個人的にはどちらもとても楽しめたが、それは置いて置いて。今回は巷に沢山ある作品のレビューについて考えたこと
http://ohrmsk.hateblo.jp/entry/kiminonaha.jp
有名なブログらしく、この方は批判的な立場から感想を書いておられるが、コメント欄を見ると賛否両論(特にブログ主に対する批判)が沢山書き込まれている。
特に否定的なレビューをした場合、こういうことになりやすい。そしてたいていの場合は「嫌なら見るな」「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」といった批判が否定的なレビューをした人に対して向けられる。そして「こんな記事書くな!」という結論になりやすい。一方で「共感しました!」という意見も出てくる。
ここにレビューの難しさがあらわれてくる。
大きく分けて二つあると私は思う。
②見たあとの人が感想を分かち合う喜びを得られるようにするため
このうち②に対しては何を書いてもなんの問題もない。作品に対して肯定的な人は肯定的なレビューを読んで満足すればいいし、否定的な人は否定的なレビューを読んで納得すればいい。
でも②での意味のみでのレビューの経済的な価値は、ぶっちゃけ低い。だって映画はもう見てしまったわけだから。感想だけなら誰でも書けるし。それよりも大事なのは①だ。私たちは限られた時間とお金を何とかやりくりして生きている。長い時間とお金をかけて好みではなかった映画を見るのは避けたい…。同じ時間で別の面白い映画も見られたかもしれないし、同じ時間でバイトすることもできただろう。現代人は忙しいのでなおさらだ。
じゃあどういうレビューが役に立つかというと、「こういうタイプの人はこの映画を見るべきで、こういうタイプの人は見るべきではない」と細かく中立的な視点から解説しているレビューだろう。こういうレビューをするブログや評論家はあまり多くはない。ほとんどの人は自分の感想を述べているだけだ。
しかし仮にそういう中立的で完璧なレビューがあったとしても、結局やっぱり自分で見てみなければわからないと気になってしまって見に行ってしまうのである。
だからレビューを書くということ自体、無駄なんじゃないかとすら思えてくる。
この辺がその、私がいわゆる「評論家」と呼ばれる人達が世の中に本当に必要な職業か疑問に思ってしまうゆえんである。
加えてステマとかネガキャンといった意図的なレビューも溢れてる現在では、なおさら他人のレビューはあてにならない。
結局ドラマやアニメ、映画の感想は、人によって異なり、実際に見てみるまでわからない。
だから「嫌なら見るな」という批判はどう考えても的外れで、「見たからこそ嫌だった」わけだから、それはしょうがない。せいぜい映画の途中で退席してしまうくらいだが、そういう映画に限ってラストでどんでん返しがあったりするから気が抜けない。
私たちは貴重な時間を掛け金に、映画を一本見るというギャンブルをしているのである。
あなたにとって面白ければあなたの勝ち。時間と金を無駄にしたと思えばあなたの負けである。(これは「だからどんな映画でも楽しんだ者勝ち」という意味ではない。つまらないものはつまらない)
これは非常に分の悪いギャンブルで、事前情報であるレビューや広告は、自分が面白いと思うかどうかを判断する材料としてはほとんど役に立たない。
もっとマクロな目で見れば人生とはそういうギャンブルの連続であり、つまるところ運なのだ。そして自分の賭けに覚悟を持つことなのだ。
だから見た映画がつまんなかったとしてもそれは自分の覚悟の上であり、甘んじてその結果を受け入れるしかない。製作陣も配給会社も広告会社も映画館も勧めてきた友人も誰も非難できない。見るという判断したのは自分だからだ。
話がそれたがとにかくレビューは事前の判断材料としては役に立たず、同じ感想を持った人たちと感想を分かち合うためにしか書かれる意味がない。だからレビューを書くときに「この作品を批判しているやつはおかしい」とか「こんな作品を見に行く奴の気がしれない」とかみたいに意見の合わなかった人に干渉するようなことを言っても意味がない。
月並みな話だが、やはりなるべく肯定であれ否定であれ、個人の感想にとどめるのが無難だろう。
そんな風に結論づけつつ、結局私自身を振り返ってみると、ネットのレビューや広告ばかりにつられて見に行っているなぁと思う。シンゴジラも君の名はも話題作だから見に行ったわけだし。時間とお金がない中で、マイナーだけど良い映画に当たるためには、どうすりゃいいんだろうね。
そのレビュー内容自体がツッコミどころ満載なのが悪いだけでは。