なあなあに「あーそういう考え方もありますねー」をしていると巻き込まれが確定する社会になってきてるんだろうな。
今までの日本ではわざわざ口に出して「俺は淫夢語録は使わないよ。俺はLGBTを差別しないから」って口にする必要はなかったが、これからは積極的にそういった自分が何にノーを突きつけているかをアピールする必要が出てきた。
「テレビつまらんから見てない」みたいなクッソどうでもいい存在に対するクッソどうでもいい感情ならともかく、ある程度の重さがありコミュニティ全体が危険な方向に向かっているときは「俺は違うよ。俺はこのコミュニティに属しているだけで、その多数派と同じ意見なわけじゃないよ」と口にしなきゃ駄目なんだろうな。
かなりの面倒臭さを伴うが、今までのように「ただ迎合してるだけの有象無象のままなら目立たないから大丈夫」とはいかんくなってきたというわけだ。
まあ昔からこういうのは寓話的に語られていて、例えば「命令通りに何でもこなす兵隊が結果を出し続けた結果、人の心を持たず平気で裏切りと不道徳を繰り返す不死身の兵士として忌み嫌われるようになった」みたいなのがアチコチの地域に点在している。
それらの寓話の多くはどちらかというと「不幸な偶然によって起きた珍しい出来事」という扱いだが、今の時代においてはそういったものがより身近で頻発しているわけだ。
情報の洪水に晒される中で、ただ晒されっぱなしで流れてくる水の色に斑に染まるままであるわけにはいかないらしい。
じゃあ俺も一応ハッキリ言うか。
信教の自由を保証することと、人類に害をなす存在を容認することは別の問題だ。
悪魔崇拝のためにペットショップで買ったトカゲを毎日生贄に捧げることは許されても、隣人を滅多刺しにしてその心臓を捧げることは許されるべきではない。
自らの人生を自らの手によって破壊するまでは個々人の自由に任せていいだろうが、そこから先で他者に害をなすようになればそれは取り締まられるべきだ。
多くの宗教的な他害行為は洗脳を用いての強要と、洗脳された集団のマンパワーによる隠匿によって行われている。
信者が布教の過程において洗脳を用いた場合、その宗教法人に解体を命じるように法規制を強めるべきである。
たとえそれが10000年続く伝統的な宗派であると主張しても、新たなる信者の獲得において洗脳を用いた時点で一度解体してゼロに戻させるべきだろう。
ひとまずこれぐらい言っておけば良いか。
俺ははてなに所属しているが一部のはてなーのように統一教会を擁護するつもりはない。
統一教会は滅びるべきラインを超えた滅びるべきカルトだと考えている。
滅びてくれ。