言葉を充填できないので簡潔に。
前提として、
・差別問題で「不寛容な意見」といえばヘイトスピーチのことを指す。
・「寛容な社会」は不寛容な意見=ヘイトスピーチに対して寛容であってはならない(不寛容には不寛容を)
不寛容には不寛容を、ある程度はわかるし、できる限りそうでありたいとは思ってる。それは正しい、という前提のもとで書く。ヘイトスピーチにも寛容にしろ!という意見ではない、としっかり主張しておく。
ここまでが前提、これを前提と置いたので、「ヘイトスピーチにも寛容であるべき」は今回の議題ではない。それは別でやってくれ。
さて、ヘイト野郎のヘイトに対して「お前の口から垂れたクソが『意見』だなんて思い上がんな」くらいは言っていいとは思っている。「ヘイト野郎のヘイトに対して」は、だ。ただし、差別問題にいっちょ噛みしたダサ坊が人格攻撃に走って「だからお前はダメ(社会で通用しない、田舎者、友達がいない、ロクな人生じゃない、モテない、真っ当な人間じゃない、猿同然)」なんだ」みたいなことを言うやつは、オブラートくらいしかかかってない差別主義者だと言いたい。
差別の問題はなにかというと、差別するつもりがない人も差別的な考えをナチュラルに持っていることだ。「俺は差別なんてしてないよ」って言ってる奴がどれだけ信用ならないかは、差別問題に関わったことがあるなら絶対知ってるだろう。明確に差別をしてる人間が楽に見えるくらいだ。反差別的な考えを持っているから「俺は差別しない」、事実に基づいているから「俺は差別しない」、俺には黒人の友達がいるから「俺は差別しない」、全部ろくでもない「俺は差別しない」なことくらいわかるだろう。「俺は差別する」のほうが、差別主義者の顔してるのは確かだ。
さらに勘違いしてほしくないんだが、差別主義者の顔してるかしてないかは別で、差別主義者には不寛容であるべきなのだ、前提からして。差別主義者の顔してるだけマシ、なんてことはない。馬鹿な差別主義者も聡い差別主義者も差別主義者。
ここまでは、私が妥当だと思ってる推論。
差別は、どれだけ差別に敏感な奴でも、どれだけ差別を研究してる奴でも「してしまう」ものだと思っている。常識とは偏見のこと、みたいな言葉もある通り、偏見が誰にでもある以上、差別的なことを発してしまうことは誰にでもある。そこに「不寛容だ!不寛容に殴るぞ!」をやるインターネットイナゴは絶対に発生する。とくに「不寛容には不寛容を!」を金科玉条に掲げて周りをシバく奴には、「おっ、お前不寛容だな、不寛容には不寛容で殴る蹴る打つ吊るシバく刺すぞ」など、当然と言っていい反応になる。まさか「彼は普段不寛容に不寛容なんだから、彼の不寛容には寛容になれ」なんて寝言を言えるはずがない。本人が不寛容な発言をした本人を、絶対に許せないはずだ。これは自縄自縛の、もっともメンタルに悪い行為でしかない。自分で自分が許せない、そんな状態になったとき、人はどうするか。撤回して謝罪できたとしても、何万回と蒸し返されることを覚悟しなければならない。本当に差別というものが嫌いならできるだろうが、不寛容には不寛容原則から行くと、せいぜいなれても「元ネトウヨ」という経験則としては最も信用ならない部類になってしまうのだ。だから無自覚に差別的発言をした人は元ネトウヨレベルに墜ちないために「私のこれは差別ではない」に固執してしまう。一生解決しない。
不寛容に不寛容であることは、基本的には問題はない。差別を唱えるものには罵倒を以って対応していいと思っている。しかし、今差別的な考えを是正しようとしている人に、いちいち不寛容である必要はない、と思うのだ。
大筋同意。昨日から話題の公立中学動物園問題に関わる言説ととらえておく。 差別を自覚した人間は基本的には是正を試みるものと思っているので、「私のこれは差別ではない」と差別...
意図を汲んでくれてありがとう。しかし、私が1時間くらい苦心した文を、10分たらずでここまでちゃんと読んだ上で文章にまとめられるのか。嫉妬しかない。