はてなキーワード: 上方とは
2400億ドルが中国を脱出、香港では5キャラ、6キャラの宝石がブーム
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華北の小麦地帯を襲っている冷害、大雪。作物に悪影響がでている。
同様に不気味な現象は中国からの大規模な資金逃亡。NYタイムズが「08年第四四半期、広義に中国ら流失した資金は2400億ドルであり、投資家が将来の中国の安定に不安を抱いたのが主因」と報じた(『多維新聞網』、2月6日付けより重引)。
歴史的に見ても金持ちの海外逃避、とくに資産を海外へ移転させるのは中国の伝統であり、とくに驚くには値しない。
蒋介石独裁時代に孔家などが経営した銀行から、当時の外貨で300億ドルが米国へ逃げ出していた。だから蒋介石の発行した通貨はまるで信任を得られなかった。
過去十年間は中国経済のブームに便乗して、不動産、株式そして人民元に投機資金がうなりを上げて投入されてきた。これは賄賂など不正な収入を香港経由でバミューダのタックスヘブンに送り、中国へ『環流』させる巧妙な手口が廣く用いられ、さらにブームに乗り遅れまいとする在米華僑、亜細亜の華僑からのカネが勢いをつけて中国に流入した。これらを「熱銭」と言った。
その流れが明瞭に逆転したのだ。
上海企業は米国企業の社債を購入するかたちで米国へ資金を流し出している。
香港の金持ちではなく、大陸から人民元を大量に抱え込んだ『買い物客』が香港の宝飾店を訪れ「一番高いやつ」「一番大きな宝石」「高そうな色石」を狙う。5キャラットの宝石、6伽ラットのイヤリングなど、飛ぶように売れると香港最大の宝石店チェーン「景福宝飾店」。
合法的にドル換金ができないカネはそうやって換物投機される。
人民日報(2月6日付け)によれば、馬建堂・国家統計局長は「中国の統計データは正確であり、そもそも10万人もの職員が日夜、正確なデータを収拾し分析し、修正作業をしている。(07年GDP統計が11・9%から二年後に13%に上方修正されたが)速報値がずれるのは国際的に共通であり、わが統計は信頼に値する」と述べたそうな。
しかし中国銀行の想定でも、1200億ドルから1500億ドルが中国から海外へ流失した可能性がある、と報告しており、ストーン&マッカーシー研究所によれば200億ドルから1400億ドルの流失。
カーボンヒーターお勧め。灯油買わなくていいし、強さも二段階で調節できるものが多いよ。
オイルヒーターは暖かいけど上方向に温風が来ないのが問題なんだよね。その点カーボンヒーターは縦に長くて全身が満遍なく温まる。
オイルヒーターや暖房だと部屋を暖めるって発想なんだけど、暑くなりすぎたり寒くなりすぎたりするのを繰り返すから快適じゃない。
カーボンヒーターは穏やかな熱が直接体に当たってポカポカする感じ。もちろん部屋も暖まるけど、オイルヒーターや暖房ほどじゃない。
最近はどうか知らんのだが
M1グランプリ自体のコンセプトは結構好きだ。シンスケは嫌いだけど。
シンスケは新人の頃に本当に苦労したからもっと新人達に賞金を贈れる場を作りたかった。
よくある「賞金100万円」ってのは実は芸人には入らないらしく、事務所がほとんど持っていくそうな。(噂)
おまけによくある「上方演芸なんたら」みたいなのは例え会場がドッカンドッカン受けても賞をもらえない。
シンスケがぶちぎれてNHK出禁を食らったとか。あれはダウンタウンだっけ。
で、そういう審査をしているのはお笑いをただ「見ているだけ」の素人審査員。局長とか出してきてどーすんねん、と。
まぁ、本来は素人が笑えるかどうかなんだろうけど、それならサンプリングの数を増やさないとダメだよね。
だから、お笑いを昔からやってきている人、現役の人に審査員をしてほしかった。
で、できたのがM1グランプリ。
「単純に面白いやつ」が優勝できるようにした。
審査員に長年お笑いをやってきていて、更に今、テレビで笑いを取れる人を揃えた。
更に賞金の1000万はちゃんとその個人に届くようにした。
M1の賞金を何に使ったかが話題になるのはその為じゃないかな。(これもシンスケの計算かもしれんが)
ただ、去年の感じを見ているとランクが下がってる気がしなくもないな。
2年に1度ぐらいの方が質が上がっていいんじゃないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20081205045304
前のをかいたらBrittyさんが実践編として文法書と辞書を紹介しておられたのをブクマで知った。Collinsは、別の国語を勉強する時に初学用の教材として使ったことがある。見やすくて、なにより非常に実用的で、編集方針としてとても感心した。辞書でグローバルを勧めておられて、コロケーションが豊富とのことに、それをもっと早く教えてくれよと(たまたま別の英和を買ってしまっていたので(笑))。
でも、はてなのブクマのつき方を見ると、かなり初歩というか、諦めが全然足りない人が多すぎる(笑)。僕は外国語学習者としてはもちろん素人で外国語は苦手だけど、いろんな本を自分なりに読んで勉強して、気がついいたら3つ4つ外国語を知っている。そういう人間としてなんか言えそうに思う。
欧米の人が外国語を勉強する時、たいてい小さなメモ帳に単語や表現を書きつけている。これはいい方法だと思う。
ポイントは、いかにも単語帳然としたのじゃなくて、メモ帳を使うこと。というのも、単語や表現というのは、使われる場面や文脈にそって覚えられるべきで、かつそういうふうにしか覚えられない。いかにもな単語帳ノートは、そういうものをきれいに削ぎ落してしまう。メモ帳なら、あとで見なおすと書きつけた時の場面を想起しやすい。
たとえばハックルベリーさんのあの記事(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081111/1226409288)。あれを鵜呑みにしてはいけないのはBrittyさんが指摘された通り。ああいう表現はハックルベリーさんの知人が言うからこそ味があったり面白がられたりするのであって、そのままぱくっても意味がない。
なら、自分なりにお決まり表現を作ってやればいい。時間稼ぎのための一言とか、しょっちゅう口に出てくる便利な表現とか。なんでもいい。自分なりのものを作れば、それが自然に味にもなり面白さにもなるだろう。どんなに初歩でも、言葉を使った瞬間に人柄が反映するものだ。
誤解されたくないのだが、これでも辞書の序文を読んで編者の熱い思いを受け止めるのが好きだ。ただ辞書には使い方がそれぞれあると思う。僕の場合は、まずパッと訳語をみて大体の意味を知るだけで鵜呑みしないことにしている。適当に自分なりに訳語を変えてこんな意味だなと受け取った方が、案外スンナリいく。あと、訳語そのものより、ちょっとした記号とかのほうがはるかに重要な場合がある。どこそこの方言だ、とか。
もちろん、熟語や凝った言い回しなどなど、ちゃんと探さなきゃいけない時は辞書をちゃんと読む。でも学者や難しい仕事ならともかく、普通に読んだり会話したりする分には、辞書はだいたいの意味しか教えてくれないものと割り切った方がいい。
上のと関連するが、共通語をつかうより、自分の方言で考えた方が外国語は理解しやすい。
身内にロンドンに長いこといて英語が完璧な人間がいる。この人が物語るとイギリス人の言ったことが全部方言になってしまう。コックニーだからというより、直訳ではない、こんなことを言いたいのだという感じまで伝えようとすると方言に変換されてしまうらしい。
指揮者の佐渡裕と朝比奈隆の対談で、佐渡いわく、オーケストラの練習で自分のイメージと違う音楽が出てきた時、外国ではオケにNO、NO!!と言えばいいが、日本語にいい言葉がないと嘆いたのに対し、江戸ッ子の朝比奈翁は、君は京都の人なんだから、上方言葉で、ちゃうちゃうってのでいいじゃないかと答えていた。
ヨーロッパ諸国語に関する限り、日本人は非常に有利。なによりラテン語のようにして勉強した英文法は、結構どの国の言葉にも応用ができる。しばらく英語から離れてみて、そして再び舞い戻った時、意外に語彙が増えていて理解が深まっているもので、これを活用しない手はない。
ヨーロッパの人がヨーロッパの言葉を勉強するのは、もちろん有利でもあるが同時に不利がある。というのも、似すぎていて混乱することが非常に多い。ヨーロッパのある語学学校の若い女の先生が、ねえ、受動態を理解してくれないのと泣きそうな顔をしていた。え、だって英語と一緒じゃないの?難しくないよというと、そりゃあんただけで普通はそうじゃないと返された。欧米人のレベルだってこんなものなのだ。
ただ、これには副作用があって、別の言葉を勉強している間、英語が出てこなくなる。たとえばドイツ語を勉強していると、1965年とパッと出されてもドイツ語は出てくるが英語が出てこない。ナインティーン、えーえーえー、フンダート(がっくり)という経験は誰でもあって、それは頭が悪いからではなく、ごくごく普通の現象だ。だけど、こんな副作用をこえる効果があるのだから、英語にこだわり過ぎるのも考えもの。
たしかモンテーニュだったかな。彼はラテン語の英才教育を受けていたが、にもかかわらずラテン語を読んで分からない部分にぶつかると、五分考えて分からなければ諦めて前に進むと随想録にあったと思う。この男前な潔さを見習いたい。所詮僕は外国人で、外国人として英語なりなんなりを使わざるを得ない。どんなに勉強したって限界はある。それに目的だって人それぞれ。ダメなものはダメと潔く諦める姿勢は、ときに必要だ。
ただそれでも、外国語をやる以上、それなりの好奇心あり、また向上心もあるわけだ。Kamikazeは自爆テロを意味するものとして日常語になっている国がある。戦争もテロもいけないが、外国語では人は死なない。敢闘精神と勇気を持って敵陣に突っ込み派手に自爆する心意気こそ、外国語学習の醍醐味だろう。
諦めつつ、大和魂をもって無限に突撃を繰り返しながら、最後は気長に成長を待たなければならない。それにはユーモアが必要だ。退屈な文法も、伝えたいことが伝わらないイライラも、ユーモア一つで救われる。日本人は静かでまじめとむやみに思われている。これはよくない。もちろんふざけたりおちゃらけたりすることはないが、真剣に冗談をいえばなんともいえないユーモアとなって、なんか知らないが笑えあえる。外国語学習の究極の秘訣は、実は笑いにあるのではないか。
(番外編)
何が正しくて何が間違いかってのは、僕らが日本語を使う時と同じように、外国語でも最終的にはあまり重要な問題でないんじゃないか。というかそんなことに臆していてはいけない。向こうの人だって外国語となれば、良くいえばそれぞれに特徴的な、悪くいえばてんでバラバラ無茶苦茶でも、健気にこなしている。だいたい方言のことまで考えたら、発音一つとったって基準がない。天才バカボンは偉かった。これでいいのだ。
あと男性諸氏は女とポルノは絶対に活用すべきだ。たとえ初学者でも、ポルノ小説だけは不思議に読めてしまう、これが。もちろん細かい部分や動詞の変化などは全く分からないが、それでも、ああこれはこーなってああなって、へへえ、と進んでいるうちに(もちろんまじめに文法も勉強しながら)、結構なじめてしまった自分がいたりする。
年寄りの昔話では、旧制高校時代から伝承されたというボロボロのエロ小説を回し読みし、それで英語の妙な表現や口語まで覚えたそうな。つまらない言い回しをネットでぱくるくらいなら、こういう努力の方を真似したい。
「一般的な地図ではたしかに地図の「上方向」を北として描いてあるけど、それをそのまま、
「上」と表現するのはすごいバカっぽくて許せない。」
彼女と地図を見ながら話していたら、北、南のことを、上、下と言ってた。
「東京の上は・・・・」
「本島の下のほうに・・・」(←しかも「本州」と間違ってるし。。)
すごく違和感を感じて、
「一般的な地図ではたしかに地図の「上方向」を北として描いてあるけど、それをそのまま、
「上」と表現するのはすごいバカっぽくて許せない。」
てな事を言ったら、キレられて、喧嘩になった。
方位は、自分がどっちに向いていても決まっている絶対的なもので、
上下左右は自分が基準の、相対的なものでしょ?
これを混ぜて表現するのが、許せない。
絆創膏のことをどのメーカーのでも「バンドエイド」って言っちゃったり、
そいうのと似たバカっぽさを感じてしまうんだよなぁ。
これってどうなの?自分が偏狭すぎるだけなんだろうか?
梅田もっちーとダンコーガイの自己啓発(笑)の両巨頭が紹介した本には無批判に絶賛がつくといういつもの流れ。はてな村民がいかに自分の頭で考えない人間かよくわかるね。ちょっと前には、英語嫌いの益川先生が歴史に名を残す研究をしたという話が流れたばっかりなのに、すぐ忘れてしまってるんだから。
ま、そんなことはともかくとして、言語学を新書レベルに読みかじった経験があれば、この両氏の書評と著者のインタビューを読んだだけで、モチヲや弾のお勧めを期待してこの本を読めば期待はずれに終わることがよくわかる。誤解なきよう、私は「日本語が亡びるとき」が面白くない本だとは思わない。何しろ相手は小説家、本当のことであろうが嘘のことであろうが面白く書いて読み手に深い印象を与えるプロなのだから、それは期待してもよい。ただし、著者に言語学のバックグラウンドがない時点で、論としての面白さを期待するのは諦めるべきだ。SFとして面白いものが科学理論としてよくできているわけではないのと同様、純文学作家の言語論に学術的レベルを期待するのは酷というものだ。もともとそういうものなのだから、モチヲや弾のようにあの本を絶賛する人というのは、アジテーターとしての自分を売り込みたいだけか、アフィリエイトで稼ぎたいだけか、あるいはまともな議論とトンデモの区別が付かない程度の知的素養しかないか、そのどれかだろうと思ってしまうのは私だけか(そういえば一部のはてな界隈で人気な「温暖化懐疑論」の論者に気象学者が一人もいないのはどういうことなんだろうね?)。
そもそも、著者が言うような意味で日本語が亡びるというのが先走りにすぎるのは英語の歴史自体が証明している。英語がどうして、同じゲルマン語のドイツ語よりも、ロマンス語のフランス語に見た目が似ているかと気になったことはないだろうか。あれはノルマン・コンクエストの帰結である。英語は文化的外圧に曝されるどころか外敵に征服され、日本語と同じかそれ以上に外来語に「汚染」された言語なのだ。しかしその伝統からシェイクスピアをはじめとする華麗な英文学の伝統が花開いた。
日本語も、実際に「地域語」であり、現代と比べものにならない外圧に曝された時代があった。飛鳥・奈良時代や、明治維新期などはそれぞれ強大な帝国の圧倒的な文化力・軍事力の前に日本は存亡の危機に瀕していた。しかしそれらの時代に外の文化を大きく導入したことで、逆に日本語の文化は大きく栄えた。
単なる「国力」だけで、言語が「地域語」に堕し、その結果衰退するなどというのが俗論にすぎないことがよくわかるだろう。
そもそも、「日本語が亡びる」という問題意識自体、日本列島の言語を「日本語」という名で無自覚にひとくくりにしてしまうことの問題が現れている。アイヌ語や琉球語を考えてみるがよい。これらを「方言」と呼ぶのは無理があるだろう。しかしながら「日本語」の隆盛のもと、これらの言語文化は危機に瀕している。
いや、言い直す。そもそも何を「方言」とよび何を「国語」「標準語」と呼ぶかは政治的な産物でしかない。ポルトガル語やオランダ語は、かつてはスペイン語やドイツ語の一方言でしかなかった。デンマークでは読み書きができる知識人はドイツ語やフランス語を使っていて、アンデルセンやキルケゴールが現れる前の「デンマーク語」は「汚い方言」でしかなかった。
その意味で、日本の文化を見直してみるとよい。「遠野物語」のような地域の民話を語れるのは一部の語り部に過ぎないのではないか?いや、かつて日本の「中央」を荷った「上方文化」でさえ、衰退が甚だしい。関西弁はラジオ・テレビの成立以降、急速に流入した「標準語」の影響によって激しく変質し、江戸時代後期から明治時代にかけて成立した上方落語でさえ、若者や子供のかなり多くはまともに聴き取りができない。上方落語が日本の言語文化の貴重な財産であることは誰も否定しまいが、これを日本人は自ら衰退に追い込んでいるのである。人間国宝の米朝師匠が事実上現役を退いた今、その前途ははなはだ暗い。
あるいは地域的な変化でなく時間的な変化を見てみるとよい。能は勿論、狂言や歌舞伎でさえまともに聴き取れない日本人がどれほどいるか。源氏物語はおろか、明治期の擬古文でさえ現代語訳なしで読めない日本人がどれほどいるか。いやそればかりか、旧字体・旧仮名遣いの文章ですらろくに読めない人間とて決して珍しくあるまい。
このようなことになったのも、一つには近代化の推進のため我々が明治期と戦後に「国語」の成立と普及を強引に推進したせいだというと言い過ぎだろうか。世界に誇る日本文学などと言うが、我々が現代「日本語」を通じて享受できる文化遺産など、たかだか百年分ぐらいしかないのである。
というか、元々これはそういうものなのである。「国語」という概念は「近代国家」が政治的に成立させるものだ。「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本があるが、これによると実際、江戸時代では各地の方言を通訳する商売が成立していたという。あるいはフランスでは近代化以前、知識人はもっぱらラテン語で読み書きをしており、フランス語は単なる「俗ラテン語」のなれの果てでしかなかった。日本ではもっとひどく、仮名文字さえ実は統一されていなかった。変体仮名というのを聞いたことがあるだろうか。うなぎ屋の看板などで今もその名残を見ることができる。これらがきちんとした正書法と文法を揃えたのは疑いもなく時の権力の政治的な措置なのだ。
それを思えば、「今の」日本語がどういう形であれ変容するのは当然であり、むしろ「近代国家」という枠組みが溶解しかかっている(EUを見ればそれは明らかだろう)現在、無理に「国語」を防衛しようとする思想はまさに時代遅れのナショナリズム、保守反動でしかないとさえ言えるのだ。
からかい半分で書き始めた文章につい力がこもってしまったが、いずれにせよ、「守るべき国語」というのはかくのごとく、大いなる虚構だ。関西人である私がこのように完璧な「標準語」で読み書きができるように、北欧あたりではテレビを通じて完璧な英語を多くの人が身につけている。だがそれがいったいなんであろうか。言語の遣い手としては、一つの言語しか使えないよりも複数の言語が使えた方が楽しいに決まっている。考えてみれば、何の問題もないのではないか。
仮にそうした時代になろうとも、日本語でしか書けないような優れた文学作品があるのならば、日本語が読める人は必ずや読むであろう。日本語でなくても書けるものは、日本語で読む必要はない。そうなって困るのはいったい誰なのだろうか。「普遍語」を寡占してグローバリズムの伝道を行うことで糧を得ていた人、昔日の栄光に浸る老人、それぐらいしか私には思いつかないのだが。
b:id:Nean えっと、だいたいの論旨に異議はないんだけれど、水村は「国語」が「虚構」ということを知った上で書いてるってのがいつの間にか飛んでるんでない? 「国力」の論点も変ですぜぃ。
水村は「国語」の虚構性を半分ぐらいしか理解していなかったと私は思います。たとえばここで挙げたような方言の視点はほとんどなかったのではないでしょうか。水村は東京生まれということなのでおそらく気づかなかったのでしょう。私のような方言話者にしてみれば「母語が『現地語』でしかない状況」なんて「なにをいまさら」でしかない、というのがこの記事を書いた大きな動機の一つでもあります。
「国力」についてはその辺の地方人バイアスが入っているかもしれませんが、正直あまり自覚はできていません。
アスリートを対象に失神するほど笑ったのはあれが初めてだったかもしれない。長渕剛が暴走していたアレのことです。2008年のプロ野球珍プレー・ナンバーワンは間違いなく清原の引退セレモニーだ。
僕はどっちかと言うとデリカシーというものを大事にする方だが、あんなもん笑うなという方が無理だ。突っ立ってるだけの清原の周囲をぐるり徘徊しながら熱唱する長渕剛、このカメラワークがおかしくておかしくて仕方が無かった。軽い挨拶程度で流されると思っていた「とんぼ」が、フルコーラスだとわかった瞬間も僕の呼吸困難に追い討ちをかけた。ネット上での感想を読んでいても僕と同じような印象を受けた人は結構居て、「引退セレモニーですら笑いを取ることが出来る清原はさすが上方出身だけある」みたいな皮肉も沢山見受けられた。
あのセレモニーで爆笑した人と、本気で感動した人との違いはまんま、世代の違いだと言えると思います。KK時代の直接世代でない人たちから見れば、あそこは笑うしかない。悪気が無くても笑うしかない。そういう構図だ。
でも笑いから覚め、落ち着いて考えているうちに、プロの世界はやはり非情で厳しいものなのだなぁということが理解できてきた。笑ってはいけなかったのではないかとじくじたる思いにもかられたのです。
僕が小~中学時代の頃、西武ライオンズファンだったので当然清原も大好きな選手の一人であった(特別熱を上げていたのは郭(泰源)と秋山だったが)。あれほど好きだった清原がああいう形でしか選手活動に終止符を打てなかったというのは、考え方によっては実に残酷な話ではないですか。
個人的な印象では巨人移籍以降の清原は全然パッとせず、とても巨額の投資に見合うだけの働きはしていない。巨人もオリックスも実は最初から戦力としての清原には興味が無かったのではないかと思ってる。ショービジネスなのだから、何も球団への貢献方法は、ホームランを打ったり三振を取ることだけではないはずだ。経済効果が見込めれば賞味期限の切れたヘタレだって獲るのだろう。それはそれで利口だけれども、清原獲得への投資が、氏のタレントとしての存在価値でペイするしか無いというのは、本人にとってはある意味屈辱的なのではないかと思います。
なんせ、「打ったら拝まれる。三振したらどやされる」という、選手としての結果主義を説いていた当の清原だけに、あのフィナーレは耐え難いものがあったのではないか。そんな気がする。
あと、別の理由として考えられるのが、清原が本気で試合で活躍すると信じて獲得した人々の存在だ。僕は球団運営について何も知らないので想像だけど、仮にも一法人がバカ高い買い物をするのだから、数多くの幹部の同意が必要だろう。おそらく書類につかれたハンコの数も一つや二つではないはずだ。そんな彼らが手がけた獲得劇である。「獲得は失敗だった」という口ざまだけは避けなければいけない。片岡篤史もそうなんだけど、つまりどんなに期待はずれに終わった元・超大物打者でも、「獲得は成功だった」と周囲に印象付けなければ困る人たちが、あのような滑稽なフィナーレを演出したのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。
ファンにも同じことが云えます。自分の青春時代、球界で華やかに活躍していた清原が、往年すっかり落ちぶれたことを認めたくは無いのでしょう。華やかだった青春時代から一転して、パッとしない日々を送る今の自分と清原とがオーバーラップするのではないでしょうか。でも、それでは駄目です。本当のファンならば選手の衰えという現実をしっかりと直視して、それでも尚愛し続ける勇気を持たないと。
今の10~20代なら松坂やダルビッシュといった選手の大ファンという人も多いだろう。だけど、いつかは彼らにも衰えが来ます。打てなくなり、あるいは被弾し情けなくベンチに下がることが多くなるでしょう。そのとき、彼らのみじめな姿をちゃんと見ていてあげてください。世間から注目されなくなり、ひっそりと球界から去っていく彼らを、ファンだけは最後まで見守ってあげるべきなのです。
偽りの労い、偽りの賛歌に彩られた引退セレモニーに声援を贈るような、そんな残酷な仕打ちだけは避けなければいけない。清原和博のような犠牲者をこれ以上増やすべきではないのだ。
("物書きの才能があるのかしら")
材料が揃っているか確認する。量は適当で構わない。
なにはともあれ、大き目の鍋にお湯を沸かす。
お湯には塩をひとつかみ、これでもかというくらい入れておく。
お湯はぐらぐらと沸かすこと。なるべく大量のお湯を沸かし、
塩の量は遠慮しないことがパスタをうまく茹でるコツである。
冷えたフライパンにオリーブオイル、にんにく・鷹の爪を入れ弱火で炒める。
焦らずオリーブオイルに、香りをじっくりと移す。
オリーブオイルが熱くなってきて、にんにくがじわじわと泡を出し始めたらパスタを茹で始める。
パスタは後からフライパンで炒めることを考えて、アルデンテ一歩手前ぐらいになるように茹でるのがよい。
にんにくは焦がしすぎると苦い味がでてしまうのでタイミングが大事である。
パスタをフライパンに投入したらパスタの茹で汁を大さじ5杯とパセリのみじん切りをいれてかき混ぜる。
味がものたりないときは、ブラックペッパーや塩を足す。
冷めないうちに急いで皿に盛り付ける。
いただきますを言おうとすると、急に何もかも嫌になり、皿を窓の外へ放り投げる。
落下途中に皿からパスタがはみ出ると美しくない。
皿が割れる音が響いたら、ガスレンジから茹で汁が入った鍋を窓際まで運ぶ。
階下を歩く人人が驚いて見上げる視線を充分に受けとめてから、鍋を投げ捨てる。
この時、目を見開いて奇声を上げると効果的である。
フライパンは柄を持ってスナップを効かせながら斜め上方30度へくるくると回転させるように投げ上げる。
フライパンが放物線を描いて頂点から落下し始める前に調理台へ戻る。
かつて死刑囚・松本智津夫は、麻原彰晃と呼ばれ崇められていた頃にこういうセリフを吐いたことがある。
「私に対する疑念、それを煩悩と言う!」
京都移転を表明した jkondo こと近藤はてな社長、および彼を支持してやまない者たちは、まさに松本が主宰していた「オウム真理教」のごとく行動しているように見える。
jkondo および umedamochio が嬉々としながら行ったはてなのアメリカ進出が仮に失敗だったとしても、誰もそれを責めるつもりはない。いやもし誰か責めたいという者がいるのであれば、今やアナクロニスティックな「日経ビジネス」の「敗軍の将 兵を語る」あたりで愚痴を開陳してもらえばよい。
ところが、経営的視点から jkondo およびはてなの行動を批判する者は、はてな真理教の教義に反するとして信者から叩かれるという構図が一部作られつつある。そして信者の勢力が拡大するなら、はてなを支持しながらも臆せず批判を行う層は「ポア」の憂き目に遭うかもしれないというところまで来ている。
はてなの経営に関する議論は、言論の自由という基本的人権レベルのレイヤよりもはるかに上方、メタなところで語られるべきものだ。そこでは、現代の企業あるいはベンチャー経営に必要な新旧のノウハウの全てをもってして議論が尽くされるべきである。ましてやはてなの利益を享受しているユーザであればなおのことだ。ユーザの批判は許さないというのは、まさにユーザを「ポア」する行為だ。
はてなが、何らかの経営におけるパラダイムシフトを成し遂げようとしているのであれば、それ相応の成果ないしは途中経過を見せて欲しい。Google の創業者であるセルゲイとラリーは、最重要のステークホルダーである株主の意見すら遮りつつ「俺たちに任せておけば心配ない」と言い放った。jkondo はそこまで言えるか?否、である。皆 jkondo が心配で心配でしょうがないのだ。
はてなの将来に期待するからこそ、信者・アンチという単純なくくりの下にアンチを黙殺あるいは「ポア」しようとするのではなく、はてなの持つビジョンを明確に説明してくれることを強く望む。
はてな村という限定されたコミュニティの中で大勢の支持者に取り囲まれている安穏とした状況では、umedamochio の言う「キャズム」を超えるのは永久に不可能だろう。
阪急梅田の駅を出てすぐに僕は母さんからからいいつけられた通り、すぐにタクシーをひろって田岡さんの家へと向かった。田岡さんは母方の遠縁に当る人だった。母さんと田岡さんは親しくしていることもあり、僕も時々会うことがあるのだが、母さんの何に当るかになんてまったく興味がなく、ただ遠縁の親戚としか知らなかった。
大阪に来て田岡さんと会ったのにはちょっとした理由があった。
僕はここへ来る一週間前、ネットの友達と約束をしていたのだ。その約束というのは、"今から10日以内に大阪で落ち合おう、ただし携帯やインターネットは使わずにね。"というちょっと変わったものだった。この友達とは以前からメールやチャットなどでよく馬鹿話をしていた。"いつか会いたいね。"なんて話を時々していたのだが、一週間前の夜は二人ともやけに盛り上がって、いわゆるその場のノリというやつで、そんな約束をしてしまったのだ。今考えれば、ちょっと馬鹿な約束をしてしまったと思いもしたが、携帯やインターネットが当たり前の生活を送ってきた僕にはそんな待ち合わせが新鮮に思えた。
そして会えたら一緒に高野山に行ったり、もし時間に余裕があるなら、伊勢から名古屋へ行こう、と決めていた。しかし、どちらも大阪に詳しくないしお互いどこに住んでいるのかもしらない。当然、到着時刻もわからない。待ち合わせに困った僕は、田岡さんの氏名と住所を友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね?」と友達は念を押した。田岡さんが電話でつかまるかどうか、僕にもわからなかったので、もし電話で連絡が付かなかったら、郵便ポストにでもメッセージを入れておいてくれるように頼んでおいた。
お遊びリバイバル
梅田(うめだ)の停車場(ステーション)を下(お)りるや否(いな)や自分は母からいいつけられた通り、すぐ俥(くるま)を雇(やと)って岡田(おかだ)の家に馳(か)けさせた。岡田は母方の遠縁に当る男であった。自分は彼がはたして母の何に当るかを知らずにただ疎(うと)い親類とばかり覚えていた。
大阪へ下りるとすぐ彼を訪(と)うたのには理由があった。自分はここへ来る一週間前ある友達と約束をして、今から十日以内に阪地(はんち)で落ち合おう、そうしていっしょに高野(こうや)登りをやろう、もし時日(じじつ)が許すなら、伊勢から名古屋へ廻(まわ)ろう、と取りきめた時、どっちも指定すべき場所をもたないので、自分はつい岡田の氏名と住所を自分の友達に告げたのである。
「じゃ大阪へ着き次第、そこへ電話をかければ君のいるかいないかは、すぐ分るんだね」と友達は別れるとき念を押した。岡田が電話をもっているかどうか、そこは自分にもはなはだ危(あや)しかったので、もし電話がなかったら、電信でも郵便でも好(い)いから、すぐ出してくれるように頼んでおいた。
誰か暇な人続き考えて下さいませんか?w
友達は甲州線(こうしゅうせん)で諏訪(すわ)まで行って、それから引返して木曾(きそ)を通った後(あと)、大阪へ出る計画であった。自分は東海道を一息(ひといき)に京都まで来て、そこで四五日用足(ようたし)かたがた逗留(とうりゅう)してから、同じ大阪の地を踏む考えであった。
予定の時日を京都で費(ついや)した自分は、友達の消息(たより)を一刻も早く耳にするため停車場を出ると共に、岡田の家を尋ねなければならなかったのである。けれどもそれはただ自分の便宜(べんぎ)になるだけの、いわば私の都合に過ぎないので、先刻(さっき)云った母のいいつけとはまるで別物であった。母が自分に向って、あちらへ行ったら何より先に岡田を尋ねるようにと、わざわざ荷になるほど大きい鑵入(かんいり)の菓子を、御土産(おみやげ)だよと断(ことわ)って、鞄(かばん)の中へ入れてくれたのは、昔気質(むかしかたぎ)の律儀(りちぎ)からではあるが、その奥にもう一つ実際的の用件を控(ひか)えているからであった。
自分は母と岡田が彼らの系統上どんな幹の先へ岐(わか)れて出た、どんな枝となって、互に関係しているか知らないくらいな人間である。母から依託された用向についても大した期待も興味もなかった。けれども久しぶりに岡田という人物――落ちついて四角な顔をしている、いくら髭(ひげ)を欲しがっても髭の容易に生えない、しかも頭の方がそろそろ薄くなって来そうな、――岡田という人物に会う方の好奇心は多少動いた。岡田は今までに所用で時々出京した。ところが自分はいつもかけ違って会う事ができなかった。したがって強く酒精(アルコール)に染められた彼(かれ)の四角な顔も見る機会を奪われていた。自分は俥(くるま)の上で指を折って勘定して見た。岡田がいなくなったのは、ついこの間のようでも、もう五六年になる。彼の気にしていた頭も、この頃ではだいぶ危険に逼(せま)っているだろうと思って、その地(じ)の透(す)いて見えるところを想像したりなどした。
岡田の髪の毛は想像した通り薄くなっていたが、住居(すまい)は思ったよりもさっぱりした新しい普請(ふしん)であった。
「どうも上方流(かみがたりゅう)で余計な所に高塀(たかべい)なんか築き上(あげ)て、陰気(いんき)で困っちまいます。そのかわり二階はあります。ちょっと上(あが)って御覧なさい」と彼は云った。自分は何より先に友達の事が気になるので、こうこういう人からまだ何とも通知は来ないかと聞いた。岡田は不思議そうな顔をして、いいえと答えた。
青空文庫より拝借
背筋がシャンとしていると格好いいことはわかっているのだけど、なかなか背筋を伸ばすことができない。疲れるし、すぐ忘れて猫背になっちゃうちゃうし。
そんなあなたに3つのルールをお教えします。これだけ気をつけていれば、割合楽に常時背筋を伸ばしていられます。
これであなたも背筋美人!
(1)背筋よりむしろ腹筋を意識しよう。臍を心持ち上にあげるようなつもりで腹に力を入れる。前には突き出さないこと。
(2)首をまっすぐに。顎を引くのではなく、後頭部が上方に引っ張られてるイメージを持とう。
(3)胸を開く。肩に力を入れず、上半身の前面を広げる気持ちで。
★ポイント:
背筋だけで背筋を伸ばそうとすると背中から腰にかけて局地的に疲れてしまいますので、背骨を周囲の筋肉が支えるような意識でいることが長く続ける秘訣です。
さらに姿を整えるなら、肩を一度耳の下まで持ち上げ、両肩を左右に開き、すとんと真下に落とします。こうすると、胸をピンと張った体操女子やバレリーナのような立ち姿になります(もちろん彼らのレベルには程遠いですが)。
★うれしいオマケ:
背筋を伸ばすと腹が引っ込みます。メタボなあなたも、ぜひ!
俺半分くらいわかる。と思う。
http://anond.hatelabo.jp/20071005142709
この人にレス書いてみる。
増田の言ってるのはたぶん貨幣価値の柔軟性。賃金は言うとおり下方硬直性があるし最近は上方にも硬直してるけど、物価は比較的すぐ動く。
流動性ってのは「お金をやりとりしたいと思ってる人がどんだけすばやく取引相手にめぐり合えるか」を指してる。特に指標とかはなかった気がする。元々は資産の分別に使う。有価証券とかすぐ換金できる資産は流動資産。レバレッジのかかってる証券なんかは流動性も倍付け。反対に、取引に時間とコストのかかる資産は固定資産。サブプライムは、本来コチコチの不動産をバリバリ売買できる証券にしたところがポイントだった。
流動性が過剰になると、つまり動きの早いお金が増えると「取引したくてたまらねーのに相手いねーよ」という状態になる。誰でもいーから貸しちまえとなってローンの審査も甘くなる。結果としてバブルを誘発しやすい。たんす預金が増えたりして金のスピードが鈍るのが信用収縮とかバブル崩壊ね。スパイラルに景気が冷え込む。
生産力にオールウェイズ100.00%対応して貨幣総量が上下していたらモノと貨幣の価値に差は出ない。100%を超えたらインフレ。足りなければデフレ。
中央銀行が何してるかというと、各種統計を見ながら、市中に回る貨幣を吸い上げたり吐き出したりしながら貨幣の全体量を調節している。りっぱな大学を出た勉強の得意なお兄さんたちが必死こいてやってるんだが、問題はタイムラグがあること。統計を見てから貨幣供給量を決めるからどうしても間に合わない。「順調に成長してんじゃん」と思ってバンバン刷るとオーバーランしてインフレになるし、成長分の貨幣が足りなければデフレになる。本当はもっと色々あるんだが大枠はこれで合ってる。オーバーラン分を考えずにGDPを集計すると名目成長率が出る。インフレ分を補正すると実質調整率になる。
急アクセルと急ブレーキしかない車に乗っているようなもんなので、オペレーションに不都合が出るというのはその通りなんだが、基本的にどうしようもないのよ。時間の壁には勝てないし統計精度にも限界がある。
答えになってるだろうか。
これのことか。
寝ずの番 http://moroco.blog1.petitmall.jp/blog-entry-334.html
上方落語界の稀代の噺家・笑満亭橋鶴が、今まさに臨終のときを迎えようとしていた。見守る弟子たち。なんとか師匠のいまわの願いを叶えようと、耳を近づけ聞き取ったのは「そ○が見たい」との言葉。一同驚きつつも、おとうと弟子・橋太の嫁・茂子を説得。茂子は師匠をまたぎ、そそをお見せした。が、師匠は言った。「わしはそとが見たいと言うたんや…」。そしてご臨終。通夜には師匠ゆかりの人々がわんさわんさと集まり、想い出話は尽きることがないのだった。
眠い。頭が働かないので計算するのは放棄するが一応な。
ドカンというよりはボワッとぐらいがせきの山だろう。
メタンガスによる坑内爆発に対応するための安全管理があるように、条件がそろえば余裕で上方に指向性を持って向かう爆発は起きるよ。覆工は内圧で飛ぶ。
とくに土被りの少ないところだと坑内爆発で外圧の弱い上方に向かって抜けて地面を吹き飛ばして暴露することもある。というかあったはず。
1500mから取水して、300m付近でポンプ加圧だと、1000mより上あたりの岩盤層から突出してB1F室内に吹き出したメタン濃度がデトネーション範囲に「なった」としたら、それに着火したら構造上上方に向かう爆発と、燃焼ガスの比重から、いわゆる「戻り」による下方衝撃波で該当建物は上下の衝撃波の突抜を喰らうでしょ。
セパレータタンクの分も、二次爆発時の燃焼速度の増大も、他の溶解ガスを考慮に入れなくても該当建物を廃墟にするぐらいの威力は出る。
疑うとか言われても・・・・自分自身は全く望んでいないので。
上方婚を望むのって、結局自信のある人なんじゃないのかなあ。その自信の根拠はともかく。