最近何かと鬼の首を取ったかのように「自他境界ガー」と物申す奴が多くて気持ち悪い
「俺は俺、お前はお前。だから言わなきゃわからない。だから俺はお前の言いなりにはならない。」ってな意味合いで使われることが多いのだろう。他人を批判するときにも使われてる場面をよく見かける。確かにそれはそうだ。「俺は俺、お前はお前」と叫び出したくなる場面は日常生活でもたまにある。「言わなきゃわからねえんだよ」と言いたくなることも。だが、それらの意を伝えるために自他境界という言葉を使う必要はあるのだろうか。
そもそも自他境界という言葉自体どこから来たのだろうか。もしそのような用語が本当に存在し、ネット上で正しい意味で用いられているならこちらも納得しよう。だが、おおかた胡散臭いメンタリスト()の誰かしらが、心理学のタームの意味も解さず使っていたのが起源だろう。そう踏んで調べてみたがヒットしたのはごく僅かであった。
・+ac.jpの検索ではざっと見た限り東京聖徳大、東大の2件(東大の方は統合失調症についての話で自他境界は別の意味で使われていた)
これでは自他境界という単語自体はっきりと確立して用いられてるとは言えないだろう。一応、自他境界に類する言葉として「personal boundary」なる言葉が存在するようではあるが、これに関しては日本語の検索では大したヒットはなかった。
つまり、自他境界という言葉は専門家の間できちんとした定義を受けて使われる言葉ではなく、また、国語辞典に載っているような一般的に意味が浸透した言葉でもないということだ。このような曖昧不定形な言葉を、他者を批判するために用いるのはいかがなものだろうか。「自他境界が曖昧」は人格否定ともなる語である。まるで精神科医のようにそのレッテルを他者に貼るのは果たして正しいことと言えるのだろうか。
そもそも。そもそもの話、自他境界というものがあるとして、我々皆がはっきりとした自他境界など持ち合わせているのだろうか?人間は社会性を持つ生き物である。我々はさまざまな共同体に帰属し、その中で影響を及ぼしあいながら生きている。無論、近しい相手だとしても相手は相手、自分は自分であるから言葉によるコミュニケーションは必須だし、仲が良いからとお互いに100%理解し合えるわけではない。だが、幾らかは言葉を介さずとも理解しあえるのが身内というものである。「察する」「合わせる」は共同体を形成する以上必要な行動であるし、相手にそれを求める事が全く異常な行動だとは思えない。むしろこの社会では、「察せない」「合わせられない」ほうが異常とされるものである。
個人の境界は緩やかな広がりを持ち、その広がりが共同体、群れの形成に役立つのだろうと思う。自他境界というものを突き詰めていけば、「より狭く、はっきり」させて行けばたどり着くのは究極の個人主義社会だろう。
俺自身、個人主義を渇望する人間の一人である。「俺もそうしたんだからお前もそうしろ」「みんな〜してるんだよ!」的な言説は反吐が出るほど嫌いだ。しかし、人間は多かれ少なかれ群れを必要とする生き物であるし、群れを作るか作らないか、全体主義に生きるか個人主義に生きるか、というのは好き嫌いの話でしかない。
自他境界に正解はない。それがはっきりしていればしているほど、「人間的」で「都会的」で「大人」だとするのはリベラルの悪い癖ではないだろうか。