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はてなキーワード: 纏向遺跡とは

2023-07-04

anond:20230614173023

高等学校日本史B清水書院 2017年

初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県纒向遺跡魏志倭人伝にいう

「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている



『詳説日本史研究山川出版社 2017年

古墳については、出現の当初から近畿を中心に分布することが知られている。

従来、古墳の成立については、4世紀のこととされてきたから、

3世紀前半の邪馬台国問題と直接関係しないと考えられてきたが、

最近では、古墳の出現年代3世紀後半までさかのぼると考える研究者が多くなり、

少なくとも考古学の分野では、近畿説をとる研究者が多くなりつつある



『新選日本史B』 東京書籍 2018年

大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市纒向遺跡の発掘結果や、

漢の鏡の出土分布から大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある



『もういちど読みとおす山川新日本史』 山川出版社 2022年

古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、

ヤマト」を中心とするヤマト政権邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。

邪馬台国中心部とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。

この遺跡奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。

巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域だったと考えられる



高等学校 日本史探究清水書院 2023年

史料2に倭の女王(卑弥呼)が魏から銅鏡100枚を授けられたことがみえる。

それに該当する可能性があるのが、前期古墳に副葬された三角縁神獣鏡である

また、史料1に、247年ころに卑弥呼が死去し、直径100歩あまりの塚をつくったことがみえる。

その有力候補に、奈良県桜井市三輪山のふもとに立地する箸墓古墳がある

2023-06-14

邪馬台国 畿内説vs九州

吉野ヶ里発掘のニュースで、自分の中の邪馬台国畿内説vs九州説へのロマンが盛り上がったので書く

まず自分古代日本史考古学の全くの素人であることをお断りしておく。

古事記日本書紀伝説として好きで子どものころから繰返し現代語訳で読んでいた。

学生時代九州旅行で記紀地名が出てくる場所を訪れロマンを掻き立てられたこともあり、自分は昔から九州説派である

奈良県がまとめている古事記ゆかりマップは全国のゆかり地がマッピングされていて親切だ。

古事記ゆかり地マップ

だが、ここ5年ぐらいで専門家の間では畿内説がほぼ鉄板となったという話は何度も聞いていた。

専門家意見一定価値を置く自分としては寂しさを感じつつ受け入れていたが、今回のニュースで改めてググってみると、やはり改めて九州説を自分は強く推したいと思う。

(因みにネット上の情報は圧倒的に九州説が多いので、ネット情報を中心に接種すると九州説派になる模様。)

畿内説の論拠

自分理解では畿内説の論拠は、纏向遺跡がすごい遺跡から

こう書くとバカみたいだが、

纏向遺跡前と後で時代が大きく変わったことが分かる

 ⇒ 埋葬されている王は歴史に残る大王であったと考えるのが普通

・纏向にあったのは日本四国方面関東方面支配下に置いていたことが推察される、当時の日本では他にない規模の大国だった

 ⇒ 中国との交易品を考えると邪馬台国大国であったはず。纏向にあったのが邪馬台国でないなら、中国地方小国交易していたことになり不自然

卑弥呼時代と大体年代が合っている
魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさ「径百余歩」に匹敵する数少ない古墳

ということなので、考古学証拠から邪馬台国大和国で、纏向に首都があったと考えるのは納得できる。

自分が今回目を通したソース

Wiki邪馬台国畿内

新版 古代史の基礎知識 (角川選書)の前半(倭の五王まで)

自分が感じる畿内説への違和感

まず邪馬台国大和国自分同意。「たい」なんて音は日本語の発音になじまない。

違和感1:贈答品の確認を伊都国でしている

そのうえで、自分はこのYoutube関川尚功氏が指摘している「女王の住居が奈良なら、伊都国(大宰府周辺と推定されている)で女王への贈答品の確認はしないだろう」という意見に強く賛成する。

https://www.youtube.com/watch?v=dA3e14517Ek

現代にも通じる物流常識感で、中国から奈良まで水路でこの後運ぶ荷物確認は、一旦寄港した福岡でなく最終水揚港の大阪付近になるはずだろう。

伊都国で贈答品の確認をしたという魏志倭人伝記載はこのリンクでも紹介されている。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/25route.html

違和感2:箸墓伝説

記紀ではうっかりか意図的にかの違いはあれ、三輪山の神に去られた百襲姫が女性器を箸でついて死んだとある。これはどう見ても性交または出産に関したトラブルで死んだように読める。

また、その墓は夜は神が昼は人が作ったとある。この表現は緊張関係にある2つの部族彼女のために距離を置きつつも協力して墓を作ったように読める。

卑弥呼が何歳で他界たかはわからないが、魏志倭人伝から長い治世だったと考えると性交出産トラブル死ぬような年齢だったのか疑問がある。

次に、魏志倭人伝卑弥呼が死んですぐまた国が乱れ台与を女王にたてたとあるので、争いあう二つの部族卑弥呼の墓を一定期間協力して作ったというのが想像しにくい。

自分が考える邪馬台国

自分纏向遺跡卑弥呼の跡を継いだ台与の墓だと考える。

九州大和国卑弥呼女王に立て勢力を伸ばし、彼女の在位中に近畿に東征し、奈良三輪山周辺に拠点を持っていた大物主一族姻戚関係を結びながら(神武天皇皇后大物主の姫)、最終的には大物主一族も亡ぼしたのではないかと思う。それが記紀神武東征伝説として書かれた内容だろう。

卑弥呼自分兄弟である神武(または崇神)(※二人とも「はつくにしらすすめらみこと」)と共に近畿に移動したかからないが、中年女は引越しを嫌うので九州に残ったかもしれない。

だが、ある程度近畿大和国勢力を持ってから即位しただろう台与は近畿生活していただろう。

彼女が死んだとき大物主一族大和国の間は既に緊張がありつつ協力して墓を作るぐらいの関係性はあったのではないか

その後、大和が謀略か戦争かで大物主一族を滅亡させたため、その祟りを恐れ、記紀にあるように一緒に祀っていた大物主と天照(卑弥呼か?)を分けて、それぞれ三輪山伊勢神宮に祀ったのではないか

吉野ヶ里で今発掘中の貴人の墓は、卑弥呼の墓として魏志倭人伝に書かれている径百余歩の大きさに到底及ばない規模らしい。自分吉野ヶ里卑弥呼の墓ではないだろうと思う。

卑弥呼の墓はまだ発見されておらず、台与の墓は先代と同じ規模にということで箸墓が径百余歩の大きさなのではないか

魏志倭人伝にある邪馬台国場所説明は、神武東征が始まる前、または、まだ卑弥呼九州に残っている時のものなのではないか

 
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