「がまん」にメリットや意義を見出して自己洗脳して頑張っていても、もうフタがゆるゆるになっているというか、過去何度か「がまんやーめた」という判断をした記憶がある所為でシリアスになりきれない。
がまんしてると「いやいや、結局演技なんだし、もういいじゃん」的な甘えがでてきてしまう。
がまんはむっちゃメリットある。
だからがまんをキープしなきゃなんだけど、モラルにまつわるそれ(自身の中のモラハラ的特性の封印)は「がまん」として捉える事自体が間違いである。
損得を越えた「無思考で受け入れるべきルール」として捉えなきゃならない。
まあ、なかなかできるものではない。
やっぱ、それをやっちゃった時の苦痛を何度も何度も反芻し、他人がやらかしている履歴をたくさん集め「やったらこうなっちゃうぞ」と自分を脅し続けるしかない。
それでも本当はそれを思い切りやりたい・・的な。
どこかにゲーム的、サービス的に「それ」をやらせてくれる秘密クラブでもないかなー・・って。
え、なに? ハラスメントを?
まあ、そうな、うん。
旧い人間は昭和 / 平成中期までだったら当たり前とされていた(社会のモラルが凄く低かった頃の)概念に懐かしさと居心地の良さのようなものを感じてしまう。もちろん、その世界に居た人間でも最初に他人からその態度、言葉をぶつけられた時はショックだったがわけだが、それを乗り越え、笑い話にし、普遍的なものとして受け入れる事で獲得した「社会性」ってもんがある。当時はそれに慣れる事自体が「社会性の獲得」すなわち「大人になること」とされていたわけだ。
現在そういうものの「前提 / きっかけ」の部分にメスが入れられている。
思い返してみれば最初は「おかしい、嫌だ」と確かに思った。しかしあまりにも「過去」すぎて、もはやどうでもよくなっている。ハラスメント耐性は精神と一体化し、その耐性自体が耐性を持たない人間にとってのハラスメントとして機能してしまう。
「普通XXって思わない?」「XX耐性なさすぎ」
的な、「差別や悪意や見下しに対する抵抗力を持っている方が普通、モラルに対し潔癖すぎる人間の方がウザい」という意識が、ハラスメント慣れした人間の中には染み付いている。
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はっ?!
はい、もう忘れた。少し思考を途切れさせると上記で書いたこと、自己批判性は一切忘れて「潔癖うぜー」っていう思考で満たされる。
「面倒くさいことを考えさせやがった・・時間無駄にしたー」という感情を呼び起こさせる。
まず、上記思考ログを読みこむ事自体、どう考えたって面倒くさいじゃん。これだって十分整理してんだし。整理してこれだし。
世の中で語られてるモラルにまつわるあれこれはさらに枝が複雑だし、回りくどいし、DQNやハラスメントする側の意見や視点が欠けすぎている。
でも、自己批判する事の意義、価値を思い出させてくれる人や時間ってもんは、好きだよ。脳に負荷をかける事自体、それなりに好きだから。
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「面倒くさい事自体が大好き」という悪趣味さを持つ僕のような✕✕人間以外のDQNや無知者に、どうやって「ハラスメントをがまんする事自体がハラスメントの助長になるのでハラスメント耐性を身に付ける事自体が悪」という理屈を理解させたらいいのか。
皆目見当つかない。