はてなキーワード: 他力本願とは
地域の住民性が府の財政にどこまで影響を与えるか?ということだけど、
他力本願で他人の足を引っ張る人が多いってのは別に大阪に限った話ではないと思うのだけどね
やっぱり府民の気質が問題じゃなくて、
府政運用の失敗への対処が後手後手に回った結果だと思うのだけど
「うちの財政大変だよーカンカンカーン」と半鐘を鳴らさない限り、
誰も気にもしないのはおそらく他の地域でも変わらないとは思うよ。
結婚の幸せを、マズローの欲求段階説で解釈すると次のようになる。
金を稼ぐ:生理、安全の欲求
生きがい:自己実現の欲求
「金を稼ぐ」と「愛」は欠乏欲求であり、生きがいは成長欲求である。では、どれだけの人間が生きがいを持っているのだろうか。周りに流されて生きてきた人間の方が大多数だと思う。ただ与えられた課題に取り組むことしか出来なかった人間に生きがいを見出すことができるとは思えない。
何かを実現したいという欲求がなければ、満たされることのない毎日を送り続けることになる。満たされることのない欠乏欲求を満たそうとしても、一時的な快楽しか訪れない。
つまり、結婚の幸せとは、金と愛を満たしつつ、生きがいを満たさなければならない。前者二つだけに囚われていたら不幸な人生を送るということになる。アリストテレスは言った「幸福は余暇にある」と。このことからも、他者に幸せを求めても無駄だということがわかる。他力本願だと幸せになれないということだ。
基本的にコスプレ嫌いな自分が言うのもなんだが、
「買ってきました」
「セミプロに作ってもらいました」
という衣装が多すぎる。
あれを愛と呼ぶなら、そりゃ、金で買える愛ってやつだよな?
更に言うなら
「全然作品に興味ないけど、人気あるみたいだからやった」
「キャラ知らないけど自分に合ってるでしょ?」
「衣装可愛いから」
って人間が多すぎる。
これも愛じゃないよな。単なる自己満足だ。
カメコに対する愛はあるかもしれないが。
昔は腐女子もダンボールで作った聖衣をデブオタ男が着ているのを囲んで、
「これダンボール?見えな??い!」
ってキャッキャしたもんだ。
「自分で作った」努力の結果と、その技術にしか目が行っていなかった。
本当のヲタってのは本来、こうしたフィルターを持っているものだ。
本当のヲタなら、「努力->挫折->他力本願->負け犬気分」を知っている。
どんな上手い奴でも、一度は渡る橋だ。
負け犬上等で見かけや上っ面で他人に媚びる事を選ぶヲタもいれば、
自分を切磋琢磨して、上達する奴もいれば、永遠のアマチュアになるヲタもいる。
どういう道を選ぼうとも、過去の自分を知って居ればこそ、
そこに愛を見る事はできるはずだ。
やれる事を、とか、やらなきゃいけない事を、じゃない。
やりたいからやる。
やりたいことをやれる。
それがヲタだ。
ここ数年、TVで人気の太った霊媒師とか、黄色い髪の老婆のおかげで、ゲイの世界で異変が起こっている。
彼らのようなインチキ占い師のマネごとをして悦に入っているゲイが明らかに増加しているのだ。
彼らの言う事には一定のパターンがあり、
1. オーラが見える。
2. 生霊が見える。そして自分にはそれを祓う力がある。
3. 体調が悪いのは憑き物のせい。(普通のゲイならまず性病と成人病を疑うべきである。)
亜種になると、手相が見えるとか妖精が見えるとかの方面に行く者もいる。
で、彼らがそういう話をあれやこれやとしている時の彼ら自身のゴールは、あの黄色い髪の老婆と同じで、要約すると
「私はすごい人物だ」
なのである。
ゲイの知人のホームパーティーなんかでそんな話になると、みんなふむふむと聞いているが、自分にとってそんな話は不愉快以外の何者でもない。
最近ではそういう話をアホらしいと思うゲイを探す方が、とても大変である。
他力本願で本当に申し訳ないんだけど、人口の9割を占めるノンケの皆様へお願いです。
早くあの二人をTVから駆逐してください。しかも彼らにとって屈辱的な形で。
あるっちゃあるし、ないっちゃない、のかな。
参考リンク張っておく。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1505325.html
http://anond.hatelabo.jp/20080724144120
どちらも悪や罪があって、それを神や仏が救ってくださる、という大枠では近い。
ただ、エホバの証人では救われない自由もあるよ、と。
この背景にあるのは、神と言うのが全知全能で、救うも救わないも意のままだけれど、個人の意思を尊重するよ、といったところか。
対して、浄土真宗では、あまねく人々は阿弥陀仏の他力本願で救われるわけだけど、そこには「救われたくない」という発想自体がない。
いや、発想がないというより、「救われたい」などと真に思わないのは悟りを開いた状態であり、そうでない人々を救うのが「いはんや悪人をや」であり悪人正機なわけで。
そういう意味では、エホバの証人の言うところも、原罪を持つ全人類が救いの対象なので、そういう意味では悪人正機的だけれど、しかし、聖書的な真実を知った上で、悪魔の誘惑による原罪を悔い改める、すなわち「汝姦淫を犯すなかれ」といった教えに従わず、悪魔の誘惑に乗る事が、個人の選択として尊重されてしまう。
これは、元々なかった原罪を、悪魔の誘惑に乗るという選択により発生させたという考えからくるのだろう。しかし、悪人正機は、元々人々は煩悩を持ち悪人であるがゆえに救われたいと思う人々は他力本願に報恩謝徳し救われる、という選択などない前提の下にある。
つまり、他力本願がないゆえに、であろうと思う。
チョコレートアンダーグラウンドがアニメ化されているみたい、そんなことはさておいて。
ネタバレもあるので注意
最近規制の話が多いよね、え、また?うそだろ?ってか違憲じゃね?とか思いながらネットでニュース見ているわけです。
私は規制は嫌い。規制ってあんまり快いものじゃない。自由に選べる方が好き。規制以外のやりかたでうまいことやってほしい。
でもどんどん規制が進んでいく予感がする、実際もうすでに取り返しのつかないことになっているのかもしれない。
では本題にはいる。
“舞台はイギリス。選挙で勝利をおさめた“健全健康党”は、なんと“チョコレート禁止法”を発令した!国じゅうから甘いものが処分されていく…。そんなおかしな法律に戦いを挑むことにしたハントリーとスマッジャーは、チョコレートを密造し、“地下チョコバー”を始めることにした!チョコレートがこの世からなくなったら、あなたはどうしますか?禁チョコなんて、ダイエットのときしかしたことない!読めばきっと、チョコレートが食べたくなる…。”
http://www.books-ruhe.co.jp/recommends/2004/06/chocolate.htm
『チョコレートアンダーグラウンド』(以後CU)の世界ではチョコレートは「有害なもの」として扱われている。その理由は甘いものは体に悪い、太る、虫歯になるなど。
人々の多くは、有害なものは規制して当然だろう、そう認識したから、健全健康党が選挙で勝利し、チョコレート禁止法が成立した。
一方日本では
ちまたで話題の青少年ネット規制や小中学生の携帯所持禁止の法律など、さまざまな規制案が進んでいる。児童ポルノ改正やら、今度は二次絵に対しても規制の話題もある。
表向きの規制の理由は「有害であるから」である。福田首相が「有害情報の心配をした方がいい」と申している。
有害なものと捕らえられている例としては、学校裏サイト、ワンクリ詐欺、出会い系、自殺の方法などがある。または常にメールや電話、ネットを利用し、それらに依存しすぎる生活がよくないなどもある。もちろん他にもあるだろうが思いついたのは今のところこの程度。
自分たちには関係ない、有害だったら規制するべきだよね、テレビでもネットが危ないなんて連日のように報道されているし、規制したらいいんじゃないかな、と日本人のたぶん多くの人は思っている。少なくともお偉い方々はそう思っている。
そして健康を守るためにチョコが規制されたCUの世界では、その後も、甘いものが次々と規制されることになる。
一方日本では上記の「健全な社会作りを目的とした新たなる法律」が最近次々と話題にあがるようになった。
児ポ改正の時には「ロリコンざまぁwww」とか某掲示板などに書かれたりもした。また「二次オタの俺は勝ち組」と言う人もいた。それが今度は二次元の絵なども規制される可能性が出てきた。つまり徐々に規制ラッシュがはじまってきているということだ。
“政府が児童ポルの方を規制した時、ロリコンでない自分は行動しなかった。
二次ヲタでない自分は抗議しなかった。
政府は、同性愛者やアダルトビデオにも弾圧の輪を広げ、最後に性的なものすべてを弾圧した。
童貞の自分は立ち上がった。
時すでに遅かった。
『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』”
こんな感じのコピペをどこかで見た、もとはヒトラーに抗議し、収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉の
“ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。
社会主義者でない自分は抗議しなかった。
ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。
牧師の自分は立ち上がった。
時すでに遅かった。
『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』”
携帯電話で有害サイトにアクセスできないように最近なったけど、今度は小中学生に携帯電話を持たせることすら禁止になる可能性がある。
これはらCUで言う「チョコレート規制」から「甘いもの全般を規制」の流れに酷似している。
CUではチョコ規制のおかげで、お菓子屋さんが客の減少に困り、悪に走るw
一方日本は若者のネットサービスの利用が減り、携帯サイトサービスおよびIT産業全般に大きな問題を起こすこととなりうると私は予想する。
また二次絵規制が通ったら経済的損失は計り知れない。少なくとも多くの成人漫画や同人誌などを扱う方々にとっては、CUで言う「客のこないお菓子屋さん」の存在になる。
CUだと、町では密かにチョコを売る人も存在した。また、主人公とその友達たちが秘密の地下室でチョコレートパーティーを頻繁に行った。もちろん先ほどの悪に走ったお菓子屋さんも一緒にパーティーしていた。
このことは禁酒法時代のようなものだ。規制によってアンダーグラウンドな場所で取引が行われたり、密輸入なんかが起こった。
“合衆国の領土内における酒類の製造・販売・輸出入を禁じたものだった(飲酒そのものを禁止するものではなかった)が、かえって密造酒やアル・カポネなどのマフィアの横行を招くところとなり、1933年に同憲法修正第21条によって廃止された。”
たとえば児童ポルノの所持を規制したら、禁酒法時代のようなことも考えられる。アンダーグラウンドのところでやりとりが続けられてもっと悪質なものになるのではないかと危惧する。例えば「児童の性的な画像」を所持していたとしても、「児童」を所持すれば児童ポルノ方には引っかからないのである!!!!!より危ないではないか!!??
たとえば二次絵を規制したとしよう、しかしアンダーグラウンドなところで取引が盛んに行われ、正規で販売している成人向け漫画が売れなくなってしまうかもしれない。もともと成人向けのものは18歳未満が登場するものが非常に多いらしい。ということで、その可能性は否めない。そのうち、一連の流れに便乗して鬼畜なものやその他諸々も規制されるかも。
CUではチョコレートの作り方が書いてある本は処分された、じゃぁもし二次絵規制されたら、ロリ漫画絵の描き方本も処分されるのか?w
CUの世界では国民の予想以上に規制が強化されて行き、どんどん自由が奪われていく、最初はいいことだと思っていたんだが、逆に自分の首を絞めるようなものと感じる国民も出てきた。
そして、最終的には主人公側の人間の演説により多くの国民が賛同し大規模デモが発生、そして健康党崩壊。チョコと自由を取り戻すことになる。
チョコレートは健康に悪いかもしれないが、食べ過ぎなければ太らないし、歯をしっかり磨けば虫歯にはならない、それにおいしい。
日本の今の状況に置き換えるなら
ネットには有害情報もあるが、使い方さえ間違わなければ(メディアリテラシーさえあれば)有害な事件に巻き込まれることもないし、ネットや携帯を使いすぎなければいい、それに本当に多くの知識や情報を得られるメリットだってある。なによりもおいしい(性的な意ry)
チョコレートアンダーグラウンドは私が読んでとても興味深い作品だと思い、
その内容と今の日本がかなり近い状況にあると感じたからこんなことを書いている。私の他にチョコレートアンダーグラウンドを読んだことがある人がいるなら理解してもらえるところもあるだ
ろうと思ってこんなことを書いている。(ちなみに原作の方です。金原さん訳の)
私はすでに成人だが、これらの規制は少年少女たちが影響を受けることとなる、そしてチョコレートアンダーグラウンドの主人公も少年だ。私はそこにも共通点を感じてしまった。子供なんだからいろんなものに興味を持つだろう、ゲームや携帯やネット。それは普通のことだと思う。(もちろん成人にものちのち影響を及ぼす可能性があるのは前述したの通り)
私が危惧するところは、今後多くの規制が成立し、表現の自由が奪われ、人々の行動も制限され、自由が奪われてしまう社会になることだ。
どんどん、自由が無くなっていく社会、そのような日本は好きかい?
マスコミを見ていると自分で自分の首を絞めるようなことをしている。無駄な危機感を視聴者に与えさせ、すぐ規制に走らせる。そのうちマスコミも規制されるぞ。
たとえば、「とりあえず規制してその後緩くしていこう」って言うんだったらわかる気がする。しかし、規制によって、それ自体が「悪」であると認識してしまう。
わかりやすく説明すると
児童ポルノ法ができる以前では、テレビにも平気でそのようなものがあったり書店で平気で売られていたり、そんな感じだった。
しかし、児童ポルノ法により、そんなもの見るのは最低ロリコンだとか、社会にとって不健全きわまりないものだ、「悪」だ、という意識が完全に定着した。
要するに一度法律ができてしまうと、それ自体が「悪」と見なされ、緩和されることもなかなか無いと思われる。
児童ポルノの例ばかりで申し訳ないが、子供の携帯電話の所持が禁止されたら、子供なんぞが携帯電話を持つべきでは無い、持つのは悪だ、dqnだ、あほだ、ヤンキーだなんて認識をもたれてしまう可能性が高い。そうなってしまったら規制緩和も難しい。
だからこそ短絡的な規制は控えるべきであり、長期的に物事を考えてもらいたい。
規制じゃなくて別の方法をもっと考えようよってことだ。
しかしそんな他力本願だといけないから、私もいろいろ考える。
やっぱり誰もが考えるであろうことはメディアリテラシー教育の必要性だと思う。
カナダやイギリスではメディアリテラシーの教育がそれなりになされているという。
が、実際機能してるかどうかは私は知らない、申し訳ない。
ゆとりゆとり言っているけど、若者の方が実際メディアリテラシーが高かったりする。
仮にネットを規制したら、子供たちのメディアリテラシーは今以上に下がる気がする。私はネットがあったからこそ、大メディアに多くの違和感を覚えるようになった。
物事を多角的に見ることができるようになった。
ネットを規制なんてしたら、かえってリテラシーも身につかない。
子供だって楽しいことしたいし、珍しいことを知ったり、いろいろなものに興味持ったり、言いたいことを大人の用に堂々と主張したり、
ちょっとくらいいたずらだってしたくなる。そりゃエッチなことにも興味持ったりもするさ、人間だもの。
昔は自分たちも子供だった訳なのにそんなことはもう忘れてしまっているんですかね。
子供にはほとんど権利なんて無い、大人が勝手に作ったやり方を押しつけられてその通りにしなければならない、なにか発言しようにも知識が無いから論破されたり丸め込まれたりする。
ゆとり教育だって、知らない間に勝手にできて、勝手にゆとりゆとり言われて馬鹿にされる。そしたら今度は、ゆとり教育はやっぱろよくなかっただのアホなことを言い出したりして、子供の方
は相当かわいそうだろうなと思う。
法律を作る人などは子供の気持ちなんかどうでもいいですからね、自分はもう大人だから。
でも自分が子供だったらどうですか?次々とやってはいけないことばかり言われて。そうしたら逆に反発したくなりませんか?
規制やルールに縛られすぎの子供たちが将来を背負っていくよりも、自分たちで、善し悪しを判断できるように教育された子供たちが将来活躍して行く世の中の方が良くないですか?
良いと思って短絡的思考で規制をするとかえって自分の首を絞めることになる。だから、普段何も考えない人は、よく考えて。大メディアの人は自分の首を絞めることにならないかをよく考えて。ゲームやネットを悪者扱いするとそのうちテレビも危ないって政府の人がお思いになり、ドラマとか放送できなくなるかもしれないよ?さらに視聴率落ちるよ?いいの?なんなの?ばかなの?視聴者はもっとはなれるよ?
メリットとデメリットは長い目で考えないと実際どちらが得になるかわからないものだ。
そして、最終的に良くないものについては、みんなで抵抗しようではないか。ダウンロード違法化の時は多くのパブコメが集まったみたいだし、結果は駄目だったけれど、私たちはちゃんと意志を持って行動した、そのことは大いに意味のあることであったと思った。CUはフィクションだからうまくいったけど、現実ではなかなかうまくいかないと思う。だからってあきらめないで抵抗しようよ、サイレントマジョリティーにならないように、またパブコメとか出してやろうぜ!なんか世の中のために俺たちはがんばってるんだぜっていう訳わからない自尊心も得られるし、べ、べつに世の中のためなんじゃなくて自分のためなんだからね!
*いろいろ書いてみたけれど、書いてみるだけなら簡単だ、実際うまいこと機能させるにはどうしたらいいものなのか、具体的に記述できていないところもある。そして可能性ばかりを取り上げていてうまい具合な批判ができていない。私はたいした知識も文章能力も解決能力もないのでこんな感じになってしまった。そしてグダグダだった。理想論みたいな感じで、たいした内容も含んでいないこの日記は法律そのものへの批判というよりかは、今後の流れを危惧しているということを伝えたい日記だ。それとチョコレートアンダーグラウンドを見た人に共感してもらえたらという気持ちもある。そして私はより自由な世の中であってほしいと願う。
補足はまた書くかも。長ったらしくてわかりにくくてすまん。手元に本がないので多少違っている部分もあるかもしれない、ご了承を願う。
あー、ダるい。なんもしたくねー。
じゃなくて、しなきゃいけないこと、したくねー。
大学院ツマラネー。全部くだらねー。
早く大学院から出てー、働きてー、働きたくねー。
逃げてるなー、俺。何でだろ。
昔からやりたくないことなんて幾らでもあったはずなのに。
今までどうやってコなしてたんだろ。
昔は怒られることにビビッてた。あらゆることに無駄なまでに恐れていた。
やらなくちゃ、やらなくちゃ。先が予想できてたわけでもないのに、暗い未来を勝手に作って恐れてた。
今はビビらなくなった。違うか。どーでもよくなった。
先は予想できる気がするが、したくない。このまま行って明るい未来なんかあるわけないからなw
それもあるのかもしれないけど、なんか違う。
みんな、俺を恐れてる。友達も、友達として楽しくやってるときは良いけど、俺が悪いとき、俺を責めない。
何でそんなに怖がる。恐る恐る接っしないでくれ。俺を叱れ。罵倒しろ。殴れ。そうしてくれ
俺を焦らしてくれ。俺を馬鹿にしてくれ。バカにされて、ヘラヘラ笑えないような、ナイーブな俺にしてくれ。
タフな俺は要らない。タフな俺、それはダメな俺だから。
してくれって他力本願だな。自分で何とかしなきゃな。やればいい、一歩やってみれば、どれだけ自分がやばいか分かる。
それが分かっているから、一歩が踏み出せないだけどなw
秋葉のおっさんよ、トラックで轢くなら俺を轢いてくれたら良かったのに。
俺にはそれくらいの鉄槌が必要なんだよ。
ダメダメだわ、俺。
いま・ここからはどうしようもできない問題を、まだ、手放せないでいます。それを強く胸に抱き込めば抱き込むほど、それの突き出た刺が自分に深く刺さると分かっていながらそれを解放できないでいる私は、自分を傷つけるよろこびに満ちあふれたマゾヒストみたいに鬱陶しいでしょう。いつまでも自分の大過去にこだわってばかり、いつまでも自分の苦しみや痛みやつらさや怒りにのみ心を注いでばかりいる私が、理解できないんでしょう。あなたはきっと、「早く忘れなよ」といいたいんでしょう。そんなものは覚えているだけ自分を害するから、その記憶ごと忘れてなかったことにしなさいと、いいたいんでしょう。
「悪い犬に咬まれたと思って忘れろとひとはいう」―だけどあなたは犬に咬まれたことを本当に忘れられますか。
あなたが捨てなさいといっている時間は、まぎれもなく私のものです。あなたが目をつぶりなさいといっている日々は、ごまかしようもなく、実際にあったことです。あなたが知りたくないといって切り捨てようとするその大過去は、それは、私の肉の一部です。あなたが私から切り離そうとしているのは、私の腕、私の耳、私の鼻、私の腹、私の足、私の血と肉と骨、そのものです。あなたが忘れ、捨て去ろうとしているものは、切断された、まだ温かい、まだ生きている、私の一部です。
こうやって書くのは、ずるいでしょう。「つらいのはお前だけじゃない」なに、私もそのくらいのことは、知っています。私はあなたに、理解を迫るつもりはありません。私はあなたに、私の傷の手当てや、私のえぐれたところの補修と修繕や、不足しているものの埋め合わせや、そんな面倒で図々しいお願いをするつもりは、ありません。私はただ、あなたに、知っていてほしいのです。いままであなたが耳を塞ぎ、知りたくないと切り捨ててきた私の血の通った時間のありさまを。
それは気持ちの悪い話です。だから、あなたが知りたくないのも当然でしょう。私がどんな男とどんな風に寝て、どんなひどいことをされて、どんな風に手首を切ったり薬をのんだり、祈りの姿勢で便器を抱いたりしたか、黄色いヨーグルトを酒で流し込んだあと、真っ白というよりはむしろ灰色に近い天井と病室の中で運悪く目が覚め、管と管のあいだで力なく横たわっていたひからびた私が、そこからどうやって、今の今まで、死にたい心をなだめすかし、ごまかし、騙し、つまずき、転びながらここまで泥だらけになって走ってきたのか。そんな身勝手で鬱陶しい、自己憐憫と自己欺瞞と被害者意識とにまみれたぐちゃぐちゃの黄土色の吐瀉物みたいに饐えた匂いのする時間から、あなたが目を伏せ背を向けるのも、致し方ないことです。
それでも、私は、私の一世一代のわがままをあなたに押しつけて、いいます。私は、あなたに、知ってほしいのです。他の誰でもないあなたに、私にあったことを、知っていてもらいたいのです。理解しろとはいわない、慰めろとはいわない、私を傷つけないと約束しろだなんて、もちろんいいません。私があなたに望むことはその一点を除き、何もありません。理解することは誤解することであるし、共感も同情も、安っぽい傷の舐め合いに過ぎません。そこから何ものをも生み出しません。それは恐ろしくくだらない、一人では立てそうにない弱り切った甘えたが生み出した、愚かでみじめな、他力本願の妄想に過ぎません。
それでも、私は、あなたのそれが欲しいんです。理解なんかしてくれなくていいんです。分かってなんかくれなくていいんです。同じものを味わわせて、あなたを苦しめたいわけではないんです。あなたに傷ついてほしいわけではないんです。ただあのときの幼い自分に、あなたに、味方になって欲しいんです。あなたが、私の時間をただ知っていてくれるというだけで、それだけのことで、大過去のなかの私も、現在に生きる私も、すごく勇気がでるんです。誰にも泣き声が聞こえないように、誰にも泣き顔をみられないように、心を砕き身体も砕いていた私という人間がいたことを、あなたに知っていてほしいんです。
といって、あなたに、特に何をして欲しいというわけではありません。あなたにしてほしいことはただ、黙って、この話を聞くことです。どうか私から目を逸らさないで下さい。どうかみっともない私という人間を無視しないで下さい。私は、あなたに、頷いてもらいたいのです。あなたに、私を、認めてもらいたいのです。
2ちゃんに始まる匿名文化はいつのことからか、ニヒリズムを獲得してしまった。
それは「でっていう」だ。このヨッシーの鳴き声はニーチェの開発以降、
相手をぶんなぐる武器として猛威をふるっている。
普通、誰かの意見に対しては肯定、中立、否定とかそういう選択があるのだが、
否定の中でも「でっていう」は特異な存在である。なんたって、その意見を聞くことすら
放棄しているんだから。
ニートにこう言ってみる。「働かない人間はクズである。働くことでこそ、人は生活できる。
生活するために働くのは当然のことだろう。誰かの給料は当然にお前の金ではない。
よって、働けるのに働かない、そういう人間は生活する資格などない。無責任で他力本願のクズなのだ。」
そこでニートはこう返す。「でっていう、俺には関係ない。」まぁ、こういうニートには生活保護という情けの元、
低水準の文化においてのうのうとくたばってほしいというのが個人的な意見だ。
俺にはこのニヒリズムに対抗する手段がないのがない。いつも歯がゆいのだ。
真正のニヒリストには、社会通念など関係なくすべての価値観から離れた超人であるのだ。
社会がなければ生活できない人間が、社会通念を否定してのうのうと闊歩している矛盾が腹立たしい。
そこで思ったのがこのニヒリズムに対抗する手段はないのかということだ。
ニヒリズムはメタ的に強いのである。「でっていう」に対して難癖つけても、どうせまた「でっていう」と
返されるのが筋だ。
http://anond.hatelabo.jp/20080429135615
1. lifelog として使用
ブックマークコメントやTBで補足していただけるとうれしいです。
twitter 本来の使われ方。「What are you doing?」に答える。
情報の収集と発信が同時に行える。
前述の1だけの目的で使ってる人もいる。
もちろん、全部の人もいる。
id:thvc twitter使ってるけど、この記事よく分かんない。
twitterをコミュニケーション・ツールとしてだけ使用しているなら、実は揉め事は発生しないように思う。
followとremoveを繰り返すことでコミュニケーションする相手を厳選し、気の会う仲間を探し出せばいい。(コメントを引用させていただいただけで、 id:thvc さんがそうしてるって言ってるわけじゃないです。)
気の会う仲間同士でしかコミュニケーションしないならば、揉め事なんか発生するわけがない。このような使い方は、コミュニケーション・ツールとしてtwitterの正しい使用例といえると思う。(先のエントリーで「6. removeを積極的にする人の大半が女性。」とか書いたけど、女性ユーザにはコミュニケーション・ツールとしてtwitterを使用してる人が多いというだけかもしれない。もちろん男性の中にも、コミュニケーション・ツールとして使用している人はいるので、これは単なる偏見かもしれない。ごめんなさい。)
問題は、コミュニケーションする相手が、twitterを必ずしもコミュニケーション・ツールとしてだけ使っているわけではない点にある。
id:ukstudio「揉め事の大半がremoveとblockにまつわること」は間違い。問題が起きるからremoveとblockされる。根本的な問題は何か考えてみな。
はたして問題はどこで起きたのか?remove/blockされた側が何か問題を起こしたのか?
問題はむしろ、remove/blockした側の内面で起きたのではないか。
もっともremove/blockなんて、そんな大袈裟なものではないと思う。blockはさておき、removeの基準なんてせいぜい、こんな感じだと思う。
a. 最近絡みが無い人
b. 絡みが無くて、発言大目の人
c. (removeする側にとって無意味な文章の)連投
aとかbは、これからremoveするぜ宣言をする人がよく挙げている理由である。コミュニケーションを主体に持ってくるなら、当然の事だと思う。cもある意味「ノイズ」を減らす行為なので、aやbと同じような意味があるといえる。
さて「揉め事の大半がremoveとblockにまつわること」とか書いたけど、本当は揉め事なんかではない。揉め事とは殴り合いだ。相手が必要なのだ。ところが、殴り返そうとした相手からは既にremoveされていて、振り上げた拳は虚しく宙を切る。
「何故!何故オレはremoveされちまったんだ!」
removeされた側の悲しいさえずりがwebに響き渡る。
ぶっちゃけremoveした側は単にfollowしているユーザを整理しただけで、removeされた側にはなんの落ち度もないのだ。
removeした側:twitterをコミュニケーション・ツールとして使用
両者のtwitterに対する姿勢の違いが、このような悲劇を生んだのである。
そういうわけで、removeされたくらいで、あんまり落ち込みなさんな!
前のエントリーで一番言いたかったのは、実はこれなのでした。
せいぜいspammer撃退か、protectユーザがremoveを完全なものにするためにblock/unblockを使用するか。はたまた本当に揉め事が発生してしまったか。
ネガティブな発言や、remove/blockに関係する発言をしただけでもblockされたことがある。おそらく「揉め事」が発生するのを未然に防いだのではなかろうか。根拠はないけど。
もちろん、壮絶な議論の果てに結局物別れに終わって相互blockなんていう事例もあったようです。
ケフィアたんは悪くないお!
気にしすぎのおいらが悪いんだお!
考えてたオチが特定ユーザに迷惑をかける行為だって気がついたから訂正したら、オチがなくなりますた。
いつもgdgdですんません><
童貞とか腐女子とか書いたら、大体どのクラスタに属するかバレるじゃんw
オレがtwitter本書くとすると「女装が基本」「縞ぱんは正義」とかそんなんばっかになるしwww
誰かオチをつけてくれ!(他力本願)
ぁぃぅぇぉ☆って使われてるからスイーツだから役に立たないって発想こそがまさに圧倒的にネットって言うメディアに踊らされまくりの本質的本来的な意味に限りなく近いスイーツ(笑)なんじゃないか?
そこまで踊りまくってる奴はさすがに初めて見た。ネット上でリアルスイーツ(笑)を見たのが今が最初かもしれない。
っていうかネットの情報は雑多な中から自分で探すもんだろ。どんなコミュニティサービスが出来たって有益になる程度に人が集まりゃクズみたいな意見だって集まるに決まってんだろ。
わかるなんてたぶんそう簡単に言ってはいけないんだろうけれど、それでも今自分もそんな感じで、ああ、わかるよって読んでしまった。
話しかけてはちょっとやめて、のあたりとか、そんな感じ。
気がついてくれないかなあって他力本願なことを考えながら、でも気がつかないで、とも思っている。
重たい人間になりたくないけれど、何の必要も無い人間でも居たくなくて、どうしていいのかよくわからない。
自分の中に厳重なルールがあって、その【自分ルール】がこれを誰かに預けてはダメだって言っている。
そして、自分の場合、預けたら最後、その相手を恋愛的に想ってしまいそうで怖い。
泣きたいくらい寂しい。でも、そうやって泣くことも寂しいと打ち明けることもうまくできなくて、毎朝起きるたびに、また、目が覚めてしまったなあと思う。死にたい、とか消えたい、という欲求より、「消えたほうがいいんじゃないか」っていう変な義務感のようなものがつきまとっていて、いつも不安だ。
自分で自分をたいせつに思うことができないのに、誰かがたいせつに思ってくれるわけないだとか、逆に、誰かがたいせつに思ってくれることがあればもうすこし自分をたいせつにできそうだとか、二律背反なことばかり考えてしまうので、当然思考が落ち着くことがなくて、常にバランスが取れない。不安定な感じ。
甘えていいよって言ってくれるひともいるけど、そのひとは自分とは別に一番大切なひとをもう持っているので、そこに負担をかけたくない。こういう気持ちって、どうすればうまく消化できるのかな。