はてなキーワード: 繁華街とは
京都から東京に単身で引っ越してきて随分経つ。短期間、中部に住んでいたこともあるし10年以上前はパソコンのメンテ屋として京都や大阪中を駆け回ったこともある。そのときに、いわゆる辺鄙な土地を沢山見てきた。この先の長い人生において、再訪することは絶対無いであろう街の数々を。旅行で地方の街並みを見ていてもこういうことを最近よく考える。
「こんなところに人が住んでいるなんて、ちょっと信じられない」といった気分になるのだ。最近の例では、京都府の京丹後市だ。あそこにはコンビニもあれば学校だってある。役所だってあるし、民間企業の社屋だって存在することに激しい違和感を持った。なんだこれは。これじゃあここで一生を終えてしまうことが出来てしまうじゃないか、という「つまらなさ」を感じずには居られなかった。おそらくだが、amazonで書籍を注文すれば普通に届けてくれるであろう地域だ。ユニクロだってあるかもしれない。
鉄道に乗れば制服を着た高校生が談笑している。彼らがこの先大学を目指すのか就職するのかは知らない。もちろん就職難のこのご時勢、彼らが無事就職できるのかどうかはわからないが、少なくとも彼らにとっての幸福な人生とは、地元で就職し地元で家庭を持ち、地元で、地元で・・・すべてが地元で成す事を前提に設計されているはずだ。おそろしい、とてもおそろしい。彼らはうまくいけばいくほど、その土地から出る必要に迫られることは無いのだ。逆に、地元で就職することに失敗した人は「仕方なく」、京都市や大阪市に出てくるはめになるだろう。どちらが幸福な人生だろうか? 俺は前者のタイプを羨ましい面があると認めつつも、「怖い」とも思うのだ。自分があんなに辺鄙で、「ささやかな繁華街に行けばそこに大抵顔見知りが居る」程度に小さな土地で過ごして一生を終えることを考えると、ゾッとする。
俺の実家は京都市だが、たまに帰ってきて河原町を歩くとやはり同じ心境になる。そこに居る沢山の歩行者は観光客を除けばだいたい京都府民だろう。この人たちにとってのレジャースポットの最上位は、せいぜい河原町や梅田なんだろうな、と。年老いてからもそれは変わらないのだろうな、と思うとやはりゾッとするのだ。
なぜみんなもっと外に外に出て行こうとしないのだろう。なぜ外に出ないうちに家庭を持ったりするんだろう。わけがわからない。同じように、会社組織もなぜ社員をいろんな土地で働かせようとしないのだろう。外の世界を教えてしまうと逃げられるから、という理由があるような気がしてならない。
ちょっと調べてみたが、海外でもたとえばアメリカでは同じ州で一生を終える人とかは普通に居るようだ。有り得ないって絶対。今自分が住んでいる土地で人生を終えることが本当にベストなのかどうか、せめて幾つかの土地を見て回ってから結論を出したら?
俺はまだ結論が出せていない。この欲というか、迷いみたいなものがいつまで経っても断ち切れなくて、最近は日本に固執する必要もないよな、みたいな考えにもなってきてる。
※「地方の人間をバカにしている」と言われたら返す言葉が無い。確かに俺は今、京丹後市の人々をバカにしている。だから俺のこともバカにしてくれて構わない。ただ、悪意が無いことと、これは俺の一切の偽りの無い本心であることだけは理解してもらえたらと思う。
コメントで「繋がれた象」というお話について教えてもらった。この話は知らなかったが、俺が言いたいことはこれにかなり近いので少し安心した。
母はいつも私の友人を見ると眉をひそめてあれやこれやと欠点をあげつらった。
小学生の時はいいなりだった。あの子はかわいくないから、あの子はバカだから、あの子はデブで怠けものに違いないから、あの子の親は変だから、だから付き合うなと言われて、遊びの誘いを断り続けたこともある。学校では仲良くし続けても帰り道の途中からいつも一人ぼっちだった。家に帰ってから遊ぶ相手は誰もいなかった。むしろ家に帰ってから遊びに出かけること自体が許されていなかった。
中学生くらいからそういう母の戯言は聞き流すようになって、ときどきは休みの日に遊びに行くようになった。とは言ってもお小遣いをもらっていなかった私はみんなの遊びには加われないことが多かった。プリクラもマンガの貸し借りも繁華街もゲーセンも私にとっては入ることのできない場所だった。次第に友人関係はフェードアウトしていき、部活のつながりだが残った。毎日毎日学校に行って帰るだけの日々だった。部活の練習試合に行くのすら気が重かった。母にお金をくれと頼むのがしんどかった。
金を出さないと言われたことがあるわけではない。でも、暗黙の了解で、遊びに行くのは禁止だった。休日は家にいなければならなかった。休日家にいないことは、私にとってはすなわちお金が必要だということで、そのことを母に告げるときの針のような視線が痛かった。
母は私の友人を見かけたり写真で見たりするといちいち欠点をあげつらった。まるで自分自身が責められているようでいつもつらかった。彼女たちは別に悪い人たちではなかった。未熟なりに欠点はあったにせよ、話をしていて楽しい相手だった。でも母はいつも彼女たちを気に入らなかった。私の嫌いな人たちに限ってほめちぎった。
しんどかった。話をしたくなかった。何も頼みたくなかった。私の交友関係に土足で踏み込んでくるそのやり方が気に入らなかった。
だから私はただ口をとざして、数少ない友人とだけ学校生活を過ごした。学校での生活は悪くはなかった。よくもなかった。少なくとも苦ではなかった。
休日は苦だった。家にいても外に行っても責められているような気がした。家にいればいれでなんやかんやと小言を言われたり、友達もいないのかと嘲笑われたりするのだ。かといってどこかに遊びに行けば、罪悪感がずっと心の中を支配していて楽しめなかった。実際に楽しい思いをすることもあまりなかった。お金がなかったから。そのくせ、どこかへ行くと母は必ずお土産を要求した。土産としてなにか買って帰らなければ家に入れてもらえなかった。ただちょっと近所に行くだけでも、友達の家に遊びに行くだけでも、土産を買って帰らねばならなかった。大した金額のお金を持っていない私にとって土産を買うことはとても辛いことだった。お金がないことがいつの間にか心の深く深くに根を張ってしまい、お金がないことを理由に誘いを断るようになっていった。友人たちはそうか、仕方ないよねといって特に責めなかった。誘いを断るたびに私はひどく落ち込んだが、友人たちは決して責めたりはせず、みんなで出かけた後は私にお土産をくれたりした。私はそれを返せないことをひどくすまないと思ったが、彼女たちは気にしなくていいと言ってくれた。本当に心優しい人たちだと思う。
大学に進学して、そこで私は愕然とした。お金の使い方がわからなかった。一人暮らしを同時に初めて、そこで買い物ができなかった。スーパーのどんな品物も高く思えた。すぐにお金が尽きてしまうような気がして、しばらく空腹のまま過ごした。私の中でお金は使ってはいけないもので、遊びにいってはいけないものだという固定概念がすでにできてしまっていた。もちろん遊び方もわからなかった。飲み会も初めてだった。休日にどこかに行くというのは考えられなかった。学校とバイト先の往復、友達ができても遊びの誘いを罪悪感から断っていたらすぐにフェードアウトして行ってしまった。頑張って何度か遊びに行っても、同じような金の使い方はできなかった。なくなってしまう、生きていけないという思いの方が強くてお金が出せなかった。ファミレスの食事など地獄のようだった。高い。高い。どこへ行ってもお金がかかる。どんどんお金が飛んでいく。私は恐慌状態だった。生きていける気なんてしなかった。その結論として選んだのが、部屋にできるだけひきこもり、友人を作らず、とにかくアルバイトをし続けるということだった。
通帳にはどんどんお金がたまっていった。それでも私には足りなかった。どんなに稼いでもためても、すぐになくなってしまう気がしてしょうがなかった。100円のものを買うのにすら何十分も悩んだ。自販機で缶ジュースを買うことすらできなかった。コンビニは私の敵だった。
やせ細っていく私を母は笑った。一人暮らしなんてできるわけがないと思っていた、帰ってきなさいと笑った。でも私は帰らなかった。母は怒って私の通帳を取り上げて新車を買ったが、私はただ黙々とまたアルバイトをしてお金を貯めた。歯をくいしばって泣きながら、体も壊して、でも働き続けた。いつもお金がなかった。お金を取られないように細かくいくつもの通帳に分けて管理した。徹底した管理で家計簿の一円単位まできっちりと毎日記録した。毎日お金のことしか考えていなかった。
大学時代の友人はいない。あの時をどうやって過ごしたのかも覚えていない。時々、高校時代の友達が遊びにきてご飯を食べに行くと、高いけど大丈夫?とみな聞いた。私は泣きそうだった。泣きそうでも大丈夫と答えて笑った。みんなやさしかった。私の頼む量が少なくても何も言わなかった。私が店の前でためらうと別の店にする?私あんまお金ないんだよねと先回りして気遣ってくれた。
その優しさに私は何も答えられていない。なにも返せていない。
社会人になった年は特にひどくて周囲の人と合わせてお金を使うことがひどくストレスだった。それでも我慢して使っていたら慢性の胃炎とめまいと貧血が常に襲ってくるようになった。表面上は笑って過ごしても休日は布団から起き上がれなかった。ただ、救いだったのは同期はみなお金がなかったことだ。無計画に使って、給料日前には後いくらしか残ってないとげっそりした顔で言っている同期もいた。スーツが買えないと愚痴をこぼしている同期もいた。その中でお金がないというのはそれほど苦痛ではなかった。お金がない、という状態を誰かと共有したのはその時が初めてだった。いや、正確に言うと私は今も相変わらずあまり使うたちではないので彼らよりはずっとお金があったのだが、でもあとこれだけしか使えないという感覚の共有とそれを口に出してよいことが新鮮だったし、救いだった。彼らに合わせるのは大学時代よりは苦ではないということに気づいたのはしばらくしてからだった。それからは徐々に体調も戻って、少しずつ使える額を増やしていけるようになった。同期とは今も仲良くしている。たまに飲みに行くこともある。休日にまで会うことは少ないが、でも浅くゆるくつながり続けている。
今でも時々悪夢で目覚める。所持金も口座もすっからかんになっている夢だ。そのくせ必要な出費が次から次へと押し寄せてきて途方に暮れる夢だ。いまだにあの感覚が私の中に残っているのだと知って暗澹たる思いに打ちひしがれる。あの底知れない闇の底を思い出して恐怖する。いまだに、ケチくさいなどと嫌味を言われることがある。それでも少しずつ、人より遅い成長をして、なんとかつかみ取ってきた。異常から正常な方へ、誰かの親切や優しさに導かれてやってくることができた。この感謝は誰に返せばいいのだろう。与えられたものは誰に返せばよいのだろう。どうやって返せばよいのだろう。お金で返すのは汚いだろうか。そういうことをなぜかぐるぐると考え続けている。
中国・広州市で黒人が警察の差別待遇に抗議、交通が麻痺:ナイジェリア貿易商ら
09年7月15日午后、広州市広園西路で夥しい黒人があつまり警察署を囲んで抗議に及んだ。
このため警官隊が出動し、流血の騒ぎに発展した(博訊新聞網、7月16日)。
原因は近くのバザールで身分証明とビザの確認を求められた黒人が抵抗したため、対応が悪いと警官に殴られ、二名が死亡したという噂が駆けめぐったからだ。
胡政権のアフリカ重視外交により、現在多くの黒人が中国に出稼ぎにきており、とくに広州市では2万人が住んでいると言われる。
すでに拙著でも広州のアフリカ系出稼ぎと貿易商の活躍ぶりについて三年前に報告した。繁華街でビラを蒔いている黒人もいて、フィリピンからのアマさんの出稼ぎより目立つほどだった。
かれらの一部は中小企業、とくに貿易商で、広州で衣類を買い付けるビジネスに従事している。貿易商はナイジェリア人がなぜか多い。
ウォールストリートジャーナル華字版(7月17日付け)によれば、「香港のナイジェリア領事館は何も知らないと答え、広州市広報課も、そういう情報はない、と回答した」。
いわゆるいつもの中国の対応だ。
1、2ヶ月に1度という頻度でサシ飲みする女友達がいる。
僕は日常的にはお酒を飲まないのだが、彼女はかなり頻繁に飲む人。
「『酒は飲んでも飲まれるな』って言いますよね」と言うと、「でも『飲んで飲まれて飲まれて飲んで』とも言いますよ」と返してくる、晩酌当たり前というお酒好き。
双方の趣味嗜好に重なる部分が多く、いつも終電間際まで飲みながら楽しく話し込んでしまう。
先日いつものように2人で飲んでいたら、彼女がビール5、6杯で酔い潰れてしまった。
それまでの経験から、まさか彼女がビールだけで潰れるとは思わなかったので驚いた(後で聞くと彼女自身も驚いたらしい)。
予想外の酔い方をしたのは、若干の体調不良と睡眠不足からくるものだろうというのが彼女の弁。
ビール2杯とサワー1杯しか飲んでなかった僕は早々に酔いが醒め、しばらく休ませれば大丈夫だろうと、テーブルに突っ伏したままの彼女とファストフード店で雑談しながら休憩していた。
しかし終電間際になっていざ駅へ向かおうとすると、20mも歩かないうちにビルの壁に手をついてうつむき立ち止まってしまう彼女。
こりゃ結構酔ってるなーと思いながら、とりあえず彼女の背中をさすってみる。
「このまま電車に乗ったら降りる駅で乗り過ごすかもしれません」
「それに気持ち悪くなって途中の駅で降りたら、終電後に立ち往生しちゃいそうです。だから私はここ(繁華街)で一晩過ごすので、先に帰って下さい」
というようなことを言われ、酔っているが状況分析はできているなと思った。が、素直に帰るわけにはいかない。
「大丈夫ですから、もう帰って下さい」と必死に何度も乞われる。
うつむいて相手にもたれかかりながら言う台詞じゃないですよ、それ。
「もう大人ですし、限界まで酔っているわけではないので、独りでも何とかなりますから」
確かに大人だが、酔った友人(しかも女性)を置いて帰るというのは、人としてどうかと思いますよ。
「ひどい状態に見えているかもしれませんけど、それは人が一緒だと甘えてしまうからで、独りになれば気が張るので大丈夫です」
説得力ゼロです。本当に大丈夫な人は「大丈夫」とは言いませんよ。
「じゃ、とりあえず駅に行きましょう」
そう言って歩き出した彼女が、足元をふらつかせてよろめいた。危なっかしくて見ていられないので、有無を言わさず僕の腕を掴ませる。と、しがみついてきた。
ああ、こりゃだめだ。とても独りにできる状態じゃない。
この時点で帰る気が完全に失せた。
走ればまだ終電に間に合ったとは思うのだが、駅に着いても僕が帰る様子がないのを察すると彼女も観念したらしい。近くの店を探して入ろうということになった。
駅を出ようとすると本格的に雨が降り始めていたので、傘を差して彼女を入れる。
「お酒を飲む人間として、飲まない人間の前では潰れないようにしようって思ってたんですよ」
僕と腕を組んでしがみついて歩きながら話す彼女。
「誰しも他人にいいところを見せたいっていう思いがあるじゃないですか。こういう姿は見せたくないんですよ」
それは分かりますが、貴重な姿なので見ていて面白いです。
「一応、酒飲みとしてのプライドもあるんです」
そんなものは犬にでも食わせろと思います。
「でも、これで酔っ払いを介抱する貴重な経験ができましたね」
まったくです。
「隣にいるのが別の可愛い女の子だったら『ウフフ』な展開で良かったんでしょうけど。……なんかオヤジですね」
ねーよ、と思った。そもそも一緒に飲むような女性なんてあなたしかいませんから。おそらく今後も。
「本当にすいません……」
今回、彼女の口から「すいません」という言葉を50回くらいは聞いた気がする。
結局、iタウンページから探して見つけた近くのネットカフェで一夜を過ごすことに。
寝やすいようにフラットタイプのブースへ彼女を入れ、温かいお茶を渡すと、僕はリクライニングチェアのブースに入った。
空調が少し涼しかったので、受付で借りたブランケットを彼女に渡そうと思い、ノックしてブースの扉を開けると既に素足を放り出して寝入っていた。
見たところ特に異常もないようなので、広げたブランケットを彼女にかけるとすぐ自室に戻り、原哲夫『花の慶次 ―雲のかなたに―』を読みふけった。実に面白い。
いつしか寝入っていたらしい。ふと早朝に目覚めてから、ぼーっと色々なことを思い返していた。
そこで、女性と腕を組んだのは人生で初めてだということに気付く。もしかすると女性との相合傘も初めてかもしれない。
そういえば意識的に女性の肌に触れたのすら何年ぶりだろうか。だから何だと言うわけでもないのだが。
余裕がないと、あまり考えずに行動してしまうものなのだなと。
「がっつり寝てしまいました」と寝起きの彼女。それはよかった。
何だかんだで、別れたのは昼も過ぎた頃だった。
割と「休日なら何でもOK」っていう意見が目立つけど、敢えてマジレスする。
自分と同じ会社の社員がB系ファッションでうんこ座りしてたらどうよ。
ちょっと一歩引いてしまうのは普通の反応なんじゃないかなぁ。
地方の繁華街とかだと顔なじみの取引先の人と出くわすなんてこともある。
そんな時に不良みたいな格好をしてれば、堅いとこなんかだとすごくイメージが悪い。
現に今回の増田はB系の後輩に不良っぽいというイメージを持ってしまったわけで、
それはB系の後輩にとって多少はマイナスに働きかねないことだと思う。
と、なるとやはり「社会人としてある程度落ち着いた身なりを」と言っても良いのではないか?
この前東北や九州出身の何人かと飲んでいて、彼らとは話が合わない・理解できない点があることに気づいた。例えば、東京は地下鉄の乗り換えが複雑だとか、人がいっぱいいて繁華街がすごい、などの地方出身者にありがちな話である。
京阪神都市圏(≠関西人)出身の自分にしてみれば、大阪の鉄道網で慣らされていたので
地下鉄に乗る際も意識することはなかったし、繁華街の話にしても、梅田の人の多さが日常であったので新宿や渋谷に行ってもそれを気にするようなことはなかった。
しかし、彼らに「新宿も梅田も似たようなもんじゃん」という話をしても多分通じないんだろう。そう思って僕はただ頷きながら彼らの話を聞いていた。
日常で、あるいはネットで都会・田舎論が語られるとき、東京圏と地方圏のみがクローズアップされ、京阪神が忘れられがちになっていることが面白くなかったりする。
その辺がよく分からん。というか彼らも分かってないんだろうな。どの国の若者も日本と同じだと思ってるフシがある。
若い頃某国に住んでた事あるけど、電車・バスの時間は全くあてにならない。タクシーはろくに整備されてない。ショッピングセンターのレジで並ぶなんて事はしない。何でもかんでも我先に割り込もうとする。ゴミはそこら中に捨てる。屋内外構わず唾吐きまくり煙草吸いまくり注射器使いまくり。隙あらば店の商品を盗もうとする。勤めてる店の売り上げをちょろまかす(それが常態化しているので店員はポケットのないユニフォームを強制されている)。ガソリンスタンドで洗車を頼むとダッシュボードの中身が空になってる(捨て忘れた雑誌くらいしか入れてなかったけど)。指摘されるとガチで逃亡しようとする(いきなり走って逃げ出した)。警官は「何必死になってんのwww」と全く取り合わない。恫喝で黙らせれば全て丸く収まると思ってる。収まらなければいざという時は殺してしまえばいいとも思ってる。賄賂を掴ませれば警官も黙ってくれる。
ちなみに、取引先から某球技の試合観戦に招待された時、事前にこういう事を言われたよ。
「腕時計は外しておけ。」
「何故です?」
「強奪されるからだ。首を絞められるのでネクタイも着けるな。それと財布も持っていくな。高額紙幣を数枚だけ胸ポケットに入れておけ。」
「なぜ胸ポケットに?」
「銃を向けられた時に迅速且つ安全にカネを出せるようにするためだ。背広の内ポケットやズボンだと、手を突っ込んだ時に銃で反撃されると思われて撃たれてしまうからな。」
また別の日、クルマに乗って繁華街のど真ん中で人の多い時間帯に交差点の信号待ちをしていたら窓ガラス越しに警官に職質された事があった。
「何をしている?」
「信号待ちですが?」
「なぜさっさと走り抜けないんだ?」
「赤信号でしょう?」
「こんな所で止まっていたら危険だ。あそこの角でお前を見ている連中が見えるだろう。」
「ええ、ガラの悪そうなのがいますね。」
「奴らは、止まったクルマを取り囲んで運転手に銃を突きつけ、クルマを奪う常習犯なのだ。」
見ると警官が左手をこちらに突き出した。察した俺は胸ポケットから紙幣を2、3枚その左手に押し込む。
「セニョールの車だけは襲わないよう、私が責任をもって彼らに伝えておくよ。」
「それは心強いね(苦笑)」
さらに別の日、嫁が外を歩いていたら「私の息子を買ってくれ。****(当時の俺の給料の1/20くらいの額)でいい。病気もないし、肌も歯も綺麗だ。」という親子連れに遭遇した事もあった。後で聞いた話によると、もし同情心から子どもを「買って」しまうと、やがてその子どもが家の留守を任された時に外部と連絡を取り合って賊を招き入れる恐れがあったのだという。当然、金品の位置や金庫の鍵、解錠方法諸々を調べ上げたうえで、だ。鬼平犯科帳ばりの「引き込み」ってやつだな。
こんな連中が数十、数百万人とやってくるかも知れないんだけどなあ。分かってるんだろうか。分かってないんだろうなあ。
だからさぁ。現実的には、女性に落ち度がないんじゃなくて、実際は女性に明確な落ち度があるケースなんてほとんどありませんよねって話なんだよ。
「サファリパークの猛獣の前にバスから降りて自分から近づいた人間」という例えは「レイプ魔であると自己申告してる/周囲も認識してて隔離されてる人間にわざわざ近づいた女」と同義なんだけど、そんな女は実際問題いないよねと。そういう話。
理性を保てない猛獣が存在する確率は、夜の繁華街だろうが家族のいる家の中だろうが変わらないんだよ。
むしろナンパなんて合意の上でセックスすることが前提の行動なんだよ。最初から交渉するつもりの男女が集っている場所なのだから、条件があわないのに実力行使なんてことが行われる可能性はむしろ一般の場より低いかもしれない。一般の場の方が力関係で相手を黙らせる要素がありうるからね。それが親や教師による子への性的虐待だったり上司から部下による性行為の強要だったりするわけだ。学校だの家庭だの会社だのはそこにいなきゃいけない理由があるから仕方がないけど、別にいかなきゃいけない理由もないのに強姦行為がまかり通ってるとこだったらそもそも女性は自発的に集まってこないよ。それがなぜある程度集まっているかというと、ある程度の安全性が確保されてるから。
http://anond.hatelabo.jp/20090316205814
http://anond.hatelabo.jp/20090316163133
http://anond.hatelabo.jp/20090316163841
http://anond.hatelabo.jp/20090316203841
私はこれを書いた者です。
http://anond.hatelabo.jp/20090316161635
まず、これを読んで気分を害された方へ、心からお詫びしたい。使うべきでない言葉を使う等、内容が非常に不快なものであり、かつ余計な誤解を生んでしまいました。申し訳ありませんでした。この文章は近い内に削除しますん。
その上で、自分の本当に思っていることを書かせて頂きたい(ただしのり子を好きな方は読まないことをお勧めする)。まず、意図せず発生してしまった誤解に対する説明から始めたい。
では俺が何を問題にしているかと言うと、人権そのもの以外の部分でのり子の家族を取り上げようとしている(と俺が感じた)こと、そして実際に取り上げられてしまっていることだ。ここを詳しく説明したい。
まず、自分の根本的な考え方として、人権は、そこに入っている人のみで評価されて取り上げられるべきものだと思っている。つまり、性格、態度、言動などだ。そしてその性格を良くしよう、人間力を高めようとして毎日頑張っている外国人は言うまでもなく沢山存在する。
それなのに最近は何か変なブームが多い。国籍法改正とか、民法改正とか、ヘルパー移民とか、そんなのばかりが注目される。まさか性格や態度で取り上げられたとは考えられない。正直腹が立っていた。
そこでさらにのり子の家族が取り上げられ、街頭で支持している人を見た。率直に言って驚いた。
マスコミでの評判を見ると、器量が良いから取り上げられるという人もいたが、そんなに器量が良いなら、良い性格を合わせれば、もっと良い人間に仕上がるはずだ。あの器量が人間性を高めているとは、申し訳ないが俺にはどうしても思えない。
つまり人間自体で勝負しようとしているわけではなく、その単なる珍しさやキャラクター性、そして現在のブームの為にのり子の家族は取り上げられている、俺はそう考えた。上にも書いたが、これは俺の考えでは、外国人の取り上げ方として、言葉は悪いが卑怯である。さらに腹が立っていた。
そして、お父さんのためのワイドショー講座のランキングを見てしまった。これがあの文章を書いた理由だ。
どこの国でもそうだが、たいていのひとは外国人には冷たい。だから外国人は母国に帰ったほうがいい、と俺は考える。
この場合、親子3人でフィリピンに帰ったほうが穏便に暮らせる、と俺は考える。
だが、今のような状況では、そんなことが可能な外国人がどんどん減っている。俺にはこのことが本当に悲しい。
だから、これを読んでくれている皆さんにお願いしたい。会社帰りでもいいし、休日街に遊びに行った帰りでもいい。繁華街に寄って、普段見かけないような外国人の何人かに話しかけてみて欲しい。そしてその人に何かを感じたら、是非母国に帰れるように支援して欲しい。本当に、皆さん一人一人に、心からお願いしたい。そういった草の根のような行動の積み重なりが、今の外国人業界における流れを変えることは、不可能ではないと俺は信じている。
最後に、ブックマークなんかされてないけどいくつか答えたい。
あの文章を書いている時は、精神状態が普通ではなく、書いている内にどんどん腹が立ってしまい、煽ってやろうという気持ちが生まれてしまったことは否定できません。ただ、最初から釣りの目的で書いたのではないことだけは分かって頂きたいです。
ある人はいいと思うだろうし、別の人は良くないと思うだろう。それでいいと思う。大事なのは、マスコミや一時的なブームなどに影響されず、自分が自信を持って良いと思える信念を、自分から探して見つけることだと思う。
ぜんぜん長くないけどこの辺で。皆さんが本当に好きになれる信念を一つでも多く発見し、その信念を楽しみ、信念を通じて皆さんの人生が少しでも豊かになることを、心から祈っています。
張霞は毛沢東の遺体が収められている毛主席紀念堂に勤務する女医。
夫は香港生まれの台湾育ちで香港証券公司北京事務所首席代表。たまたま2人は留学先のハーバード大学で知り合って結ばれた。
現在の住まいは北京の超高層マンションで子供はいない。彼女の父親の張豪は、北京を中心に超高級大型マンション開発を次々と手がけるやり手不動産デベロッパー。
祖父の張軍は毛沢東から強い信頼を寄せられていた身辺警護責任者。共産党長老であればこそ、様々な恩典を享受している。
いわば歴代共産党政権の“いいとこ取り”を享受する典型的な老壮青三世代一家。毛主席万々歳で改革・開放もバンザイだ。
ある冬の日の午後、アメリカ人の友人に誘われ北京郊外でゴルフを楽しんだ疲れからだろう、毛主席紀念堂2階の執務室で英文で書かれた『この目でみたソ連解体』を読みながら、彼女は寝入ってしまう。
どれほどの時間が過ぎたのか。ふと彼女の耳に、コツコツと怪しげな音が。夢か現か。目覚めた彼女が階段を降りて音のする方へ向かうと、ケースに納められた毛沢東がカッと目を見開き、ジッと彼女に見入る。
20数年の眠りから目覚めたのだ。彼女は祖父に連絡し、誰にも知られることなく祖父の家に毛沢東を案内する。
毛沢東を長患いがやっと癒えた書家の文潤之に変装させ、張霞と張軍が連れ出す。
先ず北京の街をドライブだ。因みに文は毛沢東の母方の生家の姓で、潤之は毛沢東の号である。
張豪が自家用車を2台持っていることを知るや、毛沢東は「断固として改めねばならない資本主義的傾向だ」と、いきり立つ。
毛沢東の目の前に車庫から引き出された「桑塔納(サンタナ)」のハンドルを握っていたのは張霞。
「若い娘が車の運転か」と怪訝な顔つきの毛沢東に、彼女は「英語、コンピューター、車は今時の中国の若者にとって当たり前よ」と追い討ちをかける。
「20年ほど眠っていたが、まるで1世紀も後れを取ってしまったようだ」と嘆く毛沢東。サンタナはドイツのメーカーと合弁で上海で生産され、目下の中国では一般的な大衆車だとの彼女の説明に、「自力更生。独立自主という我が国工業政策の大方針に真っ向から違反している」と、トンチンカンにも心の底から不満をぶちまける。
北京の街並みは一変し、文革当時の面影は皆無。「M(マック)」や「KFC(ケンタ)」の看板に驚き、若い男女の派手な服装に眉を顰める。繁華街を歩く彼の手に若い娘がパンフレットを手渡す。
「文革の宣伝ビラ。それとも中央トップの講話かな」と喜んだのも束の間。高級マンションの宣伝ビラだった。
落胆頻り。自分と共に、周恩来、劉少奇、朱徳の横顔が並んで印刷された100元紙幣を手にし、「劉は党内外の一切の職務を解任され永遠に党籍を剥奪されたのに、なぜいま、多くの人民が使う紙幣に印刷されているんだ。
これは文革をひっくり返そうという陰謀だーッ」と激怒。当たり前の話だが、まさにKYの極致。
以後、故郷の韶山を訪ねては資本主義的変貌に驚き、蒋介石、江青からフルシチョフまで因縁浅からぬ人々と再会し論争し往時を語る。
ついには彼のソックリさんに見間違えられ公安まで出動する羽目に・・・。
暫しの眠りから目覚めた彼女は慌てて一階へ。やはり毛沢東は、目を閉じてケースの中に横たわっていた。
現在修士の2年生。春から社会人になるにあたって、東京から名古屋へ引っ越すことになりました。
修論の真っ最中ではあるものの、先生に内緒で1泊2日の部屋探しツアーを決行してきました。
ひとまず部屋を決めるところまで至ったので、ここまでの流れについてまとめました。
(自分のブログに今こんなことを書くのはさすがにはばかられるので・・・)
今の家は2月で契約が切れる。
3月まで住みたいけれど、それで契約更新料を2ヶ月分払うのはアホらしいので、管理会社と交渉。
卒業式は3月末だけど自分の引越しもあるので3月前半には出ていくつもりであることを伝え、
次の人をいれる時間を考えて、いつまでなら辛抱してもらえるかと訊いたら、
3/15までは更新手数料無し、家賃は日割りでいいと言われた。
正直、こんなに伸びるとは思ってなかったのでラッキー。
今回は家賃と広さをシビアにするかわりに、築年数や駅からの距離で大きく妥協した。
最近話題にもなってた、この辺りのページを参考にしつつ。
・・・と、以上が今日までの流れでした。明朝にさっそく一社、引越しの見積もりをしに家に来てくれるそうです。
今回、この時期に部屋探しをして一番良かったと思える点は、店員さんが疲れてなかったこと。
ピーク時に引越ししたことのある友人の話だと、店員さんがいかにも寝て無さそうだったとか。
来店時に客は僕だけだったので、店員さん二人分の「アタマ検索」で物件が出て来たし、
物件の仮押さえとかネット環境の確認とかに気を回して貰えたのは良かったな、と。
あと鍵を管理する会社が日曜休みで、それで鍵による仮押さえが可能になった、ということもあった。
一方で毎年3月になると何件か空くんだけど・・・という物件もいくつかあって、早けりゃいいってもんでもなかった。
下見で家具を置く位置の寸法を測ったものの、いまの家具の寸法を測っていかなかったので、
ちゃんと収まるかどうか不明なまま物件を決めてしまった。結局入りそうだから良かったけれど。
その代わり補償金というものがあり、これは退去時にこれ以上の費用はとりませんよ、というものらしい。
名前を変えた敷金・礼金じゃないかと思ったけれど、これは揉め事対策にこういう用語にしてるんでしょうか。
同じ物件に対してそれぞれに見積もりを出してもらって、価格交渉が出来たかもしれないと思った。
結局お世話になったところを裏切るのもねぇと思ってやらなかったけど。
(自分でお金を稼ぐようになったらもっとお金にシビアになるんだろうな。)
これで論文に集中できると思ったけれど、契約手続き、引越し見積もりともう少しゴタゴタしそうです。
ところでさ、増田。東京に行ったことはあるか?摩天楼の並ぶ都心を歩くと、さすが日本の首都だと
思うぜ。東京の都心をぐるっと取り囲む、山手線っっていう鉄道があってな。池袋とか新宿とか渋谷
とか、都心の繁華街を結んでいるんだけど、これがいつ乗っても込んでいるんだ。よくみんなあんな
ラッシュに耐えてるよな。感心するぜ、マジで。そして、山手線の内側には、都心全域に網の目のよ
うに張り巡らされている地下鉄があるんだ。全部で12路線もあってな。便利だけど乗換えとかがけこ
うややこしいんだな。ところで、その地下鉄の中に、都営三田線っていうのがあるんだ。正式名称を
東京6号線っていってな、昨年の三田から日吉まで延長されて将来的にはもっと先まで乗り
入れるらしいぜ。便利になるよな。
さて、例えば東京駅からこの都営三田線に乗るとしよう。営団丸ノ内線で池袋方面に一駅の大手町で
乗り換えるのがわかりやすいけど、大手町なんて大して遠くもないから一駅くらい歩いてもいいだろう。
運賃ももったいないしな。目黒方面に行きたいとき、運良く武蔵小杉行きが来ればいいんだけど、半分
は途中の白金高輪で折り返しちまって、それより先に行きたかったら隣のホームの営団南北線の電車に
乗り換えないといけない。ちょっと面倒くさいな。だからここでは逆方向の電車に乗ることにしよう。
大手町の次は神保町だ。書店街で有名だな。都営新宿線と営団半蔵門線に乗り換えられる。その次は
水道橋。中央線に乗り換えられる。次の春日はつい最近までなんでもないただの駅だったけど、都営大
江戸線が開通したおかげで、後楽園の丸ノ内線と南北線に乗り換えられるようになった。
もちろん大江戸線にも乗り換えられる。春日の次は白山、千石と続いて、巣鴨に着く。ここからは山手
線の外側だ。巣鴨の次、西巣鴨は都電荒川線の新庚申塚、その次の新板橋は埼京線の板橋や東武東上線
の下板橋にそれほど遠くない。結構便利だぜ。まあ、JRも私鉄も、都心から延びる鉄道はほとんどみん
な放射線状になっているから、板橋区役所前、板橋本町、本蓮沼と進んでいくうちに他の鉄道からは離
れていくけどな。志村坂上を過ぎるとすぐに地上に出て、志村三丁目からは終点まで高架橋だ。はっき
りいって、これじゃあもう地下鉄じゃないよな。蓮根の次の西台の横には三田線の車庫があって、ここ
から出てきた電車は次の高島平から発車する。終点の西高島平まではあと二駅だけど、その一つ手前の
新高島平で降りておこう。
新高島平の改札口を出てすぐ左に昇り階段がある。これを昇ると歩道橋に上がれる。間違えて駅の外
に出ちまっても、左の「高島平3・4丁目方向」に出てすぐ左にあるから、そっちから行けばいい。歩道
橋を渡って、左側に下りる。下りてから駅や道路から離れる向きに進むと、すぐ高い建物に突き当たる
と思う。そうしたら左へ進む。そのまましばらく行くと右側の建物が途切れて、次の建物が見えてくる。
たぶん壁には3-11-1っていう表示があるはずだ。その建物の、こっちから3分の1くらいのところにエレ
ベーターホールがある。エレベーターは3台あるけど、行ける階が違うから、右の9号機じゃなくて左の
7号機か真中の8号機に乗ろう。そのエレベーターでは8階から14階に行けるはずだ。とりあえず14階まで
上がろう。ちょっと遅いエレベーターだけどまあ我慢してくれ。
そして14階から廊下に出るんだけど、もし三田線の車窓からこの高島平団地をよく観察していたなら、
あることに気がつくはずだ。そう、この建物だけ、廊下の 外側に鉄格子がついていないんだ。だから下界