というアインシュタインの言葉が好き。彼は「常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである」とも言っている。
偏見から自由であることは、切り替えの良さとも換言できる。切り替えの良さの根底には、一種の集中力が大きく関係している。感情を揺さぶる出来事があってもブレずに思いのままに注意をコントロールできる、そういう集中力だ。
世の中には嫌なことがあったら延々と引きずる人がいる。1つのことを1つのところでグルグル考えている。切り替えが悪い人とはそんな人だ。切り替えの悪い人は頭が悪くなる。
この世界を好きなものと嫌いなものと無関心なものの3つに分けると、無関心なものは殆ど認識されない。当人にとっての「世界」とは好きなものと嫌いなもので殆ど構成される。
切り替えの悪い人は、好きなものと嫌いなものに遭遇するたびに、思考がそっちに引きずられ堂堂回りに陥ってしまう。また別の好きなもの・嫌いなものに出会うと別の堂堂回りに巻き込まれる。そんなことを繰り返している。
そんなループを転々としているから設定した思考テーマに腰を据えて向かい合うことができない。だから頭が悪くなるんだ。
カントは毎朝30分窓から見える樅の木を見つめて集中力を高めた。テーマを固定する重要性をよく分かっていたのだろう。いくら天賦の才を持っていても、集中力がダメになると一気に頭が悪くなる。
ネットで対立争いしている人がバカに見えるのは、どうでもいいことに必死になってるからでも、自分に都合の悪い主張を言っているからでもなく、ものすごく切り替えが悪いように見えるから。
実際のところ中の人は1人でもなければ固定したメンバーでもないのに、あたかも1つの人格として見てしまうし、実際にそう扱われているから。
言っておくけど、世の中不毛な争いやくだらない主張してる人でも賢い人はいるよ。
切り替えが人に比べたら良いという人は沢山いるけど、少し切り替えが良いくらいでは偏見をなくすのは難しい。
偏見は切り替えの悪さの時間積分だから。そして偏見は偏見を呼ぶから。どんどん蓄積していくから。だから偏見をなくすことはとてつもなく難しい。
例えば偏向報道に関してしばしば、そもそもフラットな報道などありえない、だいたい何をもって公平とするんだ、偏見と言うのも偏見だ、などと言われるが、大切なのは拘りのなさである。
全知全能などありえないのだから、情報や知識に偏りはあって当たり前。しかし、人間は学習する生き物だから、これまでの考えに反する知識を新たに得れば、考えを改めることができるポテンシャルがある。
それが出来るかどうかである。それができないほど自分の考えに傾倒している状態を私たちは偏見と呼んでいるんだ、実際のところ。
自論に反する情報には反発的になるのが人情だけど、切り替えの良さがあれば不快な感情を切り離して、その情報自身の意味するところを落ち着いて理解し、歪んだ解釈を加えることなく取り入れることができるからね。
軽く日常的な会話をしていても、落ち着いて普通に話のできる人とそうでない人は簡単に見分けがつくだろう。
感情をすぐ混入させてしまう人は、危ういなと思うし、建設的な意見を聞けそうにないなと思われてしまう。そんな人はまず集中力からだね。
都合の悪い話になると話が聞けない人、これが一番危ないけど決して少なくないタイプだ。次に誤魔化してしまう人が危ない。人格者とされる人でも誤魔化す人はほんとに多い。
常々思うのは人の評価なんて欲望まみれであてにならない。高評価だからと安心せず、頑固な印象を与えていることを自覚したほうがよい。誤魔化してもバレバレ。
その次が都合悪くなると言葉に詰まる人。ここまでくれば割と安全だがやっぱり潜在的に危ない。カウンセリングでも言葉の詰まりは重要な手がかりになる。
都合の悪いときによく言葉に詰まる人は、フラットな精神状態を保てていない証拠であり、それが偏見増殖の原因となっていることを自覚したほうがよい。
御託並べてないでチョウセンウジ虫は早く日本から出てけよ