2019-07-26

さないと決めている

実の兄から、十年に渡って虐待を受けていた。

殴る、蹴る、食事を取らせない、何十分も正座をさせる、トイレに行かせないetc,etc.

親には何度も訴えた。

「お兄ちゃんが叩いてくる!」

他のきょうだい折檻を受けているさなか、風呂場に飛んで行き、

入浴中の母親に半泣きで叫びながら「お母さん早く上がって来て!」

と何度助けを求めたことか。

母に助けを求めて差し伸べた手は、ひとつ残らず叩き返された。

「お風呂くらいゆっくり入らせて」

きょうだい同士仲良くしなさい」

「お兄ちゃんの言うことを聞いて」

手間をかけさせないで、と。

そのあいだ父には完璧無視され、図に乗った兄は、巧妙に、親の目の届かないところでのみ私たち折檻するようになった。

そんな生活が十年過ぎ、兄は家を出て行った。

ようやく平穏が訪れた、かに思えたが、

ちょうど戦場から引き揚げてきた兵士たちが、なぜか平和ふるさとに戻ってからPTSD発症するように、

私は小児神経症をはじめとする様々な精神疾患を患った。

希死念慮すらろくろく湧かない、廃人と呼ぶのも申し訳ないような、ただ呼吸をしているだけの生き物として、十二年ほどを過ごしたろうか。

先日、その兄から長年の虐待に関する謝罪が入った。

「すまなかった」と。

「許してもらえるとは思っていない」と。

なぜか母が涙しながらそれを聞いていた。

私は「は?」と思った。無視し続けたくせに。見て見ぬふりをし続けたのはお前のくせに。

まだ自分に泣く資格があると思っているのか、この人は。

不思議でならなかった。

兄の謝罪をぼうっとした頭で聞き、

私は地獄の十年間の、それから脳の中の地獄の十二年間の、いろいろなことを後ろ手に隠しながら、

ただ頷いた。ちょうど兄から虐待されていた頃の、人形のようなしぐさで。

兄との関係の中で、私にできることがあるとすればただひとつだけ、

それは兄を許さないことだ。

私という人格を徹底的に、決定的に破壊した人間を、生涯許さないことだ。

それだけが私の、兄との関係の中で、「自分大事にする」ということである

ところで孔子の唱えた最高の徳である「仁」とは、「人を愛すること」なのだという。

今の私には生家の外に愛する人がいる。その人のおかげで、人間への憎しみと愛は併存し得ることを知った。人間を憎しみ抜いて生きて死ぬのだと思っていた人生が一変した。

その人には喜んでもらいたいし、毎日平穏に過ごしてもらいたいし、私と過ごす時間を心地よいものだと思ってほしい。

そのための努力をできる限り続けていきたい。

私は兄を許さない。そして、兄を許さな自分のことも、きっと心のどこかで許していないだろう。それは即ち「自分を愛していない」ということなのかもしれない。

それでいいと思っている。

それがあのように扱われた人間の、私の、自然な在りようだと思っている。

自分を愛する作業」を、大切な人に委ねることのないよう慎重に注意しながら、

やりたいことをやり、食べたいものを食べ、観たいものを観て、居たい場所に居続けよう。

それはきっと、許せない人間をこの手にかけるよりも、ずっと楽しく、美しく、素敵なことだろうから

*一部のコメントへ向けて追記

凡庸」でよいのですよ。この凡庸思考を手に入れるまでどれほどの歳月を費やしたことか。

人生凡庸なのが一番です。

しかコメント欄がなかなかの地獄ぶりですね。メンタルが弱っている方は見ないことをおすすめします。

  • 今日も女は家族叩き

  • なんか後半凡庸なポエムになったな 17点。

  • 兄弟が何人居るか知らんが、団結して戦えば勝てたのでは

  • そんなあなたにもきっと兄を許す日がやってきます。 それは兄が死んだ日です。 だから大丈夫。 今は許す必要はまったくありませんから。

  • ものすごい経験だな。普通の家庭に育ったけど、ぼんやり生きてきたのが申し訳ない気すらする。 まぁでも幸せ度ではすでに遥か追い越されてるけどな。素敵な毎日を送れているようで...

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