この夏の帰省に合わせて義兄がマスオさん的に実家に来てくれて、父母・姉夫婦・甥と3日間ほど過ごした。
甥は、初日は軽く緊張してたようだが、2日目、3日目ともなると慣れてきたようで、私の手を弄んではバタバタしたりウキャウキャ言ったりしていて、死ぬほど可愛かった。
比較的おとなしい子ということだったが、どうも機嫌が悪いときには、うぁーんとなってしまい、私が側にいるときは抱っこをすると大人しくしがみついてきたり、それでも泣き止まず姉夫婦にパスしたりしていた。
3日間のそんな帰郷生活を終えて家に帰ると、(それは当然普段の生活へと戻っただけなのだが)赤ちゃんの不在がとてつもなく大きく感じられた。
とくに不思議だなと思ったのは、通勤中の電車内や家の近所で赤ちゃんの泣き声がしたときに、反射的に「あらららどうしたの??」という気持ちになってしまったことだ。
実際に毎日大変な思いをしているお父さんお母さんからすると、なんのそれっぽっちの子守経験で…と思われるかも知れない。しかし逆に言えば、それっぽっちでも赤ちゃんと意思疎通できれば、赤ちゃんへの共感努力傾向が我が心にこれ程までに生じるのである。毎日赤ちゃんと一緒にいるお父さんお母さんのことを考えれば、日毎に強まるその共感努力傾向の中、それでも泣き止まない不可解な赤ちゃんと、やっぱり泣き止むかわいい赤ちゃんを交互に抱っこしているのだから、その心的な揺れ動きは相当なものだろうと想像する。
http://www.goodbyebluethursday.com/entry/baby__harassment
生後数ヶ月の赤ちゃんを連れ回す親たちに想うことと、“ベイビーハラスメント”について - さようなら、憂鬱な木曜日
はっきり言えば、ちんちくりんである。この人は赤ちゃんの泣き声は不快だということは誰もが同意できる前提だと思っている。だから、その不快を与える泣き声を適切にコントロールしない親が「ベイビーハラスメント」をしていると言うのだ。
しかも彼は「ハラスメント」なる言葉を使っているが、ハラスメントとは私の英語理解によると、面と向かって「やめて」とは言いづらい嫌がらせのことだ。それは、ハラスメントをする主体に権力があったり、言うと嫌がらせがより悪化するからだ。
このブログ主が面と向かって「やめて」と言えないのだとしたら、それは母親に権力があったり、母親が「なんだと?もっとこいつに泣かせてやろうかぁ?!」となるからではない。そうではない何らかの圧力をブログ主が感じているのだとすれば、それは単に、周りの人の目、だろう。
つまり、「ベイビーハラスメント」なるものがあるとして、それを彼に強要してるのは、世間なのだ。しかし、世間は好んで「彼に赤ちゃんの泣き声を強要する」という嫌がらせをしているのだろうか。もちろん違う。結局のところ、それはハラスメントではなく、ただのアクシデントなのだ。
話を戻そう。私が今回の帰省で感じたことは、赤ちゃんの泣き声は何か私たちを駆り立てるような言葉としても聴こえる、ということだ。赤ちゃんの泣き声を我が事として捉え、そこから赤ちゃんとのコミュニケーションに成功した(と思えた)ことのある人には、どの赤ちゃんの泣き声もその人を駆り立てる言葉として聴こえてくる可能性がある。
もちろん不快だと感じることが悪いと言っているのではない。意味を理解できない外国語を大声で話されたら単にうるさいだけだし、うるさくないと感じるためにはその外国語を理解しろ!というのはナンセンスだと思う。私も疲れていたり忙しかったりしたら、単にうるさいなあと思うこともあるだろうし、泣いてる子の言葉が全く親に伝わってないように見えたら「赤ちゃん訴えてるのにかわいそう」と思ってしまったりするだろう。(実際は何しても泣くときは泣くものだし、一概には言えないにもかかわらず)
まあ、話の方向的には、もっと赤ちゃんが身近になるといいとかいう話になるのかも知れないが、それも少子化だからこそ難しくなっているところがある。というか、該当の記事こそ、少子化社会の一つの症状的なものだということが言えるのかもしれない。