最近ツイッターでADHDの特徴についてのツイートがよくバズっている。そこで挙げられる特徴は不注意が原因のものが多いので、ADHDではない人間にも心当たりがあることが多いのだろう。そして人間は基本的に名前がつくと安心する。ADHDかも、と思うことで失敗したときの罪悪感を和らげているのかもしれない。
このような流れを受けて、当然「ツイートの特徴に該当するからといってADHDとは限らない。単に性格の問題である人も多いはずだ」と言う人が出てくる。この主張は私も支持する。遅刻を繰り返すことをADHDのせいだとかたづけて改善する努力を放棄するようなことはよくないと思うからだ(そもそももし本当にADHDだとしても改善する努力は必要だ。遅刻がなくなることはないにしても回数を減らすことはできる)。
しかし、ADHDの名前に甘えるなという言葉が、私には少しつらい。私はADHDの診断がついている。だから完全に甘えている、とは違う。実際困ることは多く、大学1年目はほぼ授業に出られずGAPは1をかなり下回った。夜寝ることが難しい。気がつくと就寝時間が4時になっている。今もなんとか単位を取ろうとしているが、正直苦しい。
周りを見ればみな夜更かししたり単位を数個落としたりはしているもののきちんと大学生をしている。文句を言いつつ、ギリギリになりつつも課題をこなし、出席日数を確保し、単位を捨てるときは潔い。
私は夜更かしをすれば2限、下手すれば3限も行かないし、課題が複数出ると焦るのに課題のどれもに手がつかず一日中スマホをいじったりする。捨てるも取るもどっちつかずで結局大量に単位を落とす。普通になれない。今年から生活環境が大きく変わって、すこしマシになったかと思いきや4月の頃だけで、またダメになりつつある。もうどうしようもない。
自分でここまで書いて明らかに発達障害だと思うものの、「甘えるな」の声がどうしても怖い。ADHDの特徴を今までの自分の人生に当てはめることが、後出しじゃんけんのようで気持ちが悪い。自分に言い訳を与える作業のようで、後ろめたさを感じる。きっと理由は3つある。
1つ目は診断が簡単についたこと。他のクリニックがどうかはわからないのだが、私の場合ADHDの診断はかなり簡単に出た。医師とすこし話をするだけで診断書を出してもらえた。今も半信半疑だ。
2つ目はそもそもADHDの症状は性格と密接しているということだ。たとえば部屋が汚いとして、性格がずぼらだからなのかADHDだからなのかの判断はかなり難しいと思う。とくに私はADHDが軽度かつ極度の見栄っ張りだからだろうが、普段できないことも本当に必要に差し迫られてしまえばできてしまう。遅刻も、面接や初対面の人間と会うときなど本当にできないときはしない。かなり早く待ち合わせ場所に着く。そういう時、いつもただの性格なのではないかと思う。また、私は学生がうまくできないけれど、アルバイトはある程度できていた(それでも覚えは悪かったしヘマもよくした)から、余計そう思うのだろう。
そして3つ目。これは2つ目の理由に関連する。処方された薬を飲む前と飲みはじめてからの生活にあまり変化がないことだ。薬はコンサータを服用していて、その効果を実感することもある。たとえば寝るのが4時以降になったとき、実際はよくないのだろうがコンサータを飲んでから寝ると起きなければいけない時間に目が覚める。服薬していないときなら確実に昼過ぎまで寝ている。目が覚めるといってもギリギリなので授業には出ないこともある。しかしめぼしい効果はそれくらいで、他はあまりよくわからない。これも私が軽度だからなのだろうか。やらなければならないことから逃げる癖は直らなかったし、切り替えの下手さも全く変わらない。ということはこれらは私の性格なんだろう。
性格と症状が綺麗に切り離せないことは分かっている。切り離せないから苦しい。どうにか切り離して、私から引き剥がして外部に取り出して眺めたい。たぶんそうしないと安心ができない。しかしそれは無理なのだ。
そういえば発達障害の特徴として0か100かという極端な仕方でものを考えようとするというのがあったが、これもそうなのだろうか。ああ、またこうやって発達障害の特徴のなかに自分を当てはめようとしてしまう。
ぐだぐだ書いたけれど、切り離せないなら諦めるしかない。診断が出たことを後ろめたく思うわけでなく、対策が立てやすくなってよかったとだけ捉えた方が楽なのだろう。少なくとも今はそうやって日々をやり過ごすしかない。甘えるなの声は私に向けられたものではないと信じるしかない。いつか自分のこのクソさに本当に諦めがつく日を夢見て。