金のない奴への差別
若くない奴へ差別
が重なっているだけだ。どれか一つでも秀でている場合、差別されないこともある。金持ちのおっさん、ブサイクな権力者、貧乏劇団員のイケメン。だが、基本的に彼らも差別される属性を持っているわけだ。おじさんだけどお金はある、貧乏だけどカッコいい、という風に言われるように、KもKもOも「〜だけど」の対象なんだよ。
キモい奴へ差別は根深い。現実でもテレビの中でもブサイク・ブスは笑い者だ。俳優女優に言えば炎上必至のいじりを受ける。
ブスブサイクというだけで価値がないのだ。源氏物語きってのブサイクヒロイン末摘花は、あからさまに「ハズレ」として描写されている。逆に、美人はそれだけで高評価を受ける。白雪姫のプラス評価は殆どが生まれつきの容姿によるもので、彼女は働き者だったから幸せになれたのではなく、寝顔が可愛かったから幸せになれたのだ。この容姿に依存した評価基準を、フェミはルッキズムと呼び強く批判する。KKO差別反対増田はこの点においてだけはフェミと共闘できると思うのだが、そのルッキズムとやらはあまりに深く我々に根付いているので、これに抗うのはフェミだろうが弱者男性だろうが難しいだろう。
金のない奴への差別…というよりは社会的な地位のないものへの差別といった方が正しいだろう。猿山に序列があるように、人間社会にも序列がある。男は特に社会的地位を求め、求めれる傾向があるので、地位が低いことは女性よりも男性の方が評価に響きやすい。結婚においても、共働きが増えたと言っても、同条件の年収300万と600万の男がいれば後者が選ばれる。そして、600万と比べて300万と比べて「はずれ」扱いされる。貧乏なこと自体が辛いのに、その上蔑まれるのである。二重苦である。
若さは強さだ。若者は威張れる。おじさん・おばさんは威張れない。本質としておじさん差別もおばさん差別も特に違いはないと俺は思う。ただおばさんの方が群れを作る能力に長けているので、被差別者側に回りにくいだけだろう。気の弱そうなおじさんおばさんが、不良に「とろいジジイ」「クソババア」呼ばわりされているのを見たことがあるだろう。
若さも容姿も権力も力である。力のないものは虐げて良いというのが現代社会の差別のやり方だ。KKO差別という言葉はむしろ問題を薄っぺらにしているのではなかろうか。途中で力尽きたが大体俺の主張は以上だ。