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はてなキーワード: ほとんどとは

2007-05-02

当然っちゃ当然なんだけど

あそこの国は、自由で快適らしいぜ!と評判を聞く一方で

自由どころか差別が残りまくりですという評判を聞いたりする。

それを聞くたびに、感心したり、ガッカリしたりしていたが

突然ふっと気がついた。

別に一つの国の事でも、国ってのは滅茶苦茶広いんだから、結局はその人の身の回りの事なんだよな。

それで更に、受け取る側の見方もあるし。だから極端な話、たとえば様々な差別でがんじがらめだという

評判の国にいっても、運がよくて差別主義者じゃない、割と温和な人たちに囲まれて、そんな事を意識せず

暮らしていく可能性もあるわけで。

そんでもって現代は、より一層、そこら辺物凄くシャッフルされている気がする。

建前上、法律上は大概の先進国なら一応は「ちゃんとした」ものになってる。

でも実際それは建前に過ぎないよ、ってなるか、それともきちんとそれが守られているか、

そういうのって日本も含めて、結局は自分の身の回りの人たちがどのくらいいい人たちかってことなんだろう。

やばいな、ネットレッテル貼りを見るのに慣れてしまったからか、

どんなカテゴリにもいい人もいれば悪い人もいる、色んな人がいる、という当然の事実をうっかり忘れそうになっていた。

そう考えると、人生、運の要素でかいよな。

才能を授かる事、能力を授かる事も運のうちとすると、ますますほとんど人生は運だ。

最近ネットにいる、

ミソジニーの人がカッカとなって敵としている「女性像」に当てはまる女性って現実にはかなりマイナー(というかほとんどファンタジー)だよな。そんなマイナーな人たちを女性として括るのは、コンビニ前でたむろする不良高校生を指して「男性」とするほど乱暴じゃね?新しい名称でもつけたらどうか。チャラ女とか。

Yes No で返事できる質問をしないEEEE

なるほどなー。ちょっと脳内であれこれ練習してみる。「良かったですか?」とか「楽しかったですか?」って、確かに相手も困っちゃうくらい「はい」か「いいえ」しかない質問だ。相手も「はい」って答えた後悩むよなあ。ああ反省反省。

自分では聞き上手だと思ってたんだけど、それはある程度相手のバックグラウンドがわかってからの話で、初対面やほとんど関係のない人(と親しくなるというのがまず無謀なのだと思うけど)と話す技術は全然備わってなかったんですね私。

ねむいので明日考えるけどどうもありがとう増田さん。

Thanks to

http://anond.hatelabo.jp/20070501235652

http://anond.hatelabo.jp/20070501235733

http://anond.hatelabo.jp/20070502001534

僕女になってがんばるよ・・・!

2007-05-01

http://anond.hatelabo.jp/20070501113314

ハリウッド映画的な価値観が全面化している世の中で

まだまだハリウッド映画的な文脈自由なエンタメ至上主義の価値観を追認しようとする、その動機ってのは一体なんなんでしょね。

そもそも、エンタメ至上主義って完全に肯定されてる訳じゃないと思うが。だからこそ、こういう議論が起こるんだと。エンタメ至上主義者の「数」は多いと思いのは確かだと思うが、でも世間には何となく「批評家の方が偉い」という空気も同時に存在している。だから「エンタメ至上主義だし、批評的な見方なんてべつにエラくねーよ」的な意見が出てくる。「楽しければいいよ」もしくは「批評できる人ってエラい」という意見は今の日本で何となく肯定されているけど、「楽しければいいし、それが批評的な見方より劣ってるとも思わない」という意見はまだマイナーめ。動機はそこである気がする。

もしくは、本当にエンタメ至上主義が世間で完全に肯定されていて、「楽しければいいよ。それに別に批評的な見方なんてエラくないよ」が多数派だとするなら、『こんなにその意見が世間に知れ渡り認知されたというのに、未だ少数の自称知的人が「批評の方がエラいもんね」と言っている事が、単純に「鬱陶しい」』のかもしれない。『いい加減認めろよ、これだけ知れ渡って認められたんだから。いつまでもそれを認めずあがいてんじゃねえよ』っていう感じの。

というか、人は他人の「自分は他の人より上だよ」的主張は、どれだけそれがアホらしくてマイナーであっても大概ムカつくものだから、そこまで掘り下げなくても動機はそれで十分な気がする。目の前で、「俺批評的な目で見れる人間だから。お前ら消費するだけの凡人と違ってさー」などといわれたらそれがどれだけ世間でマイナーだろうがなんだろうが、「は?ふざけんな」という反応になるのは動機云々語らなくても至極当然な反応。それも炎上しやすいネット上だしな。

もう少し話を進めるなら、馬鹿にされてムキになってキレるやつ、必死で反論するやつって、「知的鑑賞」に憧れてる人だよね。憧れてても届かないから「知的鑑賞のできるやつがそんなにエラいのかよムキー!!」って怒るの。


気持ちは分かるけども、でもそういう事を言いだすと、初めのエントリも何とでもいえてしまう。

何も誰も言っていないのに、突然「鑑賞の方が消費より上だよ?上なんだよ?消費してる連中多いけど、鑑賞の方が上なんだよ?」とか言い出すのは、結局皆に、そうだって認めて欲しい、「うん、おまえは知能の高い見方をしているんだね。エラい人なんだね」と言ってもらいたい、という欲求からきてるだけなんちゃうの、と言われてもしょうがない事になる。本来の鑑賞が消費がは実はどうだってよくて、単に「俺はエラいだろ?」アピールに過ぎないのでは、ということになりかねん。

まったく興味がないひとは黙々と「感情的消費」に勤しんでるもんでしょ。


それと同じく、本当にそうだと思う人は、黙って自分だけ知的鑑賞をしていればいいんだよな。それなのに、わざわざ攻撃的な物言いで書き込むってのは、本当は自分の中で揺らいでいるから、それを他人に「そうなんだよ」って認めてもらって安心したいだけなんじゃないの?……って別にそんな事思ってはいないけど、そういう風にどうだって言えてしまう。だから、変に一つの主張から他人の心情を考え出す、というかほとんど想像妄想捏造しだす、ってのはどうかと思うのだ。そんないらんことしても逆に議論で不利になるだけだし、損だ。

あとこの手の議論で思うのは、そもそもその「鑑賞」と「消費」の定義がなされてなくね?ってことだ。それは鑑賞じゃなくて感想とか言ったりするけども、じゃあそれ誰が判定してんの?っていう。実際、「俺は知的鑑賞側にいる」と思っているような「自称批評家」さんは日本人に凄く多いけど、でもその人たち皆が本当に「知的鑑賞」が出来ているわけじゃないのは自明だし。当たり前のように皆分けているが、俺にはその境界線はいまいち分からん。仮に境界線があったとしても、実際には、その境界線付近をうろうろするグレーゾーンが一番多いだろう。例えば「楽しかったよ」だけじゃなく、「こういうところが、やっぱあのアニメ監督だからどーのこーの」と付け加えれば、知的鑑賞になるんだろうか?でも、実の所、「一見わかってる風」の「なんちゃって批評」を書くのは、たいした労力じゃないんだよ。今なんて、ある程度の知識ならちゃちゃっと手に入るし、それを元に「それっぽい」事を言ってみるのは、別に難しく無い作業。でもそれが「それっぽいだけ」か、「本当の批評」なのか、誰が、どうやって見分けるんだ?それとも、「それっぽい」のでも知的鑑賞の仲間入り?本当は表面だけの知識で背伸びして通ぶってるだけ、そんな文章でも、知的鑑賞に入れるのだろうか?どんなに的外れであってもいいんだろうか?うーん。わからん。

だから「知的鑑賞の方がエラいに決まってるんだぜ!」と言ってる奴も、もしかしたら「消費側」なのかもしれないんだよなー。そうであっても、同じような意見、言えるんかな。それこそ、「自分が知的鑑賞サイドに属してるから、強い事が言える」という、勝ち馬に乗っかっちゃってるだけなんじゃないのか、と。たまたま自分が鑑賞サイドにいると「思える」事を強みに、言っちゃってるだけなんちゃうんか、と。まあ、そこはどうだっていいんだが。

エラいよ。ボーっとしてても感じとれる受動的な「感情的消費」よりも、能動的な要素が関連する「知的鑑賞」の方がエラい。なぜなら能動的な態度エラいから。「頑張っている奴の方が頑張ってない奴よりエラい」ってのは近代以降の社会大前提でしょ?

感情的消費は本当に完全に受動的なのか、ってのも疑問だし、そもそも「エラい」って何なんだ、と思う。仮に消費と鑑賞が分けられたとしても、どちらがエラいという問題ではなく別ベクトル楽しみ方、楽しみ方の種類に過ぎないのではないかと思うんだが、なぜ「エラいか、エラくないか」、言ってみれば「俺の方がエラいか、そうでないか」な対立にしたがるのか。ここまで来ると、いよいよ本格的に「俺はエラいんだ、そうだろう?」と認められたがっているだけなんじゃねーのかと思えてくる。大体、「頑張ってる奴の方が頑張ってない奴よりエラい」→それは場合と時による。大体の場合当てはまる、というだけに過ぎないし「能動的な態度エラい」にいたっては初耳だ。おいおい、頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?そうじゃないだろう、そういうのは全てケースバイケースにすぎない。流石にそんなに社会は単純じゃないよ。てか、それだけ単純なら楽だよなー。近代以降の社会は寧ろ、多様な価値観にもまれまくりでどんどん複雑化しているんじゃないっすかね。

個人的には、エラかろうがエラくなかろうがどうだっていいし、そもそも自分の見方がどっちサイドかすらよくわかんね。皆すげえなと思うばかりさ。

Re: 全部「この趣味を取得したら、俺はチヤホヤされる」とか「こんな

http://anond.hatelabo.jp/20070430002630

でもたぶんそれは、人に見せて「お前すげーよ!こんな面白いことよくおもいつくな」って言われたかったから。それだけのためだったんじゃないかと思う。そしてそれだけの事がすげえ俺にとっては推進力や原動力になる。

やべえよ俺やっぱりすっげ自己顕示欲強い。ていうかもうそれしかない。なんでこんな性格になったのかわからない。なんでこんなダメ人間になったんだ?理由も無くただ好きだって事、多分ほとんどない。自己顕示欲満載のときは何もかもに興味が向くしがんばれるけどそれをはずすと何もしたくなくなる。なんだ?これ。どうすればいい。でもこうでしか生きられない。困った。なぜこんなことになったんだ。畜生

ダメ人間? 違うやろ。

他人にチヤホヤされるのが好きというよりは、他人を楽しませるのが好きって言うことちゃうの。それは立派な個性であり優れた才能やと思うから、それをどうか大切に育てて、社会へ持って出てきてほしいと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20070501010736

うーむ。

 だったら、人間社会のために人間を間引くのも良い行いなんじゃないかな?

って言ってたり、社会のためなのかそうじゃないのか、いまいち一貫して無いように感じる。

まあそれはともかくとしてだ。

それはあまりに未来に対して無責任すぎるし、刹那的すぎるだろう。

「今の自分が楽しければ他人がどうなろうがどうだっていい」って犯罪を起こす奴と

ほとんど根っこが同じ。

なんだかんだ言ってるけど、結局は「自殺したいけど怖いから誰か合法的に

楽に死なせてくれ」ってことだろう?そこまで面倒見切れないよ、流石に。そのくらいは

個々でやれよ。「要らない人は」って繰り返してるけど、要らないってのは

社会にとってとか他人にとってとかじゃなく、結局単純に「自分で自分は社会に要らないと

考えて且つだから消して欲しいと思っている人」だよね。それは要らない人というか

死にたい人だね。単純に。(要らない人、でも生きたい人は生きればいいらしいから、そうなるな)

たとえば、みんな生きるのに疲れてるのに、死んでもらうと絶滅しちゃうからって理由で生かす社会より、生きる理由が無くなったら金渡して楽しく死なせてくれる社会の方が良いでしょ? 

あと、極端なたとえは意味が無いと思う。極端に考えれば、後者の方がいいからって理由で、極端で無い現実世界でもそうであるとは結論付けられないから。あと、要らないとか生きる理由とか、なんだか定義があやふやなまま進んでいるなあ。生きる理由なんてない人はいっぱいいるだろ。でもそれはイコール不必要じゃないし、イコール死にたいでもない。金渡して楽しく死なせてくれる、ってのも、なんでそんなのが突然入ってきたのかわからないし。最後のサービスって事?

よくわからなかったけど、結局は「楽にだれか安楽死させてくれ。自分でやるのは怖い」

こういうことだね?社会にとって要らないとか、そういう問題じゃなかったんだな。OK。ようやくわかったよ。

2007-04-30

http://anond.hatelabo.jp/20070430160736

すげーわかるよ。

匿名idだけって意味ね)なのになんでこんなに体裁とか気にしなきゃいけないんだろう。

結局、質問はほとんどアカウントでしてるけど、これが結構めんどくさいんだ。

http://anond.hatelabo.jp/20070429201433

昔から優等生だったので、自己顕示欲がものすごいわけ。でも、この年になると誰もちやほやしてくれないので、自分ってほんとに生きる価値あるかなーと思ってしまう。そもそも生きる価値って何だ? 生きたいから生きてるだけであって、価値求める必要ないよな?

でも、生きたいかと言われたらそれも微妙。夢はもう叶わないし。いや、追い続けることはできるよ? でも、叶わない夢に一生をかけて堕ちるのって、自殺するのと一緒じゃん? 最終的には死んだも同然な生活になってると思うよ?

娯楽の空しさも知ってしまった。結局俺って、自己顕示を楽しんでたみたいなんだよね。テレビゲームも一人でやってもつまんない。上手くなって「すげー」って言われるのが楽しかったけど、この年になっちゃうと・・・ね。カラオケも、喉にポリープができて下手になっちゃったから駄目。映画見まくってオタクになってみたって、別に誰にも尊敬されないだろうし。

やべえ、すげえ共感する。まだそんな年でもないから、そこまで至ってないけど、でも根っこは同じだ。

そうだ。俺も自己顕示欲が凄い。中学の頃から、なんか妙に勉強は出来たからチヤホヤされて、それで調子こいて、さらにいい点とって、そうしたら周りはもっとすごいね凄いねって言ってくれる、そのチヤホヤがやっぱり結局好きだったんだ。

娯楽についてもこの人と同じだ。俺、歌も最初わりとうまかった方だから、皆にチヤホヤされて、それが嬉しくて、もっと上手くなろうとした。今思うと、やっぱりそれだけだ。歌は勿論好きな方だし嫌いじゃないけど、でも上手くなりたいから上手くなりたいんじゃなくて、歌いたくてたまらないから歌いまくってるんでもなくて、人に「すごいねすごいね」って言われたいから上手くなろうとしてた。今もそうだ。俺は多分全部そうなんだ。本も、別にそこまで読書好きってわけじゃないのに、たまたまちょっと小難しげな本読んでたらちやほやされたから、それが嬉しくて、色んなジャンルの本見て学んだり。他にもあるけどそれら一切の俺の趣味は本当の意味での趣味じゃない。ほとんど学習勉強みたいになってる。結局、多分俺が本当に自発的に楽しんでるものってほとんどない。全部「この趣味を取得したら、俺はチヤホヤされる」とか「こんな趣味を持ってる俺」的な、そういう自己顕示欲から来てるだけ。

夢も、別になかった。なんか、小さい時マセてるガキだったから、昔からそういうかないそうにもない芸術方面スポーツ方面の夢は、見もしなかった。「そういうのはよっぽど才能ないと食ってけ無いし。俺、それなりにこなす自信はあるけど、流石にそれで食ってけるほどは才能ないし」ってそんな事を小学生の頃から言ってて(でも皆そんなもんなのかもしんないけど)、早くから「勉強でなんとかなる仕事で、チヤホヤされる仕事だな」とか考えてた。今は確かにそういう方面に一応向かってはいるけど、でもそれがやりたかったのか?っていうと、別にそういうわけじゃない。かといってやりたくないわけでもない。どんなことでも、大概興味は持てる。興味が無い、ってことが、あんまりない。持とうとすればもてる。でもその代わり、「本当に俺が欲してるもの」てのが、よくわからなくなった。いや、本当に欲してるものはあるのかもしれない。でもそれが「これしかない」って感じに一つに限定されない。好きレベルが5のものがいっぱい、好きレベルが8の奴がいっぱい、そんな感じでふわふわしてるけど、その中で一つ好きレベル100とか飛びぬけてる一つ、てのはない。

強いて言えば、やっぱり人なんだな。

ネタ的なものでもなんでも、「人に見せる」って思いがあるときは、寝るのも食うのもせずに集中できるしめっちゃ楽しい学園祭とかで、「こりゃうけるぞ!」って思って作った衣装とか。そういうのはすっげ楽しかった。でもたぶんそれは、人に見せて「お前すげーよ!こんな面白いことよくおもいつくな」って言われたかったから。それだけのためだったんじゃないかと思う。そしてそれだけの事がすげえ俺にとっては推進力や原動力になる。

やべえよ俺やっぱりすっげ自己顕示欲強い。ていうかもうそれしかない。なんでこんな性格になったのかわからない。なんでこんなダメ人間になったんだ?理由も無くただ好きだって事、多分ほとんどない。自己顕示欲満載のときは何もかもに興味が向くしがんばれるけどそれをはずすと何もしたくなくなる。なんだ?これ。どうすればいい。でもこうでしか生きられない。困った。なぜこんなことになったんだ。畜生

2007-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20070429182240

別に眼鏡が好きだからって眼鏡以外を排斥する理由にはならない。

確かに「だけ愛す」とか「排斥」はちょっと的外れだったな。反省。「メガネを本気で愛してるかは微妙」としとこうか。

変わったら属性なんて言わない。

なのに変わるから「所詮立ち位置が欲しいだけでしょ」という話。

むしろ自分の好みを正確に把握するための手段なんだけど

好みは本来「何のこういう所が好き、こういう理由で好き」と千差万別なのに「ツンデレ好き」「妹好き」で思考停止してる奴がほとんどでしょ。いやそらーこだわりのオタクがいないわけじゃないけど、大概「何処をどう好きなの」「その好きはこのキャラにはどう当てはまるの」と聞いても碌な反応返ってこないよ。「○○属性って言ってみたい」以上のこだわりが見当たらん奴がネット界隈&身の回りオタクにあまりに多いので言ってみた。「属性を組み合わせたり、細かな性格の違いを楽しんだり」までしてる人、そんなに見かける? ああ、もちろん増田兄さんがこだわり持って愛してるかどうかは問うてないよ、ちなみに。そういう人ばかりなら俺もこんな(我ながら)皮肉な意見持たないんだけどな。

http://anond.hatelabo.jp/20070429175453

「俺ってメガネ属性w」とかいう奴が本気で(数多ある萌えキャラの中から)メガネだけを愛したり、メガネ以外を排撃したりはしない。

眼鏡属性しか持ってないんだったら眼鏡だけを愛するんじゃないの?

ただ、ほとんどオタク好み属性をいくつも持っていて、その中で属性を組み合わせたり、細かな性格の違いを楽しんだりしてるわけで。

あと、別に眼鏡が好きだからって眼鏡以外を排斥する理由にはならない。「ツンデレにいじられてる眼鏡が好き」みたいなのも当然あるだろうし。

その時の興味によってコロコロ変わるし。

変わったら属性なんて言わない。

そもそも「○○」とキャラ個性を鋳型で捉えること自体、自分の頭で「何故好き」を考えなくてよくなるためのお手軽手段なんだけどね。

これも意味分からんな。

むしろ自分の好みを正確に把握するための手段なんだけど。

KENT

昔、違う名前だったよね?熊?熊?熊?なんとかクマ?もやもやしてきた。

http://anond.hatelabo.jp/20070428020648

正直、彼のプログラムソースをまじめに追ったことがない。

いや、改造したことはあるので見たことはある。

だからか知らないが自分はPerlを自分で組もうと思ったことがない。

いまだにPerl?と思ってしまう。

ただ、1995年ごろまだ2400bpsとかが7800bpsになってはえっぇええ!と言っていた時期に彼のソースは誰でも自由に使える状態で「そこ」にあった。

そのころにオブジェクト指向なんて単語はなかった。

ホームページなんて数えるほどしかなかった。

ヤフーディレクトリ内容はすべてを見て回ることができた。

あの当時、KENT氏のBBSプログラムのわからないものでも設置することができた。

パーミション設定なんかがわからなかった自分にもちゃんと設置することができた。

そして設置した掲示板は途中、バージョンアップを一回しただけで今も動いている。

構造設計はしったこっちゃないが、設計思想はいいと思う。

まずなにより動くのがいい。

KENT掲示板スパムに溢れていた。

入力フォームに決められた日本語入力するフォームを追加した。ほとんどブロックできた。

日本語万歳。

ストーカー

私はBlogを書きはじめて数年なのですが。

とあるコメント主がちょっと怖くなり始めています。

 

ほとんどコメントを頂けない中で、

その人だけ、ほぼ全ての記事にコメントを書いてきます。

私はその人のことはほとんど知らないのですが

逆にその人には(私はその筋ではちょっとした有名人)かなり知られている様子。

 

書いてくる内容は、おかしいとか嫌がらせとかじゃないんです。

ま、普通の感覚で書いているんでしょう。

まっとうな文面だと思います。

 

私も相手を知っていれば特に反応はしないと思うんですけど

他の同ジャンルBlogには、ほとんど見かけない名前なだけに

 

私だけ狙われてる と思い込んでしまう…。

 

いっそのこと、IP制限掛けちゃおうか?

なんて考えてしまう今日この頃

と思ったら、毎回IPが違ってら。

ぅぅ、制限掛けようにも掛けられない><

 

 

流石にこんなことは記事に出来ないからな??

あえてここに書いてみます。

2007-04-27

http://anond.hatelabo.jp/20070427201605

なるほどね。大体わかったよ。

魚以外の人生におけるいろいろなこと、ほとんどすべてのことを

“犠牲にしてるという感覚なく”犠牲にしている、っていうようなことね。

私は所詮俗人なので、さかなクンのそういうところはちょっと羨ましい。

さかなクン

http://anond.hatelabo.jp/20070427192329

私自身は「特質系でない」ということもあり、偏見とかアンチとかそういうこと一切ナシの状態でも、非常に書きにくい。うまく表現できているかどうかわからないが、「代償」とは「いわゆる普通人生におけるほとんどすべて」とでも言えばいいのか。(もっとも、私が「特質系」だったらこんなことを書けすらしないのだが。)

http://anond.hatelabo.jp/20070427192540

批判のつもりは全くないのだが「踏み込む」という感覚がやはり常人のそれなのだと思う。

彼の場合は、常人とはあらゆる点において「順序が逆」なのであるということ。彼は「さかなクン」になることを望んで、なったわけではない。もちろん、彼の現在のありようというのはおよそ考えつく限りの「望ましい位置にいる」と言ってよいと思う。ただ、最初に彼が持っていたのは、魚ではなかったはず。抑えようとしても抑えることのできない、事象に対する狂気に満ちた好奇心と執着心、それだけであったはず。それを昇華する対象としてたまたま、タイミングよく、彼の前に現れたのが、水生生物の世界だったということだ。

とことんうまく説明できずにいるが、「ものすごい数学者が日常のことを何も覚えられない。昨日の晩飯も覚えていない。だから、昨日の晩飯を覚えていないようにすればすごい数学者になれるかといったら、なれない」というようなことの延長線上に彼はいる(と、私は考えている)。

 

…はぁ。これでもめいっぱい気を遣って書いたつもりなのだが。

ちなみに「♪鳥くん」というキャラがいるのだが、この人との比較で見るとさかなクンの特質ぶりがわかるかもしれない。わからないかもしれない。

ネットにはレスを「つける人」「つけられる人」の二種類の人間がいる

レスをつける人」は、その相手と友達になりたくて仕方がない人間

 

「つけられる人」は、友達になりたいと思うほどの力を持っている人間。絵が上手かったり、有名人だったり。

 

「つけられる人」はいわば「権力者」である。

どんなにマイミクが数百人いても、ほとんど他人の日記レスをつけることはない。

自分から歩み寄る必要がないのである。

例外的に、名指しで書かれた時に事務的にレスをするぐらいである。

 

「つける人」は、決してその相手との距離が縮まる事がないのにも関わらず、必死にマメレスをする。

いかに惨めでも、報われなくても、レスをつけて自分の存在をアピールする。

日常生活を犠牲にしてまでも、mixiに必死になる。

 

そんな必死の努力もむなしく、「権力者」が本当に親しい人間とは、mixiでなくても交流があるので(メッセンジャーとか)

mixiしか見えない「必死になる人」の100の努力が、1の交流に負けるのである。

 

いわばmixiで他人の日記にマメレスしまくる人間というのは

「友達が欲しくて欲しくてたまらないが、報われない人間」なのである。

http://anond.hatelabo.jp/20070427014208

私なんぞ、小4の時に「題名は自由です」と言われて書かされた作文に、社会問題を書いたら親が呼び出されて大騒ぎになった。

そりゃそうだよな。小4のくせに新聞記事の受け売りでいじめ問題を大真面目に考察するような作文を書いちゃ。

今思えば、子供がそんな事をわざわざ題材に選ぶなんて、そのクラスいじめがはびこっているかのような印象を与えてしまうではないか。

まあ実際にいじめははびこっていたんだけど。一番の加害者はその担任教師で、そういえば知恵遅れの子がしばしばターゲットになっていたのを今思い出した。

それ以後我が家では、作文は母親検閲を受けないと学校に提出してはいけないという不文律もしばらく適用されるようになってしまったし……

大人の視点から見てヤバイ内容は当然、書き直しなので、ほとんど全部書き直しという事も時々あったし、最後には検閲官のご機嫌を取るために検閲官の“提案”通りの内容を書いて提出するのが習慣になってしまった。つまりゴーストライター。そこまでするか。

そんな私が「笑の大学」という映画を初めて見た時、「どこかで見た風景」のように感じた。なぜかすごく身近な題材だった。

2007-04-26

都市伝説」たる検証可能性

http://anond.hatelabo.jp/20070426180318

Wikipedia は、ある程度信頼のおける第三者機関(あまりに弱小でない新聞社とか査読制度のある論文誌とか)の発表を参照することでその事実存在することを検証できる場合に限り記事を書いていい、という風に厳格に定められてるので、具体的な都市伝説の事例を記事に書く場合、その都市伝説が実際に「伝説」という形で社会の中に存在したことを検証できなければいけないんだよ。逆に言うと検証さえできればセンスなかろうが書いて構わない(もちろん君がセンスのない記事を書くなと言ってないことはわかってるよ!)。

そんで、「都市伝説一覧」の記事はほとんどが出典を提示してないか、出典に信頼性が無いよね。つまり検証不可能。そっちの方が問題だなあ。

検証可能であることが明らか、もしくは検証可能なのではないかと(俺が)推測できる都市伝説を「都市伝説一覧」の記事から探すとこんなもんかな。ちなみに都市伝説が検証可能であるかどうかを判断するためには、「都市伝説とされる噂が実際に流れていたことが検証可能」「その噂が事実ではないことが検証可能」の二点を考慮しなければならないことに注意。

めんどくさかった。時間を無駄にしたような気がする。あまりにめんどくさくて、途中から「信頼のおける第三者機関の発表の中に噂の実態が含まれている」と「信頼のおける第三者機関により噂の実態が存在することが発表されている」の差に突っ込まなくなってるわ。

それにしても、明らかに「噂は実話だった」というタイプの、「都市伝説一覧」から排除すべきものも結構あるな。それはまた今度まとめるか。

http://anond.hatelabo.jp/20070426164121

香水は個人の裁量だから逆に難しい。

禁香席とかないもんなぁ。

わかる。

特に食事がからむ席ではほとんど付けられずにいる。香水結構好きなのになぁ。

そしてそれはデートでつけられないというのと等しい気もする!!何のための香水かー。しくしく。

ところで自分の以前の知人にも、その人のつけてる香水の匂いがエレベーターがその人のいる階に停止した途端漂ってくる、というひとがいました。

re という前置詞は前からあるよ

http://anond.hatelabo.jp/20070426151435

Re:I Love you!

が、

Response about:I Love you!

ということか。

response aboutが省略されて、Reになってるんだから、

re-ply ,re-sponseのreでもいいとおもっちゃうゆるゆる派。

違うよ。全然違うよ。

re っていう前置詞は元々(電子ではない)メールで慣例的に使われていたもの。

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=re&kind=ej&mode=0&base=1&row=3

re2

[<L.] prep. 【法・商業】…に関して.</p&gt;

確かに商業的な手紙でよく使われてたってどっかで見たなあ。もちろん口語でもたまに使う。

http://www.trans-usa.com/mike/oldnanda25.html

 さてさて、実はこの Re: なんだけど、 To: とか From: がそうであるように、コロンなしでも昔から使われてるんだ。"re your enquiry of the 3rd March"(3月3日付の貴殿のお問合せについて)とか、口語でも "I want to speak to re your behavior."(あんたのする事にちょっとモンクがある)なんて、威圧的で威張った言い方をするヲジサンがいたりした。(笑) 品詞は言うまでもなく前置詞だね。ちなみに、英語での発音は“リー”または“レイ”。

 更に、Re: って書き方、ネットワーク通信以前から英文のビジネス文書、特にFAXやテレタイプのヘッダに Subjetc: と同じような意味でよく使われて来たんだ。

ついでにこの先の部分も必読

けど!

 ややこしいことに、英語の re は接頭辞 re- とは関係ないんだ。ラテン語名詞 res (matter, thing)から来てる。しかも res は頭に "re" のつくラテン語の単語の中でほとんど唯一、接頭辞の re- と関係ない単語なんだ。そう、略語じゃなくれっきとした単語だ。

 Re: は英語の前置詞 re(??に関して)から来てて、その英語の re はラテン語名詞 res(物、事、状態、要点)の奪格単数形 re に由来する。

http://anond.hatelabo.jp/20070426072840

今際と見てきたけどいいかんじだね。かわいらしい。

私はアニメほとんど見ないんだけど教育テレビの短いアニメは大好き。

おじゃる丸は一時期すべてのビデオを見るくらいはまっていたし

忍たまプチプチアニメも好きだ。

2007-04-25

専業主婦って

なんだか専業主婦や家事の話が出てるけど

そもそも最近専業主婦って少ないよね…

アメリカじゃ既に(日本でもそうか?)専業主婦やってられる

家庭なんて裕福なとこだけだし。

まだ専業主婦だから家事を全部任せるってのはまだマシな方で

実際にゃ、両方とも仕事してんのに母親が家事も育児もやってるってのが現実っしょ。

専業主婦よりそっちのほうが問題な気がする。

そら、女も結婚したくならねーわな。同時に男も特に一人暮らし慣れてりゃ

メリットないし。今って結婚子育てデメリットこそあれメリットとかほとんどない

少子化なんてなるべくしてなった感じだ

専業主婦(まあもしくは主夫)がいる家庭ってのは、

全てひっくるめた家庭に関わる仕事のうち、外は父が内は母が担当する、

という分業で成り立ってるわけだから

まあ家事全般を専業主婦がするのは別にいいと思うんだよね

でも靴下をカゴにいれるとかそういうのは、誰か言ってたように

ゴミをゴミ箱に入れるレベルで「家事」レベルですらないんで

そのくらいはやれやって思うけど。つうか、そんなことまで面倒見てもらうって

個人的には恥ずかしくてとてもやれねーwうんこした後わざわざ尻ふいてもらってる感覚だ。

たとえやってくれるといっても「ちょ…いいよwやるよそんなことくらいw」て感じ。

大体それくらい自分でやった方が、全体としての効率も上だし。

ただ、小さい頃から疑問だったのは、そういう家庭は

家事は母が、外で稼ぐのは父が、ってきれいに分担してるのに

何故か父の方が偉く、母の方が下手(…っていうと大袈裟か?)みたいな

そういう風になってるとこだった。だって分担してるじゃん?

たとえば父が家事も仕事も全部やってるっていうなら母が下手に出てても

可笑しくない気はするけど、双方納得した上で仕事を分担してるのに、

なんでそれで平等じゃない(というとまた大袈裟か?)風なんだよ?って。

まあそんな昭和ステレオタイプ家族は少なくなってきてるけど、

でも当時は疑問だったな。

まーなんつか、あれだね。自分らの世代は結婚現実嫌というほど見てる世代だから。

結婚に夢すらもてないんすね。自分もだけど。

http://anond.hatelabo.jp/20070425190754

悲観してないでさあ、もし結婚でもしたら嫁さんが具合悪かったり都合悪いときにパパッと嫁の代役がこなせる旦那になればいいじゃない。それがなかなか出来ない旦那と一緒になってモヤモヤしてる嫁連中ほとんどだし。かといってどこかの相手とご縁があったら結婚してみるのもいいもんですよ。

母は作る人、兄は手伝う人、妹は食べる人

http://anond.hatelabo.jp/20070425182325

うちは私が男のくせに台所で母の手伝いをしていて、隣の部屋では妹がのんびりテレビを見ていて、食事が出来上がった頃に食卓に来る。

「男に台所の手伝いをさせて自分は遊んでるなんて、女として恥ずかしくないの?」と妹をからかっても知らん顔。

そのうち、ふりふりのフリルの付いたエプロンとか、おばさま割烹着とかで台所に立ってやろうか。「自分がやるから、お願いだからその恥ずかしい格好辞めて」って言わせてみたい……けど、言わないだろう、きっと。

もちろん、私がいつも母の台所仕事を手伝っているという自慢ではない。サボる事もある。でも、なるべく手伝うようにはしている。

それはともかくとして、男が家事を手伝うか手伝わないかは、それが習慣付いているか否かに左右される。

そしてそれは、育ってきた環境に結構大きく左右される気がする。

私がちっちゃかった頃は母親病気がちだった事もあって、台所仕事を手伝うのはすごく当然のようにして育ってきた。

たとえ自分が料理を作らないにしても、食卓を整えて、箸やスプーンフォークを出して、メシや味噌汁を人数分よそって、それくらいの手伝いは普通の事だった。

食べた後はめいめいが食器を流し台へ持って行くのがうちの家族伝統だったし、皿洗いもよく手伝ったものだ。

だから、他の家にお邪魔した時に、女衆だけが台所で料理を作っていて、野郎共はその間居間でのんびりテレビを見てて、食事が終わっても食器を流し台に持って行くのは女衆の仕事、という世界が少し不思議だった。家族だろう、メイドさんと客人みたいな関係でいいのかよ、と少し思った。

でも妹が生まれた頃から母も元気になったからなのか、それとも病弱気味だった一人娘を甘やかしてるのかわからないけど、妹が台所に立って母を手伝う姿はあまり見たことがない。

男が女の家事を手伝う事は男の沽券にかかわる恥ずかしい事と思っている人が男にも女にも多いけど、そんな事はない。

母親の皆さん、息子達を「家事を手伝う男」に育て上げられるかどうかは、ひとえに幼児期からの教育習慣付けられるかどうかにかかっているのですぞ。

とは言え、「奥さんにうまいメシを作って欲しい」願望がほとんど無くて「結婚しなくたってメシくらい自分で作れる」なんて私も、また別の意味で問題かもしれないけれど……

http://anond.hatelabo.jp/20070425162827

でも、「旦那にとって親は他人じゃない」ってことはどの旦那でも共通してるよ。

妻と夫とで、新しい家庭を作り上げてこう、ってときに、

他人がずかずか入り込み、そこに色々口出しするのはおかしいでしょ。

部分で「他人」って言葉が出ちゃうのがアレだよ。その辺りでもう旦那との齟齬が出ちゃってる。

もし貴方が既婚女性なら日常生活の苦労もあるだろうし、そういう発言が出てくるのも頷ける。そりゃ出たってしょうがない。

ただね、貴方が未婚だったらこの考え方はどうかと思うよ。(もし男だったらもっとアレだけど)

書き込んでる立場がどういう立場かがなぜ関係してくるのか分からないけどそれはさておきw、

そこは敢えて他人って書いたんだよね。もしかしたら突っ込まれるかとも思ったが…。

姑が他人だ、というより、「他人がずかずか入り込みそこに色々口出しするのはおかしい」、

姑はまるっきり他人でもないが、でもそれと似たようなものだ、という意味

旦那との齟齬も何もない。新しい家庭がある。それは妻と夫のもの。

そこに、第三者が入っていくのはいくら旦那の親だろうが妻の親だろうが、

その観点から見る場合、ほとんど「他人」に近いと思うけど。

そりゃ旦那から見れば姑は「親」だけれど、同時に、同じ家族に属するメンバーの一人である妻から見れば

それこそ姑は完全に「他人」な事も忘れちゃいけない。

メンバーにとって同じ関係性のある人間ならいいけど、

メンバーの中の一人にとって関係性があるからって、口出ししていい特権にはならないし、

(まあ口出しなのかわかんないんだけど…とにかくそういう嫁姑間のいざこざね)

まして今回の場合そのメンバーの妻が反対している。

そこで、メンバー外である親を庇っちゃダメだろう。

妻からすれば、お前はまだ、旧家族の方の人間なのか、こちらと家族を築く気はないのか、って事になる。

確かに旦那からすればれっきとした「親」だけど、

今は「新しい家族」の観点で話しているのであまりその事に意味は無い。

ていうか、よくわからないんだ。「旦那との齟齬が出てる」から、何なのか。そこから一体何を言いたいのか。

だからもしかしたらこの返答は的外れかもしれない。

そりゃ旦那と齟齬は出るだろう。だって、その最初に書き込んだ旦那とやらと

反対の意見を述べているわけだからね。完全な第三者が。

自分が結婚して子供が生まれて、ひいひい言いながら自分の時間も取れずに子供の世話したり、仕事したりして金かせいだりして、やっと一人前に子供うまいこと育ってくれたとするでしょ。そんだけ苦労した後に、また嫁姑問題で苦労しなきゃならなくなったときにどうすんのよ、って話。その時に「徹底的に旦那が嫁さん擁護」ってことは、年取ったら逆に「徹底的に擁護されない」ってことでもある訳よ。「そんなことは無い」って思うかもしれないけど、”その時”の行動ってのは後の人生に確実に影響与えるからね。

うん、基本的には、子供の向こうに新しいパートナーがいる場合は、徹底的に擁護されないと思うよ。

そういうものだよ。もしかしたらあなたは、子供を産み育てることに、何か見返りを期待しているのか?

子育てってのは基本的にそういった意味での、はっきりした子供からの見返りの保障は全くない

(勿論、子育てという経験からさまざまな事を学んだ、等、そういう意味ではあるだろうけど)。

ひいひい言いながら育てたんだから、嫁より私を庇いなさいよ、って、それは正直押し付けがましすぎるだろう。

大体それを言われたら、子供はいつまでも親の言いなりだ。ひいひい言いながら育てたんだから

こうしろああしろ。逆らえなくなっちゃう。それが通用するのは、子が巣立つ前の話だよ。

子供が自分よりも、庇うべき相手を見つけた。

それが子供結婚して親離れする(別に同時に親離れってわけでもないが)

ってことじゃないのかな。

大体、姑にだって別に子供だけじゃないだ。姑にも夫というパートナーがいるのだから。

親夫婦は親夫婦で、同時に妻と夫という、新しい家族形態を作り出しているんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20070425154111

うーん。それは確かにそうなんだよね。

そうすると初めから全部おじゃんになるけどw

ただ嫁と姑が争うっていうと何であれ、まあ姑が口出しして

嫁プッツン、ってパターンほとんどを占めるだろうしな

ていうか、それ以外のパターンが分からん。なんかある?

嫁が実家に口出し?

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