はてなキーワード: 情報量とは
http://anond.hatelabo.jp/20081225231436
新月お茶の会を引き合いに出さないでください。
最近、若手会員が迷惑がっているのです。
エントリ主及び新月お茶の会、ブ米の誰もが聞かされてない事実を私だけが把握してる。集約された情報量は当事者達のそれを凌駕する。私は名誉毀損で訴えられようが収監されようが別に構わない。今は発言の機会を伺ってる
どうかぼくひとりを標的にしてください。散弾銃ではなくライフルで撃ってください。
無論強制することなどできず、ぼくにはこうしてお願いすることしかできません。
が、それでも申し上げます。どうかぼくひとりを標的にしてください。
お願いします。
私は君のご両親がどんな方かもよく存じ上げてるんですよ。今回のお話をとあるとこから伺ってなるほどと思いました。もう少しご自身、謙虚になられてはいかがですか?因果は巡るものです。見苦しい真似はおやめなさい
トップページの情報量に無駄が多すぎる。ニコニコピックアップって見てるヤツいるの?今日スクロールして初めて知ったんだけど。
1ページに色々な情報をゴテゴテと表示させる事の利点は「下手な鉄砲数うちゃあたる」のように誰もがどれか1つぐらいは必要とする。
けれど10ある中で1しか使わないなら残り9の情報は完全に無駄スペース。無駄ならまだいい、邪魔だ、煩わしいと感じている人もいるだろう。
それならば自分で必要な情報しか表示したくないのでカスタマイズできるようにしろ、という意見が出るのも納得だし当たり前の流れ。
ニコニコ動画がigoogleなどに提供してる「ニコガジェ」をそのまま使えれば個人的にはそれだけで満足なんだけど
ニコニコ動画内で言うなら、ガジェットに設定したタグの新着動画の表示やらホットリストの表示
大百科なら新着単語や「今週の扉絵」を「今日の扉絵」とかにして日替わりで表示させたりウォッチリストの更新表示程度で良いよ。
あとはユーザー向けに開発できるような環境を整えれば誰かがすんげー便利な物を考えてくれるだろうし。
使ってるユーザー数が一定数突破したら運営からニコニコポイント付与とか、ユーザーがガジェット作者にポイントを投げ銭できるようにすれば
今、特に使い道がないニコポイントが使えるようになる。ai sp@ceしか対応してないんじゃ利用価値ないのと同じだろ。
1週間たって1万程度しか再生されない森chや4000再生程度しかない海外の料理番組なんて表示されても需要はない。
せめてmixiみたいな、コンテンツの表示場所を上下できるようにするだけでも速めに対応して欲しい。
さすがにこれについては本人、この対談の中でもう少し触れています。
東 (前略)個人の価値観でこういう風に生きてもらいたいとか、こういうふうに生きるべきだということを、友人や知人に言うことと、社会のみんながそれを信じるかどうかということについての予測は、まったく関係がないでしょう。その時に、ぼくは、そういう友人や知人を増やしていきたいとは思う。それこそが希望だから。でもそれは社会への絶望と両立するしかないんですよ。
大塚 それが公共性っていうことなんじゃないの?
東 それを公共性だというのであれば、南京虐殺は絶対になかった、韓国人や中国人はいますぐ死ぬべしと友人や知人に向けて書いている連中と同じになる。だって、彼らもそれは公共的な言説だと信じているのだから。だから私的な希望と公共性を混同することはできない。
大塚 (中略)たしかに、ネットの人間たちの狭い議論の中で、南京虐殺はなかったという人間と、あったという人間の間に何かが生まれると思うのは不毛なのかもしれないけど、ぼくはそこに、何かが生まれないとはやっぱり思わないし。
東 たとえ生まれたとしても、それは関係がない。問題はそんなことではなくて、ぼくが言いたいのは、いまやいろんな人間が自分の思想こそが公共的だと勘違いして、何億というホームページを開設して情報を垂れ流している。その時に、それに対して、ぼくこそが公共的なのだ、なぜならぼくは本も出しているし、東大とかも出てるからと言うわけにはいかないでしょう、ということです。もしそんな立場をとったら、それこそ不遜というものですよ。
大塚 ぼくの言っている公的というのはそうじゃない。あなたがいう公的というのは、俺のことを認めろ、ということだってのがよく分かったんで、理解はするけれども、ぼくはそういう意味では公的っていう言葉をまったく使っていない。ぼくは、つねに他者との関係によってあらわれるものを公的と言っているわけだから。
東 そんな公共性はネットによって実現されている。そのうえで、その「公共性」がいったい何を生み出しているだろうかというのが、先ほどから言ってるぼくの失望です。
同 pp.222-223
東 今なら、南京虐殺について調べたいと思ったら、ネット上で、一瞬にして、いろんな立場の人の意見を読むことができる。だから、その意味では、大塚さんのいう「公共性」は実現している。で、読んだから何が起きているのか、っていう話です。読んだから、そこで議論ができる。本当に真実の議論ができるか、それはできない。なぜかといったら、真実になんて誰にも近づけないからです。そうするとそこで起こるのは、誰が優位に立てるかの競争だけです。(中略)情報量が大きくなると「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう。
大塚 それは情報量が大きくなったからじゃなくて、まだそこに生きるわれわれがそういった環境に対して、どのように情報の処理や判断をしていくかの訓練ができていないからだと思うけど。
東 ぼくは、リテラシーの発想では対応は無理だと思います。
大塚 少なくともリテラシーの問題として対応し得る部分が、ぼくには充分ありうると思うけど。
東 リテラシー論というのは、普通読者の側の論理ですね。つまり読む側の話です。
大塚 いや、リテラシー論っていうのは、発信者論でもあるんだよ。読者の論理ではなく、書き手を教育する論理だと思う。
東 (略)百歩譲って、受信者のリテラシーは教育可能かもしれない。(中略)しかし、発信者の能力を教育するというのは難しい。人びとがネットで好き勝手なことを流す権利は、教育では止められない。だって、彼らはそれをやりたいんだから。
大塚 いや、発信者の教育はできる。にもかかわらず発信者としてあるための教育が未だなされていないということが問題だと思う。(中略)だからぼくはインターネットによって書く主体や、書き手としての自分、発信者としての自分というものを、この国において全員が意図すれば獲得できるという環境が生まれたときに、少なくともそれを断念していいほどに近代を通じてまだ努力はされていないと考える。(後略)
「無限に開かれた討議」というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ
と東を批判します。この批判は全く妥当だと私も思います。少なくとも、知識人という立場にあるものが、知や学問に対してこのように不誠実であってはならない。大塚はこの対談では一貫してそういう立場から、東への激しい苛立ちを隠さずぶつけ続けていきます。
しかし一方で、おそらく東はそんな批判は織り込み済みなのだろうとも思います。たとえば、上記のような批判に対しては、それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。そこまで下品な反論でなくとも、フレイザーは「複数のマイノリティによる多元的公共圏」は、それらの中には決して上品でないものも含まれうるが、しかしそれでも単一の公共圏よりはいいのだ、ということを「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」で書いていたように記憶しています。
(もちろんフレイザーは、歴史修正主義公共圏?を容認はしないでしょうけれど)
さらに言うならば、インターネットの時代において、「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を駆逐することがそもそも可能なのか、また、彼らが公共圏の議論に参加可能なレベルの「知の技法」を身につけることが可能なのか?という問いもあるでしょう。そして、東はその可能性に完全に絶望しています。ゆえに、
(同、p.189)
公民的な自覚をもたない人をどれだけ抱えられるか、そちらから社会設計を考えるしかない。これがぼくの前提です。
(同、p.231)
市民であり公民であることが正しい人間であり、それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して、ぼくは違和感がある。ぼくの関心は、むしろ、全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで、でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか、というところにある。
と語ります。
つまるところ、東が歴史修正主義を「容認」するとすればその限りにおいてであって、歴史修正主義者がどれほどネットの中で暴れ回ろうとも、結果として歴史修正が実現しないような社会であればそれでいいし、それよりない、と言っているように私は読みます。その結果として歴史修正主義を容認したように見えたとしても、それはそうした態度の反射的効果にすぎない、とは言いうるかもしれない。
とするならば、デリダが歴史修正主義を支持もしくは黙認した言葉が彼の著書にあるか、と聞くよりは、デリダの思想が、公共圏に対する東の絶望に結び付くのか否かを問うた方が生産的であるように思います。おそらく東本人も、デリダが歴史修正主義についてどう語ったかは問題ではないと語るでしょう。もちろんそこは、十分に問題ではあるのですが、そこで水掛け論を行っても仕方がない。
大塚―東対談における大塚は、激しい苛立ちと同時に、東から一生懸命言葉を引き出そうと我慢を重ねています。もちろん大塚の我慢を我々が共有する必要は微塵もありませんが、しかし東の公共性に対する批判を行うとき、どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする大塚の態度に私は共感を覚えるし、それに倣うべきだという態度を取りたいという志向は否めません。
おれはできない奴には絶対に強く言わないよ。強く言うのは一生懸命やらないでヘラヘラサボる奴だけ。
一生懸命やってできないってことは、努力のコツを知らないか、その人が本当に能力がダメなだけじゃん。前者なら自分が持ってるコツを提供して、「だまされたと思ってこのやり方で努力してみな」と言うし、後者ならそれこそ採用した奴の責任で、本人にはどうしようもない事なんだから、採用されてしまった以上、あとはどういう位置にそいつを置くかしかない。ポジショニングの問題。学歴いいんだけど仕事できない人に多いね。勉強って一人の作業が多いから、あまり対人的な緊張しないからね。仕事はほとんどの場合対人が多いからね。
で、「一生懸命なダメな奴」によく見られる傾向なんだけど、きつく言えば言うほどウッカリは増えるし、覚えも悪くなる。「一生懸命やる」ってことは緊張状態にあるんだよね。緊張状態では人間の能力は6割減と見ていい。緊張を増加させるような事を言うのは逆効果。むしろ、重大な失敗をしたときそこリラックスさせてやらないと。なんで重大な失敗した奴にそんな気を使うのか、と思いがちだけど、それが全体の為なんだよ。
逆に、いつも堂々としてて、物怖じしない奴は、潜在能力をほぼ100%使えてると思っていい。こういう人は「仕事できる人」って評価されることも多い。もともとそういう性格の人とか、ベテラン社員とか。ただこういう奴は世の中をナメて、こんくらいいいだろうとさぼりがちになるから、そういう奴には強く言う。こいうのは多少緊張させるくらいでちょうどいいんだよね。
思うに、「物怖じしない奴」が「緊張する奴」を指導するときに「無意味に強く言う」現象が起こると思う。物怖じしない奴は自分が強く言われて緊張状態を多少得たときが一番仕事に適してたから、他人もそうだと思ってしまうんだ。
本当に全体のためを考えたら
1、自分の持ってるコツを提供する(メモは荒く、だけど情報量は多く、仕事後に清書とか)
2、失敗したときこそリラックスさせる(「大丈夫大丈夫。ぜーんぜん取り返しつくし、こんな失敗みーんなするからさ。君を慰める為に言ってるんじゃなくてほんとにみんな失敗するよ」とか)
この2点だなあ。
そうなの?
カメラやってる人が多いからかなぁ。
うちの姉なんかもこないだBTOでどうしてもノートがいいというので選んであげたけど(普段はケータイブラウジングオンリー。高いからやめろと言ってるのに…全く…)もともと音楽好きな人だったのでニコ動に激ハマりして今では投稿までしてる。音楽に関してはプロだからいいけどネットに関しては素人だから怖いですよ…いろいろと重いソフトを買ってしまったようでやっぱデスクトップにしておけばよかったと後悔してるみたい。
でもケータイブラウジングは相変わらず。パソコンだと情報量がおおすぎて流し読みになってしまうそうだ。ケータイブラウジングとか正気の沙汰じゃないと思ってるんだけどあれぐらいがいい人もいるみたいねー。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html
この本についてはどうでもよいのだが,このエントリーでいいたいことがわからない.
今世紀においてこれまで書かれた中で、最重要の一冊
って今世紀ってまだ8年しかたってないじゃんと思った.この表現はおもしろいので今度から使おう.「今世紀中にやります」を髣髴とさせる表現だ.
本書を読了して、私はやっと理解できた。
梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが。
あれ?
「梅田さんが、なぜ、それも日本ではなくシリコンバレーにおいて、「弾さんは英語が出来てうらやましい」と、ふと軽く、しかし底知れぬ諦念をもって嘆息したのかが私はやっと理解できた」ってことだよね.じゃあこの次は,「そして、なぜ私が一年半もの間、原稿書き以外の有償の仕事を全く放棄し、Perl 5.8の開発に没頭していたのかが私はやっと理解できた」ってこと?おいおい自分がやったことなんだから「やっと理解できた」っておかしくないか?なんの理由もなくあるいはなんでやってるのか理解できないままperlを開発してたのか?
それからこのエントリーを書いた人は梅田さんが「弾さんは英語が出来てうらやましい」と言った理由が理解できたそうなんだけど,ぼくはまったく理解できないんですけど….それはこのあとの文章で示してくれるのかな?
次,
日本語に、危機が迫っている。
しかしそれは、ジジババが言う「近頃の若い者たちときたら、ろくに言葉も使えない」
みたいな。
日本語の「変質」のことではない。
この「みたいな」のあとにマルはいらんやろと思った.つかこのひと改行おおすぎ,こういうもんなの?
何か少しでもできることはあるのか。
引用の引用.ってこの引用もおかしいだろ.なんつーかもっと情報量のあるところを引用しようよ.
P. 313
だから,引用するところが変じゃね?量が少ないからかな.このエントリーを使って,
筆者は言った
日本語もきちんと「乗せることが」できる。
と.ってこういうことでしょ.いやここは全然だいじじゃなくてむしろ枝葉のところじゃないの?
次は,
逆になぜ今まで大丈夫だったかを考えれば、なぜ今は「絶対、大丈夫」ではないかは明白である。日本語は、島国であるという「距離」と1億3000万 (日本の人口よりわずかに多いのは、わずかではあるが日本人でない話者もいるから)、世界の50人に一人、それも最も経済的に豊かな方の一人が話し手であるという「質量」によって「自然」に護られてきた。なぜ日本語が「ねんごろに扱われなかった」かといえば、そうする必要がなかったからである--今までは。
「そうする必要になかったからである」ってくるのは意外.ここは「必要があったからである」ってくると思った.これは多分「ねんごろに扱われなかった」っていう表現を使ったからだろう,きっと.あーいまもう一回読み直してみると全然気にならないかも.やっぱ二重否定はわかりにくいと思う.
次,
これがぼくが最初にわからなかった,なんでperlを開発したのかわからなかった理由か!つまりperlを開発していたときは「えもしれぬ衝動に突き動かされて」いて理由なんてわかんなかったんだけどいまそれが「日本語の延命策」だったことが理解できたってことか.すごいレトリックだ!
この両方が埋まった時、日本語を護るものは、もはや何もない。
それでは、一体どうしたらいいか。
いや、それを問う前に、日本語は護るに値するものなのか。
この疑問のはさみ方はよいと思った.そんだけ.
最後の主張
一つ。今何もしなければ、来世紀には日本語は本当に滅びうる、ということ。
うーん,どっちもそれがなぜかってことが書かれてないんだよな.なんでかっていう理由が示してないと,同意できないなあ.もしかして納得しなくていいの?
日本語ってむずかしい.
それに、あの細さだよ? 解像度(ビットレート)的にCDやらよりも優れていたとは到底考えにくい。そういった意味で「アナログデバイスの方が記録されている内容が多いので優秀」って考えは無いと思うんだが。
ここら辺を読むとわかりやすいかなぁ。
http://www.edius.jp/cre_lab/recording02.html
デジタルの場合はサンプリングしてるからサンプリングレートで復元できる周波数というのの幅がきまっちゃうのね。でもアナログはそもそもサンプリングをしてないから,ノイズもそのまま拾っちゃうけど理論的には全部記録できる。再現するのもメカニカルな原理を使ってるのでそのまま出てくる。レコードとかはでこぼこのあの振動がそのまま音になるんだもんなぁ。テープが音割れなんかをするのはスピーカーの問題だと思う。
ただやっぱりCDの方が音は綺麗だと思うよ。加工なんかもしやすいんだろうし,大量生産も簡単だ。ファイルサイズがでかくなってもいいのならビットレートをものすごくあげて生音に近い音にすることも可能だけど,可聴域以上の音になるとやっぱりスピーカーの問題になってきてそれ専用のスピーカーが必要になる。
情報が多ければ優秀かといったら,情報量の面ではそうかもしれないけれど実際に聞くことを考えると必ずしもそうではないよね。
ここら辺はカメラとかも同じでデジタルで何万画素!とか言っててもアナログの解像度はデジイチのフルサイズのと同じだったりする。でも見た目のきれいさとか写真の撮りやすさとか維持費とかそういうことをトータルで考えていくと自分の好みの部分を取捨選択していくことになるよね?
デジタルとアナログはどっちが優秀ということではなくて単純に自分が必要とすることに対してどっちが適してるかってだけだと思うんだ。
あなたがやっている仕事というのがどういうものなのかはちょっと分かりかねますが、今の年収を落とさずに同業種で正社員を目指していて、でも「経験者求む」「実務経験なし」で落とされているわけですよね。
履歴書上の問題はちょっと後回しにして、あなたの経済的な問題はどういった経緯があるか分かりませんが、一時的に収入を落としたとしても、まずは実務経験を積むことが第一だと思います。
僕は、一度未分野の正社員で揉まれたほうが良いと思いますけどね。資格を持っておられるのであれば、数年後の社内異動やキャリアプランなどで今やっている仕事、あるいは近い部分に再び携われる可能性もあるかもしれない。
あなたが目指している仕事がどういったものなのか、情報量が少ないので分かりかねますが、少なくともあなたが不採用となっている分野については、あなたの能力や経験が企業側とマッチしていないと言えますので、別の道を模索されたほうが良いと思いますし、経済的な問題も解消されるのでは?そのあたりの自己分析はされていますか?いかがですか?
ううむ、もうちょっと頑張って人文学を肯定して欲しかった……。
なお人文科学はそれ自身が人間を研究テーマにおいており、表現する際に用いる言語が数学(数式)ではないため、
文学の一番良くないところだと俺は思う。
「まあ曖昧だけどここはこう読むべきなんだよ。根拠? フィーリング!」とか
「なんか曖昧で俺には良く分からないけど、
とりあえず偉い人の書いた文章だから凄いんじゃね?」
という不健全な態度に繋がる。
むしろ文学は正確さを目指すべきだし、本当に凄い文学作品はかえって正確で、
これしかない! というふうに感じられる気がする。
それで、文学が正確に表現しようとしているものって何?
と聞かれれば増田がさんざん言っているように感情や人間性だと俺も思うのだが、
じゃあ感情とか人間性って何よ?
なんで(増田の主張によれば)自然科学(還元論)だとうまく扱えないわけ?
という突込みが当然入る。
感情とは何かって、もちろん楽しかったり悲しかったりすることだ。
でも単に楽しかったり悲しかったりするだけなら、難解な文学表現なんて不要で、
単に「楽しい」「悲しい」とか書けば済む。
「悲哀計」みたいな道具があって感情が量れれば、
「俺悲しすぎて今朝360mmHgもあったよ」という正確な表現もできるだろう。
が、もちろん感情はそんな単純に扱えない。
なぜなら、それぞれの感情は全部独自の今だけココだけあなただけのもので、
コンテキストから切り離して(還元して)扱うことが本来はできないからだ。
例えば、
非モテの三十路越え男性が初めて女性に告白されたときの喜びと、
モテ20代前半男性が何人もの女性を乗り越えた末に理想の相手と巡り合ったときの喜びは、
それぞれまったく違う。
で、文学が伝えたいのってそういう《ある感情(人間・情緒)が他とどう違うのか》ということだと俺は思う。
その違いを表現するために、
小説みたいにコンテキスト(人物の過去とか考え方とか)と一緒にしてみたり、
言い方を色々変えてみたりする。
文学は違いを明らかにするものだ、と俺は思う。
で、翻って自然科学を見ると、目指すところがちょうど逆。
自然科学はむしろ、違うように見えるものの間に一般法則を探す、という考え方だ。
多種多様な現実世界をより少ない(しかし十分な)情報量で表現できれば勝ち。
自然科学は同じところを探す。
で、文学も自然科学も、方向は正反対だけど、同じくらいマジになって人間を探求していると思うわけだ。
それぞれ相反しているということも無いと思う。
自然科学が極まって、あらゆる人間の行動が予測できるようになったとしても、
ぶっちゃけ小説だって最後まで決まった筋しかなくて、それでも感動できるんだし。
コンテキスト同士をぶつけてその人だけの読解を作る。
創作物だから、文学作品のように良し悪しを評価することはできる。
良い読みなら多くの人に共感されるだろうし、悪い読みなら否定される。
でも、だからといってテストのような方法で評価するのは多分間違い。
図画工作の授業で、先生と同じような絵を描いた人ほど高得点、という評価をするようなものだから。
本当は読書会のように、それぞれどんな風に読んだか・なぜそう読んだか、を話し合えれば良いんだろうけど、
大の大人でもなかなか難しいことだからなあ……。
実際は自然界をはるかに超越していて、現実世界に応用できるのはたまたま偶然。そこが数学の凄いところ。
(物理学の要請に従って数学が進歩した例はあるけど、それでも自然界から独立した体裁を取り繕うハズ)
196883次元の空間で回転する球が……とかいう話をどこかで聞いて萌えた。
連日の長文スマソ。
メールより電話、電話より会って話すほうが上、とひとからげに云われるとイラっとくる。なんでだろう。
ってことを云いたかったらしい。オレは。
自分もFPSやるときはイヤホンだけど、
画面の応答速度については遅延というより情報量が減ってしまうのが気になるので速いのを選ぶ
「じゃーな」とか書いといて追記書きに来るのは激しく格好悪いけど、こういう書き散らし方したら伝わらない人も多いだろうなと思って見てみたら、やっぱりその通りだったので少しだけ。
はてなのコミュニティだけが悪い訳じゃないし、ブログや日記、ソーシャルブックマークというメディアの特性もあるんだけど、それでもここにどっぷり浸かってたら「口だけ」になる、と危機感を感じたことは事実だ。そこをもう少しだけ詳しく書いてみる。
はてな界隈やホテントリから見える人は本当に頭のいい人が多い。そしてその界隈で飛び交っている情報量も多い。そこにどっぷり浸かっていると、自分も色々な方向から物が見えて色んな物を見通せるようになりたいと願うし実際に少しずつなっていくだろう。自分の意見を書けばはてブやトラバを通して反応があり、それなりに満足する。充足する。しかし後に続かない。結果だけを見てみれば、大量の情報と、実際に行動を起こすことと比べればほんのわずかな成長と、あとは自己顕示欲を満足させただけになっている。
また情報が多すぎることも問題の一つだ。昔のホテントリでも似たような記事があったが、新しい情報やサービスなどが怒濤のように押し寄せてきて一人の人間には処理しきれない。結果、その情報などをスクラップするだけで事を為した気がして終わってしまう。
一言で言えば、はてなには「頭でっかち」になり易い環境が揃いすぎている。
大概の人はそれでも自分を律して、地に足を付けながら自分のペースで情報を処理していくのかも知れない。私だけがそう言う流されやすい人間なのかも知れない。でも同じ人が居るなら気付いて欲しい。
この3連休は所用があって旅行などに行けなかったのだが、その代わりに幾つかやろうと思ってやってなかったことを実行した。
良くあるモノを捨てる、というのを実行した。
前々から気になっていたライブラリを使って幾つかの実験をしてみた。
とある物の性能表がはっきりしてないと思っていたので徹底的に調べた。
そして、これらをやる際に検索したりして一番役立った情報元が所属するところにアウトプットした。
顕名のブログで「発信」するより匿名で「情報提供」する方が後に続く人に役立つならそうしよう。自己顕示欲は満たされないかもしれない。でも後に続く人により役立つのであれば、その方が価値はあるだろう。そして私の身に残る物もその方が大きいだろう。
それが今の私の考え方だ。
まあhttp://anond.hatelabo.jp/20080806174216の言い直しになっちゃうんだけど、
文系の人間でも確かにそういう感覚は分かるよ。こんなに前提知識と文脈の把握が必要なのかよチクショーって思うことはある(その上、異様にまだるっこしい)。ただ、そういう前提として抑えるべき情報量が過剰である、ということを理由に「だから無価値である」と断定されると、酷く困惑するよ(自分は興味がない、ということならそれはそれでいいと思うのだけど)。
例えば、近代史なんかを語る時、前提として知るべき情報量が多くなるのは仕方がないことなんだよ。当時の社会的状況であるとか、個人的な書簡であるとか、各種の記録から必要な情報を洗い出す。その史料の検証作業は非常に冗長でだるい作業としか言いようがない。でも、それらの文脈を把握すること無しにモデル化して解釈されたら、結論が明後日の方向に向かってしまう、そういう学問だってことは分かってもらいたいんだ。理系の人が文系的分野を「モデル化」するとき、時として演繹的判断が行き過ぎているように見えるのはあまりいいことだと思わない。
繰り返すけど、文系・理系は車輪の両輪だよ。文系嫌いになるのも無理ないかな、と思う面もあるけど、そういう世界もいつか分かってもらえると嬉しい。
そう言ってもらえると多少は救われた気になるけれど、複雑な気分だな(増田は違うみたいだけれども、経済学や法学への不信を口にする理系人はやはり少なくないし、後者の学問はダメって言われているようなのもちと悲しい)
自然科学は入り口程度の知識しかないけれど、それでも自然な法則をほんの僅かな式で綺麗に表現する手法は本当に凄いし、物事を明晰に分析してみせる理系の知人のことは尊敬しているよ(だから、文系的センスのみで理系を切って捨てる人間には嫌悪感を感じる)。
文系の人間でも確かにそういう感覚は理解できるのだけれど、そのことと価値を混同した話をする理系の人が居て、「勘弁してよ」と思わされることはあるなあ。例えば近代史なんかを語る時、前提として知るべき情報量が多くなるのは仕方がないことだし、その文脈を把握すること無しに変にして解釈されたら恐ろしいことになる、ってことが伝わらなかったりするのは凄くもどかしい。理系の人が文系的分野を「モデル化」するとき、時として演繹的判断が行き過ぎているように見えるのは分かってもらいたいな(もちろん、それは理系の人全てが陥る罠ではないけど)。
文系・理系は車輪の両輪のようなものだと思っているので、出来ればほんのちょっぴり我慢して、文系の世界も理解してもらえたらなあ、といつも思ってる。
・iPhoneでなにをするの?
ネットに常時接続。これに尽きる。携帯サイト大好きな人もいると思うけど、無料サービス多いし情報量多いし面白いから自分はPCサイトの方が好き。使い勝手のいいsafariを使って常にネットにアクセスできるってのは生活を変えるんじゃないかな。
iPhoneでなにをするの?っていう質問は、ネットでなにをするの?っていう質問と同じで、うまく答えられないんだけど、可能性を感じて買った感じです。
入力デバイスとしては微妙なんだけど、ネットからの情報をアプリやらsafariやらで効率よく出力することに関してはかなりいい線いってる。中高生じゃないし携帯だけでやりとりする訳じゃないから、どれだけの情報量を携帯できるかってことの方が自分には大事。
・iPhoneは二年間の利用に耐えるの?
もっといいものが出たら、普通にそっちに乗り換えると思う。
こんなの2年も使ってられるかよ。
メール糞
さわると熱い
文字入力糞
コピペ無い
エンドユーザーがどんな体験をするかを重視できない。分かりやすいローカル機能を付けることでしか消費者にアピールできない。閉鎖的な馴れ合いばかりの携帯ユーザー。彼らを対象にした携帯だけでしかアクセスできないぼったくりサイト。
日本の携帯産業に見切りを付けたって感じ。携帯本体だけが悪いわけじゃないです。携帯文化そのものにうんざり。
iPhoneを今買った人は日本の携帯に不満を持っていた人だと思う。文句言うのは日本の携帯電話産業が自分の理想とする方向に向かってほしいからです。いいじゃん、消費者なんだから。