はてなキーワード: 情報量とは
魚は"雑魚"ほど群れたがる。メダカしかり、イワシしかり、アジしかり、ボラしかり。ところが、タイやヒラメ、カンパチなどはけっして群れず、悠々と海を泳いでいる。(略)群れる社員、すなわち排他的な人間は、情報量が少なく、かつ偏ったものになる。メダカはメダカの情報しか得られないのだ。
鯛やヒラメ並かそれ以上の高級魚のマグロもカツオも群れて泳ぎますが。
こういう比喩は的確じゃないと説得力があっというまに落ちるよなあ。
10年くらい前に流行った「仕事ができる人できない人」を読んだ。著者は京大理学部在学中にベンチャー企業(堀場製作所)を立ち上げ。いわゆる社長本。エゴの臭みが出てて読後感はあまり良くなかったけど、気になった言葉をメモ
- どのジャンルでも、どの業界でも、全体のなかでポッカリ"穴"のあいている部分があるものだ。ニーズがないから"穴"があいているのか、それだけのテクノロジーがないからなのか、その理由はいろいろあるだろうが、私の経験から言えば、そのような"穴"はできるだけ埋めておいたほうがいいのだ。
- 太陽の光では紙は燃えないが、レンズで集光すれば火がつく。一点に集中して、しつこく、しつこくねばる社員は必ずいい仕事をする。
- 魚は"雑魚"ほど群れたがる。メダカしかり、イワシしかり、アジしかり、ボラしかり。ところが、タイやヒラメ、カンパチなどはけっして群れず、悠々と海を泳いでいる。(略)群れる社員、すなわち排他的な人間は、情報量が少なく、かつ偏ったものになる。メダカはメダカの情報しか得られないのだ。
- 「現実」が「志」を越えるということは、単に「志」が低すぎた結果にすぎない。
- プライドは洋服に似ていて、サイズが問題なのだ。
逆に言えば、海外のブログは知的レベルの高い人間しか書いていない=一般層には普及していないということだと思うんだけど、どうかな?
・インターネットで公開されている国内のブログは08年1月末現在で約1690万あり、
国内のネット利用者(約8811万人)の約2割が利用し、記事総数は約13億5000万本と、
単行本約2700万冊の情報量に匹敵することが2日、総務省情報通信政策研究所の
調査報告書でわかった。04年以降に急増したブログの本格的な実態調査は国内初めて。
報告書は、同時に米国の会社による調査結果(削除済み分を含む)を紹介。ブログは
世界に約7000万あり、使用言語別では日本語が約37%と、2位の英語約36%、
3位の中国語約8%を抑えてトップとなり、日本人のブログ好きが浮かび上がった。
調査は今年2月、ネット上の情報を自動収集するシステムと、全国の15歳以上のブログ
開設経験者に対するアンケートなどを用いて行った。ブログ開設の動機は、日々の
出来事を日記風に書くことでストレス解消に役立てる「自己表現型」が全体の30.9%で
最も多く、開設者は10??20歳代の割合が約4割と高い。自分の関心のあるテーマで
知り合いを求める「コミュニティー形成型」が25.7%、自分の趣味について情報を整理・
公開する「アーカイブ型」が25.0%と続き、若者だけでなく、30??40歳代を含む幅広い
年齢層に利用されている。
国内のブログのうち、1カ月以内に1回以上、記事を更新するブログは全体の2割弱の
約300万。新たに開設されるブログは毎月40万??50万程度あり、ブログの閲覧者が
意見や感想を書き込むコメントは1記事当たり1.5本前後あるなど、活発な情報交換が
行われていることもわかった。
また、約300万のうち約12%が「スパム(迷惑)ブログ」に該当。内訳は、販売誘導が
38.3%で最も多く、広告収入目的が17.1%、アダルト・出会い系サイトへの誘導が
7.0%と続いた。
ブログは主要なブログサイトが登場した04年ごろから世界で普及した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080702-00000056-mai-soci
24bit96kHzと16bit44.1kHzではデータサイズが違う。画像で言えば解像度の違いってところか。
そんで、同じ形式の生データならともかく、圧縮するのであれば、アルゴリズムによって同じデータサイズでも情報量は変わるでしょ。可逆圧縮の例の方が解り易いけど、zipよりもbz2の方が圧縮率は高くて、1MBのzipと1MBのbz2を解凍したら後者の方が大きいものが入ってる(だろう)。
10MBの画像データ(tiff)があって、それを2.5MBに収めようと思った時に、tiffのまま解像度を半分にする(ピクセル数を1/4にする)か、JPEG2000で圧縮するか。後者の方がたぶん綺麗だよね?
2.5MBに成るように解像度を下げたファイルをさらにJPEGで圧縮したら、2.5MB tiffよりも画質が悪いのは当然だけど、10MB tiffを2.5MBにJPEG圧縮したなら、そっちの方が2.5MBtiffよりも綺麗(なはず)。
横から申し訳ないけど、音質の指標ってなにか客観的なものがあるの?
いや、俺は音の方は素人なんで何も知らないんだけど、同じだけのデータサイズに収録できる情報量は、どういうサンプリングの仕方をしたって同じでしょ(同じ時刻のデータを重複して収録するとかそういう変なことをしなければ)。オリジナルの音声にはホワイトノイズみたいなのだってあるわけだし。
だから、スペクトルとかに何らかの仮定をしないと圧縮効率のよしあしなんて何も言えないと思うんだけど、そのモデルの妥当性ってのは、ターゲットの音声によってだいぶ違ってくるんじゃないだろうか。音楽だけに限っても、打楽器を重視するメタルとかと、弦楽器なんかが重視されるクラシックじゃ全然違うだろうし。
何故両親や生い立ちは外されるのか?
そこを指摘する人もいるけど、ほとんどの人は両親は関係ないと言う。
本当にそう?
確かに関係ないケースも多いと思う。
親がどうとかじゃなく好奇心から単に人を殺してみたかったとか言うキチガイはいる。
けれど今回は元々そんな人間でも、動機でもない。
私は犯人が高校時代に母親が知人に漏らした一言「酒鬼薔薇と同じ年、怖い」に最も異常性を感じた。
それ以外のことなんて本当普遍的なことじゃないかと思った。
派遣も彼女いない奴もナイフ持ってる奴も童貞もゲーオタもリストラされる人もどれだけいるんだ?
その時点で、じゃあ無差別に人殺してやろうって実行に行き着く人間どれだけいるんだ?
そんなもの追ってたって仕方ないんだよ。
で、もっとより核心的な原因の部分が生い立ちに行き着いた。
それでちょっと考察したんだけども。
で、今回は考察の内容は置いといて、違和感として辟易したのは、親は関係ないって人の言い分。
確かにマスコミが親に社会的責任を追及したのは無関係だと思う。そんな法律じゃないから。
けど二十歳すぎたから大人だなんてものはただの一国の法律的な価値観でしかないし、マスコミがおかしいからどうこうってのも日本の事情くらいでしかない。
それこそただの責任の落としどころでどうこう言ってる連中じゃないのか?
もっと事件の核心に触れて、そこから二度と同じことが起こらないように学んでいくのが筋じゃないのか?
この件で生い立ちから目を反らしたら、他にどこ見ればいいの?
犯人が全ての責任を負ってきちんと断罪されたらそれで終わりですか?
核心部分から目を反らした時点でそれはもう”ナイフ規制”とか”オタク”だとか言ってるのと同程度のことにしかならないと思う。
親、生い立ちを分析する事を犯人の異常性をオタ趣味に求めるのと何が違うんだって人もいたけど、
選べるものと選べないものが同列なの?そのくらいの差分わかるよね?
親が選べるなら誰が苦労するんだ?
逆に子を選べないなんてこともある。
それでも親子は親子なんだよ。
後天的に好きになったからでやってける趣味とは偉い違いじゃないか。
日本の常識なんてものに捕らわれずに真相と向き合っていく。
それが事件が起きた時にすべき大切な事じゃなかったか?
秋葉原の無差別殺傷事件、英米ではどう見られているか 英タイムズ紙の読者コメント
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-162.html
このエントリーはそれを再確認させてくれたと思う。
日本というバイアスを通さない分、彼らはこの事件を日本の事情も含めて真正面から見ていると思う。
なのにそんな現地人がその地独特の価値観なんかに捕らわれて意味あるの?
それが一番情けないと思った。
誰も家族もろもろの断罪なんて求めていない。
私が親なら、自分で謝罪のために会見した時点で、二度と同じ事を他の人には繰り返して欲しくないものだと思う。
ほとんどは申し訳なさだろうけど、会見へ踏み切る気持ちにはそんな想いもあったんじゃないかな。
謝って済む問題じゃないとしたら、もうそれくらいしか望む事なんてないのだから。
Linuxでとある事について調べていたのだがどうもごみ情報が多くて萎えた。
「○○が動きました!」だけ書いてる人とかのも検索結果に出てくるので余計に萎える。
それを除外すればいいのだろうが、除外するとまとめて別の必要な情報まで除外されそうなのでしていない。
また、○○を動かす方法を書いてくれている人も当然居るんだが、読んでいると
ある程度わかっている人用に書かれていることが多くて自分の今の力だと至らないので
結局その方法をさらに調べるという所に行く、以下繰り返し。
たまにまとめって書いてて本当にまとめしか載っていない所もある。
他にも、○○を動かす方法の大変詳しいまとめが載っているサイトがあったのだが
実際実行してみると、その手法では出来ないことがあった。
(理由は様々、手法自体が古い、バージョン、ディストリによる違いなど)
MLも見ることもあるが、初心者に優しくないなぁと思うメールが飛び交うことがあるので
最近は見ていない。(当然質問の仕方、内容もあるんだけどね)
昔、勉強しようと思って本を買ったのだが、ディストリによる違い、バージョンによる違いなどで
結局何故?という疑問が解消されぬまま挫折した記憶がある。
よくよく見ていると、windowsより頻繁にバージョンアップかかってるよなぁとか最近おもう。
なんだかんだといって、情報量はwindows関連の情報のほうが探しやすい(母数が違うからもあるだろうしね)
ディストリの違いで色々変わるしね。
長々とすまん。
何が言いたいのかって言うと、Linuxに関する事柄は知っている人向けなんだなぁと。
うちにうちに行っている感じがする。
一文字あたりの情報量が増えても、膨大な漢字の体系からその一文字の意味を探し出して解析するのにつかう労力が多いから意味がないってことかな?
その通り。例えば、英語において各単語を「文字」と呼びかえることにすれば、「文字」数が数万個の新しい「文字体系」ができあがったことになるし、そのとき英語を表記するのに必要な「文字」の数は激減するが、実際は何も変わっていないのは明らかだろう。
ドイツ語に限らず印欧語ではまとまりの単位は「文字」じゃないんだよね。たとえば"Verkaufautomat"(自動販売機)という単語は14文字というよりもVer(販)-kauf(売)-auto(自動)-mat(機)という4つのまとまりになる。それに、ドイツ語で造語が容易というのは単なる表記上のお約束でしかなく、「社会民主党」を"Social Democratic Party"と書くことと"Sozialdemokratische Partei"と書くことが本質的に違わないのは明らかだろう。
だから「日本語の弱点」って何よ。
1.
>一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。
なんで言えないの?
一文字あたりの情報量が増えても、膨大な漢字の体系からその一文字の意味を探し出して解析するのにつかう労力が多いから意味がないってことかな?
2.
ちなみに自分は、漢字の魅力は情報圧縮というより連続語(連結語)の作りやすさにあると思う。
二語や三語だけでなく、二語+二語+二語とかの連続語を使うと段々便利さがわかってくる。
たしかドイツ語とかでも連続語は作りやすいらしいけど、やっぱり連続させる語数が多くなるほど文字数の差が顕著になる。
その代わり「社会言語学」と「言語社会学」のように、語順を少し変えるだけで意味が変わってしまうから、
そのへん厳しくなってしまうのが難と言えば難。
3.
「日本語概説」(渡辺実著)という本に、構文についての一見解がある。
それによると、簡単に言って、日本語の英語化、英語の中国語化、中国語の日本語化がゆるやかに進行しているという。
幸い「日本語は論理的でない」というトンデモさんが出てこない(日本語が論理的でなかったら学術書の和訳ができるはずがないだろう)ので少し安心しているが、それでも「日本語は情緒的」だとか「日本語は曖昧」だとか「日本語は回りくどい」言ってる人が多いので溜息。
そういうこと言ってるお前ら、どれだけ日本語以外の言語知ってるのかと。
お前らが日本語の「欠点」が見えやすいのは、お前らが日本語をよく知っているからだけの話。実際は他言語でもそういう言い方はいくらでもある。
日本語以外の言語で情緒的だったり曖昧だったり回りくどかったりする表現が可能なことは、ラカンだのなんだのの訳のわからん衒学的なポモ文が、明晰と言われるフランス語発祥であることからもすぐにわかるはずだ。「ソーカル事件」でぐぐるといい。あれはフランス語や英語における、言語の曖昧さを駆使したハッタリの実体をよく暴露したものだと思うよ。
ついでにいうと、言語の機能の話をするとき、文法・記法と語彙の問題がゴッチャにされる傾向があるのはなんとかならんかね。プログラミング言語で言えば前者は構文や「機能」、後者はライブラリに相当するわけだが、大抵のプログラミング言語がチューリング完全であるというのと似たような意味で、日本語と他言語の能力は等価であると考えて差し支えないだろう。
ただし日本語の語彙体系は和語と漢語(和製漢語含む)と西洋系外来語がぐちゃぐちゃになってわかりづらいことは確かだ。文字体系も同様。このため、書き言葉において日本語は非常に学習が難しい言葉とされているのは確か。
とはいうものの、語彙体系の煩雑さは英語だってかなりひどい。ゲルマン系・ラテン系・ギリシャ系がぐちゃぐちゃ。しかも、selectionとelectionみたいに、もともと同じ言葉が生のラテン語とフランス訛りとで違う意味を持ったりする。また、書き言葉が難しいといっても中国語より簡単なのは明らかだし、日本語の書き言葉の学習は中国人から見れば困難ではないはず。そして日本語の発音体系は非常に単純かつ標準的なので、日本語は話し言葉として見ればかなり簡単。
そういう意味で日本語はごく当たり前の言語。今まで挙げた要素すべてで日本語より明らかに効率的な言語はたぶんイタリア語とスペイン語ぐらいじゃないか。
あと、「漢字は情報圧縮」と言っている人へ。漢字という文字が仮名文字やアルファベットよりはるかに複雑であることは一目瞭然であり、一文字当たりの情報量が多いだけとも言える。文字数が減ったからと言って情報を圧縮したとは言えないぞ。
それから、敬語は日本語独自のものではない。英語の敬語だって難しいぞ。謙譲語も尊敬語も丁寧語もある。ある程度「話法の助動詞を使う」という原則はあるが、細かい表現はいちいち覚えていくしかない。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0804/08/news104.html
これは流行らんだろう。
なぜなら「想像力の飛躍」が無いから。
容姿と背景設定と、あとは基本的な性格(委員長タイプとかツンデレとか)さえあれば事足りる。
ではたったそれだけの情報から、どのように物語は紡がれるのか。
言い換えるのなら、キャラクターと物語の間にある溝を、オタクたちはどのように乗り越えるのか。
それこそが冒頭で挙げた「想像力の飛躍」なのだと思う。
自信過剰で小生意気なクラスメイトが時折見せる優しさに、彼女の素直じゃない本心を見出してニヤニヤする。
あるいは、無口な少女が人知れず悩みを抱えていることに気づき、たまらなく愛おしく思う。
あまりにベタな例で申し訳ないが、ここにこそ萌えの本質があるのではないかと思う。
「キャラクターの基本設定」×「想像力の飛躍(オタクの過剰な思い入れ)」=「萌え」
この掛け算が成立するからこそ、美少女ゲームは数多のオタクたちに支持されてきたのだ。
(キャラクター造形が多少甘くても問題ない。重要なのは「想像力の飛躍」を促すストーリー上の「仕掛け」である)
「仮想空間でお気に入りのキャラクターを育て、一緒に生活できる」らしい。
今までキャラクターと「萌えの交流」を深めてきたオタクたちにとっては、まさに夢のような空間と言えるだろう。
しかし、そこからの発展性を見込むのは少々厳しい。
ただキャラクターと一緒に暮らすだけでは、折角の「想像力の飛躍」も入り込む余地がほとんど無いからだ。
そうなれば、行く末はどうなるのか。
オタクの特質として、熱狂的に盛り上がる反面、飽きてしまえば見切りをつけるのも早いだろう。
「3D仮想空間での生活」というコンセプトから見るのなら、いくら毛色を変えたところで
結局はセカンドライフのわだちを踏むだけではないか。
先に謝っておく。別に優越感ゲームがしたいわけじゃないけど、そう聞こえたら申し訳ないので。
まず
(1)紙の辞書の利点2の解釈が違う
単語について様々な情報が「目に入り」というのは、多分「一目で入ってくる情報量に圧倒的な差がある」
という話だと思う。電子辞書の一画面に入る情報量と、標準的な辞書の見開き2ページに入っている情報
量を比較してみればすぐわかる。
(2)電子辞書の利点としてあげられている「辞書を引く手間」について
紙辞書の使用に本当に習熟すると、「引く手間」は超絶に消えていく。大体このあたりと思ったページと、
実際に目的とする単語のページが数ページとずれなくなってくる。それにまた利点4の「書き込み」や上
であげた可読性とも併せて考えれば、「紙辞書」派の人にとって「引く手間」が電子辞書の決定的な利点
と感じられることはない。
ちなみに「調べたい単語以外を見ない」というなら、なるほど電子辞書が優位に見えるかもしれないが、
「調べたい単語以外の単語が『見えてしまう』」ことがこの場合、教育的に非常に意味がある、という話。
ついでながら、辞書に「書き込みができる」ということの教育的価値は更にはかりしれない。教育におけ
る一つの重要なポイントに「反復」がある。自分で「この単語前にひいたなあ…」と確認しつつあらため
て単語を引くという体験の学習における重要性は、とても一言で語り尽くせるものではない。
(3)その他の電子辞書の優位性について
携帯の利便性については確かに。でもそれ以上に魅力的なのは「英和辞書以外のあらゆる機能との連携」
かな。それをあげないと、電子辞書の優位性ってほとんど無い気がするから。英語以外にも数カ国語の辞典
を備え、さらに百科事典、類語辞典、表現辞典、季語辞典、その他専門用語の辞典の機能をも兼ね備え、
しかもそれらが項目間で自由にリンクし、その上通信機能と簡単なワープロ機能を兼ね備えた電子辞書が
安価で手にはいるようになったら、さすがに「電子辞書ではない何か」として便利なので買うかも。
というわけで、今のところ「紙辞書派」である自分には、電子辞書は「遊び道具」くらいの存在価値しか持ってない(情報量や知識など内容の話ではない)。もっと発達したらビジネスツールとして使えなくもないけど。今のところは、せいぜい中学生が持ってるような、和英とか後ろについてたりする「べんりがくしゅうようじてん」程度の存在。そらー便利だろうけど所詮こどもダマシであって、まともに勉強するなら高校くらいからもう少しまともな辞書を使った方が良い、と感じる。
電子辞書より紙の辞書の方が良い理由として挙げられている点を考えてみた
1.紙の辞書だと調べた単語の周辺に目を配ることができるので、目に入ってくる情報量が電子辞書よりも多い。
→ 確かに他の単語を見ることは電子辞書よりも容易ではあるが、周辺の単語まで目を配るかどうかは、辞書を使う人次第であり、
調べたい単語以外の物をわざわざ見る人が多いとは思えない。
2.紙の辞書では、単語について様々な情報が目に入り、より適切な意味を選ぶことができる
→ 最近の電子辞書はジーニアスやリーダーズといった辞書が丸ごと入っているので、単語についての情報量という点では同じである
3.紙の辞書は色分けされていたり、図が入っていたりしてわかりやすい
→ それはその通り
4.紙の辞書であれば書き込みをすることができる
→ これもその通り
5.画面でみるより紙で見た方が覚えやすい
→ 個人差があると思う。文章理解ならいざしらず、単語の暗記にさほど差があるとは思えない。
こう考えてみると、図と書き込みという2点において紙の方が優れているとは思うが、
携帯に便利であること、辞書を引く手間がかからないことなどを考えると
紙の辞書が英語の学習においてそれほど素晴らしいとは思えない。
何を良と思うのかは人それぞれなのだから好きな方を選べば良いと思う。
でもその時感じたことは「男に触られるのは気持ち悪い」だけであって、「怖い」という感情はなかったそうだ。
「だから、痴漢にあう不快感を男性に想像させるのに『ゲイに痴漢されることを想像しろ』というのでは足りないと思う」というのが彼氏の弁。
「じゃあ、自分よりずっと大柄な、例えば身長2mぐらいある屈強そうな相手に痴漢されるって想像してもらうのもだめかな?」とたずねてみたら、
「大柄なぐらいじゃ多分それほど恐怖感は感じないだろうな。遮ればいいって思うし。両手を拘束された状態で首筋にナイフを突きつけられて抵抗したら死ぬって脅されながらゲイに触られてるっていう状況を想像するぐらいでちょうどいいんじゃない?」と言っていた。
「しかもそういう目に数年に一度ぐらい、多い人はもっと頻繁にあってるんだから女性は大変だよね」と彼氏は言う。
今まで付き合った彼女は私も含めてみんなそのぐらいの頻度で痴漢の被害にあっているそうだ。
これを聞いて、想像できるかどうかは「自分の身に起こり得ないからまともな想像力が働かない」のではなく、単純に情報量の問題なのかなと思った。
普段女性がどれだけ頻繁に痴漢被害にあっていて、その時どれだけ恐ろしい思いをしているかという情報が、伝わっていない男性が多いのかもしれない。
迂闊に被害にあったことを話すとそれ自体が相手の劣情を刺激することがあるからなかなか話せないものだけど、できるだけ実情を伝えていく方がいいのかもしれないと思った。
私自身も小学生高学年から2??3年に1度、痴漢被害に合っています。電車だったり、本屋だったり、歩道を歩いていたら通りすがりに触られたり。通学や通勤で電車を使わないのでこれでも少ない方だと思います。
なんだか根本的に伝わっていない、ということがわかりました。
(あれだけの情報量では伝わるはずもないのですが、
それなのにどうしてこんなに助言をしたがる人がいるんだろう。)
自分がかわいい、
やめたくないからやめられない、
すごーく当たり前のことですよね。
http://anond.hatelabo.jp/20080310195600
http://anond.hatelabo.jp/20080309220629
でもそんな単純なことばかりじゃないからなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20080226112659#です。
ごめん。勢いだけで書いた。今は反省している。
私の文は、
という指摘の通りであるのだけれど、実は私や元増田の使っている「webと本屋」というペア自体に的外れな所があったりする。
この話の肝は「商品が手に取れるか否か」であって、つまり「店舗販売と通信販売」である。そこに「インターネットの功罪」も絡まって視点がぼやけている。
それと、
という指摘もその通りで、元の記事も元増田もあなたも私も「ネットはヨクナイ!本屋最高!」なんて言ってなくて、(元増田は除くが)本屋の利点を通して通販と店舗の特徴を言っている。
ただ、その「特徴」の部分に、認識の違いがある、というのが私の話。まぁ、「妄想」なんていって煽りつつ足を踏み外しているわけですけれども。ちなみに、特徴は利点にも欠点にもなる、という点にご注意ください。
さて、「引きこもりニート19歳女」という部分の真偽は割りとどうでもよいので、そこはスルーした視点で元の記事をまとめる。
重要な部分は見出しの4、5だろう。ただ、強調部分の対比は見出し4、5とは違う。何が違うのか。
話の大枠は「中を見る」「ネットにはない情報」つまりネットでは得られない実際の中身、通販では得られない商品の情報が、商品を置いている店舗では得られる、という話であり、それを、店舗に行かず通販で買いあさっている人物を用いて強調している。
一方、強調部分は、ネットでは集合知という他人の付加情報に影響されるが、書店ではそれがなく、本人の自主性により「調べ、考え、選ぶ」としている。
ようやく元の話に戻るのだが、端的にいえば書店では他人の付加情報に影響されないのか?という点である。別にそれが悪いというわけではない。むしろ良いことである。amazonが如何に便利にし人を集め売り上げを上げるかで工夫しているように、店舗を持つ書店も当然さまざまな工夫をしている。それぞれ長所短所があり、方向性が違う。どちらも良いのである。
では、なぜ、書店では「調べ、考え、選ぶ」云々となるのか?それはネットとリアルで決定的に違う点、一気に得られる情報量によると思う。デバイスとUIの差である。ディスプレイから得られる情報量は、リアルに比べると格段に少なく、キーボードやマウスによるUIは制限が大きい。その差により、多量に得られる情報を自分自身が処理する過程、それが「調べ、考え、選ぶ」云々となったのだろう。これはまた、「中を見る」「ネットにはない情報」につながり、さらに含まれるノイズの絶対量とそれによる偶然の出会いなどももたらす。