一端の会社に勤め、人間関係や自分のスキル、今後のキャリアに想いを馳せ、一丁前に愛すべき小さな悩み事達を抱えながらも、日々の仕事に追われあっという間に毎日が過ぎ去っていく。
ふと気付けば、こんな私がいつのまにやら一見何の変哲もない生活を送っている。よくもここまで辿り着いたなとたまに感慨に浸っては正気にもどる。私は特別だと思ってたけど、いやいや別にそんな大層な者じゃないよ、と。
思えば幼い時から、「みんなと同じ」を装うのに必死だった。身体的な性別に対する強烈な違和感を抱えながらも、他人は持たないであろう悩みをひたすら抑圧し、周囲の同性達に馴染む事に必死な日々だった。
今では懐かしい日々だけど、あの頃は本当に世界が灰色。楽しくない事を楽しんでいるふりをし、好きでない物を好きなふりをする、色の無い日々。毎日死のうと思ってた。
詳細は割愛するけど、紆余曲折を経て今は当時とは違う性別で人生を送っている。
割愛したけどその過程では色々な人達の、あまり他人に見せない側面に触れる事が出来た気がする。
以前と変わらない関係を続けられる人、離れていく人、突然自分の悩みを打ち明けてくる人、告白してきた元同性知人、親友になった元異性、等々。
そんな中でも、やっぱり昔と変わらず一人の人間として接してくれる数少ない友人達は大切にしたいなぁと思うと共に、手のひらを返すように私から離れていった人達の事を思い出す。
今の私しか知らない人達には過去の事は話していない。離れていってしまうのが怖い、ということもあるんだけど、いわゆるセクシャルマイノリティであるという事実は私の単なる一側面であって、私を表す代表的な面ではないから。敢えて言わなくてもいいでしょ、ってね。
最近、昔の私を知らない関係からスタートした、初めて心を許せる友達が出来た(と思ってる)。知り合ってから何年も経つけど、本当に何年も掛けて仲良くなった。お互い少しずつ距離を縮めながら、ようやくお互いの抱えてきた様々な事を話せるようになってきた。私も昔の事を話した。
特に心地よいのは距離感。お互いの事を深くは詮索しない。「話したかったらいくらでも聞くよ、でもあなたの全てを知らなくっても、もうあなたの事を信頼してるし、友達だよ」っていう感じの関係。
ある日、その友達のこれまでに壮絶な人生があったことを知った。私の人生なんてイージーモードじゃんかと思えるような、そんな昔話。
私が自分だけ特別ツラいって思い込んでいたのは、私が心の奥底を曝け出さないから他人も心を開かず、人の抱えてる様々な想いを軽視してたからだ。
分かってるつもりではいたんだけど、今私の前で笑ってるあの人が、これまでの人生ずっと幸せだったわけじゃないってのを、いい歳してようやく出来た友達に改めて気付かされた。
みんなそれぞれが苦しいし、楽しいし、悲しいし、普通だし、特別なのだ。
マイノリティ当事者だからこそつくづく思うんだけどもさ、女だからとか、男だからとか、LGBTの権利がとか、国籍がとか、身体の障害がとか、主張するのも、特別扱いするのやめてほしいと思っている。
個人は個人として誰に対しても、否定せず寛容な心を持って今よりちょっとだけ優しい気持ちで接するだけで、もっと楽に生きていけると思うんだよね。
ははは、わかってるよ、そんな簡単な話じゃないのは。
そんな大それた事を考えながら昔乗り越えた大きな困難を思い出したりもするけど、実際の私は今目の前にある小事でてんてこ舞いの日々。自分にとって自分はとても特別だけど、そこらにいる普通の一人の人間として頑張って生きています。
気付いてるかはわからないけど、みんなの近くにも多分いるよ、私みたいな人が。でも、もし気付いてもそこらにいる人間の一人として接してあげてほしいな。
ではキモくて金のないおっさんにたいして優しい気持ちで接さないといけない社会は あなたにとって幸福な社会なのでしょうか?