はてなキーワード: 政治問題とは
社会や働くということに対して甘い人たちがこんな偉そうな顔をしていて、それに税金が使われて、そしてそんな人を守る方向に国が動いちゃっている。
ちゃんと真面目に頑張っている人たちが損を見るだけで、すごく不愉快。
この部分だけきっちり伝えれば良いんじゃないの?論破する方法は分からないけど、少なくとも増田の主張はこれで伝わる。
たぶん相手はそこまで詳しく考えてないと思う。ただ自分の出来る範囲で目の前の困っている人を助けたかっただけ。視点が局所的か大局的かの違い。議論がすれ違うのは仕方ない。
今回は局所的な活動が政治的なメッセージにたまたまなったのでコンフリクトが起きた。けど基本的に、1ボランティアが社会に与える影響などと言うのは本来微々たるものであって、本人たちの多くはそれは自覚していると思う。分かっていて、でも人助けに動くのがボランティア。そういう人も世の中にはそれなりに一定数いるし、そういう人たちの優しさに助けられる人もそれほど多くないけどいると言うこと。
適切かどうか分からんがボランティア繋がりで言えば、例えば。ペシャワールで命を落とした伊藤和也さんなんて歴史の大きな流れの中ではほとんど忘れられていく存在でしょ。ほとんど意味のないことかも知れない。ただそもそも彼は政治的なおおきなうねりをつくりだしたくて行ったわけではないと思ってる。ただ愚直に平和を望んだだけ。そして、彼に優しさを分けてもらったアフガン人は少数だけど確実に存在する。
派遣村も、舞台が東京だったから世の中の暗部が目の前に可視化されて不愉快に感じる人だってそれなりに出てしまったけど、俺はただそれだけのことだと思っている。
公共サービスへのフリーライドも、理不尽な解雇を突きつけられた派遣社員も、もっというと会社への滅私奉公を強制され自殺に追い込まれるすれすれのところで働いている人も、全て現代社会の暗部であり、政治問題であり、容易に解決はしないことなのだと思う。
さの対策。
平穏なブログ運営。だから増田で。気づかれても目をそらさず否定できる。
<中立ごっこ、未熟者と失笑されようが、物言えば唇寒しの状況は気持ちが悪い>意欲は買うが、長年の南京論争を眺めてきた増田には、新参者が手首足首を縛り氷河に飛び込む軽業師に見える。酷な言い方だが、あがいて浮上を繰り返しても、ガスが腹の中で膨らんでいるとしか思えない。如才ない奇術師はパンツに剃刀を縫いこんでいる。南京論争には初心者が陥りやすいトラップがあり、反論もルーチンワークの仕掛けになっている。情熱も知識もない増田だから助言。長文も対応策のひとつ。ひるまないでいただきたい。
三項目の問題点、最後に可能性を探る。
(1)数字
<それでおたくは何人と考えてる訳?>南京事件に触れ、まず数を考える者は多いらしく、頭に浮かんだ疑問をそのまま論争に持ち込む初学が後を絶たない。四万に留意する事。四万以下の数字を主張するのは、はてサに<虐殺三十万人説を証明しろ>と迫るのと変わらない。一蹴されるのが落ちだ。数字は慰安婦強制性では虚偽説の代表的論客である秦郁彦が、廃棄処分を免れた現存する日本側文書を軸にし、明らかに不当な、不法なケースを取り上げて最低限の数を順次加算したもの。覆すには秦の著書を購入し、関連書を参照しなければならない。本末転倒で、不本意な作業を強いられる。四万以上の数を扱う場合は当然資料も増え、最終的に中国側の農村部での人口推移の調査報告まで視野に入れなければならなくなる。
<証明できるのか? 二十、二百かも知れないではないか>見出しの百の文字に惑わされてはならない。元中尉の名誉回復裁判は人数が焦点ではない(数にこだわるなら政治屋弁護士と心中する覚悟がいる)。増田の知る中ではてサに「百人も殺したのだから処刑されて当然」と主張する論者はなかった。「国を挙げての士気高揚、その象徴的人物が戦後に個人の責任を問われた」事件と認識され、同情的な見方もある。産経の「捏造」、「真っ赤な嘘」が指すのは、言論統制、検閲を断行した政府、それに唯々諾々と従った当時の報道人と国民に対する侮蔑だと把握しておけば足元をすくわれない。
(2)検証
テンプレがネット上に大量に転がり、手軽さも手伝うのか、初心者がもっともはまりやすく、もっとも論立てが煩雑なのが細部の検証だ。手軽な詰問に対しては反論も数通りのテンプレが用意されている事に気づかないといけない。相手は気分に応じて資料を選ぶ。複数あるのは遺物の集積と相互依存で史実が成り立っているからだ。独自の疑問点を設定するには書籍の購入が必要であり、新書一冊ではまかなえない。たとえば(1)の不当、不法に言及する場合は法学に踏み込むことになる。質問者をよそおって相手の出方を研究する手口も使えない。また万一資料に不信を植えつける事に成功しても、一人の証言者、一枚の写真に疑問符を付けただけで終わってしまう。労多く功無し。
(ただし「功無し」は学術上に限って。目ざましい功労者にポストを提示する教育機関が現れても増田は驚かない)
(3)政治
<謝罪を繰り返させられ、外交で押し切られる隙を残すのは国益を損なう。否定派には存在意義があるのではないか>メタ視線は悪くないが、楽な筋道ではないのは胆に銘じる。最初に日中間に「南京問題」は存在しない事を確認してほしい。政府は「肯定派」であり、中国は賠償も新たな謝罪も要求していない(調査のために遺骨を発掘しろと主張する者がいたが、ビルや田畑を取り壊す政治力や膨大な費用を日本政府が負う事はない。有志による個人負担となる訳だ)。決議に反した閣僚の発言が、政治問題化しないための「強い遺憾」と「村山談話」の応酬が謝罪の内実。また外交問題ではなく国内問題とする誘導に抵抗するのは並大抵でない。はてサに<中国が怒ってる、問題だ>と、一時期の朝日の影を思い描くのは悪手だ。富田メモによって、靖国親拝中断が中国の干渉によるものとしてきた右派は、靖国を国内問題に渡らせないために「天皇」と靖国の距離を広げざるをえなくなった。辞任問題に踏み込めば、閣僚らの特権的地位について逆に問い返される覚悟が必要。初歩の問答を想定しよう。
「旧軍はバターン半島で捕虜らに最大限配慮した。非難は不当」が持論の司令が、「A区調整、全住民を安全に配慮しつつ速やかにB区へ避難させよ」と命じられたら?
「日本は資産を持ち出してまで朝鮮に富をもたらした。利他的で手本となる施策であった」と講演する政治家が、経済相か雇用対策の特命相に任命されたら?
不用意に無償の政治カードを世界に乱発する人物が、通商代表として使節団を率いるとしたら?
(バターンに関してはネット情報でカバーできる。植民地事情に関しては英国と植民地印度の貿易収支が英側の赤字であった事、双子の赤字を抱えた米国が二つの戦争を始めるほど好景気だった事、当時の日本政府と国民が、兵士の生命と財産を供出しても特アの隆盛を切望したと夢想するだけで間に合うだろう)
(4)トウハセイ
<嘲笑と罵倒では相手は聞く耳を持たない。壁に大声でがなりたて、言い返してこないとふんぞり返るようなものだ>読者を無視さえすれば、論争で宗旨替えした否定派が皆無という事実がこの主張の説得力を後押しする。ここで唯一のトラップは、はてサの多くが自身の党派性を否定していない現実だ。質問に質問を重ねるのを逃亡とみては失敗する。彼らは論争に通じ、経験から言質を取られ議論が拡散する事を嫌う(「黙らせるための問答で満足している」と左派から非難された左の論客もいたが)。<イデオロギーで記事を選る、コメ欄に同調者が群れる>といった非難は想定内なので、泥仕合に持ち込むつもりがなければ控える(泥試合が有効な左派も存在するが、医療、疑似科学がテーマ)。党派性で彼らの選択ではなく論理が歪んでいると考えるならば、事の検証が欠かせず、(2)へと戻る。膨大な過去ログを読む必要も。しかし、増田が提案できるのはこの(4)だけ。遠回りで時間は取られるが、非専門家でも順次対応可能で、一点突破も目指せる。
「自己責任云々の前に正しい知識を共有するべき - 狐の王国」(http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20081201/1228092446)を読んでもっともだと思う部分もあるのだけど、対象を変えてもそう思えるだろうかと考えた。
たとえば痴漢冤罪なんかはどうだろうとか。この場合でも冤罪の被害者に法的な落ち度は無くて、悪いのは犯人だ。
正直それはどーよ、って思うんだよな。別に自己責任だなんて思わないし犯人はがっつり捕まえてぎっちりしめあげとけとか思うんだけど、被害者に非が無いとまでは俺には言えない。
という風に思えるだろうかということ。他には美人局などもあるか。
デモに参加したら警察につかまったとか、ただ歩いていたら職務質問されたとかはどうだろう。
もう少し違う方面でいくと、はてなブックマークがリニューアルしたことによって旧ブックマークのヘッダーなどの設定が消えてしまったことなんかも「正しい知識」でなんとかすべきなのかとか。ダイアリーのデータが全て消える可能性だって無いとはいえない。
危険な街、危険な時間帯、危険なシチュエーションというのはあるはずだし、それらはもっと広く研究して「正しい知識」を得るべきだ。従来はなんとなく倫理感や常識という形で共有されて来たものだが、実際迷信化してるものも多いだろう。こういう犯罪防止策を政治問題のように扱ってはいけない。
とにかく危険を避ける力を身に付けることを否定しないで欲しい。必要なのは、正しい装備と計画をもって登山に望むことだ。それで遭難した人が責められることは無いのだから。
俺は右翼とも左翼とも一定の距離を持っているし、是々非々で議論をしたいと常に心がけている。議論をする時には、なるべく論拠を示し、具体的にすべきだと思っている。
左翼は、論拠とか理由を示さない場合が非常に多い。顕著な特徴だと思う。たとえば、http://anond.hatelabo.jp/20081102115648
ここでは、
>内容的にも事実誤認だらけで論外の電波、というのがだいたい見解一致じゃないかなぁ。
↑これは防衛庁高官の田母神論文について言ってるんだけど、まず、「事実誤認だらけ」と言ってるだけで、具体例をまったく挙げていない。言いっぱなし。
「だいたい見解一致じゃないかなぁ」←自分が感じたそのままが世間一般にピタリと当てはまると、やはり何の根拠もなしに思って疑わない。
そもそもこの人はたぶん田母神論文も読んでいない。僕も読んでない。だから、判断できないんだよね。このコメントをしてる人も、たぶん読んでない。(まだ発表前の論文だし。)それでも、判断できるっていうんだよね。防衛庁の高官って言ったらこのての問題の超スペシャリスト。おまけに300万円を獲得した論文だという。一目置こう、という気になるはずなのに、「論外の電波」だって。匿名の掲示板で。どっちが電波かと。
一方右翼は、けっこう論拠を示すんだよね。具体的に古い資料引っ張ってきたりして。でも、一面的で、その他の情報をまったく無視したりする。たとえば先の戦争にしても、日本が帝国主義を拡大していった背景にはまず良心があることを強調する。一方で、そのまずかった結果についての反省がない。良心を押し売りされた側への同情なんてこれっぽっちもない。左翼も狭心だけど、右翼も別の種類の心の狭さがある。
右翼は、無条件で国を愛さない奴を許せない一方で、国の欠点についてまったく反省しない。一方左翼は、無条件で日本が駄目な国だと思わなければ、そいつを軽蔑する。
僕のイメージとして、右翼というのは、狭い穴の中に閉じこもろうとしている。左翼は、どこかにイデオロギーという棒が1本立っていて、そこに寄せ集まっていて、他の一般人もそこに集まってくれるのを期待して無駄な一生を終える。
ネットでは、政治問題となると、敵対する相手をウヨク、サヨクって呼ぶ。場合によってはコリア系と。どれをとっても、日本人全体に占める割合は多くて2、3%なんだよね。だから、ウヨ、サヨ言い合っている状況というのは、大多数の日本人を疎外してるんだよね。中にはそういうイデオロギーに沿って工作活動をしている場合もあるのかもしれないが、そうにしたって一般の人を疎外する結果であることに変わりはない。
はた迷惑なんだよね。両方とも国民大多数の支持なんか得られるわけがないのに。
【政論探求】ホテルのバーがなぜ悪い
麻生太郎首相の「高級ホテルのバー通い」がなにやら政治問題化している。これのどこが悪いというのか。
どうやら特定の記者がしつこく追及し、これをほかのメディアも伝えているというのが実情らしい。こんなことが政治報道の軸になってはたまらない。
筆者などが政治の現場で走り回っていたころは、こういう特殊な記者がいたら、よってたかって成敗したものだ。国民に知らせるべき肝心の政治取材が阻害されるからだ。
まして、いま、政治の最大の焦点は100年に一度といわれる世界的経済危機と国内政局との関係にある。こういうつまらない質問で首相を煩わせていいのか。首相にただすべきことはほかにいくらもある。
このコラムでも以前、首相就任前の麻生氏が夜の会合を終えてからなじみの酒場に毎晩のように顔を出すことを紹介したが、これは、気力、体力の充実ぶりを示すものとしての話だ。失礼ながら、あのトシで酒場に精勤するというのは、なまなかのことではない。
麻生首相の場合、一日の最後に好きな葉巻と酒でリフレッシュすることと、重要人物との密談が目的という。首相のライフスタイルと情報収集の邪魔をしてはいけない。
かつて政治家の夜の密談場所としては料亭が通り相場だったが、料亭そのものがめっきり減った。ホテルのバーなら料亭よりも格安だし、ロビーがあるから記者たちが待機する場所にも困らない。
それを庶民感覚と結び付けて報じるのはどういう神経か。首相が一杯飲み屋に通っていたら、この方が問題だ。警備も大変だし、一般客に迷惑をかける。
筆者の現役時代は料亭の前で待った。出口のまん前に車を止めてさっと乗られてしまうから、つかまえるのが厄介だ。表向きの会合だけならいいが、ときに「カゴ脱け」をやられる。別の部屋に本来の密談相手に待っていてもらい、会合を中座して会うというものだ。だから、会合の一群が帰ったあと、電柱の影でしばらく待つということもやった。空振りも多かったが、要人たちの密談取材は体力勝負でもあった。
首相がホテルのバーを利用していることがニュースになるというのでは、政治報道の「劣化」を意味するのではないかと気になる。(客員編集委員 花岡信昭)
まあ、どのくらいの数のイ映オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のイ映趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないインド映画の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、インド映画のことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女にインド映画を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う休憩2回、3回のインド映画は避けたい。
あと、いくらイ映的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
無声映画好きが『ハリシュチャンドラ王』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
インドの知識はいわゆる「カレーで美人」的なものを除けば、旅番組程度はたまに見ている
映画好き度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「DDLJ以前」を濃縮しきっていて、「DDLJ以後」を決定づけた
という点では外せないんだよなあ。長さも189分だし。ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、
彼女との関係が崩れるかも。この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、
それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション
アレって典型的な「オタクが考える日本の一般人に受け入れられそうなインド映画
(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「イ映オタとしてはこの二つは“映画”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFイ映オタが持ってる東南アジアへの憧憬と、シンガポール観光局たぶん未監修の
オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えて
いかにもローシャン兄弟な
「山奥のおばあちゃん子的なださカッコよさ」を体現するクリシュナ
「山奥のおばあちゃん子的に好みな女」を体現するプリヤー
の二人をはじめとして、イ映好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「七人の侍だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがインドでは大人気になったこと、インドなら10年ごとに
リメイクされて、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、近年日本国内でこういうのが
つくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりインド映画は未婚男性のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは
「ヴィールとザーラ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるカーンの
思いが好きだから。断腸の思いで削りに削ってそれでも2時間54分、っていう尺が、どうしても俺の心を
つかんでしまうのは、その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えて
しまうから。 MHN の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、
一方でこれがバンサーリーやヴァルマだったらきっちり2時間30分にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に歌掛けて唾かけさせて2時間54分を作ってしまう、というあたり、どうしても「自分の
物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえカーンがそういうキャラでなかった
としても、親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でラジニ映画見たことある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
パダヤッパよりも前の段階で、ラヴィクマールの哲学とか特撮技法とかはこの作品で頂点に達していた
とも言えて、こういうクオリティの作品がタミル映画でこの時代にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくイ映好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆるタミル政治問題でしかラジニを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
レカーの「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、
ということではなくて。「終わらない踊り見物を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかな
ということを感じていて、だからこそアイシュワリヤ&アビシェク夫妻の初リメイク作はウムラオ・
ジャーン以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その
「オタクの気分」の源はウムラオ・ジャーンにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも
口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうジュベナイル小説風味の恋愛をこういうかたちでテルグ映画化して、それが非オタに
受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にKHNHを選んだ。
DDLJから始まってKHNHで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降の海外フルロケ時代の
先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
かんたんに疑問点・問題点の指摘だけしておく。
第一点。元増田は、言論を振りまく奴はけっきょくどこかの勢力に擦り寄りたいだけとして、一種のイデオロギー批判をしているわけだが、しかし「右も左も嫌いなおいら」という立場もまた、ある一定の勢力に与するものではないのか。はっきり言ってしまえば、そうした立場は「イデオロギーは嫌いだというイデオロギー」で、じっさいこうした立場は、60年代以降長らく自民党政権を支えてきた立場でもある(安部のように右派的イデオロギーを公然と主張したのはむしろ例外)。けっきょく、左右両極をキモいと言って批判することは、その心情はともかくとして、客観的な結果としては自民党に擦り寄る役割を果たしうる。この点をどう考えるか。
第二点。言論は無駄で、歴史を論ずることは無意味という主張について。現実問題として政治が言論によって行われ、歴史認識が重要な政治問題になっているという事実をどう考えているのか。あるいはもし職業政治家以外の人が言論をやることが無駄だというのなら、民主政治ということをどう考えているのか。
小林よしのりに感化されて軍拡マンセーしていた昔の俺みたいなオタクもいれば、
ヘルメットかぶってアキハバラ解放!とか叫んでたようなオタクだっている。
また、ガンオタでも作中で使われている技術や理論について語りたがる(エセ)理系オタクもいれば、
俺ニュータイプ論やシャア史を語りたがる(エセ)文系オタクだっている。
俺の身近なオタクにも、メンヘラさんやかまってちゃん、空気が著しく読めない奴(俺のことだけど)に、
陰謀論大好きさん、新興宗教ガチはまりさん……等、いろんなタイプがいて、
十把一絡げにオタクと言う分類わけをするのは難しいと思う。
だいたい元増田の言ってることなんて、どんな思想にも当てはまりそうなものだけどなぁ。
共産主義思想だってブルジョアジーを悪の枢軸に仕立て上げ(善悪二元論)、
搾取される労働者とやらに感情移入をして(感情移入と過度の思い入れ)、
歴史必然的にプロレタリア革命は起こると自身の暴力を正当化する(観念的空想、拗ね者意識、ルサンチマン)。
また、ヒトラーだってユダヤ人とその資本を絶対悪に仕立て上げ、
アーリア民族の優秀性を説いて、文化破壊者であるユダヤ人をぶっ潰せと喧伝したわけだ。
構図としては上の共産主義思想と大して変わらないんじゃないかなぁ?
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
ってあるけど、俺が上に挙げたような点は、一般的に見られる普遍的な傾向であって(当時はみんな熱狂してたしね☆)、
”オタクにおいて”比較的傾向的に強くは見られるっていうのは違うんじゃないかと思う。
俺の私見では、現実の問題について語る素人が増えただけだと思うんだよね。
今まで政治問題なんてのは一部のインテリがどっか遠い場所で語るくらいだったのが、
インターネットの普及によって俺たち庶民にもそういうことを語る機会が生まれたわけだ。
で、そのインターネットにいち早く接触したのが、元来機械好きでリアル交友の少ない(笑)オタクたちだった。
オタクたちの遊び場であった匿名、あるいは非匿名の掲示板では時期的に偶然にも右翼タカ派の言説が多く、
彼らはそれに染まっただけだと思うんだ。
つまり”オタクだから”そういう考え方をしているのではなく、”たまたまオタクが”そういう考え方にいち早く染まったんじゃないかなーと。
俺は別に「理論上の手段」なんて主張してない。「そこには社会問題が存在するのであって、自己責任の名のもとに頭から切り捨てるのは不当だ」と言っている。
機会の平等だけを主張しているだけだと、理論上の手段になるだろう。
ところが君は、自己責任論はなかったかのように「そこから先」の話題ばかりを語っている。
基本的には自己責任だろうけど、それで十分ではないから「そこから先」が出てくるのだろう。
自己の責任ではどうにもならないからこそ、奨学金などの制度があるのであって。
僕は自己責任という言葉を自力でという意味で使っているし、そこは説明してある。
ごめんね、おぼっちゃんで。だけど世の中自力で解決しないことのほうが多くなる。
あると考える理由があるように思えないからだ。
理由でなく統計がないと答えればよかったのに。
だからそういう論点があれば最初から出せといっていたわけだ。つまり「女は学問に向いていない」と主張したいということだな。
随分性急だな。
ある統計からあることが言える、その統計だけから判断して、内在的な問題であると断定するか、
そこからさらに外在的な問題であるとする仮説をたて、調査を加えてその仮説を検証する。
君はそれをしていないのに、特定の調査結果だけから、片方では内在的な問題であるとし、
片方では外在的な問題であると判断している。その矛盾をついてみたの。
だから特に男女の学歴差の問題について問題にする必要はない。
これで最後にしておくけど、何かきっかけさえあれば、もう少し能力を伸ばしいかせたであろう人が
いることは否定していないし、都市部のほうがより能力を伸ばしやすい環境であることも否定しない。
その原因の一つを情報の偏在に求めるのであれば、君にも微力ながらも出来ることはあるだろうし、
さらに政治問題だと君が考えるなら、そのようり取り計らってもらえるように努力したらいいと思う。
有りがたいことに、そういう機会は平等に開かれているわけだから、その機会にチャレンジしてほしい。
ただ、バラエティではないけど、勢いよくドアを開けると小麦粉一面の世界が、、、ということもあるが、
そんなときでも、値段の上がっている小麦粉を拾い集めるぐらいでないとうまくはいかないだろう。
>それを判断する主体があってこそ、初めて意味を持つ。
おっしゃるとおり。
資料の選定からして主観が入っている。
だれだれ流に言えば時代精神を明らかにすることなど、高い普遍性を持つべきものであって、
>むしろこの南京問題で言えば、中共政府は明確に「政治問題」として利用してるよね。
などは愚の骨頂。それに対抗する日本のネットの一部の連中もね。研究者の研究が正しいかどうかにぶらさがってるだけで、独自研究が出てこないじゃない。南京周辺の農村史100年でもやろうとしてるなら認めないでもないけど、視点も全然ユニークでもないし。単なる政治的ケンカだよ。まったく評価できないね。やるんなら何か新鮮な切り口を提示してよ。それなら認めないでもないけど、研究者の成果に乗って騒いでるだけじゃ単なるお祭り。(ま、自分自身がそういう2ちゃんの祭りにのっかって被害者にひどいダメージを与えたことがあったんでね。そのくだらなさを知っての上での話)
これは政治です。歴史学じゃない。そのつもりでやってくれてるならかまわないのだけど、歴史と言わないで欲しいな、と思うだけ。別に歴史では誰を守ることもない。事実を地道に積み重ねていくだけ。だから虚学なの。
「事実を地道に積み重ねていくだけ。だから虚学なの。」
だから、その提示される史料や事実とやらに既にバイアスが掛かっているじゃない?
それを判断する主体があってこそ、初めて意味を持つ。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20080113/1200214953
思うんだけど、歴史修正主義者って主に自民右派支持な人が多くて、
殆どの反歴史修正主義者が民主左派、社民、共産支持者だよね?(公明はよくわかんない)
で、みんなして政治問題と同じノリor手口でお互いを叩き合ってる(しかも妙に皆ノリノリである)から、
「ああ、なんだ又君たちか。」
って、思う人が居てもそんなに不思議とは思わないな。
ダメだ。
もうこんなことやめたいのに…
なあ増田たち。イライラすると分かっているのに、どうして俺はついつい増田や2chに入り浸ってしまうんだろう?
イライラすると分かっているのに、自ら増田へ飛んでは香ばしいエントリを探している。男女問題政治問題喫煙問題学校問題……そうしてそれを見つけると恐ろしいことに嬉々として自分の意見を書き込み、そして更に恐ろしいことに自分的に間違ってる、おかしい、ていうかまあ要するに気に食わない意見を見つけては攻撃してしまう。もう、こんなことをしたってさ、相手が俺の考えに染まってくれるはずもなく、納得してくれるはずもないって分かってるのに、寧ろただ無駄に厭味の応酬戦になるだけで、イライラして終わるだけって分かってるのに、どうしてしてしまうんだろう。一言いいたくなると、押えられなくなっている。「おいちょっと俺にも言わせろ」的な。そんでもって気に食わない意見の奴がいると「正してやる」と傲慢にも思っている自分に気がつくんだ。ああ、きっと、「こいつの意見は間違ってる。俺の正しい意見で攻撃してやる」って思いながらPCのキーを打ってる俺は、物凄い醜悪な顔をしているんだろうなと思うと本当に情けないが、しかし麻薬のように止められない。一日たって自由な時間ができればまた、PCをつけて、「昨日書いたエントリにレスがついてるかもしれないから」と色々な言い訳をしながら増田へとび、2chへ飛び、……そしてまたイライラして情けなくなるのだ。年末年始、忙しくてせっかく増田も2chもやれなかったというのに、また戻ってきてしまった。そしてまた同じ事をしてしまった。
間違っている意見が許せなくなっている。
気に食わない考えの奴が、許せなくなっている。
いや、前からそうだったのかもしれない。ただ、許せなくても、攻撃できる手段がなかっただけだ。今までは。ネットが出来るまでは。
それでも、同時に、こういった気持ちに「分かる」と言ってくれる人が出てくるのもネットなのだ。
「こんなの間違ってるだろ!」と俺が思った事と、全く同じ事を書いていた人がいたときの嬉しさ。リアルじゃとてもいえないようなことでだ。それもネットなんだ。
これが飴と鞭のように効いて来て、いつまでもやめられない。
とすると結局俺には、リアルで理解者がいないからダメなのだろうか。(理解者って簡単に言って見たけど、そもそも理解者って者が何かいまいちよくわからないが)
リアルじゃ、いくら仲よくても、俺は他人に自分の深い内面のことを相談できない。親にさえ。
だからネットで、理解者を探すのかもしれない。その旅の途中でであった敵たちと戦ってる。そんな日々。でもいつしか敵とのくだらない無意味な戦いがメインとなってしまっているのはなぜだかわからないが。刺激が……欲しいのだろうか?麻薬のようなものなのか?
あぁー
靖国参拝問題について以前から疑問なのは、そもそもどうして戦争責任やら内政干渉やらといったことが主題になるのか、ということだったりする。だって、(乱暴な言い方をしてしまえば)善人だろうが悪人だろうが死んだら等しく一柱の神になるというのが日本古来の宗教観でしょう。自覚的にしろ無意識にしろ、そうやって日本人は祖先を祭ってきた。仏教やキリスト教の伝来とともに流入してきた天国や地獄の概念さえ、そのアニミズム的な死生観と混ざり合い、和風のカレーライスのようにマイルドになってしまった。死者はみな尊い――ここで「戦犯かどうか」などという些細な属性は無に帰す。
参拝に反対しない人々の心情としては、戦争に関して本当に責任がないって信じているとか国家のために戦った英雄だと考えているとかそういうこと以前に、単純に「既に死んでしまった祖先の墓を掘り起こすような真似はちょっと……」という感覚があるんじゃないかな。賛成も反対もない。つまり、問題はそうした宗教観の相違にあるわけで、大陸流の骨太の死生観を持つ人たちにどうやって有耶無耶の美徳を伝えれば良いのかという点を議論しないでいったい何を議論するというのか、と思う。日本が国粋主義に向かっているとか中韓が自国の政治問題を隠すために反日感情を煽っているとか、そんな表層の議題は取り上げれば取り上げるほど問題の本質から遠ざかる。
単なる国際政治や歴史認識の問題じゃない。これは宗教間の対立なのです。宗教戦争の経験のない日本は、はたしてこの問題に上手く対処できるんだろうか(というか、そもそも円満に解決した宗教問題って人類史上に存在するのかな?)。8月15日に閣僚がみんな公務で海外へ行っているよ不思議だねー、というのは割と上手い対応に思えるけれど。
「公務としての」靖国参拝にこだわった彼とか彼にしても、パフォーマンスとか権力の誇示を意図したというより「まつりごと(政治)」と「まつりごと(祭事)」を同一視する伝統的精神の影響大な気がしている。国家元首としてそうしないと気持ち悪かったんだろう。でも、それを言っちゃうと政教分離の大原則がピンチになるからね……
http://anond.hatelabo.jp/20070616190603
酔った勢いで駄文を書きなぐったんだけど、反応があってよかったです
世の中はニュースで騒いでることを横目に、粛々と進行してってます
でも、それが積もり積もって世の中を、年数パーセントずつ変えていきます
体感できない程度の変化を、統計的に有意じゃないからといって無視するわけにはいかないということです
たとえば温暖化問題
ごみの問題
水の問題
人口問題
国際政治問題
宗教問題
教育の問題
どれもひとりひとりにとってみれば、普段の生活の中では意識しなくても困らないような問題ばかりです
だからこそ無理してでも問題意識を持たなければいけないんだと思います
ここの住人たちは、意識が高い人たちだと思います
少しずつでもいいから、小さな声を上げ続けることが大事だと思います
メディアは「いんたーねっとでわかものがうけいかしています」なんて言ってる。
多少頭がまともな人は、「ほんとに右傾化しているのか?」ていってる。
たぶん自分はネトウヨだと思う。
でも右翼が好きなんじゃない。左翼も好きじゃない。そもそも政治に興味ない。
自分が嫌いなのは、コソコソとウソをついて、事実から目をそむけて、他人(特に俺ら)に責任を擦り付けてくる奴らだ。
自分が快適な場所に居座って、ウソをついて他人に責任をなすりつけようとするやつらがいる。
慰安婦問題も同じだ。中国人も同じ。何かと都合よく圧迫してくるって意味なら、アメリカも同じだ。
格差問題も同じ。
「働いたら負けだと思っている」のも同じだ。楽してるのはジジババじゃねーか。俺たちに擦り付けんな。
マスコミ批判も同じだ。オタクやらネットやらのせいにして都合のいいウソをつくな。
自分は甘い汁吸って、都合よく他人に責任を押し付けるんじゃねーよ、そういうことだ。
若者の犯罪数は激減してるんだ。なのに、増えてるような顔をして上の世代が若者批判をしてニヤニヤしやがる。
いまの50代、きたねえ顔して笑ってるお前らが、過去も今も犯罪発生率が一番高いんだよ。
都合よく何でも若者のせいにするな。ネットのせいにするな。オタクのせいにするな。日本のせいにするな。
政治なんてどうでもいい。責任を擦り付けられることに対して怒っているんだ。
そういうことだと自分は思ってるのだが、どうだろうか?