いに幸せになる方法を考え始めたら、間にいる人たちの仕事は確実に変わる。
その時が早く来るように、ニコニコ動画には頑張ってほしい。
同時に、何ができるのか考えたい。
必要なのはコミュニティか、それとも力の後ろ盾か。
自然保護のために活動するナショナルトラストのように、著作権のためのコミュニティが、今なら作れるはず。
※一応注記。
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 2nd G.I.G. 第9話のパロディです。
草薙と合田一人のシーンと見比べながらどうぞ。動画とかはムリ。
「もってけ!セーラーふく」こそ日本音楽史上の事件である。
従来の日本のラップは構造をそのまま輸入したものだった。
それは高低アクセント、モーラ拍のリズムによる詩(短歌、俳句)、
モノフォニー的詠歌の日本語とは本来相容れない。
さらに日本のポップスは西洋的な歌唱法(「伸びやかな」発生)を模倣したものだった。
これも日本語の唄とは相いれない。
冒頭ラップはF7に固定だが、メロディラインは日本語の高低アクセントに委ねられている点
そして、これが重要だが、英語的な強勢アクセントを人工的につけてはいない点だ。
しかもサビは一転してコード進行による和音が支配していると思いきや、
ここで高低アクセントと合っているため「西洋的な歌声」を無理に出す必要がないのだ。
だからラップと同じ語るような歌声でサビを歌えるようになっている
さらにさらに、ラップとサビが日本語の構造と合っているため、
中間部分のアドリブの「語り」が、何の違和感もなくハマっている。
という三者が音楽的に統一されているところが天才的。
「dance2」にインスパイアされて作られた「もってけ!セーラー服」だが、
その間の音楽理論的飛躍は凄まじいものがある。
ちなみに従来のラップ(英語的構造を日本語に流し込んだだけのラップ)だと、
「もってけ!セーラーふく」のラップこそ真に日本語的なラップであろう。
F7コード固定で英語臭い強勢アクセントもなしに高速ラップが可能になった。
いやむしろ、「だからこそ」高速ラップが可能になったといえよう
これがこの曲が革命的な曲になっている理由である。