2022-09-27

anond:20220926162401

たとえ、どんなに偏った思想作品でも、便乗商法でも、くだらないクソ映画でも、法を侵してない限り公開を妨害されてはならない。批判したけりゃ公開作品を観て、思う存分にこき下ろせば良い。それが表現の自由


というようなくだらない論法はてなには本当に多くてうんざりするが、公開を妨害するとはどういうことか、という当該コメント自体問題点はさておき(例えば圧倒的な不評で公開が打ち切られた場合は「公開の妨害」に当たるのだろうか。「観て」「こき下ろ」したのであれば、一瞬の公開でも公開した以上は良いのだろうか。)、違法でない限り表現の自由侵害できない、という狂った言論問題に触れておきたい。 

そもそも表現の自由というのは憲法上の権利であり、法律がこれを侵害していた場合は、その法律に優先すべき規範である。すなわち、法律があるから表現の自由を制約できるのではなく、表現の自由を制約できる理由があるから法律によって制約できることを忘れてはならない。

要するに、表現の自由を制約できる(「ある表現をするべきではない」と判断できる)価値判断は、現行法関係なく存在することに注意する必要がある。余談だがこれは財産権が「法律でこれを定める」とされていることと対照的だ。名誉棄損やわいせつ物陳列が表現内容に着目した規制であるのにもかかわらず刑事罰という国家として最も強い制約を課すことができるのは、それらが刑法に定められた犯罪からなのではなく、それぞれの守るべき価値表現の自由を制約する理由たり得ると考えられているからとなる。ちなみに、「名誉権」という明文の憲法上の権利はないし、わいせつ規制に至っては個人権利保護ではなく社会秩序理由とした規制である

さて、この時に、現に法規制されていない表現について、「これは表現者の表現の自由を制約してでも公表されるべきではない」と考えた者がいたとする。その時に、「この表現規制されるべきである」と主張すること自体表現の自由保障されないのであれば、この人は一体どうやって自身の考えを実現することができるのだろうか。そもそも、そういった内心を表現し、相互に影響を与えながら政治的合意を得るということが民主主義社会にとって不可欠であるが故に、表現の自由特別重要権利とされているのではないか

というようなことをここまで考えたうえでようやく、現状のSNS社会におけるキャンセル運動が、時に一個人・一企業対応限界を超えてしまうことで、言論価値ではなく「物量」で黙らせる事例を考慮し、こういった事実上の「圧力」が公的規制よりも表現を委縮し、自由表現による合意却って妨げているのではないか、という問題に行き着くのである。ここで、キャンセル運動個別言論自体はその価値を認めざるを得ないという難しさを前提としない限りは、現行法に従うことだけを価値とする冒頭のブコメのようなくだらない言論になってしまう。表現の自由について散々話題にする割に極めて拙い理解に留まるはてなが少しでもましな議論のできる場になることを祈る。

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