はてなキーワード: 歴史修正主義とは
偏差値 59
政策関連も少々勉強する。
E.L.H. Electric Lover Hinagiku
偏差値 63
人が傷つく事とはどういうことなのかを学ばされる。
毎週、非コミュと非モテを救う方法をレポート10枚分提出しなければならない。
偏差値 75
近代思想は必修科目で、これを受けていないと講義の内容がわからない。
犬派は基本的に入学できない。
入試は面接試験一本勝負で、猫の魅力について40分間喋り続けなければならない。
偏差値 77
人生を通じて役に立つ知識を持つことができる。
偏差値 44
4年間を通じて毒舌に耐える忍耐力を鍛えることができる。
他人を罵るためのコミュ力も高まる。
そして、表面的な罵倒用語に惑わされずに本質を見抜く眼を養うことができる。
卒業すると、「消毒液処理」という免許がもらえる。
偏差値 54
制度や技術について、人に流されない姿勢を持ち続けることの
id:magician-of-posthuman教授
偏差値 73
「ポスト○○」や「魔術」等のキーフレーズで釣りを書くこともあるが
ただし、分厚い長文の教科書は持ち歩くことができないくらい重たいので、
教室用と自宅用とで二つ以上は購入しておく必要がある。
怠けたはてブコメントを書くと退学処分になる。眉毛が太いと合格率が上がる。
偏差値 75
偏差値 63
2学年に進級すると、「oredoco」という科目が必修になる。
3学年になると、「はてブの魅力」という科目が必修になる。
誰も思いつかない奇をてらったマッチョ論や、
応用すれば、どんなところでも役立つtips。
偏差値 64
1年まではオタク文化論の基礎を学ぶ。
2年になると、揉め事の分析が主流になる。
ぜひとも受講しておきたい。
偏差値 34
全ての問題をメンヘラの問題として対処する実技を学ぶ。
ただし、メンヘラの問題としてしか対処できなくなるので、
もっと面白いネタを書くために、二人は競い合うべき
お題はもちろん歴史修正主義について。
id:tikani_nemuru_M VS id:Midas
お題はこれまた歴史修正主義についてだにゃー
id:hokusyu VS id:magician-of-posthuman
はてなを代表する歴史学マスターとフランクフルト学派の系譜の衝突は見てみたい。
id:ruletheworld VS id:AntiSeptic
単純に罵倒し合って欲しい。消毒脳の恐怖にどう立ち向かうか
これも罵倒対戦で。
id:fromdusktildawn VS id:y_arim
アルファブロガーとして活躍中のフロムダとアルファブロガーをクズ扱いするありむーの対決とか見てみたい。今後のはてなの未来を語ってほしい。
生あずまん見てきたよ。
講義にもぐった理由
・ネット☆スター見て興味を持ったから
・著作読んだら、えらく面白かったから
読んだ本
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
ホントは先週行こうと思ってたんだけど、腰が引けてた。
んで、行かないで家でぼやーっといつもどおりネットしてたら、はてなでなんかもめてた。
↓こんな感じで
東浩紀問題、または歴史修正主義問題について(開かれた学問・知識について:前編)
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20081213/1229172460
ああ、こりゃ早めに行っとかないとモグリ禁止もありうるなということで今日行ってきた。
講義に出ていろいろと思ったこと・感じたこと
1.
教室が小さい
講義に出る前は、てっきり大教室でやってるもんだと思ってた。
テレビに出てるくらいだし、そこそこ名前が売れてる批評家なので。
ところがどっこい、かなり小さい(と言ってしまうと失礼に当たるのかもしれませんが)教室です。
ふいんき(ryも、講義する人と学生の間に「関係」があるのを感じさせるアットホームな感じです。
簡単に言ってしまえば、人数多めのゼミみたいな感じ。
なので
次は、トラメガを持って東工大に行きます。
こんなこと書かれたら非常に迷惑だし、普通は怒るだろうなと。
確かに大学は開かれている「べき」だけど、mustではない。
時と場合によるし、あの「規模」だと開かれていなくてもしょうがないかなと。
歴史云々について
授業の前半30分くらい使って説明してた。
別に難しいことは言ってない。(以下はワタクシの解釈)
自分が体験したわけではない「歴史」というものは、物語でしかない。
その物語の「強度」によって人は「真実」であるとか「捏造」であるとか判断する。
常に更新可能であるし、閲覧した時点での記述が閲覧者にとっての「真実」となる。
また、「ソースがwikipedia(笑)」って感覚は「ソースが歴史学者(笑)」に通じるべきだ。
少なくともポストモダンな人は。
ってあずまんは考えてるんじゃないかな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA
南京大虐殺論争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E8%AB%96%E4%BA%89
id:toledって人は、wikipediaで言うところの「ノート」で議論して、
らちがあかないから「みんなで編集合戦しようぜwwww」って言った様なものなのかな。
以下は生あずまんを見た後の、著作その他にかんする感想。
2.
http://watashinim.exblog.jp/8879908/
大塚 その話を聞いてしまったら、ポストモダンっていうのは、何もかもから距離を取れて、すごく楽な思想だっていう話になっちゃうよね。
東 楽と言えば楽ですが、楽じゃないと言えば楽じゃない……(苦笑)。
あずまんはポストモダンの「判断の不可能性」についてわりと謙虚な立場。
それは『波状言論S改』にもよく現れている。
ただ、それは「批評家」としてはどうなのかなーってのは確かに思う。
まぁ、「ずるい」と言われてしまってもしょうがないかなと。
(ただ、「ずるい」と言ってしまえる人ばかりだとまずいので「逆張り」している可能性もある)
宮台氏とか大塚氏は「イエネェっつっても世の中良くするためには何か言わなきゃ」な人たち。
東氏は「なぜか」そこには触れたがらない人。
(『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』の序章で「生と実存の問題には触れていない」とはっきり書いてある。触れろよ!)
東 この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、
それはやめたほうがよろしいんじゃないかと……。
大塚「なんで自分の人格(判断)を晒さないの?馬鹿なの?死ぬの?」
あずまん「それは人格攻撃じゃ・・・」
んー、たぶん、「政治学」が好きじゃない?から言わないのかなぁと。
3.
あずまんって、『リアルのゆくえ―おたく/オタクはどう生きるか』で明言している通り、
「政治学」に興味ないから(「僕は政治がわからない」発言より)あんまり「政治学上の定義」とかにこだわってない。
だからたまーに何言いたいのかわからなくなる。
「政治」っつっても、ウェーバーの「政治」とアリストテレスの「政治」とぜんぜん違う。
ロバート・ダール
の『現代政治分析』(岩波書店, 1999年)第1章「政治とは何か」とか読んでみればいいのにーって思う。
あずまんが言うところの「共感」とか「正義」って、ダールの言うところの「規範」かな。
デモクラシーって経験主義的に「正義(善)」とされてるから、そこは政治学では脱構築?しなくていいんだよね。
そこさえ乗り越えちゃえば、宮台氏みたいな「行動」をすることができるんじゃないかなぁ。
コントロール(支配力)control,影響力influence,権力power,権威authorityをかなりな程度含む人間関係の持続的なパターン
4.
さいごに
あずまんは笑顔がかわいい人でした。
男に好かれるのは判る気がする。
何故聖書とニセ科学や歴史修正主義を同列にしている、その発想がわからん。
それは俺の脳内で勝手に補完するとして、現代に繋がる科学や化学、経済の重要なとこを作ったのはキリスト教徒。
イスラムや古代中国の文化だって負けてないけど、ニセ科学や歴史修正主義は自分たちの正当性を主張するばかりで、世のため人のために役立つ何かを作ってないから。
聖書に認められてるとか退けるべきとか書かれていること以外の新しいモノが世に出た場合、基本的には主の代理人たるローマ法王や法王庁が○か×かを決める。それだけ聖書は柔軟な余地がある。この余地が一切認められなかった時期が宗教裁判や宗派間戦争ばっかりの世の中。今でも非主流派にそういう原理主義はいるけど、力を持たないから問題視されてない。
http://anond.hatelabo.jp/20081213141956
これにも関連しているけれども。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20081214/p1
稲葉先生は確かに御親切で、常野氏にこう説かれているのだろうとは思うけれども、それはあまりにも相手に対して残酷だと思います。常野氏はもう31、分別がある年齢です。自分の能力も見えてきた年頃の人間が、精一杯考えて、自分がもっとも目立てる手法を選んだのがあの自爆テロだったのですよ。31ですよ、いい大人じゃないですか。そんな人間が、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
とまで幼稚な詭弁を口にしたんですよ。傍から見たらどうみても「みっともなさ」の極致です。でもそれは、常野雄次郎という人間が、現実に持っている存在感、レトリック能力、それを最大限駆使して、自分でもっとも適切な言動だと思って選び取ったものですよ。しかし、確かにこれが彼にできる精一杯のところでしょう。
常野氏の新しいエントリーで、
最後にあずまんへ個人的なメッセージ。
「煽る」っていうのはこういうことだよ。
井口先生じゃいい人すぎるから。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081215/p1
こう書いている。姜尚中ですよ。東さんと今回の件でなんの関係があるのか。要は、常野氏は論壇の有名人なら誰でもいいのか。次は黒柳徹子でも呼ぶのか。みのもんたか。これを読めばよくわかるように、常野氏はもう言論人として真面目に名を成そうとかそういう努力は、投げちゃった人なんですよ。彼がいま考えているのは、「論壇」の「顔役」と絡みたい、それで目立ちたい、しかしそのために自分の言葉を磨く、そういう努力は一切しない、そんなことです。なんでこうなるのか。彼がもう自分の能力を見切ったからですよ。本人がそうである以上、他人がどうこう言っても詮無いことです。稲葉先生のエントリーのコメント論で書いていますが、
私信よりもこうしてブログに書いてくれる方が百万倍うれしい。アクセスが増えるから。ただ、これはあずまんにも再三お願いしたことなんだけど、リンク貼ってくれませんか。Nさんの件で経験したんだけど、稲葉さんに紹介されるとアクセスすごいんだよ。できれば、↓にお願い。
なんというアクセス乞食の成れの果て。でも、もう常野氏には手段を選ぶ余裕はないのです。31ではもう、過去の彼のように、不登校ネタを売りにすることは無理がある。そもそも不登校なんて珍しくなくなってきている。彼は彼の売名欲的上昇志向を(敢えてここでは成功妄想とは言わないですが)支える手段が、齢31にしてなくなってしまって、難しいポジションなのですよ。
いや、こういうことはもう、稲葉先生は百も承知でしょうね。その稲葉先生に対して常野氏は叫び続ける。
僕は本気で「一流」になりたいと思ってる。しかもその素質があるような気がする。ただ努力を怠っている。勉強をサボっている。何かやっても、とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない。それについて悩んでいる。
僕は「一流」になりたい。ちやほやされたい。500年後の図書館に本を残したい。強い願望です。
赤の他人からこんなこと言われても困りますよね、誰だって。常野氏のこの発言を目にしたら、大人なら誰でも思うでしょう。
「努力を怠っている。勉強をサボっている。」自分でもそうわかっているような人間が、なんで「一流」になれると思うのか、素質があると信じられるのか?
夢見る中学生じゃないんですから。いや、こういうことを言うと真面目に勉学やスポーツや芸術に励んでいる中学生に失礼だ。たとえ素質があっても、なにかの分野で「一流」とみなされる存在になることは簡単なことではない。つい易きに流れるのが人間でしょう。でもそれを省みて、また頑張ってみるのも人間で、多くの人はそうやって一流とまでは行かずとも準一流、二流くらいにはなる。常野氏は31にしてその入り口にさえ立っていない。立つことはできない。彼は立たないことを売りにして生きてきたからです。
「登校拒否系」の常野氏は、言論人である東さんに対して、言論人志望者としてまともに対することをしなかった。東さんの発言を批判したいなら、普通に一人で大岡山に行って、「東さん、あなたの発言にわたしは異論があります、それについてはこのような形でまとめてきました、この場は東さんが責任を持たれている講義の場ですからここですぐ対応をされるのは難しいでしょうから、自分のブログでもこの意見を発表しようと思います、よろしければご覧になって下さい」と言わなかったのか?代わりに常野氏はどう言ったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
こう言ったのです。誰がどう見てもこれは威嚇であり、脅迫です。東さんがこんなことを書いているのが来ると知らされて、友好的に対応するはずがない。学生になにかあったらどうするか、考えるのが当然です。それを見越して常野氏はこう書いたのです。後から言い訳はなんとでも言えるが、「そんなつもりはなかった」と後から言うのは脅迫者の常套手段です。
なぜこう言ったか?結局は常野氏が避けたのですよ、まともな議論を促すのを。彼は自ら望んで、「下らない煽り」に終始したのです。
それはなぜか。常野氏はもう、まともな言論人志望者であることさえかなぐり捨てているのですよ。彼はとにかくアジテーターとして目立って、名を売って、「ちやほやされたい」だけなのです。つまり、かつての不登校児が自分の無様なプライドを慰撫したいだけなのですよ。
言論のプロを目指すことは、悪いことではないでしょう。それならば、質の高い議論をする、そのことで少しずつ自分の存在感を高めることが王道でしょう。それをしたならば、図書館に五年なり五十年なり、その議論は痕跡を残すでしょう。その道を目指さない常野氏は、もう、負けたんですよ。そしてそれをいうならば彼は、これまで勝とうとしたことがない人生ですよ。それで「とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない」でいないはずがない。それでなにか成果が上がれば、それは奇跡です。稲葉先生くらいのキャリアをお持ちの方なら、そんなことはもう、見えている。でも稲葉先生はこう呼びかける。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
常野氏を擁護する人は、いろんなことを言う。例えば東さんだって、柄谷さんの法政の講義に潜り込んで、それでデビューのきっかけをつかんだという。でも東さんは、ちゃんと潜り学生なりの作法を踏んで、威儀を整えて、ソルジェニーツィンについての原稿を見て下さいと持って行ったわけでしょう。そのときの東さんは、柄谷さんに「彼の原稿なら読んでみよう」と思わせるだけのアピールをしたんでしょう。これは卑屈とか取り入るとか言うことではない。真っ当な手順を踏むと言うことです。
かたや、常野氏はなにをやったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
といじましい嘘をついたのです。そして自分は最初、この経緯を隠して、常野氏の取り巻きは東さんを「ださい」だのなんだの罵った。「はてサ紅衛兵」は今回は東さんをリンチすることには失敗したようですが、その代わりにこういうかばい合いは発達しているのですね。でも、こういうデビューをする「言論人」なんてありえないでしょう。
あずまん、そうとう男を下げちゃったな。今回。
そこで僕から超ウルトラスーパーCの挽回策を提案します。
僕をゼロアカ優勝者にしてください。
知らない人のために言うと、講談社から10,000部の本が出せるというコンテストです。
そしたら、みんな思うと思う。あずまん、大人だなって。器として。これだけのいきさつがあった上でそうしたら。思わん?
常野氏のはなしは、なんでもやっぱりここに戻ってくる。目立ちたいよう、お金が欲しいよう、みんな僕のことをかまってよう(涙)。僕の話を聞いてくれよう、だからみんなで押しかけるよ。
どこまで虫がいいんだろう(呆)。教室を騒がせてここまで迷惑をかけた相手に、なお自分の売名への協力を呼びかける。もともとこれが言いたくって、東さんに絡んだんだろう。でもこれは、常野氏がもう他人が見えなくなっている、他者の心情を忖度できなくなっていることを実証しているだけですね。「これだけのいきさつがあった上で」「大人だなって」思わせるとかいうのは、正々堂々論陣を張って批判された場合であって、なんで「プンスカ、プンスカ、ピュー!」とか東さんをいかにも戯画化して書いていたアジテーターがその当の相手にまともな対応を期待できるのか、わからない。まして、SF大会なんかから何年も東さんに粘着しているストーカーまで同行して、これは嫌がらせ以外の何者でもない。まして常野氏はなおもこうも書いている。
糾弾っていうのは、たんに相手を傷つけるためにやるものではない。そうではなくて、相手に自分が間違っているということを自覚させることが重要とされる。だからそれは愛情と憎悪が複雑に絡み合った興奮から始まる。
けど、僕は歴史修正主義者に対して1%の希望も持っていない。必要なのは、対話でも説得でも論争でも、まして糾弾ではなく、暴力だ。
これはまたはっきりとした脅迫だなあ。「自分が間違っていると言うことを自覚させる」ために必要なのは「暴力だ」そうですが。常野氏にはもう、良心なんか残っていると期待はできないね。
稲葉先生はd:id:NakanishiB氏にも「まとまった原稿を書いて持ち込む」ことを勧めるけれども、自分が書きたいように書ける自費出版の同人誌に書いてなおパッとしない人に、いまさら広い土俵に連れ出してもなにもできないでしょう。かつてNakanishiB氏は小田島隆さんにもその悪文をたしなめられていましたが、残念なことだけれども、文章を書く力があまりにも独特な発達を遂げた人は、もう、まともな文章は書けない。
id:gerlingがこれもコメント欄に書いていたけれど、
> それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツ
そんなものできないから東とかはあんな惨めな真似をしてるんですよ。
これは東さんではなく、常野氏やNakanishiB氏への当てつけに読めてしまう。人が悪いなあ。東氏の本はお金を出す人に読んでもらえているでしょう。それへの真っ当な批判なら、またそれにもお金を出す人がいるでしょうが、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
こういう人には誰もお金を出さない。常野氏は、この先、どうのたうち回って「一流」の夢を断念するまで足掻くのでしょうかね。それまで、いろんな人に迷惑をかけそうですが。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1
はてなダイアリーは書いてないしTwitterは文字数制限あるしで、他に書くとこ思いつかなかったんで増田に書くよ。
本来の受講対象者である(ってあずまん言ってた)「東京工業大学の学部2、3年」です。数少ないらしいですけど。
別に彼のフォロワーではなく、現代思想のこともほとんど知らず、興味本位で取ってみたら話が面白かったので、というくらいの気分で受けています。
一応言っておくけど僕個人の話。
正直言って授業遅らせられるのは結構迷惑だし、
授業の流れ止めてまで活発に質問する権利は学費によって与えられてるもんだと思うし、
来ても数人かなーとか思ってたらドアの前に十数人立ち往生してて正直少し引いたし。
でもこの件でやっちゃいけないことしたのは東浩紀の方な気もするんだよなあ。
blogでは明らかに「こねーのか腰抜けども」とか挑発したりしてるし、
講義中に「僕最近ネットみてないんですけどね」と言いながら半ばムキになって反論してるし。
よそでやれよって思う。
誰に向けてるのかよく分からない感じになっちゃったけど。
トラメガ持って突撃してくるのならそれでもいいんだけど、次回でケリつけてほしいなあってだけです。
(追記)
どうして声を上げない? ってのはヘタレだからとしか言いようが無いんだけど、
しかも講義室には東さんのフォロワーがたくさんいるとなると少々ビビってしまったのもあります。
ただ、歴史修正主義がどうこうってのもそう連続してやられなければ、聴く話としては面白かったし、
昨日の講義ではもう東さんもその話題についてはあまり言及しなかったんで。
本読むよりも講義聴いた方が楽だし楽しいしそんなマジでやるつもりはないし、くらいの気持ちだったんだけど、
やはり傾倒されてる人からするとこういう態度は浅はかでウザったいのかなあ。
東さん自身の主張には大して興味はないけど、彼の話し方は聴いてて面白いし、
初心者向け、とか言ってたから本当にその程度の気持ちだったのが、
「無関心を恥じよ」とか言われてちょっと凹んだんで。
主張は余談として、あくまで知識を得るってのは悪い行為じゃないと思うんだけどなあ。
まあ理系っぽい考え方、と言われそうな気もするけどw
そもそも、専門的知識を持たないド素人であり単なる思想オタクであるところの「知識人」が、己が「知識人」であるという理由のみで何かについて権威的に意見を述べることのできる時代はとっくに過ぎ去った、というのは東が何年も前から歴史学に限らず様々な分野について繰り返し言っていることで今に始まったことではない。ちなみに、思想オタク云々までは東は言ってないと思うが、早い話がそういうことだろう。
もちろん、歴史修正主義者の主張の誤りを専門的見地から批判すること自体は今でも十分可能だ。しかし、「知識人」であるというだけで歴史学について専門的能力を持たないデブのおっさんに、何かしらの「義務」があるという主張には同意しかねる。それは歴史家(や能力ある有志)の仕事だ。そうでない東が何事かを「権威的に」述べても、思想家としての倫理的にも現実問題としても単なる信仰告白以上の意味を持たない、というのがネットを舞台に言論を戦わせてきた思想家の至ったとりあえずの結論なのだろう。
そのような風見鶏的態度は許されない、という批判の傲慢さについては既に批判を加えたので繰り返さない。東の態度は、正否はともかく「公共圏」という概念に対する真摯な取り組みの一つの帰結であることは確かなわけで、そこに取り組まずにいくら「知識人の責任」なるものを振りかざしても、議論はすれ違うだけのように思える。なお異論がある向きは、近々刊行されると思われる「思想地図」のvol.2をあたってみるのも良いのではないか。目次を見る限り、おそらく引き続き公共性問題が話題の中心になると思われるので。
「どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする」態度は、個人的には肯定する。しかし、それはやはり自明ではないし、まさに自明であるとすることが「公共圏」の範囲に恣意的な境界線を引くことである、というのが東の議論なわけで。
追記:
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081207
焦ることなくちゃんとした意見をまとまった形でネットに掲載すれば、人はいつか読むのだから。情報の断片化に対して、あきらめの態度をとるのはいかがなものかと思う。断片化する世界を工学的に乗り越える(政治!)、のではなく普通にテキストを機関銃のごとく書きつづけるのがホンモノのポストモダニストではなかろうか。
東はしばしば「知識人としての自分」と「個人としての自分」を区別して語っているので、後者としては同意するんじゃないかなぁという気がする。しかし、書籍というパブリックな場における「知識人としての自分」はこういうことを言わないのが思想家の倫理である、と思っているフシがある。
繰り返すけど、歴史学に関する専門的な能力のない東が機関銃を手にテキストを撃ち続ける義務がある、とする主張は誤りだと思う。それは、あなたや私や志ある人ややりたい人がやればよくて、そしてそのことには意味があると私も信じる。そのこととは別に、「歴史修正主義者も自分では確固としてそう信じており、その信念を否定するのは難しい」という東の議論は基本的に正しいし、きちんと取り組む必要のある課題だと思う。
というか、「東は正統なポストモダニストか」という論点はあんまり意味がないと思うんですけどね。「東はデリダの教えを受け継いでいない」という主張が真だとして、東の公共性に関する議論を否定できるわけではないし(東が至った絶望というのは東個人がこれまで出会ったものに強く関係しているのだろうし)。もちろん、デリダがどう言っていたかを調べることで、新しい視点が出てくるということはあるかもしれないけど。
A.違います。
社会の時間に「言論の自由」について習って、んでもってそれ以上の勉強はしてないふつーの人には、相対主義批判は「言論の自由」に反しているように見えたりします。意見の多様性を認めない、ということだからですね。でもそもそも、「多用な意見を認めない」の「認めない」ってどういう意味だ。
さらに言えば、「馬鹿は口を出すな」は、「非国民は黙っていろ」と被って見える。ほんとは大きく違います。「学」と「愛国心」がまず違う。迫害の有無が違う。ただ、時勢によってこれらは見分けがつかない物になるかもしれません。戦時においては「無知ゆえに非国民」という考え方もあったでしょう。
いろんな文化を認めましょう、というのも相対主義。文化相対主義。宗教だったり食文化だったりに偏見を持つのはやめましょう、っていう考え方。捕鯨だったり、食用犬だったり。どうですか。どう思うよ。どうだ。文化相対主義の理論自体を否定する人はあまりいないけど、テロ、奴隷、虐殺なんかを文化と居直った物を認めるべきか、っていう問題がある。んで、倫理と文化は密接に関わっている物の、そこは別問題だろ、ということになってるらしい。倫理相対主義とか言っちゃったり。
でもね、そもそも相対主義は何かを擁護するためのものではなくて、単に偏見を持たないようにするためのものなわけだ。だから原則論としては、相対主義そのものより、歴史修正主義や疑似科学が相対主義を利用することをこそ、批判するべき。するべきなんだけど、相対主義が歴史修正主義や疑似科学の温床になってるから相対主義そのものを否定しておきたい。ええい、もう相対主義はうんざりだ! 諸悪の根源め! うんざりうんざり! うるさいうるさいうるちゃい!という思いを抱いてる識者や学者は多い。もうピリピリしてる。
彼らにとって、隙あらばこちらに身をねじ込もうとしてくる歴史修正主義や疑似科学(或いは、歴史修正主義を含む疑似科学)に対抗する手段は、「そうは言っても、実際のところはわからないよなー」という意見をも、認めないことなのです。ようするに、「わからないなら、わざわざわからないってことも言うなよ!」なのです。そうすると、議論が混乱しない。理想的ですね。
ところで、この対抗策は現実的ではないですね。馬鹿に「馬鹿は黙っていろ。口を出したきゃ勉強しろ」と言うことはできるけど、でも言うことができるだけ。これは言論の自由の否定でも、言論統制でもない。説教でしかないんです。言論統制なんてできるわきゃないんです。
で、逆に言うと。言論の自由が認められている以上、誰が何を許さなくても、誰が馬鹿を糞の如く罵ったとしても、結局、あらゆる意見が世の中に出回るってことは、容認されてしまう。最近やり玉にあがってる東氏の考えは、それでも暴走しない社会作りをどうすればいいか、というものですね。
で、表現に気を使わない東さん、「勉強不足」や「誤認識」を持つ人間が出ることは避けられないし、彼らを黙らせる有効な手段はないですよねー、どうしましょう、という例に「南京大虐殺」を使ったことで、歴史修正主義者どもにぴりぴりしてる歴史学者さんとかに総叩きにあってるわけですね。「僕も実感がない」とか言っちゃって、「わからないなら勉強しろ、勉強しないなら口を出すな」と言われてるわけです。傍目から見てたら「過剰反応じゃないの……?」って思う人もいるかも知れないけど、さっきも言ったように学者や識者はぴりぴりうんざりだ。
ところでどうすりゃいいんだ。そうだ。そもそも、全ての人間に、正しい歴史認識をちゃーんと教育してやればいいんです。そうすれば、無知な民衆を味方につけようとしている、故意犯的な歴史修正主義者達を孤立させることができます。理想的ですね。
ところで、この案は現実的ではない。たとえば歴史学だけならば、それほど多くの問題はない。いや、歴史学が簡単という意味ではないけど。でも歴史学でよく問題になる重要なことだけを抑える、というなら不可能とは言えないかもしれない。極端な話をすれば、まともな学者とそうでない学者を見分けることができるようになるだけでもだいぶ違う。
でもこれは歴史学だけに絞った話で、全ての馬鹿が、全ての分野において正しい見識を持つのは無理ですね。持つのが理想だけど、無理なわけです。無理なんだよ、よく覚えとけ天才ども。
とすると、無知そのものを批判するわけにはいかなくなる。全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、と論ずる人を批判するのもおかしくなります。そう、全ての分野において正しい見識を持つことが不可能である、という事実を言い訳に、勉強しようともせず好き勝手言う人を批判するべきです。勉強していない分野のことは黙っていろ、という話になります。あ、戻ってしまいましたね。
実際あの手の議論は、この単純な二つの議論を行ったり来たりしてるだけですよね。ねこ大好き。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080805/p10
こりゃすごいね.ご本人はこれが「言論による対抗を断念・放棄して泣きわめいてる」以外の何かに見えると思って書いてらっしゃるのかしら.歴史修正主義がどうのこうのって論争の時にはそれなりにまともな論客であるかのように見えてたんだけど,なんとも無残.わずか半年ちょっとで人はここまで腐るものなのか.それとも自分の得意ジャンルの外へ,それと自覚できずにはみ出しちゃった人の末路はこんなものなのか.
前にこの人に,なんかこちらの書いたことに文句を言いたいってことだけは伝わってくるコメントをいただいたけど,どうやらスルーして正解だったみたい.HALTAN氏もマメで律儀ですね.こんなものによく正面からつきあえるものです.
エースなんかいなさそうだよねぇ。南京事件の議論のgdgdぶりとかを見てると、
右も左も本当にまあ…ヒマだなあと思うよ。
どうも型にはまった議論になるわけよ。
あなたの「エース」という言葉で少し着想できたよ。ありがとう。
要するに、歴史修正主義者を叩くことが自分が量産型ではないというアイデンティティの確認に
つながってるから、あんだけ流行ってんのかなって気はしますね。
よくはてなにいるんだけど、「歴史修正主義」とかいって得々としている人がいるじゃん。
あーゆー文章書く香具師って、結局朝日新聞側(戦後の言論界では圧倒的強者)に擦り寄りたいだけなんだよね。
で、「ボクは頭良い!!ネトウヨざけんな!」とか思ってるんだよな。
あたまよくないから。思考停止状態であることには変わりないからね。
君らのやってることも全部コピペ。思考方法は旧社会党左派の真似。自分の頭を使わない
言論ほど無駄なことはないっす。マジで。まあ、これはウヨにも言えますがね。
60年前の史実を口角泡飛ばして論じて、何か良いことある?何もないですよ。
金が儲かるわけでもないし、楽しくないっしょ。
あんたらもネトウヨと大してかわんねーじゃん、と、右も左も嫌いなおいらは思うのだった。
ネトウヨが崇拝する時代が昭和戦前で、あんたらの崇拝する時代が
未熟なハンターは迷惑なだけじゃなくて危険なんだよな。人を間違って撃つおそれがあるから。
ネット見てると疑似科学叩きとか歴史修正主義叩きとかやってる人がいるけど、後者はともかく前者についてはそういう意味で俺はかなり苦々しい思いがあるんだよね。なぜなら、疑似科学ハンターやってる人間自身が科学的思考法をろくすっぽ理解してなかったりして、これもまた科学哲学をろくに理解してない「科学主義者叩き」の温床になってたりする。で、そういう奴らが科学であろうと歴史学であろうとあるいは科学哲学であろうとそういう分野への偏見を増殖してるんだから、専門家にとっては迷惑この上ない話だよ。
それで、君は何が目的なのかな?ウヨあぶり出しとか言ってたけど、わかっててわからんふりをしてるのか、本当にわかってないのかどちらなのか。
俺が言っているのはあくまで「君の意見には反論がいくつも考えられて、たとえば例1、例2、例3・・・」という話だ。君はその中で、俺が「例1」まで言ったところでそこに延々と噛み付いて、それを元に反動主義者だとかウヨ認定だとかしてくれてるわけだよね、俺に。正直、確かに「例1」は粗雑な議論なんだが、自己啓発厨やネトウヨみたいな反知性主義者なら一番簡単に料理できる論法なんだよ。ところが君は反知性主義者じゃなくて素朴近代主義者だったわけで、その意味ではかえって逆効果だったかもしれん。ただそこを見誤ったというのはディベートの戦術としての問題ではあっても、勝ち負けで議論しているわけではない俺としては別になにも痛くないわけだ。
これがわからんのだったら、正直本気で頭が悪いと思うぞ。君はswitch文で最初のcaseに引っかからなかったらswitch文を抜けると思ってるのかね?
で、いつまで撤回した仮定を引きずるわけ?w
つまり、君が絡まなくなるまでだ。
別にITに限ったことではない。だが、英語である必然性はないと言っているんだ。むしろ、近代科学の初期の頃にラテン語が用いられたことに比べてこの点では退歩している。英語という言語は公平ではないし、習得が容易なわけでもないんだから。
ナショナリズムの浸透によって各国で自国語が用いられるようになり、第二次大戦の時にヨーロッパの有力な科学者がこぞってアメリカに亡命したことが結果的に英語一極支配を作ったというだけのことだ。つまり、英語支配というのはアメリカのナショナリズムの勝利ということなのだ。
で、それを「韓信の股くぐり」で受けいれるというのなら俺は反対しない。しかし、文化資本(英語も文化資本あるいはそれと類似の構造の産物だぞ?)による階層格差を否定する君が、「英語帝国主義で構わん」というのだから、これは明らかなダブスタだろう。それを俺はおかしいと言っているんだ。
底上げをすることと、古典をやめるなどして内容を減らすことは全然関係がないだろう。それからもう一つ、俺は「普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンする」なんて話は一度もしていない。
それは、特にアセンブラが必要でもないケースでか? ちょっと勘弁して欲しいなw まあ仕事としてうまくやれてるならそれでもいいけどさ、特殊ケースだろ?
特殊ケースじゃない。大多数の人にとって計算機やプログラミング言語というのは単なる道具だからだ。字を書いてる人間はいくらでもいるが、みんなが書道を習っているわけではないというのと同じこと。計算機自体が目的ではないのだから、不便を感じなければ勉強しない、他にすることはいくらでもあるという人は多い。だから、それ以上の領域は趣味と考えるべき。その意味で、明らかに筋の悪い無駄なコードを書かないようにするための感覚だけが身に付いていればそれでよしと考えるのは割と普通のこと。
以下は枝葉末節。
具体的に挙げてくれる? 君の議論の最大の弱点って多分具体性がないことだから。
いや、君の「役に立つ」の基準がわからんと、また筋違いな方向から噛み付かれるだろうからうんざりしてるんだよ。君は何をもって「役に立つ」としているのか、それを挙げてみてくれ。率直に言えば、普遍的な観点から「役に立つ」なんて断言できるものはほとんどないと思うが(洋の東西を問わず)、絞ってくれれば答えもできよう。
そりゃ「影響」はしてるだろうがな。別にキリスト教の神である必然性などない。/いや、親鸞の書いたものは当然古語で書かれてるでしょ?
一神教文化圏で「神」といえば論理的に当然限定されるわけだが。まして、冠詞がある欧米語では"the God"のようにそのことは明示される。で、日本の古典というのは君にとって親鸞以外読む価値がないのか?ちなみに親鸞というのはむしろ江戸時代以前の過小評価の反動で明治以降に過大評価されているんだが。正確に言うと過大評価というより、君のような近代主義者が、日本にプロテスタンティズムの代替物を無理に求めた結果親鸞を再発見したということだ。
いや君がニュートンを引き合いに出したんでしょうに。民主主義に関してはギリシャにまで遡って意義深い書籍を見つけることは出来るだろうなあ。
さすがにニュートンより古いものを引用する奴はいないからなあ(ガリレイとかならあるかも)。あと、ギリシャの民主主義については明確に誤解。ギリシャに伝統を引いてくるのは反王権主義者が持ち出した大義名分的なものであって、明治維新で倒幕派が天皇を担ぎ出したのと同じこと。ギリシャの民主政というのは市民階級(貴族階級と言おうか)だけのものであって、そんなことを言えば日本の惣とか寄合の方がよほど民主的かもしれない。
いい加減にしろ。
とうとうAとかBとか言い出した。問いに対する直接な返答のない、君のプライドを取り繕うだけの形式議論には付き合いたくないんだけど。
人の言ったことを馬鹿な方向に歪めて脳内補完した前提の問いになんか答えたら話の方向が見えなくなるだけだろうが。一応答えてやったら答えてやったで、あんたは「やっぱりこいつは馬鹿だった」と一人で納得するだけみたいだしさ。
俺はそういう風に「いかなる手段を用いても勝つ」術に極めて疎いのは確かなので、だったら話を整理するしかなかろうよ。
いや、相手が出した問いには答えようよ。クリティカルな問いを全部無視して、見た目新しい論点を次々展開し続ければそれで勝利ですか?
自己紹介乙!
クリティカルじゃないから無視してんだよ。一つの例示の挙げ足を取って枝葉末節に誘導するのがあんたのやり方みたいだからその手には乗らないということだ。
それ以上君は何を望んでるんだ?
何のためにだ?君の論点は少なくともこの場は認めると言ってるんだ。それでその問いをする必要はなくなったはずだ。
例えば、近代以前の知識人の書いたものを元々の形で読もうと思ったら古語の知識がいるだろう。その中には、例えば宗教的に価値のあるものもあるから、一般人レベルでも有用になることもあるだろう。そんな感じで攻めることは出来るんじゃない?
お前が言うな!日本文化は役に立たない、欧米様は素晴らしいという人間にそんな理屈を説いたら、さらに折伏にかかってくるに決まってるだろうが。
別に何語でもいいけど、今はデファクトスタンダードで英語ってだけだろ?
「教養」の話でデファクトスタンダードにとりあえず乗れと言ったら一人で血圧上げたのはどこの誰だ?
植民地支配と侵略戦争をたかだか五十年でやめた日本人は、五百年続けてきた西欧人の十倍賢いのかね。それとも、西欧に学ぶためにあと四百五十年虐殺しろっていうのかね。
うひゃひゃ、バカだバカだ。ごめん、その方面は相手し切れんわw
なに言ってんだか。お前が「その方面」に持ち込んだんだろ。あんたが、何を言っても欧米様は素晴らしい、日本はダメだというその論法、「日本は素晴らしい、特定アジアはダメだ」というのと同じだということに気付け。わかりやすく論法の破綻を指摘してやると、俺が馬鹿だということにするんだからなあ。
俺の専門分野で、(ダメな)東大生に勝る仕事をしてるからなあ。優秀な東大生には負けるかもしれんが、優秀な高卒にも負けるからあんまり関係ないし。
一応あんたの言うことが客観的に妥当だと仮定して話すが、優秀な高卒に負ける分野ってのはつまり予備知識があまりなくても対等に戦える分野、俗っぽく言えば「学歴」より「地頭」がものをいう分野なんだよ。たまたまあんたがそういう分野にいるというだけだ。全ての分野がそうだと思うなよ。
あのさ、別になんの工夫もしなくても、日本に一杯ある大学のどこかは日本トップなんだよ? だから、東大レベルの教育ってのは、いつでも東大レベルなんだよ。
「日本トップ」なんて限定は誰がしたか。世界レベルの話をしてるんだろうが。MITって言ったのはどこの誰だ、ボケ。お前はいつもそれだ。相手の言ったことを矮小化し、その上で馬鹿にする。感情を逆撫でする方法としては賢明な手段だな。
ほら、勝手に知らないことにしてる。ちょっと話に乗ってやるとすぐこれだ。理系の人間ならFortranぐらい誰でも知ってるわ、ボケ。
だからあんたの質問には答えたくないんだよ。勝手にそうやってどっかから話を捏造するから。あんたの話は歴史修正主義者とか水伝とかカルトとかそういう方向の奴と同じで、無理矢理自分の土俵に引きずり込んで挙げ足とって自分の教義を演説するってやつだからな。
なぜそういうものができないか?
じゃあ、たとえば、反歴史修正主義とか反疑似科学のFAQってあなた見たことありますか?いや、かなり上質なものがあるんですよ。でも、歴史修正主義者や疑似科学信奉者はそれを読まないでしょ。だから、反歴史修正主義や反疑似科学の論陣を張る人も、もう諦めてしまってる。「ググれカス」どころか、「ググる」ことをしない人たちこそが歴史修正主義者であり、疑似科学信奉者の本質なんですよ。
非モテにしても同じこと。非モテ論が歴史学や自然科学ほどの確固たる基礎を持ってるとはさすがに非モテの俺でも思いはしないが、しかし反非モテブロガーのお粗末さはそれに輪を掛けてひどいものですぜ。
何よりもまず、「非モテとはプレイボーイになりくてもなれない奴のこと」という誤解一つ未だに解けないわけです。そうした前提を踏まえないで「非モテはキモい、うざい」なんて頭ごなしに決めつけるコメントが数多く入ってくるのでは、なかなか神経が持ちませんよ。まして、「覚悟」みたいな極端な一例をもって「非モテは、女は全て肉○○だと思ってるんだろう!」とかそういう頭ごなしの非難までが一定周期で降りかかってくるのでは、とても当初の目的を果たすどころではない。こうした論点は既に何度も通過されたところであるのに、誤解を解けば解くほど誤解する人間が増えていくような無力感に陥るわけです。「なんどめだ」という言葉を非モテがつぶやくのはどういうことか考えてみてほしい。「どうせFAQを作っても読んでくれないだろう」という諦念が非モテには共有されてるわけです。
実際、非モテを叩いてる人ってのは、過去記事読めと具体的な記事を挙げても、まともに読まずに、色眼鏡で頭ごなしに罵倒してくる人ばっかりなわけでしてね。FAQを作ったところで事態が改善されると思うほど非モテはおめでたくないですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/歴史修正主義 から引用
歴史学における「歴史修正主義」と世俗的な用法としての「歴史修正主義」があるが、
歴史学においては、歴史修正主義とは、新しく発見された史料や、既存情報の再解釈により、歴史を叙述し直すことを主眼とした、歴史学における試みのひとつを表わす。一般には、伝統的な歴史解釈に対し、別の可能性(仮説)や、可読性(読み方)を提示する試みをいう。
らしい。
たぶん批判されているのは「世俗的な用法としての「歴史修正主義」」なのだろう。
根本的な主義主張はもっともと言うより間違いではない気もするけど、
実際にやっていることをみるとなんだかな、そして主義主張まで全否定となっているのだろう。
何をやるにしても、集まってきた人を適切に振るいにかけておかないと、
根本まで汚染されてしまうのだろう。
ネット上でも自分が有利になればと思って清濁飲んだつもりが、逆に飲まれてしまって
絶賛砂漠中なブログがあったりする。たいそうな主義主張だったが、如何せん本人が痛かった。痛すぎた。
よくあることなのだろうが、また場所を変えて活躍されるとの風の便りを聞いたが、
本性がばれないようにがんばってもらいたい。