「夢じゃないけど」という前置きについて
最近よくツイッターを見るようになって、審神者やぐだ(これを夢でなないとする派閥も居ることは知っています。ですが私はオリジナルキャラ夢であると考えているため、このたとえを使いました。)
の話を見ていると、「夢じゃないけどキャラクターに○○したい、されたい」といったツイートをよく見るようになったと感じています。
また、先日バズっていた、「夢作品は見るけど自己投影をせずカプ的な目線で見たい」といった発言を拝見しました。
個人的な感覚として、夢小説あるあるタグや、自己投影なんておこがましいなどの無神経な、よくそれを鍵なしで言ったな!突っかかられても絶対に被害者面するなよ!よろしい、ならば、な発言により、夢はどうにも「昔のもの」「黒歴史」であるという認識から抜けれていないように感じ、それはなぜなのかということについて考えてみたいと思いました。
個人の感覚・疑問をもとにして書いているため、偏りや誤解などがあるかと思われます。
どうしても捨て置けねえ、こういう考えもあるんだよ、というご指摘はありがたく拝見していきたいと考えています。
「キャラ×自分などというおこがましい、キャラクターにふさわしくない自分なんかがキャラクターと恋愛ができるほどの立場にない」
という気持ちがあるのかなと思いました。
これは、自己投影や夢と腐について紛議する際にリツイート先やリプライなどで個人の感覚を吐露しているものを読んで感じた点です。
別にその卑屈になった自意識を救ってあげたい♡だなんて思っていないです。他人の妄想の中ですら自己投影なんて恥ずかしいものだという価値観をおしつけて平然としていられる傲慢さは抱いたままそこに居て出てこないでほしいと思います。
ただそれを公開アカウントで言って突っかかられたときに悪気はなかったとは言わせないからなという
次に、「自己投影は恥ずかしいもの」という意識がなぜか根深く残っているのではと考えました。
冒頭に述べた、「夢じゃないけどキャラクターに○○したい、されたい」「夢作品は見るけど自己投影をせずカプ的な目線で見たい」という発言について、こちらで感じたのは
「なんでそれ夢じゃないと思うの?夢じゃだめと思う理由は?」です。
個人の感覚についてつっかかることの不毛さはわかってるけど、夢だと思ったものが夢でいいと思うけど
女審神者騒動のときにあった「創作審神者は夢じゃないからたたかないで」に似た悲しさを感じたというか
腐の界隈で「夢じゃないけど」の接頭語をつけないということは、「自分はキャラクターと恋愛がしたい身の程知らずの恥ずかしい人間」であるという烙印を押されると恐れているのではなんて勝手に想像している。
自己投影しているかしていないかなんて自分でもわからないような状態の人はたくさんいると思う
そもそもどうして自己投影しているかしていないか、自分の中でケリをつけなければならないかという
己投影しているかしていないか、そんな踏み絵みたいなクッソくだらない基準で二次創作でフォルダ分けをすることが一番くだらない。
最後に、何度目の指摘かわかりませんが、あまりに夢界隈を知らなすぎるというのではという推測をしています。
夢小説とは何かと考えるきっかけになった記事を紹介させていただきます。
http://makun0uch1.hatenablog.com/entry/2016/11/26/222114a
結論というか願望としては、自己投影しているかしていないかという区分けの撤廃と、夢に関しての無神経発言が許されるような風潮がなくなったらうれしい。