殴る、蹴る、食事を取らせない、何十分も正座をさせる、トイレに行かせないetc,etc.
親には何度も訴えた。
「お兄ちゃんが叩いてくる!」
他のきょうだいが折檻を受けているさなか、風呂場に飛んで行き、
入浴中の母親に半泣きで叫びながら「お母さん早く上がって来て!」
と何度助けを求めたことか。
「きょうだい同士仲良くしなさい」
「お兄ちゃんの言うことを聞いて」
手間をかけさせないで、と。
そのあいだ父には完璧に無視され、図に乗った兄は、巧妙に、親の目の届かないところでのみ私たちを折檻するようになった。
そんな生活が十年過ぎ、兄は家を出て行った。
ちょうど戦場から引き揚げてきた兵士たちが、なぜか平和なふるさとに戻ってからPTSDを発症するように、
希死念慮すらろくろく湧かない、廃人と呼ぶのも申し訳ないような、ただ呼吸をしているだけの生き物として、十二年ほどを過ごしたろうか。
「すまなかった」と。
「許してもらえるとは思っていない」と。
なぜか母が涙しながらそれを聞いていた。
私は「は?」と思った。無視し続けたくせに。見て見ぬふりをし続けたのはお前のくせに。
不思議でならなかった。
兄の謝罪をぼうっとした頭で聞き、
私は地獄の十年間の、それから脳の中の地獄の十二年間の、いろいろなことを後ろ手に隠しながら、
ただ頷いた。ちょうど兄から虐待されていた頃の、人形のようなしぐさで。
兄との関係の中で、私にできることがあるとすればただひとつだけ、
それは兄を許さないことだ。
私という人格を徹底的に、決定的に破壊した人間を、生涯許さないことだ。
それだけが私の、兄との関係の中で、「自分を大事にする」ということである。
ところで孔子の唱えた最高の徳である「仁」とは、「人を愛すること」なのだという。
今の私には生家の外に愛する人がいる。その人のおかげで、人間への憎しみと愛は併存し得ることを知った。人間を憎しみ抜いて生きて死ぬのだと思っていた人生が一変した。
その人には喜んでもらいたいし、毎日を平穏に過ごしてもらいたいし、私と過ごす時間を心地よいものだと思ってほしい。
そのための努力をできる限り続けていきたい。
私は兄を許さない。そして、兄を許さない自分のことも、きっと心のどこかで許していないだろう。それは即ち「自分を愛していない」ということなのかもしれない。
それでいいと思っている。
それがあのように扱われた人間の、私の、自然な在りようだと思っている。
「自分を愛する作業」を、大切な人に委ねることのないよう慎重に注意しながら、
やりたいことをやり、食べたいものを食べ、観たいものを観て、居たい場所に居続けよう。
それはきっと、許せない人間をこの手にかけるよりも、ずっと楽しく、美しく、素敵なことだろうから。
今日も女は家族叩き
今日も男は女叩き♪
スパンキング♪お尻をスパンキング♪
なんか後半凡庸なポエムになったな 17点。
兄弟が何人居るか知らんが、団結して戦えば勝てたのでは
そんなあなたにもきっと兄を許す日がやってきます。 それは兄が死んだ日です。 だから大丈夫。 今は許す必要はまったくありませんから。
お前のトラバが一番傲慢下劣だな 恥を知れ
そうですか? とても心温まる良いトラバだと思いますが。
ものすごい経験だな。普通の家庭に育ったけど、ぼんやり生きてきたのが申し訳ない気すらする。 まぁでも幸せ度ではすでに遥か追い越されてるけどな。素敵な毎日を送れているようで...